【感想・ネタバレ】山と獣と肉と皮のレビュー

あらすじ

「かわいそう」と「おいしそう」の境界線はどこにあるのか?

山に入るたび、死と再生のダイナミズムに言葉を失いつつも、殺された獣を丹念に料理して、一家で食べてきた日々——。

獣を殺す/料理する/食べる。
そこに生まれる問いの、なんと強靭にして、しなやかであることよ。
いのちをめぐる思索の書。
母として、写真家をして、冒険者として。
死、出産、肉と皮革を、穢れから解き放つために。——赤坂憲雄氏、推薦!

【目次】
はじめに
序章 獣の解体と共食
第1章 おじさんと罠猟
第2章 野生肉を料理する
第3章 謎のケモノ使い
第4章 皮と革をめぐる旅
おわりに

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Posted by ブクログ

肉を食べることは命をいただくこと、そう考えたことがある人には、本書を読んで欲しいと思った。
そう考えたことの無い人にも、本書を読んで欲しいと思うが、理解できないだろうな。
そういう人は、魚は切り身で泳ぎ、肉はステーキで作られると思っているのだろうから。

還暦を過ぎて狩猟者になった私が見てきたもの、感じてきた世界が、この写真家の文章に描かれている。
長崎に移住してきた筆者は、偶然の引き合わせて狩猟者のおじさんと出会い、野生の肉をもらう。
食べることから狩猟に興味を持った写真家は、好奇心から狩猟への同行を願い、そして現場に立ち記録した。
何度も狩猟に同行し、獣の肉を喰い、命を知る。
家族も巻き込み、子供たちも命を知る。

狩猟者は、普通の人より多くの死に出会う。
あまつさえ、その多くの死に自分が関わり、獲物を殺す。
害獣駆除、狩猟、経緯は異なるにしても、放獣という選択肢はあまりなく、速やかに命を奪うことが、捕獲された獣のためであると信じて。

保健所の基準を満たした肉のみが一般に流通し、それ以外の肉は、自家消費される。
人はそれをやみ肉という事もあるが、私は奪った命は無駄にせずいただくことが正しいと思う。
それを商業ベースで流通させるという意味ではない。マタギの熊の胆も薬では無い。
そんなことが、本書を読む人に伝わると思う。

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2025年09月09日

Posted by ブクログ

長崎に移住してから、偶然知り合った地元の猟師を通して、害獣駆除のための猪、鹿の狩猟の場をカメラにおさめながら(筆者の職業はカメラマン!)食、命、生、死についての想いを綴ったエッセー集。彼女がなぜ狩猟の場や捌く行為にこだわり、ある意味惹かれているのかは、文章を通して徐々に明らかになったように思う。最後には皮革の仕事場も訪れ、人が持つ穢れという意識、それに対して清めという行為、命を生み出す女性としての想いに及んでいく。と書くと、固そうな内容そうだが、文章はかろやかで、猟師の方々との会話や家族とのやりとりなど、ふっと笑いを誘う。全体に、人に対しても動物に対しても、筆者の命に対する深い敬意と愛を感じて、読後感はすがすがしかった。筆者の本を手にしたのは二冊目だが、写真集の「うまれるものがたり」も素敵な写真集で宝物。いつも、子どもたちに対する視線がとても優しい。そうそう、当然、本の中にたくさん写真があって、カラーだったらちょっとこわいなーというのもあるのですが、猪の目。この写真にはひきこまれてしまいました。

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2025年01月05日

Posted by ブクログ

「川と皮と革 すべてをかわと読むのはそのつながりを示している」
「ニワトリと卵と息子と思春期」を読んで読みたくなった。 
人は様々な命を咀嚼して取り込んで生命を維持してるのに、その命のサイクルから逃れてるわけか、、

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2023年04月05日

Posted by ブクログ

ネタバレ

近所のおじさんから猪の肉をもらうことから、狩猟と、獣の肉を食べることについて書かれている。文章と写真が秀逸。スーパーに並ぶ肉がいかに異様なものであるか、これを読むとよくわかる。

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2022年12月26日

Posted by ブクログ

写真家の繁延あづささんが家族で移住した長崎で出会った猟師たち。その営みを目にし、人間と獣、さらには生と死と生き方を考えるようになるエッセイ。

私も読みながらすごく考えさせられた。

目の前で獣の死を目の前にして変わっていく生死感
肉を食べるということは命を頂くということ…
「絶対、おいしく食べてやる」という思い
そして「殺すなら苦しまないように一気に殺すこと」という思いなど…

先日、友人が生きた伊勢海老をもらったということで捌きに行ったのだけど私もその時に思ったのが「殺すなら苦しまないように一気に…」と思った。ナンマンダブナンマンダブとつぶやきながら捌く私に友人は「食べにくいわ!」と言ってたけど生物の命を絶つっていう行為はなかなか覚悟がいると思う。
魚やエビとか貝とかならまだしも、獣となると相当な覚悟がいると思う。

筆者の繁延さんは「そんな罪悪感を持たないようにスーパーなどのお肉コーナーは無機質で、生き物感をわざと出さないようにしている」というようなことを書かれていて私もハッ!とした。
そうなのよ…スーパーでパック詰めされているお肉も元々は生きた生き物だったのよね。当たり前だけどそんなことを意識してない…というか意識させないようにしているだろな…

大学生の時に山の生活を学習する…みたいなキャンプみたいなのがあって、友人に誘われて参加した時に「鶏をしめて捌く」っていうのがあったのを思い出した…。
しめるのは男子がやるということになってたのだけどなかなかな感じで…泣いてる女子もいたけど…。

生き物を殺して食べるという行為
殺すということにはある意味責任がある。
今は、殺す行為を誰かが別でやってくれているから
食べる人たちは「その殺すという責任」を請け負わないでいられる。

繁延さんの息子さんは養鶏をされているそうだ
そして卵を産まなくなった鶏を自分の手で「終わらせる」ということまで背負っているそうだ。
すごいことだと思う。

メメントモリ

人の命はいくつもの命の上で成り立っている

すごい本を読んだ。

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2022年06月29日

Posted by ブクログ

写真家の人が猟を見に行き、ついには皮なめしの白鞣しを見に行く。のと並行して、猟でとったジビエを料理して食べる、子供が養鶏をする。
なんか、すごい。

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2020年12月10日

Posted by ブクログ

 ほかの人が狩猟に関わるきっかけと、その活動はどんなことをやっているのだろう。
 筆者は移住先の長崎で、たまたま同じ駐車場を使っているおじさんが狩猟をやっていることから興味を持った。

 狩猟に同行するにつれて、肉は絶対に美味しく食べることを誓う。
 さらに狩猟の知り合いが増え、佐賀県で猿回しをしている猟師や、姫路の白鞣しの革職人に会いに行く。

 読んでいて同じだなぁと思ったのが、スーパーに並んでいる精肉が工業製品のように見えること。
 一度でも狩猟で解体をやったことのある人ならば、この感覚に共感できるだろう。

 そして姫路の白なめしの職人の話を読んでいて思ったのは、本来は革にするのに多くの工程があるのは知っている。
 だけど、自分が鞣しているやり方に、鞣しの苦労がなさすぎて本当に良いのだろうかと思ってしまう。
 ミョウバン鞣しは大変だったけど、タンニン鞣しは放っておけばレザーができる。
 何かズルしている気がしてならない。

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2024年02月27日

Posted by ブクログ

長崎へ移住し、そこでの近所付き合いで猟師と知り合った著者。
漁師からもらうようになった猪や鹿肉を調理することをきっかけに、著者の、肉を食べるということは、命をいただくということは、に対する考察の旅が始まる。

そして罠猟や犬を伴っての銃猟に同行、止めさし(とどめをさすこと)や解体に立ち会い、自らの手で鳥を屠り、果ては革職人に会いにいき、著者の思索の旅は本の中では一区切りつく。
著者自身も書いているが、思索の覚書のような印象。とても感受性が豊かで思慮深く、自分ではそこまで深く思い至らないような視点があり、自分の日常では体験できないような経験の追体験があり、これぞエッセイを読む醍醐味。いい読書をさせていただいた。

肉を食べるということ、食べ物は生き物だったということ、当たり前のことだが誰も意識していない、出来ていないこと。
それらを猟への同行という非日常の中で繰り返し実体験で自分の感覚へ落とし込むことが出来ている著者がとても羨ましい。

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2023年06月05日

Posted by ブクログ

鹿の前足をもらった時、どうやって食べようか、一瞬躊躇した。仕事で標本や剥製にするための動物の亡骸を回収していた時のことを思い出した。自身の経験してきたことと重ね合わせながら、読んでいると共感できることが多い内容だ。
スーパーで肉を買うなとか、フライドチキンをウーバーイーツで頼むなとか言えた柄ではないが、時々、生きることについて真剣に考えてみる必要がある。特に子育て世代の人たち。一番厳しい局面に立たされている人こそ、向き合って考えてみる必要があるのではないか。SDGsとかいう頭でっかちな押し付けよりも響く。

小さい頃祖父が私に言って聞かせた言葉「自分が仕留められると思うものを食べろ。もうワシは牛は食わん。」と言って家族団欒のすき焼きの座敷には姿を見せず、祖父は台所で魚を食べていた。あの光景を思い出す。その時その時の選択が、後に生きるものの命を繋ぐということを、今になって教えられた。

***下記 亜紀書房サイトより
「かわいそう」と「おいしそう」の境界線はどこにあるのか?
 山に入るたび、死と再生のダイナミズムに言葉を失いつつも、殺された獣を丹念に料理して、一家で食べてきた日々——。
獣を殺す/料理する/食べる。
そこに生まれる問いの、なんと強靭にして、しなやかであることよ。
いのちをめぐる思索の書。
母として、写真家をして、冒険者として。
死、出産、肉と皮革を、穢れから解き放つために。——赤坂憲雄氏、推薦!
【目次】
はじめに
序章  獣の解体と共食
第1章 おじさんと罠猟
第2章 野生肉を料理する
第3章 謎のケモノ使い
第4章 皮と革をめぐる旅
おわりに

著者紹介
繁延 あづさ(しげのぶ・あづさ)
写真家。兵庫県姫路市生まれ。桑沢デザイン研究所卒。
2011年に東京。中野から長崎県長崎市へ引っ越し、夫、3人の子ども(中3の長男、中1の次男、6歳の娘)と暮らす。雑誌や広告で活躍するかたわら、ライフワークである出産や狩猟に関わる撮影や原稿執筆に取り組んでいる。
主な著書に『うまれるものがたり』『永崎と天草の教会を旅して』(共にマイナビ出版)など。現在「母の友」および「kodomoe」で連載中。
ブログ「きょうのできごと」

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2022年01月30日

Posted by ブクログ

最近界隈で流行りな狩猟ノンフィクションの逸品です。
写真家の著書なので本人撮影の生々しくも精気溢れる獣と肉とその間の写真が挿絵がわりに使われてます。さすがはプロの作品だと雑魚は感心しきりなのです♪
写真家は狩猟を追い獣肉を喰らう日々のなかで浄めと穢れの交錯する狩猟曼荼羅を彷徨い己の業と向き合う。
界に惹かれながら平地に留まる魂の揺れが見てとれる秀逸なノンフィクションに仕上がってます。

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2021年12月05日

Posted by ブクログ

ジビエが好きなので、どうしようもなくタイトルに惹かれて。
写真家である繁延さんが、地元の猟師であるおじさんの狩猟についていき、そこで撮影してきた写真と率直な言葉が綴られている。
解体作業で裂かれ露わになった臓物や、絶命したばかりの猪の瞳、母鹿の胎内から取り出された生まれることなく死んだ小鹿、内臓をすべて抜かれて干される猪、全身の皮を剥がされる途中の鼻先。
ページをめくって現れるエピソードと写真一枚一枚が強烈で凄まじい。あまりも鮮やかに共存する生と死のコントラストにたじろぐ。
スーパーに綺麗に並べられた肉を買い料理し口にする日々の食卓で、私は本当の意味で自分が何を食べているのかなんて一切分かっていなかったんだ。
山ではそれらの命がすべて循環し完結している。食って、食われて、食って、食われる。生きるために。
その営みには駆除だとか殺しだとかそういう概念が差し挟まれる余地なんてないのかもしれない。決して可哀想ではない。頂く命に感謝しておいしく食すのみ。
食育の一環として小さい頃からそう教えられてはくるものの、中々理解するのは難しいものなんだと改めて思う。大人になるとさらに麻痺していく。
肉を食べて、これまで自分が「何頭食べたか」なんて思うことはまず無い。食べることで自分の中に命が積み重なっていくような感覚を持ったことさえも。
本当に"生きること"そのものの原点に立ち返らせてくれるような凄みのある一冊だった。
ちょうどこれから焼肉食べに行くんだけど、なんか心構えが違う。と言ったら安着すぎるだろうけど、私にも、命をいただくのだ、絶対おいしく食べてやる、という覚悟が芽生えた気がする。

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2021年02月16日

Posted by ブクログ

"“死後の再生”なんて、生きることだけが目的の私たち人間にとっては観念的なものにすぎないとも言える。私自身そう思っていた。けれど、山に通い、台所で肉を捌くようになってから、少し変わってきた。観念ではなく、事実としての自分の死体の行方を考えるようになったからだ。今は、遺灰を畑に撒くよう家族にお願いしておきたいと思う。せめて、土と交わりたい。あたらしく生まれる命あるところへ。"(p.77)


"はっきりわかっている大事なことは、明日も生きるなら、まずは食べるしかないということ。考えてみれば、山の獣はじめあらゆる生き物はそうやって生きている。うちのコッコも、食べて、排泄して、産卵、以上。そんな暮らしぶりだ。大事なことから順番に考えるとスッキリする。スッキリした頭で考えていきたい。"(p.232)

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2020年10月22日

Posted by ブクログ

著者は写真家。出産に関わる写真をライフワークとしている。
東日本大震災を1つの契機として、それまで住んでいた東京から縁もゆかりもない長崎へと移り住む。そこで猟師の「おじさん」と知り合い、肉を分けてもらうようになる。そうこうするうち、狩猟の現場にも連れて行ってもらえることになった。
カメラのファインダー越しに、死の瀬戸際で猛っていたケモノが、命を失うさまを目撃する。
そしてケモノは放血・解体され、肉となる。
生きものが食べものとなる瞬間。
著者は思うのだ。
絶対、おいしく食べてやる
と。

長崎に引っ越すことになった顛末。
試行錯誤しながら、「おじさん」にもらった肉の調理法をさまざま試し、おいしく食べられた時の喜び。
犬と猟をする別の猟師と、その女性スタッフの不思議な関係。
まだ幼い息子が養鶏をすることに決め、2年ほど卵を取ってから「潰す」ことにし、親子で奮闘する話。
鞣し皮職人を訪ね、その仕事ぶりを見学させてもらったときのこと。
そうしたエッセイの合間に、ケモノや猟師、解体や鞣し作業のモノクロ写真が挿入される。
元はウェブマガジンの連載で、それらを再構成し、書き下ろしを加えた作りである。

全般に生きることの手触りを探っているようなエッセイである。
食べることは生きること。
肉であったものはかつては生きていて、それを殺した延長線上に食肉はある。
死を目撃するのはやはり衝撃的だ。けれども、いやだからこそ、なのか、いのちをもらった以上は、肉であれ皮であれ、無駄にすることなく、大切に「いただく」。
そんな猟師や職人の気概を、間近で見守る著者もまた、いのちについてさまざまに思いを巡らせる。
整合性の取れた話ではない。結論があるわけでもない。
ただそうして、いのちの現場に立ち会うことで、見えてくる景色もあるはずだ。
読者もまた、著者とともにその現場に赴き、いのちについて考える。
そんな上質のフォトエッセイである。

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2021年03月12日

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