2024.10.5〜 再読中。少しずつ追記していきます。
【はじめに】
「それだよ私の知りたかったことは!よくぞ書いてくれました!」と興奮させてくれる。もうここからぐっと引き込まれる。曖昧に濁そうとしない文章は気持ちが良いほど明瞭でわかりやすく、「愛してる…」となる。本書は仏教を「わかる」ための本であり、そのために①ゴータマ・ブッダの言う解脱・涅槃(仏教の目的・本質)とは何か、②彼は「悟った」後、なぜ死ななかったのかが明らかにされていく。
【第一章】
本書は、仏教を「人間として正しく生きる道」なんて陳腐なワードで説明することをまずはっきりと否定している点において信頼できる。むしろ労働や生殖という、多くの人がフツーだと思っていることを禁止しているヤバい教えを解いているのが(ゴータマ・ブッダの)仏教なのだなという感想。
【第ニ章】
さて、ここから一気に仏教用語が多々登場。仏教の基本である「縁起」と「四諦」についての説明。
仏教は「転迷開悟」(迷いを転じて悟りを開く)を目指すもの。私たちが「迷い」(癖になって煩悩を垂れ流し続ける)の状態にあるのは、「縁起」の法則によるものだという。
「縁起」とは「原因(条件)があって生起すること」を指すが、「縁起」の性質を詳しく言うと「三相」=「無常」「苦」「無我」になる。
つまり、すべての物事は「縁起」によって形成されているわけだが、それってあくまでその原因や条件が消えればなくなってしまうものだから、恒常的なものではない。(「無常」)
そんな一時的なものに欲望を抱いたところで不満足(=苦)に終わるしかないし、不満足には終わりがない。(「苦」)
また、物事は思い通りにならない。それは自分の体でさえ(望んでないのに病気になるし)も、心(心に浮かんできた思いや欲望は、自分で浮かばせているわけではない)でさえもそう。コントロールできない。(「無我」)
というわけで、「縁起」とは、ただ「原因(条件)があって生起すること」を指すだけではなく、私たちの陥っている「迷い」や「苦」(不満足)の状態を形成している法則だということになる。(だから仏教で重要視される。)
ちなみに↑の「原因(条件)」とは、「業」=「後に結果をもたらすはたらき」のこと。私たちは過去に積み重ねてきた無量の「業」の結果として存在し、欲望を追い求める癖もついてしまっている。それは終わりのない不満足(輪廻的に繰り返す)。そんな状態(「惑業苦」)から抜け出す真理「四諦」があるよ!と方法論を打ち出した点が当時は新しく、仏教の魅力とも言える。
「四諦」(四つの真理)
・「苦諦」:私たちの生は総じて苦であることを「八苦」(生・老・病・死・怨憎会苦・求不得苦・五取蘊苦)として説明。
・「集諦」:苦の原因(集起)は「渇愛」=欲望、有愛、無有愛。
・「滅諦」:渇愛を限りなく徹底的に滅尽させることで苦からの解脱が可能(苦の原因は渇愛だから)。
・「道諦」:苦(=渇愛)の滅尽のための方法は「八正道」(「正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定」)。
つまり「四諦」とは、「自らの苦なる現状を(中途半端にではなく)徹底的に知った上で、八正道を修習して、苦の原因である渇愛を捨断し、解脱・涅槃を実現する」ということ。
【第三章】
善悪について。仏教における悪とは、「十悪」(殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見)であり、善とは十悪を行わない「十善」のこと。
ただそれは個別の事例を指すのみなので、後代の教理学では善悪の基準を「善」=行為者に幸福をもたらすもの、「悪」=行為者に不幸をもたらすものと定めた。
仏教の目的は涅槃であり、それは善や悪を含む価値判断から解放された境地=「脱善悪」だが、善を行い悪を行わないことは、↑の意味からでも勧めた。
また、社会で問題なく生きていく意味でも。そのためにサンガの規則=律がある。