先日読んだ『文明の本質』(ルイスダートネル著 河出書房新社)の中にニコライ2世の系譜にかかる記載があり、実は、ロシアの歴史をあまりよく知らないことに今更ながら気づき、本を探したところ、本書にであった。
本書に出会う過程で意外にも、ロシアの歴史に関する本が意外に少ないことに気づく。なぜ?
実際に数えたわけではないが、欧州、アジアの歴史本は数多くあるが、ロシアの歴史本は少ない。
その中で、本書はロシアの歴史を実に分かり易く語ってくれる読み応えのあるロシアの通史。現在のロシアを知る上でも一読すべき本だと思う。
講談社学術文庫の「興亡の世界史」シリーズに外れはない!
表紙を飾るのは、エカテリーナ2世。自信に満ちた、余裕の表情が印象的だ。
高校の世界史で、「18世紀後半、エカチェリーナ2世はピョートルの事業を受け継ぎ、南方ではクリミア半島をオスマン帝国から奪い、東方ではオホーツク海まで進出し、日本にも使節ラクスマンをおくった」と紹介されている。なんとなくやり手の女帝程度の認識しかなかった。その人が表紙になっている。
実はこの人、ロシア人ではない。ドイツ人だ。しかも、夫、ピョートル3世からクーデタで権力を奪い女帝になった。普通のドイツの貴族の娘さんが、ロシアの皇帝になったのだから凄くないかい?
だが、この人、ロマノフ朝の女帝としてロシアの近代化に大きく貢献する。在位も34年に及びピョートル大帝と肩を並べる。生涯をロシアの発展のため捧げるといえば聞こえがいいが、政治が好き、政治的能力が高かったといえると思う。
エカテリーナ2世はロマノフ朝に嫁いでから、ロシア語を覚え、ロシアの習慣に溶け込もうとする。
夫のピョートル3世はちょっと変わった人。実はこの人、生まれも育ちもドイツで、ロシアは「異国」で好きではなかったようだ。プロイセンのフリードリヒ大王の熱烈なファンで、軍隊遊びに熱中するなど、精神的にも未熟。また男性機能もなかったようだ。そのため、幸か不幸かエカテリーナ2世は数多くのの愛人がいた。その中には政治的にも深く関わった人もいるという。なんともまあという感じだが、夫婦関係は破綻。
エカテリーナ2世の後継として即位したパーヴェルは、おそらくピョートル3世とエカテリーナ2世の子ではない。ということは、以降のロマノフ朝の皇帝は、ロマノフ家の血筋ではないということになる。
エカテリーナ2世はロマノフ朝を代表する大帝として日本の世界史の教科書に載るなど歴史に名を遺した。その波乱の生涯はまさにドラマになる。
話を変えて
ロマノフ朝は、1613~1917年までの約300年ロシアを統治した。この間の皇帝は18人。
この時代の日本は、江戸時代(1603~1867年)でこの間の将軍15人でほぼ重なり、日本から遠く離れた地で起こったことでもイメージし易いが、その悲劇性は大きく異なると感じた。
300年間続いたロマノフ朝、第一次世界大戦前夜、帝政ロシアは近代化が進み、経済は好調であった。だが、第一開戦後、ロシアの社会と経済が抱える脆弱性があらわになり、結果、ロマノフ朝は崩壊する。その悲劇性に儚さを感じる。
その継承国家・ソ連。自分が生まれた時、当然にしてあった大国、ソ連。ソ連と言えば思い出すことは、米国を強く刺激した1957年人類初の人口衛星「スプートニク」の打ち上げ成功。1980年モスクワオリンピックのボイコット等東西冷戦に関わることであるが、いずれにせよ米国と比肩する大国のイメージ。その大国が、僅か74年で崩壊したことを思うと、ここにも儚さを感じる。
クリミア戦争。
ロシアの南下政策は、中近東とバルカン半島に影響力を確保しようとしていたイギリス、フランス等の列強の反発を招き、1853年開戦に至る。ロシアはこの戦争で敗北するとともに、戦争中にニコライは病死する。この戦争はロシア兵が50万人が戦死した悲惨な戦争であった。