自分の考え
喧嘩するほど仲が良い、という言葉に違和感があった。自分はどちらかといえば親しい人でも戯れ合いに近い喧嘩はしてこなかったから。この格言の「ほど」という言葉に引っ掛かりがあるのだと気がついた。つまり喧嘩する者としない者の比較であり、喧嘩する者の方が上であるという言外の感覚に違和感を感じていたのだとわかった。自分の周りでこの言葉を言う人は大抵やんちゃなカップルが多かった印象で、その人たちの見下した感じがこの言葉には含まれている。
そういうコミュニケーションを取るかどうかは社会的な関係によって左右される、つまり、常に競争を求められる社会ではイジリやからかいによって笑いと同時にポジショニングが行われる。そういう文脈でこの言葉は使われるのだとわかった。自分は競争しない関係、そういうものを必要としなくても別のコミュニケーションが取れる人なのだとこの本を読んで肯定された気がした。
多様性が今後より認められると、どの分野でもマイノリティであった人は抑圧から解放されるが組織は維持できなくなるだろう。
もうそうなり始めている。だから個人的な仕事にシフトしていく必要がある。
男って〇〇だよね。といった類の言葉が癇に障るのは男を一括りにして個人として見ていないからだとわかった。
人間はそれが問題であるとしても、それを利用することで優位になれるものであれば、積極的に否定はしない。だから男性がフェミニズムについて語ることは立場が弱い。なぜなら何を言っても保身になってしまうから。ただ女性がフェミニズムを語りすぎるのも自己主張ばかりしているように見えるから、男女の分断は進む。
第1章
仮性包茎は加害者にも被害者にもなり得る。
身体のケアをする男はナルシストみたいな呪いが根強くある。
感覚をにぶらせることと男性間の競争関係はセット。
第2章
インセル
自分の容貌などのせいで恋愛相手が見つからず苦悩する男性のこと。
閉鎖的な空間ではひとつの規範だけが力を持ちやすい。重要なのはこの規範に従わなくても生きられるらしいと気づくこと。
権力を握っている人へのいじりは大事。それが風刺となって権力を持っているこの人が権威主義に至るのをせき止める効果がある。
からかう側とからかわれる側の関係が固定化してしまうのは問題。非対称性が生まれることでやられる側に未達の感覚が植え付けられてしまう。
ミソジニー
女嫌い
周囲の人を馬鹿にして「あいつらはバカだから自分と関わる価値がない」と自ら孤立を深めていく。これを自己孤立化と呼び、その背景には期待の未達成がある。本当はそうなりたい、そうなるはずだと思ってるのに実現できないために過剰な行動をとってしまう。
第3章
暴力を振るう人間の多くが被害者意識を持っている。自分はこんなにしているのに相手はしてくれないから暴力で教育したなど。
暴力を受けて育った子供が暴力をしないようになるには、暴力的ではない男性に出会っていた。
→多分暴力を辞められず自分が受けてきた暴力を自分の子供にもしてしまう人も、非暴力的な男性と出会っているはずで、そこから学び取れるか否かの差はなんなのか。関係の深さか、インテリジェンスか。
加害者が行方不明。頭が真っ白になって、気がついたらなどの言い訳はいずれの場合も暴力の原因を自分ではコントロールできない感情に帰属させる形となっている。これは責任を外部化している。
第4章
フィクションとして女性の目。
実在しない女性を相手に女性がどう思うかを思考の中心に置いてしまう。しかし、その女性とは誰なのか?大体は男性自身が自分の経験から作り出した偶像である。
女の子と接する時にどうしたらよい?という質問自体が女性を個人として扱っていない、劣位でみているということ。
自分は相手のことを完全にはわかっていないと意識し続けること。相手にとって一番良いことは何か、私が最もよくわかっているという自覚は相手への支配にほかならない。
第5章
ミソジニーの男には、女好きが多い。
第6章
主語を大きくすれば批判された時に自分が傷つかない。
どうしてタメ口なんですか?と聞く。
正論ではなく、それダサいよという感情論が時に有効な時がある。