当たり前だが、受験のために古典に触れるのと純粋に古典を楽しむのでは、作品に対する印象が異なる。入試を突破するために古文の勉強をするとなれば、文章は問題として映るわけで、おのずから内容を楽しむという気持ちは失せ、問題が求める答えを提示するために勉強していくことになる。
私も何年か前はそうだったわけだが、意味を完全に理解できなくても古典を素読し、やまと言葉の美しさを堪能することを趣味にしている友人の影響を受けるようになってからは、現代語訳に頼らず古文の醸し出す空気を純粋に楽しみたいと思うようになった。そうして今になってせっせと岩波文庫の黄帯を集めているわけだが、大変と思いつつもやはり楽しく、空虚な心が満たされていくように感じている。歳をとってくると、より自分が日本人であることが自覚されてくるからかもしれない。
古典の中でも、私の好みは優美な宮の世界ではなく、もっと泥臭いところにあったのだが、上述した理由から上古の文章をじっくり眺めてみたいと思い、受験勉強でしか触れてこなかった『更級日記』を読んでみることにした。私はそもそも文法や古典作品の扱いに詳しいわけではないので、岩波文庫の校注について批評することはできない。だから限られた知識でもって読み、抱いた感想をここに綴っていきたいと思う。
鄙びた地に生まれ育ち、父親の任地が変わるのを機に京に向かうこととなった書き手が、幼い頃から老いるまでに見た印象的な風景や場面を、自らの心情吐露と共に書き記したのが本書なわけだが、まず印象付けられるのが清廉とした風景描写だ。青く爽やかな山々の風景、山中、夜の闇の中、遊女の美しい声によって紡がれ響き渡る優雅な歌、庭に降り積もった白く優しく照りはえる雪、こういった趣深い場面が理想的かつ清らかに記されている。既に高齢であった貴族の女性の手としては幼く感じられる描写態度ではあるが、その幼さに菅原高標女の文学の素養が上手く混じり合い、唯一無二の世界が形成されている。田山花袋の紀行文を読んだことがある人なら、同じエッセンスを感じとるかもしれない。まあ、彼は平安文学から影響を受けたわけでもないので、私のこの指摘は的外れだと思う人が大半であろう。
清廉な自然描写と対比されるのが、彼女の身を取り囲む不幸の数々だ。幼き身で東国から知らぬ土地へ、粗末な仮小屋で夜を明かしながら向かう過酷な旅、乳母の死、火事、大切にしていた猫の死、そして幼き子を残して死んだ姉、出家して自邸の中でも家族と離れて暮らすようになった母親…。宮仕えをするようになったが家の事情で自邸に籠ることとなり、好きでもない男と婚姻を結ぶこととなり、その夫も死を迎える。幼少期から環境に振り回され、多くの死と別れを経験し、願望も叶えられなかった一人の女性の心にあったのは、仏事すら行わず没頭して読み耽った『源氏物語』の主人公、光源氏だった。
悲しみと無常の中に佇んでいた彼女が生きていくためにすがったのが、光源氏という一つの理想郷だった。多感な手弱女であった彼女は、現代の人々もそうするように、夢の中に希望を見出さなければ生きていくことができなかったのだ。「光る源氏ばかりの人は、この世におはしけりやは。」と現実を認識し、物語に浸ることもなくなった時期もあったが、その筆致から幼さと理想や過去の美しい風景を思う心が抜けることはなかった。子供のような願望、大人の感性と教養、混じり合うことのなさそうな二つの要素が、彼女の文才によってゆるやかに溶け合い、か細くあはれな世界が形作られている。よもや上古の文学がこれほどまでに美しいものだとは思わなかった。
改めて思うが、やはり古典は知識がなくとも原文を読むべきだ。他者のフィルターを通してしまってはもったいない。媒介者がどんなに優秀な翻訳者だったとしても、この美しさは確実に薄められてしまう。川のせせらぎのように流麗な文字の美しさをまず体感し、いにしえの香りを脳に焼き付けてから現代語訳を読んでも遅くはないと思う。まずは、得体の知れない感動を手にすべきなのだ。そこから、全ての道は始まる。
自分自身に言い聞かせ、私は今日も古典を読む。道の先に何があるかはわからない。しかしこの感動を胸に抱いていれば、何も恐れることはないはずだ。古代人達の叡智、感受性、視点、全てを受け止めてやると意気込みながら、この道を歩いていきたいと思う。