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ドウス昌代
1938年北海道岩見沢市生まれ。早稲田大学文学部卒業。著書に『東京ローズ』(昭和52年講談社出版文化賞ノンフィクション部門受賞)『マッカーサーの二つの帽子』『私が帰る二つの国』『ブリエアの解放者たち』(文藝春秋読者賞受賞)『ハワイに翔けた女』『日本の陰謀』(第23回大宅壮一ノンフィクション賞・第5回新潮学芸賞受賞)『トップ・ガンの死』などがある。
イサム・ノグチ(上) (講談社文庫)
by ドウス昌代
イサム・ノグチは、かつて自伝『ある彫刻家の世界』をこのように書きだしている。日米の血をうけたこの芸術家は、生涯にわたり越境者であった。それは東洋と西洋の狭間だけのことではない。グッゲンハイム美術館元館長トーマス・メッサーはノグチを、 「従来の彫刻家の枠をこえ、美術界でぶつかるあらゆる境界線を突破しようとした」 と評する。同様にノグチの作品に通じた美術評論家リチャード・ラニアー(「イサム・ノグチ庭園美術館」元理事) は、舞台装置、商業デザインから、庭園、遊園地にいたる分野にまで手をひろげたノグチの例外的な多様さを、「水銀的」という形容詞で語る。ノグチは性格も、「すこぶる水銀的」であったという。 水銀はてごわい物質である。それはこぼれると、無数の玉になってころがり散る。かき集めようとすればするほど、さらに小さな玉に分裂する。そうかと思うと、ひとつにまとめるのを断念した後でふと見れば、またよりかたまって球体を成していたりする。
それは、人々がそれぞれの立場で触れた、ノグチの一端を聞く旅となった。「これまで出会った誰よりも複雑な」という言葉を、異なる口からくり返し聞いた。ノグチは相手によって、また、そのときどきによって、別人のように異なる顔をみせた。強烈な「自我」と「自負」を無神経なまでに 剝 きだしにして、彼をとりまく人々を 翻弄 した。「アクセルとブレーキを同時に踏む人」と表現した、ノグチの長年の友人がいた。
ノグチの軌跡をあらためて整理してみると、彼は一九四九年にはじめて訪れて以来、死去するまでの三十九年間、ほとんど毎年インドを訪れていた。 《インドでは人と石との間に親密なる繫がりがある。石は生命力をもっている》 とかつてノグチは語った。抽象をもとめながら、彼は自然の造形の偉大さに対してつねに謙虚であった。晩年は石の彫刻に精魂をこめた芸術家の伝記を書くために、わたしは自分の目でインドのこの巨石が見たくなった。
米次郎は、到着した翌日、中心街をはずれた〈いかがわしい通り〉にある〈昼間から魚と日本酒の臭いがする、きたない木造建物〉を訪ねた。そこが愛国同盟の拠点であった。明治政府に対抗して結成された自由党のなかの過激派で、帝都三里外追放令をくらい、アメリカに渡った者たちが、異国で国粋主義の政客を名乗っていた。在留日本人間では壮士とも政治ゴロとも呼ばれた彼らのひとりに、米次郎はつてがあった。
米次郎が突然にミラーを訪れたときの様子は、ミラーの作品を専門に手がけた出版元のハール・ワグナーが書き留めていた。それによれば、米次郎ははじめて会うミラーに、〈フィロソファー(哲学者)!〉とよびかけた。アメリカ人の目には少年にみえるほど米次郎は小柄だったが、よくみると肉体労働で鍛えた筋肉質な体格のうえ、〈生き生きとして、ロマンチックで、才気が感じられ、また人を魅せずにおかないものがあった。ミラーはノグチが一目で気に入った〉(『ウォーキン・ミラー伝』)。
米次郎はその日から「 高丘」で、すべてにわたりミラーを師とする生活をはじめた。午前中に詩作するミラーにあわせて、米次郎もひたすら読書にふけった。午後はミラーとともに屋外での仕事に精を出した。「 高丘」はまれにみる景観の丘陵ではあるが、もともと石ころの多い荒れ地であった。ミラーはここでの四半世紀にわたる生活で、七万本をこす植林をつづけた。ワグナーの回想記によると、 〈食べさせ、寝る場所をあたえるだけで、給料はなしだったから、ノグチはミラーにとって、「掘り出しもの」だった〉
この詩は英語の原文のほうが、「ラーク」誌の編集者の手がはいっているだけに、はるかにリズム感がある。「サンフランシスコ・クロニカル」紙などは、〈言葉の不思議な積み重ねの、新しい自然詩〉(一八九七・一・二四) という称賛の言葉で、〈ウォーキン・ミラーの内弟子〉を評した。アメリカ詩壇が低迷期にあったとき、米次郎の詩は未消化な英語の表現でも、いや、それがかえって東洋精神主義と受けとめられ、異質の文化に魅せられたボヘミアンたちには新鮮に感じられたのだと思われる。
だが、すべてが順調だったわけではない。「ラーク」誌にはじめての詩が載った直後、〈ポーの借用者!〉という見出しで、盗作を指摘する投稿が「サンフランシスコ・クロニクル」紙にでた。掲載された詩の一篇が、単語が数ヵ所変えてあるだけで、エドガー・アラン・ポーの一節にそっくりであった。米次郎はのちに日本で刊行した本では、盗作を否定した。英語で書いた文章では、〈私の最初の愛読書はポーの『アナベル・リー』で、その各行、各言葉をくり返し暗唱して心にきざみこんだ。(中略) 私はポー自身になっていたと告白する。ポーの言葉以外に何も出てこなかった〉と認めている。著作権保護がきびしくいわれる現在とは異なり、ミラーが米次郎を弁護する一文を新聞に投稿したことで、この一件は落着した。
一八九九年三月末、米次郎はロサンゼルスへと、六百四十キロ以上もの徒歩の旅に出る。そこからまたサンフランシスコに帰ったことを知らせるブランチへの手紙で、米次郎は「お蝶さん日記」を執筆していることにはじめて触れている。 『蝶々夫人』と題した短篇が月刊「センチュリー」誌に掲載されたのは、その前年のことだった。ヨーロッパだけでなくアメリカでも世界万博が開催され、日本文化への関心がたかまるなか、『蝶々夫人』はジャポニズムの波にのって評判をとった。日本芸者がアメリカ海軍将校と恋におち、子供までできるが結局は捨てられるという悲恋物語は、フィラデルフィア在住の弁護士ジョン・ロングが、長崎から帰国した宣教師夫人の実妹から聞いた実話をまとめたものとされる。
同性愛が法律で犯罪とみなされた当時、スタッダードの表現は危険なほど開放的である。そのためかえって、近代文明に背をむけ、プリミティヴな南国の地をロマンチックに讃えた文章として、同性愛については見過ごされたところがある。 スタッダードは彼の性的傾向を世間の目からかばってくれる男女の文学仲間にめぐまれた。そのひとりであるミラーの紹介で、米次郎はスタッダードと文通を開始していた。そして、ミラーにとって代わるアメリカ東部での保護者役を、はじめからスタッダードに期待したところがある。
レオニーは大学卒業後、マンハッタンで編集関係の仕事につけなかった。イサム・ノグチの話に出てくる、ジョルジュ・サンドの翻訳を手がけたというのは、この時期に生活を支えるためだったのかもしれない。確かなのは、卒業から三年後、出版関係の仕事をあきらめて、レオニーが教職についたことだ。マンハッタンから通える距離であるハドソン川をへだてたジャージイ・シティの、修道女が移民の子女を対象としたカソリック女子校で、ラテン語とフランス語の教師となった。レオニーが米次郎の新聞広告を目にしたのは、先生とよばれるこの定職について四年目にあたる。
イサム・ノグチは、幼いころ母親からよく聞いた話のひとつとしてインディアン民話をあげている。彼の母方の祖母、つまりレオニーの母アルビアナには、チェロキー族の血が流れていた。アルビアナは毛皮捕りに渡米したフランス人猟師がチェロキー族に産ませた子を母方とした。アルビアナの代には、チェロキー族の血が四分の一しか流れていない計算だが、イサム・ノグチが覚えているこの祖母は《インディアンの顔をしていた》。
キャサリンがレオニーに宛てた手紙には、〈チェロキー族のバラ〉という呼びかけがしばしば出てくる。レオニーは自分のなかに流れるマイノリティーの血を、大学時代の親友には隠していなかった。だが当時、白人として通る肌の色なら、インディアンとの混血の事実は家族内だけにとどめられるのが普通であった。 米次郎がはたしてどれだけ、このアメリカ女性を理解していたかは疑問である。経済的理由から米次郎の詩作の協力者となったフェミニストは寡黙であった。人の話に耳をかたむけても、自分のことを得意げに語る人柄ではなかった。
イサム・ノグチは《自分が生涯にわたり芸術家集団のグループ行動を嫌い、つねに個人に徹した》のを、《母親と同じ気質》としている。《自分が作品を制作するとき、往々にしてそれは、何かに対して「そうではないのでは」という「あまのじゃく」な疑問から出発している点も、母親そっくり》だった。母親は聖書の言葉にさえ疑問符をつけて、幼い彼に説明したという。
ピューリタンの男女道徳観がヒステリックなほどアメリカ社会をしばっていた当時、米次郎はレオニーにとって、はじめて親しく接する異性であった。青春を女子大学で過ごし、その後も女性ばかりを相手とする女学校教師をつづける生活で、米次郎は突然あらわれた異性だった。しかも彼はエキゾチックで、誘いこむような雰囲気のある青年だった。ブランチ・パーティングトンとの関係から推し量られるように、青年は母性本能に訴える 術 も知っていた。
ゾナも、エセルも、米次郎が魅かれた女性たちは大学を出て男性の仕事分野で活躍する、当時としては例外的な「キャリア・ウーマン」であった。彼女たちに比べても、レオニーはけっして見劣りしない学歴である。だがレオニーが雑誌編集の仕事につけなかったのは、女性に門戸が閉ざされていたとのみ言いきれるものではなさそうだ。内向的な性格だけでなく、女性としての地味な容姿も、男性中心主義社会では大きな「ハンディ」になりえた。
レオニーは無口で、自分をめったに表さない気質だが、キャサリン・バネールには例外的に、胸に秘めたものを手紙で吐露しつづけた。レオニーと同じように文学好きだったキャサリンは、レオニーの三年後にブリンマー大学に入学、同じ女子寮で一緒だった下級生である。コネティカット州の資産家の娘で、大学卒業後は実家にもどり、仕事にはついていない。育ちも、その後の生活環境も大きく異なりながら、キャサリンはレオニーが死ぬまで深い信頼を寄せた唯一の友となる。
〈アメリカ文学界で成功を収めた作家の夫人が、見知らぬ人々にかこまれ、郡立病院で病床に臥している。息子の父親であるヨネ・ノグチがいまだ息子の誕生を知らないという事実からか、彼女は妙に悲しげな様子である〉(一九〇四・一一・二七)
そのころ米次郎は中退ながら、母校である慶応義塾大学文学科の講師の職につき、定収入のある生活となっていた。米次郎はスタッダードには、「日本に着いたら金は一銭もいりません。僕があなたの生活費も稼ぎます。健康と勇気だけをもって、日本にきてください」と来訪を強く求めたが、レオニーへは、逆に生活の不安定を訴えている。大学講師という「社会的地位のある仕事」とはいえ一時間三円の時間給で、「経済的にはめぐまれない」ため、レオニーは「日本に来たら一日四、五時間は教えなくてはならない」ことを力説した後で、米次郎はまた「僕たちのベビー」に話の焦点をもどす。
よく聞いてください。アメリカは良い国です。とくにカリフォルニアは暮らしやすい土地です。ベビーは元気に育っています。毎日、明るく楽しそうで、とてもハピーな子です。他の人からみれば、私たちの暮らしはあきらかに物質的には恵まれていません。いまもテント生活がつづき、雨風にさらされる日もあります。ベビーは靴をはかずに暮らしています。裸足で、まるでリスのようにそこらを駆け回っています。でも、それがどうだというのでしょうか。ベビーの頰はバラ色に、元気そうに色づいています。母のために一部屋のバラックを建てましたが、そこにはじめて入ったとき、ベビーはまるで籠に閉じこめられた小鳥のようにじたばたしました。戸口や窓から脱走しようと縣命でした。ベビーは家の中に閉じこめられるのも、靴をはくのも大嫌いです。
教育に関しても、アメリカでは教育に一銭もかかりません。この国の学校制度より日本のほうが優れているのでしょうか。もっとも、どこの国にせよ、私は学校制度を絶対的なものと信じていません。学校で教える程度のことは私自身が教えられます。私が大切だと思うものは、学校以外で学ぶことです。たとえば美術の分野でなら、日本はアメリカとは比較にならないすぐれたものを授けられる国だと思います。道徳倫理面の教育となると、話は別です。『武士道』(著者注・新渡戸稲造著) で指摘されるもろもろの徳性とまったく別の面も、日本人は持ち合わせているようですし……」
「希望がないとは言いませんが、目の前に広がる水平線は深い霧につつまれています」 とレオニーは言葉も知らない異国での、米次郎との生活に不安を隠していない。フランク・パットナムへの便りには、 「ヨネのところへ行くのを喜んでいいのか、自分でも判断がつきかねています。しかし、人の一生で何が幸せかは結局、死ぬまで判断がつかないものです。日本行きも、向こうに行ってみなくては何とも言えません。ヨネからの手紙は少なくとも、〝不吉〟なものです。いかなる〝夢〟ももってくるな、とヨネは警告してきました」(同・一・二三)
と父親らしく自慢している。だが、米次郎は〈日米の二つの国籍をもつ幸運な息子〉を、長男として入籍しなかった。レオニーに来日を促したときには、赤ん坊に「父なし子」の烙印を背負わせないことがもっとも大切としながら、米次郎は結局、イサムを正式にわが子として認知しなかった。そのためイサムは日本の国籍を得ていない。イサム・ノグチは生涯、アメリカ人レオニー・ギルモアの私生児で終わる。
「日本」とはあきらかに、茅ケ崎での日々を意味している。イサムは芸術家としての「個性」の土壌となるそのかつての日々を、日本の雑誌インタビューではさらに、 《みんなと木登りしたり、泳いだりしましたよ。混血児だなんて思っていなかったようです。当時珍しかった外人を見て、漁師の子供たちと、「バター臭いぞ!」なんてからかったことを覚えていますよ》
《日本人には外人を自分たちと同等の人間として受け入れない差別体質がある。日本人の血をもつ人間だけが日本人であり、その他の人間はすべて「外人」というわけだ。日本人は純血のみを絶対とする民族です》 イサムは、日本社会における自分の立場を「変則動詞」にたとえている。規則に沿うことを第一とする日本社会で、変則はもっとも危険視される要素だ。そう説明してもまだよく理解しない相手に、イサムはよりかみ砕いて言葉をかさねた。 《ぼくの場合、母親がアメリカ人のうえ、日本人の父と結婚していなかった。ぼくは父なし子だった。どこからみても「ミスフィット」というわけです》
イサムが母親と茅ケ崎に転居したころ、同じ湘南の鎌倉には、明治期の外務大臣陸奥宗光の長男で外交官の陸奥広吉が、英国留学時代に知り合った英国人の妻と暮らしていた。イサムより三つ年下のかれらの一人息子が、近所の少年たちに「伯爵家の御曹司」と知られながらも「毛唐」と罵られ、いじめられる事件が起きたとき、陸奥広吉はただちに警察や学校に手配し、息子の行き帰りを守った。 同じ混血でも、イサムにはこのように守ってくれる日本人の父親がいなかった。彼は蚕の臭気がたちこめる農家の一室に間借りし、英語教師として家計をやりくりする「毛唐女のアイノコ」であった。
《私の最も甘美な憶い出は本を読んで聞かせてくれる母の姿である。母は自分の好きな本を読んでくれた。その結果、私は真先きにアポロンやオリンポスの神々すべての実在を信じこんでしまい、他の物語りはずっと後で知ったような次第だ》 これは、茅ケ崎の農家に間借りしていた時代の思い出である。ランプの下で、《繊細で小柄な、 灰青色 の眼をした母》が英語で読み聞かせるギリシャ神話の世界に、イサムは現実を忘れた。
《私が最初に知った詩はブレイクの『ああ、ひまわりの花』であった》 ああ ひまわりよ 時間に 倦み 旅人の 旅路のはての あの黄金の甘美な国を求め 太陽の歩みを 数える花よ それを求めて 欲求不満のやつれたわこうども 雪白の 経帷子 を身にまとう蒼ざめたおとめも かれらの墓から立ちあがり あこがれる わたしのひまわりが行くを願うあの国へ(『ブレイク詩集』、寿岳文章訳)
私はそれでなくてもすでに重い荷物を背負っています。こんな母親のもとに生まれてくるなんて、可哀相に、でもそれがこの子の宿命です」 レオニーは勤務する女学校でも、個人教師でも、「野口レオニー」で通してきた。そのため「野口レオニー」を知る人々は、彼女がまた米次郎の子を産んだと受けとった。米次郎はあらためてまつ子と祝言をあげたわけではなかったから、レオニーが「先妻」である事実を知る人はまだ少なかった。
レオニーはイサムを横浜のセント・ジョセフ校へ転校させて、様子をみることにした。一九一三年九月、イサムは母親のギルモア姓を名乗り、つまり「イサム・ギルモア」としてこの外国人子弟学校に入学した。イサムは「野口勇」の受難から解放された。 セント・ジョセフ校(現インターナショナル・スクール) は江戸末期の開国時から外国人が多く居住した横浜の山手地区にある、当時はカソリック男子校であった。教師陣は外国人神父で、キングズ・イングリッシュでの授業はカソリック宗教教育を基盤とした。 イサムはまだ夜が明けきらない午前四時に起床、午前五時五十二分の汽車に乗って横浜に通学しはじめる。横浜駅からは学校までの約四キロを、まだ八歳の足で歩かねばならない。
「アイちゃん」は毎日、朝から夕方遅くまで牧野家に入り浸った。蟬や、この地に生息する羽模様あざやかなジャコウアゲハを男の子のように追いかけ、「かずちゃん」と遊んだ。現在は横浜に暮らし、九十ちかい年齢でも現役のピアノ教師である国枝(旧姓牧野) 和子にとって、「アイちゃん」はいまでも懐かしい夏の情景そのものだ。だが「イサムさん」の思い出となるといささか異なる。
「イサムはすでに造園家、園芸家になると決心していて、子供とは思えない熱をいれてきました。そのため数学やスペルを覚えるのは意味がないというのです。人は早くから仕事につくべきだとも、イサムは主張します」(一九一五・八・二九) レオニーは「三角形の家」の小さな庭を、イサムに任せてきた。イサムはその庭づくりにすぐ夢中になり、レオニーに英語を習いにきた近くの園芸試験場勤務の青年を訪れてはバラの苗木を二十種以上も集め、上手に育てた。アメリカの「キャサリン 小 母さん」が送ってくれた紫パンジーや黄色のプリムローズの種からも見事に花を咲かせた。イサムはまた、毎日曜日には一人で四、五キロほども離れた山へと入り、めずらしい山ツツジなどを抱えて帰った。
太平洋を渡る船旅はイサムにとって、母親との 臍の緒が断ち切られるときであった。十三歳の脳裏にきざまれたそのショックの大きさが、《母に見捨てられた。流刑に処せられた》という言葉を晩年になっても彼に吐かせた。自分がアメリカ行きを母親にせがんだ事実は、記憶から欠落してしまった。 「イサム・ギルモア」の名前でアメリカ政府のパスポートを手にしたとき、イサムは十三歳七ヵ月、身長百四十九センチ、体重四十三キロ。鼓膜がやぶれて左耳が多少聞こえづらいという以外、健康そのものであった。母親によると、
米次郎は慶応義塾大学の、いまでは教授という社会的地位にいた。世間的にはまつ子との家庭に責任をもつ夫であり、父親であった。彼が横浜港でくりひろげた一幕は、遅まきながらも、同じ自分の息子であるイサムへの、父親としての自覚だったといえるのだろうか。
イサムがこの「帰国」でもっとも圧倒されたのは、《日本のそれとはまったく異なる、アメリカの自然の広大さだった》。日本の自然は箱庭のような美しさだった。《虫や葉っぱや花をめでる美》であった。それに比して《インディアナの田舎の風景は水平線までひろがるパノラマだった》。
インタラーケン校の敷地跡は現在では、カソリック系男子校に買い取られ、本館は立派な三階建てレンガ造りに建て替わっている。だが裏手にまわると、かつてと同じ 広闊 な緑の平地がひらける。干し草があちこちに丸く積まれた平地の一方には、大きなサイロと納屋が連なる。シルバーレイクと呼ばれる小さな湖は、この平地の彼方にのぞまれる。
渡米直前の六月、セント・ジョセフ校六年生卒業時、イサムの成績は同学年三十二名中の十四番目である。図工九十点、読書九十点、ペン字書き九十四点と三科目ずば抜けていたが、他は数学七十四点、地理七十三点、フランス語五十三点と点が下がった。レオニーはインタラーケン校への入学申請書に、「ここ数年のイサムの成績はいつも平均並み」としながらも、「手が抜群に器用で、アートだけは幼稚園のときからいつもクラスのトップでした」と特記している。母親はさらに、念を押すように付け足している。
「イサムは美に敏感な日本人の血をひいています。美術教育に熱心な日本に育ったので、この分野では、アメリカの普通の子供よりはるかに優れていると思われます」
日本で「アイノコ」として蔑まれた少年はアメリカ社会へのパスポートとして、大工道具をかかえてきた。劣等感をもつ息子を支える唯一の財産として、母親は大工道具を持たせた。日本からきた少年のその事情を即座に思いやれる人物が新しい学校にはいた。この学校を選択したレオニーの判断に間違いはなかった。
アメリカのダイナミックな自然のなかで、世俗的な一般文化から隔離された日々がはじまると、日一日、日本はイサムにとって遠い過去となる。日本人だという、学校雇いの料理人が話しかけてきたとき、イサムは顔を真っ赤にして当惑した。すでに思うように日本語が出てこなかった。
インタラーケン校の兵営でも、死者が出はじめた。兵士たちの使い走りをしていたイサムが寝こむのは時間の問題だったといえる。幸いに、イサムは重症にはおちいらなかった。《ベッドのなかでいろいろな本を読んで過ごした。聖書を熱心に読んだのはこの時期である》。
《日本人でもアメリカ人でもないという問題に、ぼくは早くから悩まされつづけた。いろいろな意味で、ぼくは砂漠に出征した兵士に似ている。地平線だけが見渡すかぎり広がる荒涼とした砂漠の前線で戦いながら、自分にははたして帰るべき場所があるのか、ラクダに乗った敵に追われなくてすむ国があるのか、そこにはひとりでも誰か自分を待っていてくれる人がいるのか、という思いにとらわれている兵士みたいなものだ》
イサムはもうすぐ十五歳になるという年齢ではじめて、ごく普通の家族のいつくしみを知った。そこには妻にも子供にも忠実な父親を中心とする小宇宙があった。たとえ仮の家族ではあっても、イサムはその一員としてあたたかく迎えられた。 イサム・ノグチの英語の言葉づかい、マナーの良さを指摘する人が少なくない。人一倍激しい性向にもかかわらず、イサム・ノグチは人を侮辱する、いわゆる「フォー・レター・ワード」をけっして口にしなかったという。母親のしつけだけでなく、ラ・ポート時代の体験もイサムにあきらかな影響をのこしたといえよう。
すべてに簡素な暮らしながら、マック家はどの部屋も本棚にかこまれていた。そこでイサムは母レオニーが愛したウイリアム・ブレイクの詩を再発見した。スウェーデンボリ派に傾倒したゲーテの詩を知った。
ドック・ラムリーは、イサムがはじめて出会った「生きているヒーロー」であった。イサムはそれまで抑えてきた、父親へ向かうべきはずの愛情と尊敬を、一気にラムリーにそそぐ。イサムは自ら進んで、ドックの鋳型におさまろうとした。イサムははじめて「父との対話」を得た。 「敬愛するドクター・ラムリーへ 小切手をありがとうございました。あなたがニューヨークへもどって以来、『生活のなかの科学』『三銃士』『巌窟王』を読み終えました。物理と農業学の本も読みはじめましたが、むずかしくてよく理解できません。またお便りします。お元気で。 イサム」
公立高校は無料のうえ、マック家も善意で生活のめんどうをみてくれた。だが、小遣いとか文房具代など、イサムは自分で稼ぎださねばならなかった。イサムは毎日の新聞配達の他に、週末にはミセス・ラムリーの父親のところでアルバイトをさせてもらった。
「敬愛するドクター・ラムリーへ 一学期の成績表を同封します。ドクターが満足してくれる成績であることを願っています。ぼくはいま、木で水力飛行機モデルを制作中です。ジュリアンと一緒に何度もミスター・スコットを訪れ、本を見せてもらいました。お元気で。 イサム」
「今日は終日雨のため、子供たちは屋根裏を運動室にして遊んでいます。イサムは水泳がとても達者で、明日から子供たちに泳ぎを教えることになっています。イサムは本当に良い少年です。ちょっと寂しげな表情をしているときに、気を引き立たせる言葉をかけると、その途端に灯がともるように嬉しそうな顔をします。何をするにも覚えがとても早い子です。イサムは甘やかしすぎるほど、メアリーの言うことを何でもしてやります」
《実のところ、医学の授業にまったくといえるほど興味がわかなかった。やりきれなく退屈だった。それでも二年(著者注・正確には一年半) 通ったが、名前を記憶している教授はダンテ研究の文学者だけだ。友人とよべる者は一人としてできなかった》 母親との生活がわずらわしかったのは、《ぼくにとっての小宇宙が、もはや家族だけでなかった》からでもある。イサムはコロンビア大学に入学してまもなく、《有名な細菌学者の野口英世博士の知遇を得た。博士は別に親戚ではないが、私の父を知っていた》。
ところがあるとき、ドクター・野口と雑談を交わしていて、イサムはふと「医者になるのと、芸術家になるのと、どちらの意義が大きいか」という問いを発した。 「それは芸術家のほうが偉大だよ。医者は科学者ではない、薬も本当に効くのはキニーネだけだろう」 と世界的な細菌学者は即座に言いきった。そして野口英世はイサムに、「医者にはなるな」とさえ言いだした。父親と同じ姓をもつこの日本人名士は、イサムにとって、はじめて出会った日本人の「ヒーロー」であった。医者になるならこの人のようにと崇拝していた野口英世から、イサムは思いがけなくも、 「父親のように芸術家になれ」 と強く促されたという。
《結局、ぼくのような生まれには、帰属問題がつねについてまわる。それが問題とならないのは芸術の世界しかない、と思った。どの社会に帰属するかに関係なく、自由に自分が表現できる唯一の世界が芸術だ。芸術家には自分しかない。一人だけで何かを作りあげていく、孤独な世界だ。孤独の絶望からこそ、芸術は生まれる。ぼくは生まれたときから、その孤独の淵にいる人間だった》 イサムは晩年になっても自らを「パライア」、つまり「社会ののけ者、またインドの不可触民」を意味する言葉にたとえた。 《アーティストという種族は、皆パライアだ。ぼくはまさに、生まれつきのパライアだった。パライアそのものであるぼくがアーティストの仲間入りするということは、ぼくはもはや、パライアではないということになる》
イサムはまた、《作品を通してぼくは人とコミュニケイトできる。そこではじめて社会の一員になれる》とも語った。
母親レオニーが示唆した道とは、国、民族、生まれの束縛から解き放たれた「越境者」の世界であった。それを体現している人物として、伊藤道郎はイサムの前にあらわれた。「フリーク」という烙印が胸に焼きついている十九歳は、伊藤道郎の生き方から、国によって文化の違いがあっても、人間の普遍的な感情は国境を越えて表現できることを知った。それだけではない。人と異なること、「変わり種」であることがむしろ個性となりえる世界を提示された。
ルオトロの一人息子ルチオ(現スタンフォード大学教授) によれば、ルオトロは、 「初対面で、イサムのけた外れな天分を直感した。ミケランジェロの再来だと思った」 とイサムの天分をよく語ったという。 本気で彫刻家をめざすものなら、ニューヨークではまず「アート・スチューデンツ・リーグ」への入学を考えるのが普通である。イサムの場合は、そのような正規の教育ではなかった。オノリオ・ルオトロの熱意にあおられ、移民のための夜間コースから、彫刻家としての第一歩をふみだした。
イサムは、昼間は医者になるためにコロンビア大学に通い、夜はレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校でイタリア移民青年にまじって、粘土づけにはじまる彫刻の基礎を習った。その合間にアルバイトの皿洗いをするという生活は、実際には二週間ほどしかもたなかった。そのような二重生活が肉体的につづけられないというイサムに、ルオトロは「彫刻一本でいけ」と励ました。皿洗いのアルバイトと同じ週五ドルを支払うから、自分のアトリエで働けと促した。
《私が制作活動のための場所として東洋を選んだのは、私が半生を過ごした東洋に大いなる愛着を感じているからです。私の父ヨネ・ノグチは日本人であり、詩を通じて西洋に対して東洋を理解せしめた人物として早くから知られています。私はこれと同じ仕事を、彫刻によって行いたいのです。私が親譲りの仕事を成就できるよう貴下の御助力をお願いいたしたく存じます》
レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校での個展を報じる前出の「ワールド・アンド・ワード」紙記事には、イサムの名前に「日系アメリカ人」という「接頭語」がついた。この個展から半年後、一九二五(大正一四) 年二月号の「アメリカン・ボーイ」誌にとりあげられたときも、〈生きているような肖像彫刻をつくるジャパニーズ・アメリカン・ボーイ〉と形容された。
イサムにとっての「日本」とは、自分を捨てた父親につながる言葉である。グッゲンハイム奨学金申請書に書かれた日本へいたる旅の目的に、突如としてインドが出てくるのも、米次郎に結びつく発想だったと思う。数年後にレオニーはイサムに宛て、 「インドに発つ前に、お父さんの友人であるタゴール氏とナーイドウ夫人にまず手紙で連絡をとりなさい」(一九三〇・六・一七)
ロバート・マックアルモンは長年パリを生活の場としたアメリカ人のひとりで、短篇作家である。だが作品よりも、大酒飲み仲間のヘミングウエイをはじめて闘牛見物にスペインに伴ったり、目を患ったジェームス・ジョイスのために彼の著作『ユリシーズ』の後半部をタイプした人物としてその名をとどめる。マックアルモンは、彼を知る人々が書きのこしたものによると、〈ざっくばらんだが、冷たい〉ところがあったという。
イサムは着るものにも、食べるものにも無頓着で、ただひたすら 憑かれたように、ブランクーシのような〝偉大な彫刻家〟になる夢を追いかけてました。イサムは当時から、単なる成功ではなく、夢のわくをはるかに越えるほどにも大きな名声を求めていました。生まれからくる卑屈さの裏返しなのか、イサムには自分しかみえなかった。他人を思いやる人ではなかった。パリでは結局、女性問題で、イサムは仲間の 顰蹙 を買ってしまいました」 医者ではなく、アーティストの道を選んだとき、《その理由には、性的関心もあった》とイサム・ノグチは晩年の自伝用テープで告白している。 《アーティストの仲間では、性がとても開放的だった。だから、パリのような場所へやってきたぼくの生活がいかなる展開をみせたか、容易に想像がつくはずだ》
ジュラルミンとプラスチックという軽量な素材を使い、組み立て分解可能なこの住宅案は、フラーの口からもっとも頻繁に出た言葉が「ダイナミック」と「マキシマム」だったことで、やがて「ダイマキシオン・ハウス」と改称される。現在のプレハブ住宅へとつながる画期的発想であった。だが、建築業界では注目されなかった。専門の学位をもたず、すべて独学のため、フラーの真価は長いこと学界や業界で無視された。
十代のときに出会ったエドワード・A・ラムリーにはじまり、イサムは人生の各節目で、的確な助言で導いてくれる「メンター」にめぐまれた。自分にとってかけがえのない「メンター」を、イサムは本能的にかぎわける抜群の嗅覚をもっていた。父親不在の育ちだけに、相手の胸に飛びこみやすかったといえよう。
あまりにも快適な暮らしに、イサムは北京に六ヵ月も滞在してしまった。気がつくと所持金が《不安なほど減ってしまった》。イサムは出発を急がねばならない。だがまたも、彼はインド行きを断念する。 《金が尽きてしまう前にやはり何か日本のものを見たいと思ったし、考えてみるとなぜ自分が行くのをためらっているのか分からなかった》 日本に行くといっても、父親に会う必要はなかった。考えてみれば、《自分の金で行くのだから、何も遠慮はいらなかった》。
一九三一(昭和六) 年一月下旬、イサムは天津港から神戸へ 発つ南嶺丸に乗船する。その客船で一緒だった「毎日新聞」記者が、日本姓のアメリカ人彫刻家に興味をもち、南嶺丸が門司をへて神戸港に入港する前に、〈詩人の父を慕い〉の見出しの記事が「毎日新聞」に載る。そこには〈父に会える喜びを語る〉イサムの言葉さえあった。
昭和と年号が変わり、日本が次第にファシズム化していくのと足並みをそろえ、『神秘の日本』『真日本主義』など、米次郎は国粋主義の傾向をあらわにした作品を発表していた。白人との間にもうけた息子がいたという事実は、米次郎にしてもあらためて掘りおこされたくない「過去」であったろう。
新渡戸夫妻は、再会したイサムを軽井沢の別荘にも招いた。そこでイサムはチャールズ・リンドバーグ夫妻と出会った。大西洋横断無着陸単独飛行から四年、今回は北太平洋横断飛行に挑戦して来日したリンドバーグは、ジャーナリストの目をさけて新渡戸の軽井沢の別荘に立ち寄った。イサムはそうとは知らずに、庭の茂みのなかから突然姿を現したリンドバーグ夫妻と鉢合わせした。 国際連盟事務局次長から貴族院議員になっていた新渡戸稲造は、日本のハイソサエティにつきあいが多かった。イサムは新渡戸夫妻の応接間で、尾崎行雄の末娘で日英混血の母親をもつ尾崎雪香、二科会の重鎮有島生馬の一人娘暁子など、学習院出の令嬢を紹介された。やはり新渡戸と親しい貴族院議長徳川家達 公爵に連れられ、イサムは相撲部屋を訪ねる機会にもめぐまれた。そのときの素描をもとに制作したテラコッタの横綱【玉錦】と、北京で制作した【中国娘】の二点が「野口勇」の名前で、半年後の二科会に入選する。
また京都では、イサムは熱心に禅寺の庭を見て歩いた。 日本の庭の美しさをイサムに教えてくれたのは、もとはといえば、母親レオニーであった。茅ケ崎時代、母親はイサムを鎌倉の寺の庭園見学に連れ回った。日本の庭は、《幼児期をすごした日本へのはかない郷愁》のメタファーとして、イサムの胸に生きていた。その庭を、イサムは今度は彫刻家の目でとらえた。 日本の庭は、美しい別世界とも思える「小宇宙」であった。歩きだした途端から、庭は異なる姿をみせた。《裏表がなくなってきて、どっちが表か、どっちが裏かわからなくなり》《同じものが何回でも新しく見えてくるようになる》のであった。彫刻は、絵画と異なり、見る角度によって印象が変化する。その彫刻同様に、日本の庭は太陽の傾き具合で、まるで別の顔をみせた。 《日本の庭は多分、彫刻ではないか》
日本の庭には、《造形的な美しさだけでなく、精神的な感動がある》。アメリカに帰国したのち、そう説明するイサムに、「 空間」という概念をあたえるのはバックミンスター・フラーである。フラーによると、世界にはさまざまな意味の空間が存在した。人間をとりまく空間、彫刻のもつ空間、そして、庭の空間。すなわち、《庭は、空間の彫刻》であった。
一九三一(昭和六) 年の京都滞在は約四ヵ月にすぎない。だが、そのとき彫刻家イサム・ノグチが受けた 恩沢 は、《京都こそ偉大なる教師》という彼の言葉に集約されている。何かを造形するとき本能的にわきあがる「日本の美意識」は、まちがいなくイサムの内なる部分であった。「日本の遺産」が自分のものである事実も、京都はイサムに確認させてくれた。「自分への旅」で行き着いた京都で感知したものを土台とし、イサムは自分の作風を探りあてていくことになる。
ルースは 辣腕 で知られた弁護士と結婚していた。彼らのシカゴの自宅は同市にやってくるバレエや音楽関係者が立ち寄る社交の場としてにぎわい、また夫婦仲も悪くなかった。ただ夫はビジネスマンタイプのうえ、つねに仕事で多忙であった。結婚して六年目、ルースが「芸術を、同じレベルで語れる人がたまらなくほしかったとき」に現れたのがイサムであったという。
イサムは日本で、自分の美意識のルーツを確信することができた。それは郷愁の記憶以上の力で、自分の血に生きるものであった。だが、《あれほど探し求めていた故郷は、日本でもついにたずねあてることは出来なかった》。 日本はイサムが帰属できる国ではなかった。「東洋への巡礼」でイサムは、自分のなかの日本なる部分と同時に、アメリカ人としての自覚を確認していた。帰国したとき彼は、多様な民族から成るアメリカに、あらためて自分の未来を賭けた。イサムは、《東洋から帰国して、アメリカに熱中した》。
恋の激情に襲われたら、ロシア人やフランス人のように、相手と旅に出るとか、一時的に一緒に暮らしてみたりして、肉体のなかからまずその病を追いだすのが〝人生の知恵〟かもしれません。性行為がもたらす満足感には驚異的なほどの威力があります。肉体行為というものは往々にして、相手を本当に見極める目をひらかせてくれます。また、芸術家が結婚したがらないのをみてもわかるように、結婚は仕事の弊害になりかねません。現在の離婚率の高さは、互いをしばる結婚というシステムにこそ原因があると私は確信しています。
批評家はアーティストを美術界に位置づけてくれる存在である。そのなかでも一筋縄でいかないマクブライドに、イサムはいつまでも執拗なほど悪感情をつのらせた。それは、名うてのこの批評家に、もっとも痛い点を突かれていたからではなかったか。
バックミンスター・フラーから借りたハドソン車でアメリカ大陸を横断、故郷と呼べる記憶がなくても生まれた土地であるロサンゼルスにイサムが着いたのは、一九三五年六月下旬。同地で振付師として活躍していた伊藤道郎の紹介で、イサムは《ハリウッドで幾人かの頭像を制作して金を手にすると、メキシコへ探検の旅をこころみた》。
リベラがニューヨークでロックフェラー・センター壁画を制作中のこと、〈ご主人が仕事中に何をしてますか〉と、新聞記者がフリーダにインタビューの矛先を向けたとき、彼女は真顔で〈男と寝ているのよ〉と応えてからかった妻だった。フリーダは、どこまで本気かわからない話で聞く者を翻弄し、猥談や毒のあるユーモアでも人をたじろがせた。 イサムにはそれが、頭の回転のよさとも、因習にとらわれない生き方とも思われた。フリーダのむきだしのセックスアピールも新鮮であった。夫とともに共産党員であったフリーダの社会批判も、左翼に傾いていたイサムには受け入れられた。馬鹿騒ぎが大好きで、大恐慌時代のニューヨークで金持ちの豪華なパーティを大いに楽しんだ点でも、フリーダはイサムと似ていた。
バイセクシャルという噂が聞かれたほど性的に奔放なフリーダの行状は、夫と実妹との関係を知った以後からといわれる。イサムとのアヴァンチュールも、またその十ヵ月後にメキシコに亡命してきたレオン・トロツキーとの情事も、みな夫への仕返しをかねた浮気であった。そのたびリベラは大げさに反応した。
イサムとフリーダの関係は「青い家」での密会現場をリベラに押さえられて終止符を打った。ベッドにいた恋人たちは、使用人の機転でリベラの帰宅を知った。服を着るのもそこそこに中庭のオレンジの木によじ登り、屋根ごしに逃げるイサムをリベラがピストルを手に追いかけた。メキシコ共産党がスターリン派とトロツキー派にわかれて 揉めていたとき、リベラは身の安全のために常時ピストルを携帯した。 イサムによると、この一幕があった後、右足の悪化で入院したフリーダを見舞ったときであった。たまたま居合わせたリベラはピストルを抜いて言い放ったという。 《こんど会った時は本当に一発ぶちこむぞ!》
《アーティストは元来、社会機構のなかにおさまらないアウトサイダーだが、当時は、社会的造反に加担してラディカルでさえあった。労働組合運動にしろ何にしろ、権力の抑圧に抵抗するあらゆる政治的問題に首をつっこんだ。スペイン内乱で大多数のアーティストが人民戦線を支持したのは当然だった。なぜなら、大恐慌下に経済的な苦悩がより理解できたし、また左翼思想はすべての人々により平等な世界を約束するものだったからだ。そのために戦う人々に手を貸さずにいては、罪悪感がつきまとった》
この文章は少なくとも説明不足といわねばならない。その一年半前、AP通信社の仕事が完成したとき、イサムは日系アメリカ市民協会(JACL) から「その年もっとも活躍した二世」賞を郵送で受けとっていた。同じころイサムは、ドール・パイナップル社のロビーのデザインの相談を受けてハワイを訪れ、同地の二世から、「同じ日系でありながら、自分たちがこえることができずにきた壁をこえた人物」として手厚い歓迎を受けた。 ホノルルにいた間に依頼されたアラモアナ公園用遊具デザインが棚上げとなったとき、イサムは日系アメリカ市民協会役員宛に、「ハワイで自分を支援してくれる地元日系団体の紹介を求む」手紙を出していた。ハワイとのつながりがないことを説明する日系アメリカ市民協会からの返答には、
という丁重な言葉が添えられていた。イサムがニューヨークに嫌気がさし西海岸へ逃避をはかったのは、以上のような二世グループとの接触と無関係でなかったといえそうだ。カリフォルニアに新境地を求めた、理由のひとつであったと思われる。 真珠湾攻撃への反応を《ああ、これで自分はついに日本人になった。少なくとも二世なのだ》とインタビューで語ったイサムの言葉がある。
近親相姦を描いた自伝的作品で文壇に登場し、多彩な異性関係で伝説的女性だったアナイス・ニンと、シュールレアリストたちのパーティで出会った最初の夜、イサムは彼女をこのアトリエに誘った。ニンによると、そのときもっとも強く彼女の印象に焼きついたのは、作品自体よりも、〈五センチから八センチほどの大きさの、それまでの彼の作品の模型であった〉。ニンの目にそれは、〈まるで抽象彫刻からなる小さな宇宙のようだった。ものの「形」というものへ、わたしの目をひらかせてくれたのはイサム・ノグチである〉。
イサムには、「日本のスパイ」という嫌疑があらためてかかっていた。イサムがポストン強制収容所にいた間のこと、アメリカ内務省アメリカ・インディアン局でジョン・コリア局長のすぐ下にいた高官がアメリカ・インディアンの土地開発をめぐる件で、同収容所内に夫人連れで数週間滞在し、イサムとも親しくなった。それ以前から精神病院を出たり入ったりしていた夫人は、ワシントンにもどってふたたび入院すると、「ミセス・ノグチ」と呼ぶように医者や看護婦に言い張った。またニューヨークにもどったイサム宛に、「手紙には書かないほうがいいと思われる、直接伝えたいことがあるので」(FBI文書、一九四三・六・二九) などという内容の手紙をしばしば書き送ってきた。
またタラが驚いたことに、彼女がアメリカで会ったどの人物よりも、イサムはインド美術に精通していた。いや美術とかぎらずインド伝統文化にも並々ならぬ知識があった。イサムはインドという東洋を単にエキゾチックなものとしてではなく、正確に把握している、とタラには思われた。 タラはイサムから彼が育った背景を詳しく聞いたことがなかった。しかしイサムはあきらかに東洋と西洋を背負った人であった。何よりもそのために、タラにはイサムの存在がより身近に感じられた。
渡米するまで、タラはインドを出たことがなかったが、タラの育ちには西洋が大きく影響していた。両親はそろってインド人でも、インド名門のつねとして父親はイギリスで教育を受け、母親も幼いときからイギリス人家庭教師がついて育った。東洋と西洋の教養が身についた父母の方針で、姉妹はメソジスト派アメリカ人宣教師が経営する学校に通い、自宅ではデンマーク人女性の家庭教師に教育された。
イサムはインドに関してだけでなく、あらゆる分野に貪欲な読書家であった。カフカの『変身』にはじまり紫式部の英語版『源氏物語』にいたる、彼自身の愛読書を「読んでみる?」というさりげない言葉でタラにあたえた。美術館や画廊を連れあるくときも、イサムは押しつけがましい解説をしなかった。自分の関心をそそる作品の前で足をとめ、「すばらしいね!」と感嘆符を発するだけであった。他に言葉を交わさなくても、タラにはイサムの感動が分かち合えた。
タラがメキシコへ 発つ前から、イサムは彼女に求婚していた。ニューヨークへもどったタラにイサムはあらためてその言葉をくり返した。タラはイサムを熱愛していた。それまでたくさんの人々に出会ったなかでも、イサムほど魅力ある人物はいなかった。タラはまた、イサムほど複雑な性格の人間を知らなかったともいう。タラはイサムの多面的な性格のひだを、自分に似た複雑さと、むしろ受け入れていた。 しかしヒマラヤ山脈を背景とするインド北部の自宅で、約半世紀前の「恋」を語ったとき、タラは静かに言った。 「イサムとの結婚は、一度として考えられませんでした」
だが大学を卒業したばかりの若さで、タラには結婚することが考えられなかった。タラは自分自身をさえまだ見つけていなかった。イサムはそのタラに、 「男の愛を陽光のように 燦々 と受けてはじめて、女性は見事に美しい花を咲かせることができる。タラという大輪の花をこれから咲かせるのがぼくの役割だ」 とプロポーズをくり返した。若いタラを摘み取るのではなく、彼女が自分自身を見つけ、その才知をのばしていくためにできるかぎりの手助けをしたい、と言葉をつくした。イサムのこの誠意をタラは疑ったことはない。しかしタラにはやはり、 「結婚が考えられなかった。生涯をともにする相手としては、年齢の差がありすぎました。イサムが属するアーティストのボヘミアン的生活もやはり私には異質でした」