あらすじ
自然とエロス、東洋と西洋の美の融合。巨匠はひたすらに美を追い求め、狂おしく愛に生きる。名声はいや増し、孤独の影は濃い。己れの宿命に果敢に向きあい、20世紀を生き抜いた大芸術家が最後まで追い求め、問い続けたものはいったい何か……。渾身の取材で魂の叫びに耳を傾け、精神の深淵に迫る評伝。
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Posted by ブクログ
377P
ドウス昌代
1938年北海道岩見沢市生まれ。早稲田大学文学部卒業。著書に『東京ローズ』(昭和52年講談社出版文化賞ノンフィクション部門受賞)『マッカーサーの二つの帽子』『私が帰る二つの国』『ブリエアの解放者たち』(文藝春秋読者賞受賞)『ハワイに翔けた女』『日本の陰謀』(第23回大宅壮一ノンフィクション賞・第5回新潮学芸賞受賞)『トップ・ガンの死』などがある。
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天才と狂人は紙一重
英雄色を好む
そんな言葉が文字通り彼に当てはまる。
彼の墓が私の住む近くにあるのは初めて知った。
しかもなかなか分かりにくく行きづらいとこだ。
Posted by ブクログ
本当によく書かれていると思う。
日本人にもアメリカ人にもなれなかった彫刻家イサムノグチの生き方。
これを読んでからイサムノグチという人物がとても気になって香川のイサムノグチガーデンミュージアムに足を運んだ。
Posted by ブクログ
人生の最後の最後まで、創造への情熱を持ち続け、評価されることを熱望したイサム・ノグチ。
“長距離ランナーでありながら、まるで百メートル走者の瞬発力で走り通した、八十四年四十三日の人生であった。”と、「ニューヨーク・タイムス」に書かれたその人生は、濃くて熱くて哀しくて長いものだった。
第二次世界大戦後、敗戦によりすべての自信を失った日本は、日本らしさを捨てて西洋至上主義に陥っていた。
そんな時にアメリカから帰ってきたイサムが、日本の良さを知らしめてくれる。
日本に歓迎され、日本に滞在して、日本文化への理解をさらに深めるイサム。
女優・山口淑子と結婚していたことがあるというのはうっすら知っていたが、その同じころ、日本での住まいは北大路魯山人の家の離れであったということは知らなかった。
北大路魯山人評伝を読んだはずなのに、全くその部分を読んだ記憶がないというのは、どうしたことか。
あの、激しい気性の魯山人と、同じくらい気性が激しいイサム。
この二人が同じ敷地に住まっていて、全く諍いを起こしたことがないという。
真摯に芸術に向きあう二人は、互いを尊敬することはあっても、ぶつかることはなかったそうなのだ。
ただ、魯山人は自分と芸術が対峙して完結しているのに対して、イサムは常に他人の評価を必要としていた気がする。
それはやはり、親の愛情を心ゆくまで与えられなかったことからくるのではないだろうか。
イサムの存在をなかなか認めようとしなかった父と違って、母は最初から最後まで無償の愛情をイサムに注いでいたのだが、十代の初めにたったひとりで日本からアメリカの学校へ追いやられたとイサムが思っていることでもわかるとおり、イサムは母の愛にも飢えていたのだ。
もし愛情に満ち満ちた人生を送ってきたのならば、もう少し周りの意見を聞く耳を持っただろうし、アメリカ美術界の巨匠として高い評価を得る戦略をたてることもできたのだろう。
それがなかったばかりに、大きな賞を逃したことも、事実ある。
しかし、「もっと愛を」「もっと評価を」そんなイサムの狂おしい思いが、彼を芸術に駆りたててきた。
芸術では日本文化の影響を多く受け、評価はアメリカのものを欲しがった。
決して満足することのない、その思い。
“建築と庭園の、庭園と彫刻の、彫刻と人の、人と集団社会の……夫々が互いに、他と密接に関連し合わねばならぬ。そこにこそ新しい美術家の倫理があるのではなかろうか”
“《有限の空間であっても無限の広さを感じさせ》《人間が住んでいるというよりも、人間の精神が住んでいる》というのが日本の庭の持つ空間に思われた。”
どの空間に、何が、どう置かれるか。
イサムの芸術のあり方は、魯山人の、どんな食器に、どんな料理を、どう盛るかに似ている。
トータルとしての在り様。
その集大成としてのモエレ沼公園。
雪が融けたら、ぜひまた遊びに行ってみようと思う。
Posted by ブクログ
上巻に続き、芸術家イサム・ノグチの”越境者”としてかかえる帰属の葛藤や孤独、そして創作への情熱を追った一冊。読み終わったらものすごくモエレ沼公園に行きたくなりました。
Posted by ブクログ
(手持ち)
芸術家として峻烈な生を生きた方。アメリカ人でも日本人でもないというその葛藤からまた美しい作品が生まれたのですね。授かった天分に相応しい激しい人生だったようですが、美に生きるというのはこれほど苛烈なことかと思いました。