歴史の謎からDNAの基礎を学ぶ、文系でも分かるDNA入門書。
歴史と分子生物学の融合により新たなる歴史科学の領域を切り拓く試みでもある。
科学者による曖昧さの無い、明快な文章が心地良い。
遺伝子組み換えの危険(外来遺伝子持ち込みによる変異の危険)の解説により、「遺伝子組み換え」と「ゲノム編集(CAS9の活用)」の違いを理解した。
(同じだと思っていた。。)
本書が出された翌年(2020年)、「ゲノム編集」の業績にノーベル賞が与えられた。
新聞やテレビの解説では腑に落ちない人には、本書第三章の解説は最適だろう。
何よりも、エキサイティングなのは、リチャード三世の遺骨発見と、そのDNA解析による検証のストーリーだ。
そこでは、「ミトコンドリアDNA」が威力を発揮する。
普通のDNAは核に存在する。
その核を取り囲む細胞壁の中には、実に多くのミトコンドリアが存在し、そのミトコンドリアは細胞核のDNAとは独立した、独自のDNAを持っているのだ。
だから、ミトコンドリアは、細胞が取り込んだ異生物だったと推定されている。
ミトコンドリアが有するミトコンドリア(mt)DNAは、母親から、男女問わず子供に継承されるが、それが次の世代に受け継がれるかは、女性系統が存続するかにかかっている。
なぜなら、男性のmt DNAは、受精の時に切り離されて卵子の中に入ることができないからだ。
女性のmtDNAが優先されて、男性の持つmtDNAは抹殺されてしまうのだ。恐ろしや。。。
だから、男の子が母親から受け継いだmt DNAは次世代に引き継がれることはない。
mtDNAが引き継がれるのは、女性系統が続いている場合だけなのだ。
イギリスはレスター市、かつて修道院のあった、現在は駐車場となっている場所を掘り返したところ、背骨の曲がった遺骨が発掘された。
その修道院に埋葬されたと推定されるリチャード三世は傴僂だった、と伝えられている。
(シェイクスピアは「リチャード三世」で、傴僂で邪悪な王として、リチャード三世を描いている)
この遺骨こそ、かつてのイングランド国王のものに違いない、誰もがそう思ったが、それは状況証拠に過ぎない。
決定的な証拠がほしい。
その決定的な証拠こそが、mt DNAだったのだ。
リチャード三世の直系は断絶しているが、彼の姉の女性系統が存続していることが分かった。
リチャード三世と姉は母親を同じくしていて、従って全く同じmtDNAを持っている。
運良く、リチャード三世の姉の家系に連なる女性が500年以上を経て、現代に存在していることが判明したのだ。
その女性がカナダにいることが分かる。
何とラッキー!
ところが、その女性にアプローチしたところ、タッチの差で亡くなっていた!
万事休す!
だが、その女性には、息子が一人いることが分かる。
その男性こそ、リチャード三世のmtDNAを持つ、最後の人間だった。
その男性に子供がいても、もうリチャード三世のmt DNAは存在しないからだ。
発見された遺骨と、彼のmtDNAが比較された。
二つのミトコンドリアDNAは完全に一致した!
発掘された遺骨は、間違いなくリチャード三世の遺骨だったのだ。
歴史と生命科学の見事な融合。
小説よりもドラマチックではないか。
これを読んだ上で、ジョセフィン•テイのアームチェア探偵小説「時の娘」を読み、更に、BBCが作成した「リチャード三世発掘記」というドキュメンタリーを見ると、面白さは倍増する。
当然、そこからシェイクスピアの「リチャード三世」に向かっても良いし、リチャード三世が当事者でもあった薔薇戦争に興味を向けても良い。
(薔薇戦争は、「ゲーム•オブ•スローン」の元ネタにもなっている)
本書に触発されて、日本の歴史にmt DNAの考え方を応用してみた。
題して「織田信長のミトコンドリアDNA(mtDNA)」。
mtDNAという観点で見ると、織田信長の死後の影響力の大きさに驚かされた。
織田信長のmtDNAは、彼からは次の世代には伝えられていない。男からは継承できないからだ。
しかし、彼と同じmtDNAを持っている姉妹がいて、そこに子孫がいれば、織田信長のmtDNAは伝えられることになる。
信長には、有名な妹、お市の方がいる。
お市の方は、信長と同じ母親から生まれているので、信長とお市の方は、同じmtDNAを持っていたことになる。
(リチャード三世とその姉の関係と同一だ)
そのmtDNAは、お市の方の子供全員(男女を問わず)に継承され、その後は女性の系列に伝達される。
お市の方には、3人の娘がいた。
豊臣秀吉の側室となって、豊臣秀頼を生んだ茶々(淀君)。
公家(京極家)に嫁いだ初。
そして、徳川秀忠に嫁いで、千姫、家光、和姫を産んだ江。この江は、その前に豊臣秀勝(秀吉の姉の子、秀次の兄)に嫁いで、完子という娘も産んでいる。
茶々、初、江の三姉妹、そして、その子供たち(お市の方の孫たち)、秀頼、千姫、家光、和子、完子は、全員、信長と同じmtDNAを持っていることになる。
つまり、信長のmtDNAは、豊臣秀頼、徳川家光という天下人に引き継がれていたことになるのだ。
まるで、mtDNAが日本を支配していたような錯覚に囚われる。
そして、女性の系統が続く限り、そのミトコンドリアDNAは引き継がれる。
家光の妹和子は、天皇家に嫁ぎ、娘を産む。
当然、信長のmtDNAは継承されていく。
その娘が、天皇となる(明正天皇)。
つまり、天皇にまで、信長のmtDNAが引き継がれていたのだ。
信長(のmtDNA)恐るべしではないか。
将軍家のみならず、天皇家まで信長のmtDNAに支配されていたのだから。
(というよりも、恐るべきは「お市の方のmtDNAと言うべきかもしれない)
これは、余談だが、完子は、公家(九条家)に嫁ぐ。その系統から、大正天皇の妃が出る。
だから、昭和天皇•昭仁上皇•今上天皇は、お市の方の血統だと言える。
だが、(残念ながら)mtDNAは途切れているので、信長のmtDNAは受け継いでいない。
mtDNAという視点は、歴史を別の見方で照らし出してくれる。