古川愛哲の作品一覧
「古川愛哲」の「悪代官は実はヒーローだった江戸の歴史」「江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「古川愛哲」の「悪代官は実はヒーローだった江戸の歴史」「江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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Posted by ブクログ
タイトルからわかるように実在の代官は悪代官どころか権力は小さくいちいち幕府にお伺いを立てないと、飢饉の救済などの緊急行動もとれなかったという。幕府にお伺いを立てるにしても通信手段が自ら赴くくらいしかなく、しかも陳情どおりの許可が下りず中間管理職の悲哀をかんじさせるようなことばかり。その中でも幕府の許可を待たず、あるいはうまく説得をして減税(年貢を減額)や開墾、移住促進策をとり赴任地を活性化させた例も多い。
直接関係ないが江戸時代の「打ちこわし」は豪商や役所の家屋敷は破壊するものの、物資略奪や住人への暴行は一切行わなかったという点。それに反すると打ちこわしの参加者からシメられるという実に「誠に丁寧、礼儀正しい狼藉」だと旗本の森山孝盛が日記に書き残したという(p.98)
また西国筋郡代の寺西蔵太は「金子を少々与えても百姓はそれほど喜ばないが年貢を下げてやれば大百姓から小百姓、さらにその妻子まで有難くおもってくれる。と書き残しているという。そうだよ一時的な給付金より減税なんだよと現在の話かと思っちゃうね。
Posted by ブクログ
江戸時代を描いたドラマでも小説でも漫画でも悪者の代名詞として使われてしまう悪代官。
しかしこの本を読むと代官への認識が180度変わるだろう。
薄給で多忙ですすんでなりたがる人の殆どいない中間管理職。
困窮した領民の為に私財を投げうったり切腹覚悟で行動を起こしたりした代官のなんと多いことか。
それなのに現在はやたらと町奉行が英雄視され代官は悪いことをするという認識がまかり通っている。
演出と史実を混同してしまうのも悪いといえば悪いが、名代官を主役にしたものがなさすぎるのもどうかと思う。
読めばわかるが、史実にのっとった名奉行は殆どおらず名代官の多さにびっくり。
そして時代が下がるにつれての町奉行の腐敗ぶりにもびっくり。
そして学校の教科書で習った歴史のいい加減さにも更にびっくり。
士農工商の厳しい身分制度で一生身分が変わらないなんて事はなく、才覚があれば農民から幕府の要職にまで上り詰めることも不可能ではなかったんだよねぇ。
さらにはかなりの訴訟社会でもあった訳だ。 農民も町民も庶民もなにかありゃぁバンバン訴え出てたと。
こんなの学校では習わなかったもんなぁ。
試験の為の勉強より、こういった話を授業で沢山した方が確実に歴史を面白いと思う人が増えるだろうに。
とこの手の本を読むと毎回思う。
Posted by ブクログ
江戸時代の「代官」の仕事ぶりについて、史料から明らかにしようとしている本。代官とは、天領(幕府領)の政務を取り仕切る多忙な役人であり、下級の旗本が務めることが多かったらしい。すなわち、現場の最前線で実務を指揮統括する立場であり、苦労が多いのに実入りが少なく、割に合わないポジションであったことは、現代とそれほど事情は変わらない。本書によると、災害や飢饉で困窮した民を救った結果、借金を返せなくなって切腹した代官は枚挙に暇がない。また、部下の役人が悪事を働くと、民衆はすぐに江戸に直訴に行き、代官は監督責任を問われ罷免されてしまう。3代続いた代官はいないとも言われるほど、代官の職は過酷であった。江戸時代の270年の平和を支えていたのは、江戸にいた将軍や老中や奉行ではなく、地域に根ざし、善政を布いた代官だったのかもしれない。水戸黄門に登場するようなステレオタイプな代官像を覆す良書。(いわゆる「悪代官」もいないわけでは無かったらしいが)
Posted by ブクログ
チェック項目18箇所。明治政府は「反逆」「反抗」「革命」「無頼」「刀」「剣戟」などを過敏といえるほど嫌い、禁圧しました、三百年近い徳川幕府を倒して明治維新政権を樹立したのですが、それだけに「反逆」「反抗」「革命」「無頼」「刀」の力を恐れました、武士の行動原理と文化を極端に否定したのです。明治4年(1871)には「散髪脱刀令」を発して、髷を落とし、帯刀の習慣をなくそうと試みています、また明治9年(1876)には「廃刀令」を公布して、軍人、警官以外の帯刀を全面禁止しました。明治の後半まで「江戸の世が懐かしい」とでもいえば、危険思想の持ち主とされたのです、時代小説、時代劇が作られる頃は、明治生まれの人々の世になっていました。武家は一人で歩くことはなく、必ず中間に挟箱を担がせるなどして、従者を連れていた、町人は将軍、御三家、御三卿ぐらいには土下座をしたが、それ以外は、道の左右に避けて済ませた、武家が上司と出会ったときは、小走りにより、地面に片膝を付けて挨拶した。庄司甚内は公許の遊郭設置が必要な理由を①家業を怠り浪費する者を、遊女は何日はも泊める、②遊女の家は、浪人その他の不穏分子の溜まり場になる、③人身売買、誘拐など不埒な遊女稼業の者がいる。地獄……「地女の極上」の略である、地女とは、遊女に対して素人の町屋の女の意味で、御家人の妻の身分を隠して、裏長屋を借りた「地獄宿」に通って「つゆ稼ぎ」をしたのだろう、地女の極上だから、それなりの値段がしたに違いない、家主の監視を潜っての地獄宿も、そうとう危険な商売であった。女性の晴れ着は、基本的に畳みの上で艶やかに見えるようにデザインされていた、そのため室内ではひときわ生彩を放つので、インテリアになり得た。江戸時代の人々の性感覚は、今日からは想像するのが難しい、男にとっては妻は子孫を残す相手であり、恋愛は遊女を相手にする遊びだった、江戸時代の中期後半までは、性は子孫繁栄と遊びに峻別されていたのである、妻への義理さえ立てば、妻は悋気(嫉妬)はしない、朝帰りと妾は男の甲斐性の時代である。夜鷹(ヨタカ)……夜になると仮小屋を作ったり、川の土手や橋の下などで体を売った遊女、船饅頭……江戸は水路が巡らされた水の都市、船の中で売春をする女性のこと。家主は、三年燃えなければ元が取れる安普請(粗雑な作り)にしたので、この建築感覚が後々まで地震大国日本に大きな被害をもたらすことにもなった。年表を見ると大火は、景気低迷の時代に起きている。「生類憐れみの令」の意外な効果……人間も生類に含まれていて、「捨て子捨て病人」を禁止した、道中保護令も出て瀕死の旅人の救護も命じられたが、それまでは知らぬふりをされていた、「人や動物を殺す」「人や動物が死ぬ」ことを何とも思わない風潮を止めたのが「生類憐みの令」である。尾張藩……「生類憐れみの令」の15年前には9歳の林徳之助が2歳年上の川口三平を斬り、自分は自害した、9歳と11歳の殺し合いである、翌年は14歳の少年が斬り合って、互いに絶命するまで戦っている。時代劇で「面を上げぃ」というが、将軍はもとより上位の人の前では相手の顔を見ないのが作法だ、そのせいで近代になっても日本人は、相手の目を見て話さなかったという。学問が道楽か実学か区別のつかないところが江戸の時代を支えた、ところが時代が下るほど、武士は道楽として学問を楽しむ人が少なくなる、出世のための学問の時代である。「秘事作法」によれば、御殿女中には、幼君の性器を鍛える任務があった。凧揚げには天と人とを繋ぐ意味があり、将軍の凧揚げも天上と天下をを繋ぐ絆を再確認する行事だった。
Posted by ブクログ
企業でTOEIC何点以上を取らないと…などと言ってバイリンガル養成に躍起になっている。江戸時代にもバイリンガルが重宝されていたとあって驚いた。どうしてかというと、現代のように標準語を使った国語教育がなされていなかったので、意思の疎通を図るのに苦労した。方言が理解できる江戸っ子は儲かったそうだ。
男たちが浮世絵好きだった理由が意外なところにあって、驚いた。江戸時代の人のエロティシズムは、現代とはかなり異なっていたとあり、「女性の表情、足の指先の表現、波うつ着物が女性の肉体の震えを表現し、流れる着物の裾がとろけるような交合の快美を物語る」のがよかったとある。見えないだけに萌え方が現代とは相当違うところにあるのが面白い。
そんな純情な(?)江戸時代の人が、現代に来たらかなり驚くだろう。電車の中吊り広告には水着姿の女性の写真はあるし、プレイボーイのような雑誌なんて見たら失神するのではないかと思う。
本を読んでいるといつの世にもバカ息子はいるものだなあと思う。しかもただのバカ息子ではなく、権力者の大バカ息子だ。その名は、松平斉宣(なりこと)。播州明石10万石の当主。元は、あの徳川将軍11代目の家斉の25番目の息子だった。その親の七光り息子は、幕府に所領のうち5万石を献上して、その代わりに「参勤道中斬捨御免」の許可をもらったとある。要するに、庶民が行列を横切ったら切り捨てることだ。かなり頭のネジが緩んだ御仁だ。その後、行列を横切ろうとした幼児を取り押さえて、切り捨てた。しかし切り捨てた場所が、あの尾張徳川家の領地である中山道の木曽路で、尾張徳川家は、幼児を殺すとは何事かということで、「今後、当家の領土を通行御無用」と通行禁止を言い渡されてしまった。
それでは、馬と鹿のn乗殿様はどうしたかというと、参勤交代ができないと困るので中山道を変装してこそこそと通り過ぎようとしたが、殺された幼児の親が猟師で恨んでいたために、殺されたとある。葵の紋どころはなくても悪は成敗されることがあるのだな。この父親がどうなったか気になるが、著者は何もこの点については言及されていないので分からない。
ところで、なぜ、大正時代になって江戸の歴史がねじ曲げられたのか気になる方もいるだろう。その理由は、明治維新以来の「欧化政策」によって、江戸時代のものはいけませんとなり、歌舞伎、文芸、落語などで江戸時代にまつわるものを排除させた。
江戸時代がまたもてはやされる頃になると、江戸時代の実情を知る人がいなくなっていったので、現代の時代劇で見られるような形になった。たとえば、座布団を座っている大名を時代劇では見かけるが、実際は、江戸城で使用していたのは、将軍と御三家のみで、ほかの人は許されていなかったとあり、そうなのかと思った。時代劇で将軍や大名を演じる役者の方々は、虚構のおかげで脚の痛さが軽減されている。
このほかにもいろいろなことが書かれていて面白い。