藤代裕之の作品一覧
「藤代裕之」の「ソーシャルメディア論・改訂版」「ネットメディア覇権戦争~偽ニュースはなぜ生まれたか~」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「藤代裕之」の「ソーシャルメディア論・改訂版」「ネットメディア覇権戦争~偽ニュースはなぜ生まれたか~」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
ビジネス・実用
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Posted by ブクログ
認知戦について掘り下げたく、本書を手に取った。
最も鋭いなと思ったのは、国民に更なるデジタル影響工作などに対するリテラシーを求めてはいけない、という主張だ。
一田樹氏と藤代裕之氏の二人が共通して主張している。
一般的には、リテラシーを高めることが重要だと言われる。
本書内にもリテラシー向上を推す人も居る。私も、少なくとも「情報リテラシー」に関しては非常に重要だと考えている。
しかし一田氏、藤代氏の言う通り、リテラシー向上より先に出来ること、すべきことは充分にある。
国家でもコミュニティでも企業でも、構成員が一丸になると強い力を発揮する。
それを裏返すと、構成員同士を仲違いさせ、分断させられれば、相対的に優位を勝ち取れるということだ。
この手法は今に始まったことではなく、例えば帝国主義の時代に列強国がアフリカ、中東などあらゆる国で仕掛けてきた古典的な方法である。
デジタル影響工作や認知戦などによる目標の一つが、敵対国の分断だ。
分断させる攻撃の恐ろしい部分は、いくつかある。
例えば、物理的攻撃で打ち負かすよりはるかに低コストで行えるので難易度が低いこと。
また、相手に、自分が操作されていることを気付かせずに攻撃を成し遂げることが可能なのも嫌らしい。
さらに言えば、仮に介入が判明したとしても、実際に分断するような行動を起こしたのは分断した国・組織の構成員自身であるから、攻撃者は否定しやすいのも悩みの種になる。
そして行動を起こした人たちは認知的不協和によって、自分たちが操作されたことを認めたがらない。あくまで悪いのは相手であって、自分は主体的な意志で以て正しいことをしていると思いたがる傾向があるのも、厄介さに輪をかける。
資本主義はその構造上、格差を生む。必ず資本の多寡によって上下の区別がついてしまう。
そこから自己責任という号令から生まれるメリトクラシー、優越感、見下す気持ちと、卑下、僻み、劣等感、などが生まれる。
攻撃者はほんの1本のマッチを投げ入れればよいだけだ。分断の野火が広がっていく。
だからこそ、リテラシーを声高に歌うのは諸刃の剣なのである。
ではどうしたらよいか、と思考を馳せると、見通しの良い道筋は、幾分エリート主義的な手法になる。
即ち、有識者、責任者、為政者など、力(権力、暴力、技術力など)を持つ担当者が代表して敵対行為に対する対処をし、それ以外の大衆は政治など余計なことを考えず、目の前の仕事に集中する、という道だ。
要はポピュリズム、衆愚政治などに陥らないようにする方法と同じ。リテラシーを持たない人たちを分相応の立ち位置に据え置き、世を二分するような大波を生まないような構造にする。
歴史はこのエリート主義とポピュリズムの往還という流れをグルグルと繰り返しているが、対デジタル影響工作という意味では、再度この方向にもっていくのは試す価値がありそうだ。
ただ、グローバル化、SNSなどが大衆個々人と敵対国の間の攻撃面となり、草の根が見えないところで根腐れさせられている可能性を考えると、リテラシー向上は、それはそれとして必要なのではと思う。
敵の攻撃にこんなものがある、ということを知っておくだけでも、メタに立てる免疫となる。いわば認知戦に対するワクチンだ。
リテラシー向上を求めない、というのは、放任ではなく、リテラシーを伝えた上で、望む閾値に届かない者を見下さないという愛の問題に置き換えられよう。
この構図はほぼ教育と同じなので、応用が利く手法でもある。
人生100年時代なのだから、生涯学習として、認知戦やデジタル影響工作という攻撃についての事実と対処法を、皆が触れられる形で備えたいところだ。
Posted by ブクログ
読み終えた直後の、さらりとしたまとめ。
増えつづけるフェイクニュースに対して、私たちはどうすればいいのか。
嘘を見抜く、と個人スキルだけでは、もう既にどうにもならなくなっており、ニュースそれ自体の「生態系」を見直さなければならない、と著者は述べている。
騙された方が悪いだとか、見破るスキルを身につけるべきだ、といった、「自己責任論」で片付けていない点は、あまり類を見ないような気がします。
また、「疑ってかかる」ことを盲信的に取り組むのが、なぜいけないかについても言及されている。
インターネットで見るような、「メディアリテラシーの身につけ方」に留まらないような内容の深さがあって、その点においても、おもしろい本だ、と思いました。
ニュースそのものを見るべきではない、と主張している、『News Diet』 (ロルフ・ドベリ著)も正しい。
しかしながら、ソーシャルメディアがあまりに浸透している現代に、それをやってのけるには、段階的でないと難しい。
フェイクニュースとどう向き合うか。
私にとっては、第6章で取り上げられた、『ニュースを「景色」として見る(P210)』、という考えが、受動的でありながらも選択的な考え方であって、ものすごくしっくりくるな、と感じました。
Posted by ブクログ
すごくよくまとまっていて、面白い。
「偽ニュースはなぜ生まれたか」というサブタイトルが象徴するように、WELQ事件などといったフェイクニュースへつながる、ネットメディアの歴史が描かれている。
当初、2016年夏ぐらいに原稿はあらかた出来上がっていたそうだが、問題意識がうまく表現できていなかったところに、まさかのトランプ大統領当選。その裏にフェイクニュースがあり、ネットの信頼性が疑われたことをきっかけに、藤代先生は一気呵成に原稿を再整理されたようだ。
私個人の感覚としては、そもそもインターネットが普及して間もなくは、2ちゃんねるなどの存在や、相手の顔が見えない怖さがあって、ネット上の言論は信用しがたく独特だなと思っていたところがある。
が、2000年代中盤になると、新聞社や通信社も大量の情報を流しているので、早くて正確な情報を得るための拠り所としてきた。
方や、twitterでは市井の人がどんどん発言するので、訓練された専門家による一次情報を探すのが難しくなってきており、情報の質の低さ、感情的かつ扇動的な流れに辟易としてしまう面も多分にある。そんな意識から、本著を手に取り、読み進めると、2ちゃんねるの話は差し置くが、それ以降の私個人の感覚は当を得ているかもしれないと感じた。
いちばん面白かったのは、偽ニュースが出回る経緯を辿ると、ライブドア事件が大きく関係しているのではないかということだ。ライブドアは2003年よりポータルサイト運営を開始したが、2006年のライブドア事件を機に、記事提供者である新聞社や通信社が配信を停止。これを受けてライブドアはトップページにブログコーナーを設置し、積極的にブロガーを支援していく。ニュースを作れるのはマスメディアだけという驕りがライブドアへの記事配信停止を促し、結果的にマスメディア以外のニュース発信者を生み出したということだ。
また、あくまでプラットフォーム提供者として「新聞少年」を標榜していたヤフーが、2012年に「ヤフー個人」というサービスを始めたことにより、一層記事の信憑性を担保するのが難しい時代へと移る。
運営者も利用者も自らがメディアであるという自覚に乏しい、ソーシャルメディアの存在もフェイクニュースを媒介する温床となっている。メディアとプラットフォームの境界が曖昧で、誰もニュースに責任を持たないからこそ、その空隙からフェイクニュースが生まれているというのだ。
最初の第1章が特に面白かったが、第2章以降の「ヤフー」「LINE」「スマニュー」「日経」「NewsPicks」それぞれの成り立ちについても、勉強になることがたくさん詰まっていた。とにかくきめ細やかな情報収集力と卓越した情報整理力で、感心しっぱなしだった。
最終章の「猫とジャーナリズム」では、バイラルメディアが「質の高いオリジナル記事」「情報検索」「猫コンテンツ」といった3つの頭を持つキメラ構造であることが、ニュースの真偽を見分けにくくしているとする。
クラウドソーシングサイトが「偽ニュース絶望工場」であること、ステマの存在(広告主の責任)、炎上がマスメディアとソーシャルメディアの共振によって生み出された虚像の可能性があること、アメリカの中学生の8割が本物のニュースと偽ニュースの見分けがつかないことなど、どれもへぇというものばかりだった。
藤代先生の授業が受けてみたい。