筑波大学人文社会科学研究科教授(日本政治外交史)の波多野澄雄(1947-)による、戦争犠牲者への国家賠償を中心とした戦後日本国家の歴史観の検証。
【構成】
序章 戦争検証の挫折
第1部 サンフランシスコ講和体制
第1章 東京裁判と戦犯釈放
1 東京裁判 遠ざかる日中戦争
2 講和と戦犯釈放問題
第2章 「戦争犠牲者」とは誰か-「国家補償」と戦争賠償
1 援護立法と「国家補償」
2 戦争賠償への意識-冷戦下の東南アジア賠償
第3章 「植民地帝国」の清算-請求権と国籍放棄
1 特殊な取引-在外私有財産と賠償請求
2 国籍放棄の非情
第2部 1980年代-「公平」と「受忍」
第4章 靖国神社問題の国際化-中曽根公式参拝の挫折
第5章 歴史教科書問題
第6章 戦後処理問題の「終焉」-受忍論による国家補償回避
第3部 世紀転換期-冷戦・五五年体制崩壊後
第7章 「侵略戦争」をめぐる攻防-細川発言から村山談話へ
第8章 「言葉」から「償い」へ-新たな「和解政策」の模索
1 戦後補償問題の噴出
2 2007年の最高裁判決-個人補償の否定
第9章 中韓との歴史共同研究-何が違うのか
第10章 かすむ村山談話-靖国問題と戦争記念館論争
終章 「平和国家」と歴史問題-未来への説明責任
世に「歴史問題」と呼ばれるイシューがある。
戦後日本の「歴史問題」の多くは、1930年代から~1945年にかけて戦闘が行われた「さきの大戦」に起因するものである。そして、それらの問題の多くは、「政治問題」である。
政治問題化したからこそ、書店の近現代史のコーナーには「歴史問題」に関する書籍ばかりが並んでいる。東京裁判、従軍慰安婦、靖国、南京、歴史教科書等々。
それらの多くは歴史学者ではない人間によって書かれ、一方の主張によって他方を非難する不毛な内容である。
それらの浅薄な各論の議論に欠如しているのは、国家の歴史観はいかにあるべきかという視点とのそのバランス感覚である。
ありとあらゆる戦争被害を徹底的に洗い出し、それに対する国内外の犠牲者に対して無差別・平等に賠償・補償を行うべきなのか。あるいは、戦争の侵略性を否定し、対外補償を打ち切り、国内については「受忍」を強いるのか。もちろんそのいずれの両極も解にはなり得ない。
この極めて難しい外交上の舵取りを行うのは「政治」の責任である。
その政治に対して疑念を呈したり、批判を加えるのであれば、これまでの外交・国内政策で政府が築き上げてきたロジックをまず理解すること、そして局面局面でそのロジックが孕んだ問題点を的確に抽出することが前提である。
本書では、冷戦下のサンフランシスコ講和体制では、東京裁判の受容のあり方も、国家賠償の交渉相手も限定されざるを得ないという前提が示されている。
また、大日本帝国の植民地であった朝鮮、台湾については、かつては「戸籍」によって区分されていたものが、帝国が崩壊したことにより「国籍」による区別が生じていた。
1980年代は、本来「歴史化すべきでなかったもの」が歴史問題化すること、あるいは「政治化するはずでなかったもの」が歴史問題化することへの大いに戸惑いであったのだろう。
1990年代以降は、80年代に部分的に湧出した歴史問題が、冷戦という凍結装置が取り外され、政権交代・戦後50年というタイミングも相まって一気に国家が対峙・解決すべき問題として取り上げられた。が、戦後50年から17年も経過した2012年現在に至るも、この問題が収斂しないままに至っている。
本書は、議論の前提となるこれまでの経過とその問題点を的確に抽出しながら、解決のヒントを提示している。それは、図らずも「政治化」してしまった問題を歴史学者の手による学術研究という手段によって「非政治化」していく方向である。
歴史は学問である。
政治化してしまった問題を、最終的に解決するのは政治的課題であるが、政治的決断の前提となるのは冷静で実証的な歴史学手法による研究以外にあり得ない。そのためには、著者のように誠実で実力のある歴史研究者の存在が不可欠であるし、本書のような良書が多くの人に読まれるべきである。