【感想・ネタバレ】日本終戦史1944-1945 和平工作から昭和天皇の「聖断」までのレビュー

あらすじ

泥沼化する日中戦争、太平洋を挟んだ日米戦争、東南アジアでの日英戦争、原爆投下、敗戦前後の日ソ戦争。
米中英ソとの複合戦争はいかに推移し、幾多の和平・収拾策にもかかわらず、なぜ早期に終戦できなかったか。
他方、本土決戦を目前に、なぜ「聖断」で終戦が可能となったか。
最新研究を踏まえ、昭和天皇・近衛文麿・木戸幸一・鈴木貫太郎らの肉声で辿り、第2次世界大戦の結末を巨細に描く。「狂気の時代」の真実に迫る。


【目次】
まえがき

序 章 「複合戦争」の終わらせ方
「明るい戦争」 帝国陸海軍の作戦計画 「対米英蘭蒋作戦計画」と戦争終結構想 本書のねらい

第1章 太平洋戦線
陸海軍の戦略論争 ガダルカナル攻防戦 日独協力の対英戦略西アジア攻勢の政戦略 「絶対国防圏」――対米戦略の重視 サイパン殉国の歌――太平洋戦線の転機 「捷号」計画の破綻――フィリピンの放棄 沖縄から本土へ 長期消耗戦へ

第2章 大陸戦線
中国戦線の行き詰まり――重慶攻略の難題 「帝都空襲」の衝撃 「五号作戦」(四川進攻作戦)の挫折 重光の「和平構想」――「対支新政策」 「大東亜国際機構」構想 大東亜宣言と戦争目的の再定義 理念的アプローチの功罪 対中和平工作 「容共」政策への傾斜 繆斌工作の挫折 大陸戦線の結末――一号作戦の展開 インパール作戦 一号作戦と共産軍の成長 中国戦線の結末

第3章 徹底抗戦と徹底包囲
決号作戦計画――本土「最終決戦」 「天の利、人の和」――「国民総武装」の功罪 特攻と天皇 特攻の戦果 沖縄戦と戦艦大和特攻 大空襲の広がり 海上交通破壊の威力――機雷と艦砲射撃 ダウンフォール――オリンピック・コロネット作戦 南九州の防備 抗戦力の源泉

第4章 和平論のゆらぎ――小磯内閣の退陣
東條体制の崩壊とその後 三つの和平論 「近衛グループ」の和平構想 「真崎グループ」の即時和平論 「皇道派政権」構想の挫折 近衛拝謁の意味 近衛上奏と対米和平 グルー演説と上奏文の国際認識 近衛内閣案の挫折 高木惣吉の終戦研究近衛の米内留任論 木戸の「聖断」構想 小磯と「大本営内閣」案 小磯の辞意 米内の残留 小磯の「現役復帰」提案 小磯退陣と陸軍中堅層

第5章 鈴木内閣と終戦政略
鈴木首相の終戦指導 組閣と陸軍 米内留任と東郷の再入閣 陸軍中堅層の対応――「バドリオ」内閣? 本土決戦論 「決号」作戦計画と対ソ外交 六巨頭会談方式の確立 三つの対ソ交渉方針 「日ソ支」提携構想 広田・マリク会談 ソ連外交の「自立性」 鈴木の対米メッセージ 大東亜大使会議宣言の意味 戦争の争点を超えて 「無条件降伏」の拘束 ダレス工作とグルー声明 無条件降伏と国体問題 「平和の海」演説の波紋 非常時議会の意味 小野寺工作とヤルタ会談

第6章 「国策転換」の国内政治
近衛と米内の連携 六巨頭会談の硬直化と打開工作 高木の「研究対策」 阿南・米内会談の流産 六相懇談会 革新官僚グループの「本土徹底抗戦論」 「非常大権」発動論と議会 最後の「戦争指導大綱」 戦争目的としての「国体護持」と「皇土保全」 革新官僚の論理 木戸のイニシアティヴ 「時局収拾対策試案」 阿南の説得 六月二二日の御前会議 高木の「研究対策」の意味

第7章 近衛特使とポツダム宣言
対ソ交渉と国内危機 近衛特使への期待 スターリン宛親書とソ連の回答 近衛グループの和平交渉案 高木の和平交渉案 外務省の和平交渉案 「瀬戸際外交」――最後の特使派遣交渉 和平の基礎としての大西洋憲章 ポツダム宣言の形成 ポツダム宣言と「有条件講和」 「黙殺」と「敵の謀略」 カイロ宣言の「黙殺」 対ソ交渉の行き詰まり 原爆とポツダム宣言――投下は必要だったか

第8章 二つの「外圧」と「聖断」
原爆と広島の惨状 ソ連参戦の衝撃 「四条件」 論争 総辞職の危機 「聖断」シナリオの浮上 近衛と重光 木戸と鈴木のシナリオ 第一回聖断――八月一〇日 受諾電の修正 情報局総裁談 陸相告示――「全軍将兵に告ぐ」 外地軍の抵抗 「天佑」論の背景

第9章 戦争終結
バーンズ回答 外務省の解釈 バーンズ回答と陸軍 「総辞職」の危機 天皇の意志 少壮幕僚の「兵力使用計画」 バーンズ回答の「内政不干渉論」 第二回聖断――八月一四日 阿南陸相と「クーデター」計画 終戦詔書と玉音放送 「大詔を拝して」 「国体護持」の自己認識 支那派遣軍の「降伏」 国民党軍と日本軍の協力 中ソ友好同盟条約と共産党軍の満洲占拠 「現地定着」方針の挫折 「以徳報怨」の波紋 日ソ戦争の展開 北海道占領計画と千島

終 章 敗戦の意味
「聖断」の活用 国体のゆくえ 終戦のタイミングと決断の要因 植民地帝国の終戦 日米同盟の起源 なぜ「複合戦争」に陥ったか

あとがき
参考文献・資料一覧
日本終戦史 関連年表

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Posted by ブクログ

”まえがき”より
「大東亜戦争」は「日米戦争」、「日英戦争」、「日中戦争」、「日ソ戦争」という、四つの戦場の「複合戦争」であった。

なるほど!


映画”日本のいちばん長い日”ではブレずに終戦に向かう鈴木貫太郎が描かれていたと思うが、実際のところは色々と紆余曲折があったんだなあ、と。

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2025年09月26日

Posted by ブクログ

和平工作から昭和天皇の「聖断」まで、とのサブタイトル。和平工作の稚拙さというか強力に和平工作を行う必然性をなんとなく感じていない中でのソ連ルートやスウェーデン、ヴァチカンルート検討の本気度の薄さ、根拠のない一撃和平論を信じたがった天皇を含めた日本の指導者たちの悠長さ現実感のなさが終戦を遅らせたのは間違いないだろう。
原爆投下やソ連参戦を「国体」を護持した形での終戦に持ち込むことができる「天佑」と受け止めたという米内をはじめとした指導者たちの気持ちはすべての戦争犠牲者からはかけ離れていたにちがいない。本土決戦の実現を待ち望んでいた国民がいたのかどうかはよくわからないがそれも戦争指導の教育の結果であるとすれば当然指導者たちの責任は免られない。
この本でも天皇の「聖断」として、降伏か本土決戦か決めきれない政治家たち終戦へと促した天皇の動きを少し持ち上げる雰囲気に感じなくもないが、天皇自身も沖縄戦で時間を稼いで本土決戦に備えるという陸軍のシナリオには一定の期待を持っていたようには思われ、聖断するならもっと早くできなかったのかについてはいつまでも疑問が残る。もちろん(妄想的であるとしても)余力があると考えている中でポツダム宣言を受け入れて降伏することは容易ではなかっただろう。しかし、それによって失われた命はあまりにも多い。
さらにこの本の最終盤で指摘されている通り、日本の外地領土の人々は扱いは「日本人」とされながらも最終的に守られるべき「国体」の範疇になかったことにはハッとさせられた。自分でも、そこに疑問は感じていなかったし、現地の人々は天皇を中心とした国体になんら関心はなかったであろうことも想像される。しかし日本の植民政策は建前的に併呑型のストーリーを掲げてリアリティから目を背けていた。この時代の日本の責任とは何か、現代の日本人の思考はこの時と何か変わったか、ということに思いを馳せる問題提起となった。

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2025年12月21日

Posted by ブクログ

終戦の決断はなぜ1945年までかかったのか?
サイパンが陥落した時に戦争の継続を諦めることはできなかったのか。せめてあと半年早ければ、とずっと思っている。
歴史の後出しジャンケンと分かってはいるけど、そう思う。なのでこの手合いの書籍は無条件で手に取ってしまう。そして読む度にがっかりする。いかに帝国憲法下とはいえ、国民のことを考えていた人間は政府と軍にはいなかったんだね。皇室と自らの組織だけが大切だったわけだ。

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2025年11月23日

Posted by ブクログ

ネタバレ

1944年~1945年8月終戦までに至る日本の和平工作。軍人や政治家たちは国民のことを本当に考えていたのか?と思ってしまう。国体護持にこだわりすぎていた。昭和天皇の聖断が無ければ終戦は遅かったかもしれない。しかし、もっと早く終戦を決断できれば世界唯一の被爆国になっていなかったかもしれないし、ソ連による北方領土の不法占拠も無かったかもしれない。そして更に終戦が遅ければ、北海道はソ連の領土となっていかもしれないと思うと・・・私はこの世にいなかったもしれない。

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2025年10月07日

Posted by ブクログ

1945年に太平洋戦争が終結したが、和平工作はそれ以前から水面下で行われた。重光葵、近衛文麿、広田弘毅など多くの指導者が他国との交渉に当たったが、目立った成果はなかった。最終的にソ連を仲介した和平工作を決断し、結局日ソ中立条約は破られて満州国に侵攻した。では昭和天皇を含めて指導者がなぜ中国、スイス、スウェーデン、ヴァチカンでなく、ソ連との和平工作に賛同したかというと、日本に対する無条件降伏を改める力を持つ中立国がソ連しかなかったためである。

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2025年09月07日

Posted by ブクログ

複合戦争であったという観点は、確かに今まで考えたことはなかった。対米が中心という固定観念があったのは、戦後の占領のイメージが強いからだな。
 それゆえ仕方が無いのだが、時間軸に沿っていないから、話があちこちになっていく感じがしてしまう。もちろん、それは欠点とは言えないのだが。

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2025年08月18日

Posted by ブクログ

特別な視点などは無かったけど、1945年に入ってから、何故あれほどソ連を介した工作に拘泥したかが、あらためて理解できた。
それから、ポスト東條に、いわゆる皇道派はじめ陸軍内で傍流となっていた将官を据える構想が、近衛文麿周辺で割と真面目に考えられていたのは、あまり知らなかったことだった。ただ、文中にもあるように、真崎甚三郎は皇道派の大物、二.二六事件の「黒幕」として天皇本人はじめ宮中での忌避感は強かったし、宇垣一成は一般的には皇道派に分類されることはないけど、むきだしの政治性が天皇から極度に嫌悪されているのが、当時からよく知られているので、実現可能性はほとんど無かったでしょう。
なお、些末ながら、まえがきにて、
「二度の『聖断』による終戦は、国内戦場化や政府の崩壊…が避けられたという意味で…」
と述べられているのだけど、沖縄は「国内」じゃないんだ、と思ってしまった。このあたりは、著者本人もさることながら、編集者の注意が足りないのだと思う。他にも本文で、前出が無い人物に肩書きなどが付いていない姓のみの記述がある、つまり、校正不足と思われる箇所がいくつかあって、ここ20年くらいの新書濫造が感じられる。

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2025年12月07日

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