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★再読
2026/08/28
牧野邦夫、西尾康之、
日本美術史読んでて思ったけど、岡本太郎って海外で活動しては居たけど、極めて日本的なアーティストだなと思う。貢献したのも日本美術史だし。
山下 裕二
(やました ゆうじ、1958年6月15日[1] - )は、日本の美術史家・美術評論家・明治学院大学教授。1958年、広島県呉市で生まれた。はじめは琴の演奏家をめざしていた[要出典]。東京大学文学部美術史学科に進学し、辻惟雄に師事した。日本美術史を専攻し、室町時代の水墨画を研究テーマとした。卒業後[2]、同大学大学院に進み、修了[3]。1990年より明治学院大学文学部芸術学科で教鞭をとっている[2]。現在、同大学教授。1996年、赤瀬川原平と「日本美術応援団[注釈 1]」を結成し、団長を務める[2]。専門外でも様々な絵師や画家、作品を応援し、その普及と再評価に努めている。専門は日本美術史。東京大学で辻惟雄に師事し、山下が監修した2019年の東京都美術館での展覧会「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」では、恩師の辻惟雄を特別顧問として招聘した[4]。『日本美術全集』(全20巻)(小学館、2012年 - 2016年[5])の編集にあたっては、編集委員を務めた[6]。
日本美術応援団とその影響
山下はテレビや雑誌などの様々な媒体に登場して日本美術の普及に努めているが、2017年に「(1996年の)日本美術応援団結成当時は日本美術を積極的に見ようとする人が極めて少なかったが、その後展覧会の観客動員数やテレビの美術番組の視聴率も、西洋美術より日本美術の方が上回るようになり、日本美術をめぐる状況は劇的に変わった」と述べており、日本社会において日本美術の地位が大きく向上したことを指摘している[3]。
「動と静、過剰と淡白、饒舌と寡黙、あるいは飾りの美と余白の美。これらはそれぞれ「縄文」と「弥生」という日本の二大類型になぞらえることができます。 火焰型土器に代表される、装飾的で、エネルギッシュな縄文時代の造形に対し、弥生時代の土器は、調和のとれた美しいフォルムを特徴としています。抑制のきいた文様が施され、機能的にも無駄がありません。こうした弥生的な美が「日本的美」の特質であるとして、日本の美術史は語られてきました。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「弥生的美を至上とする価値観は、縄文的美を軽んじ、ときにゲテモノ扱いしてきました。運悪く、そのターゲットにされてしまったものの一つに、金色や鮮やかな原色で埋め尽くされた江戸時代初期の建築、日光東照宮があります。 日光東照宮は、一六三六年に三代将軍・徳川家光が祖父・家康を神として祀るために造営した神社です。家光は五五棟ものゴージャスな社殿群を、わずか一年半という驚異的なスピードで完成させました。なかでも圧巻は、同宮のシンボルとも言える陽明門です。五〇〇を超える極彩色の彫刻でびっしりと加飾され、思わず見惚れて日が暮れるのも忘れてしまう──ということから「日暮の門」とも呼ばれています。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「デコラティブで煌びやかな東照宮は、まさに縄文的建築美の代表選手と言っていいでしょう。しかし、その評価は二〇世紀に入って急降下します。代わって称揚されたのが、東照宮と同時期に創建された桂離宮でした。 桂離宮は、八条宮家初代・智仁親王が、続く智忠親王とともに親子二代でつくり上げた別荘です。優美な池泉の西側に一棟の書院、南から東にかけて四つの茶屋が配され、これらを結ぶ苑路から、深山・里山、海辺や渓谷など多彩な景趣を楽しめるつくりになっています。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「たとえば利休は、黄金の茶室を造った豊臣秀吉を、わずか二畳の薄暗い庵に招き、漆黒の茶碗で茶を献じました(「待庵」)。これは、無類の派手好きだった天下人をギョッとさせるための、いわばコンセプチュアル・アートです。茶室は環境芸術であり、茶道はパフォーマンス・アートでもありました。二〇世紀の現代美術がやっていることを、彼は四〇〇年前にすべてやっていたのです。 利休が凄いのは、単に弥生的な侘び茶を大成したからではなく、縄文的なものも視野に入れて両者を俯瞰した上で、究極のコンセプチュアル・アートを、文字通り「命懸け」で体現したところにあります。詳しくは第三章および第四章に譲りますが、利休が秀吉に長谷川等伯を引き合わせたのも、この二人が縄文的なエネルギーを漲らせた成り上がり者だと熟知していたからでしょう。利休の読み通り、等伯は秀吉に重用され、極めて縄文的な金碧障壁画にその才を発揮しました。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「 桃山の絢爛豪華な世界があるからこそ、利休の侘び茶が際立ったように、また、等伯が縄文と弥生の両極で傑作を生み出したように、日本美術の真価や魅力は両端を俯瞰することで初めて立体的に浮かび上がってきます。 古い教科書を引っ張り出し、眉間に皺を寄せながら復習する必要はありません。本書には、日本の歴史や美術が「よくワカラナイ」という人にとっても魅力的な「モノ」を、ビジュアルとして多数収録しました。「縄文」と「弥生」という切り口は、それらの全体像を直感的に理解し、より身近なものとして感じるための導きになるはずです。そのことを、次章で詳しく説明することとしましょう。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「弥生時代以降、日本はユーラシア大陸から流入する文物を受け入れ、それを熟成させながら文化を形成してきました。しかし縄文の造形は、まだ大陸との交流がほとんどなく、外界と隔絶したなかで生み出されたものです。つまり、縄文の造形こそ、紛うことなき「ジャパン・オリジナル」だということです。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「長らく考古学的な研究の対象に留まっていた縄文土器を美術史に位置づける試みが始まったのは、戦後も一九五〇年代以降のことです。その端緒を開いたのが、先に述べた前衛芸術家・岡本太郎の「縄文土器論」でした。 今はなき美術雑誌『みづゑ』一九五二年二月号の巻頭を飾った太郎の論稿は、それまで誰も目に留めなかった縄文の美と凄みを絶賛し、一大センセーションを巻き起こしました。その筆致は、まさに檄文と言っていいでしょう。 縄文土器の荒々しい、不協和な形態、紋様に心構えなしにふれると、誰でもがドキッとする。なかんずく爛熟した中期の土器の凄まじさは言語を絶するのである。 激しく追いかぶさり重り合って、隆起し、下降し、旋廻する隆線紋。これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感。しかも純粋に透った神経の鋭さ。常々芸術の本質として超自然的激越を主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みである。 縄文土器の最も大きな特徴である隆線紋は、激しく、鈍く、縦横に奔放に躍動し展開する。その線をたどって行くと、もつれては解け、渾沌に沈み、忽然と現れ、あらゆるアクシデントをくぐり抜けて、無限に回帰し逃れて行く。(中略)更に、異様な衝撃を感じさせるのはその形態全体の到底信じることも出来ないようなアシンメトリーである。それは破調であり、ダイナミスムである。その表情は常に限界を突き破る。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「この衝撃的な縄文讃歌は、いかにして生まれたのか──。岡本太郎の生年は、一九一一年。父は、大正から昭和初期にかけて一世を風靡した漫画家の岡本一平、母・かの子は歌人・小説家でした。芸術一家に生まれた太郎は、一九歳の時に東京美術学校(現・東京藝術大学)を休学して渡仏し、およそ一〇年をパリで過ごしています。 パリでは前衛芸術運動の只中に身を置き、抽象主義とシュルレアリスムの狭間で苦闘しつつ、独自の作品世界を確立していきました。思想家のジョルジュ・バタイユ(一八九七 ~一九六二)、文化人類学者のマルセル・モース(一八七二 ~一九五〇)など、第一線の学者との出会いも果たしましたが、一九四〇年、ドイツ軍がパリに侵攻する直前に帰国。その後、徴兵されて、足かけ五年に渡り中国戦線で苛酷な軍隊生活を送ることになります。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「「我国の土壌の中にも掘り下げるべき文化の層が深みにひそんでいる」──。そう直観した太郎は凄まじい勢いで全国の大学・研究所が所蔵する縄文土器を見て回り、瞬く間に「縄文土器論」を書き上げたのです。──そびえ立つような隆起がある。鈍く、肉太に走る隆線紋をたどりながら視線を移して行くと、それがぎりぎりっと舞上り渦巻く。突然降下し、右左にぬくぬく二度三度くねり、更に垂直に落下する。途端に、まるで思いもかけぬ角度で上向き、異様な弧を描きながら這い昇る。不均衡に高々と面をえぐり切り込んで、また平然ともとのコースに戻る。(中略)しかもそれだけではない。更にこの紋様をつなぐ横線をたどって行くと、突然、鍾乳石がねじくり曲って垂れ下って来たような突拍子もない把手状の装飾にぶつかる。土器全体の大きさ、重さに対して、把手にしては不釣合に小さい。だが、ただの装飾にしてはまた全く不調和な大きさで飛出している。しかも既にその隙間からは、重り合って奇怪なシルエットがのぞき込んでいるではないか。上縁にはにょきにょきした凸起が、怪獣の角のように、不気味に交錯する──。 どうです、この迫真の描写! さらに太郎は、縄文土器の「反美学的な、無意味な、しかも観る者の意識を根底からすくい上げて顚動させるとてつもない美学が、世界の美術史を通じて嘗て見られたであろうか」と、読者に投げかけています。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「 岡本太郎が縄文の美を発見してから、国立博物館が縄文の真価を認めるまでに半世紀以上かかりましたが、二〇一八年の夏、その果実とも言うべき「縄文──1万年の美の鼓動」展が東京国立博物館で開催されました。 史上最大規模にして、縄文の国宝六件すべてが集結した初めての展覧会です。展覧会のクライマックスとなる最後の一室には、岡本太郎が「縄文土器論」を著すきっかけとなった土器が、太郎が自ら撮影した写真とともに展示されていました。太郎の檄文に挑発されて縄文土器を見つめてきた私は、この構成に喝采しました。日本美術の根源を見つめる上で、最高の展覧会だったと思います。 縄文の価値が認められ始めたことと、若冲に始まる日本美術ブームの時期が重なっているのは決して偶然ではありません。たとえば、縄文の造形において重要な表現に「穴」があります。目や口、鼻、耳など、人間の体に開いている、たくさんの「穴」。それは外と内との結界であり、外なるものを内に取り入れる扉でもある。 若冲の絵にもそんな「穴」の表現が随所に見られます。「動植綵絵」(伊藤若冲「動植綵絵」)は、その好例でしょう。病葉の穴をはじめ、雪が積もったところに穴が穿たれたり、紅葉の枝がループを描いて穴になっていたり。あるいは、北斎の版画にも、岡本太郎の油絵にも──。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「すると二〇一八年、ちょうど連載が完結した時に国宝指定が決定(国宝としての正式名称は、「紙本着色日月四季山水図六曲屛風」)。作者不詳の作品は国宝になりにくいというジンクスを破っての快挙でした。 ちなみに、断トツで国宝指定作品が多い絵師は雪舟等楊で六点。次いで多いのが狩野永徳、俵屋宗達、尾形光琳の三人で、それぞれ三点が国宝に指定されています。 このうち宗達は、桃山時代から江戸初期にかけて活躍した絵師で、伝記不明ですが、京都の上層町衆の出と推測されています。やまと絵に基づく斬新な作風を生み出し、「たらし込み」という技法を活かした水墨画も秀逸です。その作風に傾倒し、宗達に私淑したのが、さらに一世紀のちの光琳で、そこに、いわゆる「琳派」が形成されたことから、宗達は琳派の祖とも言われています。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「この「一つだけ違うもの」は、若冲の自画像ではないかと思います。彼は、京の錦市場で青物を商う大店の長男として生まれ、二三歳で家督を継ぎますが、酒も飲まず、女も好まず、唄や三味線などの芸事にも無関心でした。旦那衆との付き合いが苦手であっただろうことは想像に難くありません。生涯独身を貫き、親しく交わったのは禅僧ほか、ちょっと異色の経歴を持つ人たちばかりでした。おそらく若冲は、俗世の日常や付き合いに違和感を抱えていたのでしょう。そんな彼が唯一のめりこんだのが絵でした。 四〇歳になると家督を弟に譲り、自身は画業に専念。隠居して真っ先に取り組んだのが「動植綵絵」でした。人生五〇年と考えられていた当時、一〇年がかりで完成させたということは、残りの人生のすべてをこの連作に投じる覚悟だったのでしょう(実際には八五歳と長命で、最晩年まで独創的な作品を数々生み出してくれたのですが)。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「禅宗絵画の歴史は、中国から水墨画が伝わった南北朝時代に遡り、室町時代には雪舟をはじめとする名手が腕をふるっています。しかし、江戸初期に登場した白隠の画は、それまでの禅宗絵画とはまったく次元の異なるものです。それどころか、日本美術史の、どの系統にも属さない特異な存在と言ってもいい。 まるで日本の絵画史に殴り込みをかけたような、夥しい数の白隠禅画は、弥生という地層の下にある縄文プレートをギリギリと動かし、のちの絵師たちが「本来自分に備わっている」縄文的なるものに覚醒する、いいきっかけとなったのではないでしょうか。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「 縄文が「盛る」美なら、弥生は「削る」美と言えます。そして安土桃山という、すべてを絢爛豪華に盛るのが良しとされた時代に、とことんまで削るという美意識を打ち出したのが、千利休(一五二二 ~九一)でした。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「その思想を具現化した待庵も、黒楽茶碗も、すべては利休が仕組んだ究極のコンセプチュアル・アートと言えます。それはパフォーマンス・アートであり、インスタレーションでもあり、環境芸術でもありました。フランス出身の美術家マルセル・デュシャン(一八八七 ~一九六八)が展覧会場に便器を置き、「泉」と題して「これがアートだ」と言ったのと同じです。その三〇〇年も前に「待庵」をつくった利休は、今ごろ草葉の陰で「お前もなかなかやるじゃないか」とデュシャンに言っているような気がします。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「禅の世界はよくワカラナイという人も、この「 ○ △ □」はどこかで見たことがあるのではないでしょうか。描いたのは江戸時代後期の禅僧、仙厓義梵(一七五〇~一八三七)です。 縄文的な画の一つとして、臨済宗中興の祖・白隠慧鶴の「達磨図」(白隠慧鶴「達磨図」)を取り上げましたが、仙厓はその二世代のちの人です。四〇歳の頃から臨済宗の祖・栄西が博多に開いた聖福寺の住職を務め、二〇年以上にわたって寺の再興に尽力しました。 白隠と同じく、絵は自己流です。求めに応じて誰にでも描き与えたため、本業ではない揮毫の依頼が絶えず、「うらめしや わが隠れ家は 雪隠か 来る人ごとに 紙おいてゆく」という狂歌を詠んだほど(ちなみに仙厓さんは狂歌の名手でもありました)。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「第一章、および第二章で詳述した通り、縄文と弥生の「ハイブリッド」であることが日本美術の肝です。日本は、長い歴史のなかでつねに外来の刺激にさらされてきました。それを消化し、換骨奪胎して、まったく新たな美や価値を生み出してきたのです。 その最たるものの一つが、文字です。漢字の形をしゃなりしゃなりと変容させた仮名は、平安時代を通じて熟成され、一一世紀の半ばから一二世紀にかけて完成された日本独自の美と言っていいでしょう。仮名というビジュアルの美しさを極めておきながら、日本は漢字も捨てませんでした。双方の混成的な言語として見事に体系化し、今なおそれを維持し続けているのは、世界を見渡しても稀有な事例と言えます。日本文化の根幹をなす文字そのものからして、ハイブリッドな成り立ちをしているわけです。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「大阪の万博会場に「太陽の塔」をつくったのも、出土する三〇年前です。岡本太郎は、一九五二年の「縄文土器論」(第二章参照)に続き、『今日の芸術──時代を創造するものは誰か』(光文社、一九五四)、『日本の伝統』、三島由紀夫が激賞した『忘れられた日本──沖縄文化論』(中央公論社、一九六一)など、革新的な論稿を次々と発表しました。日本文化に決定的な影響を与える論者となった彼に、国は万博テーマ展示のプロデューサー就任を要請したのです。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「会場に屹立する異形の塔を見て、当時一二歳だった私は「まるで怪獣みたいだ」と思いました。しかし、還暦を迎えた今は確信を持って言えます。これは、大地から湧き出た巨大な縄文土偶だ、と。「仮面の女神」は見ていなくても、この塔を構想した太郎の脳裏に縄文土偶のイメージがあったことは間違いありません。縄文のダイナミックな造形美との出合いは、太郎の作品に大きな変化をもたらしました。六〇年代の絵画作品には、うねるような力強い曲線が多用されていますが、これも縄文の造形からインスピレーションを得たものでしょう。やがて彼の関心は、絵画から彫刻・建築へと移り、アニミズム的な立体作品「精霊」や、ズバリ「縄文人」と題したブロンズ作品も生み出しています。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「若冲の「動植綵絵」と、田中一村が描いた奄美の連作は、二〇〇年の時を超えた「つながり」が見えて興味深いケースで、日本美術の深層に滔々と流れる縄文の伏流水を、彼らが共有していたことを示しているように思います。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「当時、蕭白の「美人図」を所蔵していたのは京都の老舗、鳩居堂・熊谷家でした。松園の家はそのすぐ近くにあり、彼女は鳩居堂でこの絵を見ているのです。芦雪が描いた山姥もそうですが、松園の作品にも異様に足指の長い女性を描いたものがあり、これも足フェチ・蕭白の影響ではないかと思われます。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「この「浦島」の後継とも言えるのが、荒れ狂う海を舞台にした群像劇「海と戦さ」です。八歳の安徳天皇が入水する、平家物語のワンシーンを描いたもので、筆者は終戦直前に学徒出陣した牧野邦夫(一九二五 ~八六)です。 終戦後、復学して東京美術学校油画科を卒業しますが、その後の彼は、画壇と交わることも、時代の要請や流行に一瞥をくれることもなく、自分が描きたいもの、納得のいく作品をとことん追求していきます。東京美術学校時代の恩師・伊原宇三郎の教えを守って、生涯、毎日一二時間以上描き続けたそうです。 求道者的な画家・牧野は、生前、美術団体には所属せず、美術館に展示される機会もなかったため、一般にはほとんど知られていません。私が彼の絵を初めて見たのも、没後二〇年を記念して画廊で開かれた二〇〇六年の小さな回顧展でのことでした。展覧会の案内状に掲載された作品画像を見て、こんな凄い画家がいたのかと衝撃を受けたことを覚えています。 レンブラント(一六〇六 ~六九)に傾倒し、ヨーロッパの古典的油彩技法を高度に体得した牧野は、北方ルネサンス的な細密で写実的な作品を多く描いています。レンブラントの画風を強く意識しつつも、「海と戦さ」をはじめとする彼の大作は、どれも破天荒で、西洋絵画への追随というレベルを遥かに超えています。 描かれたモチーフが新たなモチーフを呼び起こし、画家の想像力が四方八方に飛躍してカンヴァスを濃密に埋め尽くしている──。ディテールは超絶リアルなのに、完成した作品に広がるのは、縄文的エネルギーと装飾意欲が炸裂する超現実世界。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「まだまだ一般には知られていない作家のなかにも、凄い作品をつくっている人がいます。なかでも私が特に注目しているのが、彫刻家の西尾康之です。 彼の立体作品には異様な迫力があります。縄文の造形に通じる複雑かつ過剰な装飾に加え、そのつくり方も独特です。道具を使わず、自分の手指だけでつくっているのです。通常は、最初に粘土で立体像をつくり、それを石膏で塗り固めます。石膏が固まったら、なかの粘土を取り除き、石膏の「型」をつくる。そこにブロンズなどを流し込んで、ようやく立体作品の完成と相成ります。 ところが彼は、作品の原型となる粘土の立体像をつくりません。最初から粘土を手や指でグイグイ押しながら、型をつくっていきます。こうしたつくり方を、陰刻と言います。つまり、完成形のイメージは、彼の頭のなかにしかないということです。そのイメージに沿って、彼自身が像のなかに入り込み、自らの手で空間を押し広げながら巨大な像をつくり上げているのです。 北海道で出土した国宝の縄文土偶も中空構造になっています。その中空に縄文人の指先からほとばしる思いが宿っているように、西尾作品からも、縄文的な凄まじい熱量が私たちにぐいぐい迫ってくる。作品を見るたびに思います。彼は、弥生の血が一滴も入っていない、生粋の縄文人だろう、と。一万年の時を超えてシンクロする現代の縄文的造形に、もっと注目が集まっていいと思っています。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「鎖国を解いた明治以降、多くの画家が本場で油彩画を学び、西洋の画家に伍して活躍せんと意気込んで海を渡りました。しかし、世界的名声を手にしえた日本人画家は、明治から昭和を通じて藤田嗣治ただ一人と言っても過言ではないでしょう。 そんな状況が大きく変化したのは、ここ二〇年くらいのことです。村上隆、草間彌生、杉本博司など、幾人かの現代作家が国際的な評価と注目を集め、目覚ましい活躍をしています。そして今も新たな作家が次々と誕生しています。 彼らに共通しているのは、西洋至上主義的な価値観や、旧態依然とした閉じた画壇に満足せず、独自の物差しで日本美術、日本美術史と向き合いながら、作品制作を行っていることです。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「縄文の土器・土偶から、今をときめく現代アーティストの作品まで、日本美術の一端を駆け足で紹介してきました。 縄文と弥生のハイブリッドであること、外来の刺激を換骨奪胎して独自の美に昇華してきたこと、この二点を押さえた上で、実物を「観る」という経験を積み重ねていけば、日本美術鑑賞のよすがとなる座標軸ができてくるはずです。「ワカラナイ」ことにコンプレックスを感じる必要はありません。「わからなきゃいけない」という思い込みは捨てましょう。最初は、予備知識なしで OK。むしろ知らないことは財産です。 岡本太郎は、何の予備知識もなく博物館で縄文土器に遭遇し、その衝撃的な出合いから、日本美術史を書き換えることとなった「縄文土器論」が生まれました。また、イラストレーターの南伸坊さんが著したエッセイ『モンガイカンの美術館』(朝日文庫、一九九七)は、アカデミズムに毒されていない目で「ゲージュツ」の核心に斬り込んだ、痛快にして異色の美術書です。そして、その南さんに装丁を手掛けてもらった、赤瀬川原平さんと私の対談集『日本美術応援団』。本書の「はじめに」でも触れましたが、まえがきに赤瀬川さんは次のような一文を寄せています。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「自分の目で観る。とにかくたくさん観る。「知識がないと、観てもワカラナイ」という人もいますが、それは違います。知識で頭が一杯になっている人は、絵を観ていません。知識が「観る」ことを邪魔してしまうのです。 何かを知ってしまうと、知らない状態には二度と戻れません。その意味で、知らないことは財産なのです。勉強するな、とは言いません。でも、せめて美術展では、絵を観る前に、その傍らに添えられた小さな解説ボードを読むのは止めていただきたい。筆者の名前を見て、「ほほう、これが雪舟の絵か」と思った瞬間、フィルターがかかって、目の前の作品から何も受け取れなくなってしまうからです。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「自分の目で観る。とにかくたくさん観る。「知識がないと、観てもワカラナイ」という人もいますが、それは違います。知識で頭が一杯になっている人は、絵を観ていません。知識が「観る」ことを邪魔してしまうのです。 何かを知ってしまうと、知らない状態には二度と戻れません。その意味で、知らないことは財産なのです。勉強するな、とは言いません。でも、せめて美術展では、絵を観る前に、その傍らに添えられた小さな解説ボードを読むのは止めていただきたい。筆者の名前を見て、「ほほう、これが雪舟の絵か」と思った瞬間、フィルターがかかって、目の前の作品から何も受け取れなくなってしまうからです。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著
「私が大学で日本美術史の勉強をはじめてから、もう四〇年ほども経ちました。その四〇年を振り返れば、折り返し地点の二〇年前に、「はじめに」で触れた赤瀬川原平さんとの対談集『日本美術応援団』を刊行したわけです。 その頃の私は、美術史のアカデミックな勉強に窮屈さを感じていて、いわゆる学会的な論文を書くだけではなく、広く一般の人に日本美術の素晴らしさを伝える仕事をしたい、と思うようになっていました。そんな時に赤瀬川さんと出会ったことによって、以後の私の仕事の方向性が決定づけられたように思います。 以後、赤瀬川さんとともに日本全国を旅して、様々な日本美術を観て、六冊もの対談集を刊行することができました。しかし、その赤瀬川さんも、二〇一四年、七七歳で逝去されました。以後、「日本美術応援団」は片翼となってしまったわけですが、その後、井浦新さんなどの新たな団員に加入してもらって、応援団活動を続けています。」
—『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす (NHK出版新書)』山下 裕二著