船木亨の作品一覧
「船木亨」の「現代思想講義 ──人間の終焉と近未来社会のゆくえ」「現代思想史入門」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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ビジネス・実用
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コースで言うところの前菜
入門書としてはあまり評価できない、というのが第一印象であろう。
これは著者のエッセイである。いつまで経ってもメルロ=ポンティについての解説や解釈などは登場せず、著者の実体験に基づいた様々な「出来事」を淡々と記述し、その支えのためにメルロ=ポンティがたびたび顔を出す。
だから入門書としてはあまりお勧めできない、と言うのが正直な意見である。
だが、メルロ=ポンティの思想を「コース」と例えるなら、この書物は非常に上品な「前菜」だと言えるであろう。
食欲を刺激させられ、まるでこれからくるスープやメインを取りたくなるかのような、そんな書物。
そうしてはたと気付かされるのだ。
そうだ「学問」とは、ただ受動的に知を受け取ることではない。
自らの興味や好奇心を刺激され、そこから自らの意志で向かおうとする、それが「学問」に対する、あるべき姿勢ではないのだろうか、と。
「人生とは何か」と言う根源的かつ原始的な問いに、我々は船木氏に誘われる。もっと学ばなければ、いや、もっと学びたい、と言う意欲に駆り立てられる。
「知覚の現象学」や「意味と無意味」をただ機械的に消化し、「知識を蓄えた」などと傲慢になるだけでは「意味」がないのだ。
この意欲、コースを平らげてもなお食べ続けようとするあくなき意志、本書は、そんな思いを十二分に焚き付けてくれるのだ。
だから入門書としてはお勧めできないかもしれないが、自らの背中を押し、メルロ=ポンティ、そしてそこから派生する数多の「学問」への冒険心を駆り立てる、素晴らしい一冊である。
Posted by ブクログ
メルロ=ポンティの解説ではなく、根源的な「問い」に対して、メルロ=ポンティとともに考察していく、という体裁。哲学とは根源に向かい、そこから生きる力を得ていくものであることを実感した。書名と内容の乖離はあるが、内容的には非常に良書。
以下、気になった記述
・人生に意味はない。なぜなら、意味というのは人生の中にあるものであって、人生そのものについて語れるような概念ではないからである。
・「われわれは意味の刑に処せられている」
・正義の味方がパロディにされた原因に、TVという傍観者的なメディアの存在が考えられる。
・TVは、それを見ている多数者を思い出させるような独特のコミュニケーションをしてくる。
・TVこそ、だれしも傍観者であるような、最も強力な現代の正義である。
・「歴史の与える状況のまえでは、われわれは自由な個人ではなくて、フランス人であったり、労働者であったり、相互にそれぞれの資格でしか働きかけあわない、もっと一般的で匿名的なひとである」
・「決断とは引き受けられた状況である」
・そうした議論(理屈っぽい問い)は、事情が切羽詰まっていない穏便なときに、理論的に考察する結果として生じるのであるが、実践における真実は、不可避的にそうした議論を虚しくさせる。
・わたしがわたしにとっての他者になるのに、時間が必要だ。
・疑惑という状態は、行為自身が疑わしいものであるかぎりにおいて、行為そのものから、やむをえざる勢いで沸いてくる。
・本来、他者とは、対象に帰属させる以前に、差異について意識されたもののことであり、むしろわたしのなかにあってわたしでなく、あるいはわたしのそとにあってわたしであるような、わたしを否定したりするところの存在である。
・「哲学はすべての事実、すべての経験に接しながら、ひとつの意味がおのずから獲得される豊穣な瞬間を捉えようとする。真実とは、存在するのはただ一つの歴史、一つの世界だということを前提しながら、これを事実としても成立させるような生成である。その真実の生成に対して、哲学はこれをわれわれのものとして取り戻し、あらゆる限界を超えて推し進めるのである。」
・意味は存在するものではなく、生成するもの。
・相手の運命に巻き込まれるのに躊躇するような半身の姿勢では、相手は自分の聞きたい助言しか、聞こうとはしない。
・世界の諸対象は、われわれがしぐさを相互に了解しているとき、そのしぐさを巡身体動作のネガティヴな形象として現れる。
・「われわれが発見したものは、意味という語の新しい意味である」
・構造主義
・語る主体とは、他なるものを他なるもののままに抱懐した、そうした奇妙な主体である。
・メルロ=ポンティのいう「ひと」は、利己的で無責任な匿名ではなく、出来事に出会うに当たって、これこれの社会的地位や思想や性や見せかけを超えて、ただの人間として立ち会っている、そうした普遍性を持った存在のことである。そこでは、みな剥き出しの身体をもっていて、おなじひとつの世界に属しており、ひとりひとりが自由に出来事に参画する、そのかぎりで出来事を捉え、そして語るひとである。--とりわけ、死に迫られるような極限的な状況では、そこに「ひと」が現れ、、まさにそのひとの存在が賭けられる。(P220)
・メルロ=ポンティのいう「わたし」とは、神ならもっているはずの絶対的視点を、決して獲得することはない。
・「時間を主体として、主体を時間として理解しなければならない」(P223)