あらすじ
三重県西部の伊賀市・名張市エリアはかつて伊賀国と呼ばれた。戦国時代、この小国は統治者がおらず、在地領主たちが割拠していた。一五七九年、織田信長の次男信雄は独断でこの地に侵攻。挙国体制で迎え撃った伊賀衆は地の利を生かして巧みに抗戦し、信雄は惨敗を喫した。信長から厳しく叱責された信雄は翌々年、大軍勢を率いて再び襲いかかる――。文献を博捜した著者が、強大な外敵と伊賀衆が繰り広げた攻防を描く。
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Posted by ブクログ
伊賀、そして隣接する甲賀は忍びの者の出身地として有名だ。しかし、著者が本文中でたびたび「信頼できる史料では確認できない」と慎重に書くほど、その実態は闇の中だ。北畠(織田)信雄が敗退した第一次天正伊賀の乱を契機に、信長が第二次となる伊賀征伐を行ったことで、奇しくも住民自治による地方の運営が衰退した。しかも、本能寺の変によって信長亡き後も、伊賀者による国の再興はならなかった。その後も、天下人による中央集権が強化されたことが興味深い。
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断片的な史料を博捜し、比較的信頼できる記述を元に乱の実像へと迫ろうとする内容。前史におよそ半分を割いている事もあり、戦国時代の伊賀国の通史としての側面もある。北畠当主としての信雄の動向も詳しく、興味深い内容だった。
Posted by ブクログ
天正伊賀の乱でより信頼のおける資料を精査している。伊賀守護の力が弱かったため、惣一揆となり、有力者による合議制によって、第一次天正伊賀の乱は信雄軍を撃退できたことがわかった。
その後、第二次天正伊賀の乱では、信長の総攻撃を受けた際には、惣一揆だからこそ、柱となる存在、人間がいなかったため、一枚岩を維持できなくなり、切り崩されたことがわかった。
また伊賀者の立場の低さや、神君伊賀越えの検討など、伊賀を巡る事情を知ることができた。