あらすじ
12万字書き下ろし。未発表スケッチ多数収録。
出会いと別れの“大泉時代”を、現在の心境もこめて綴った70年代回想録。
「ちょっと暗めの部分もあるお話 ―― 日記というか記録です。
人生にはいろんな出会いがあります。
これは私の出会った方との交友が失われた人間関係失敗談です」
――私は一切を忘れて考えないようにしてきました。考えると苦しいし、眠れず食べられず目が見えず、体調不良になるからです。忘れれば呼吸ができました。体を動かし仕事もできました。前に進めました。
これはプライベートなことなので、いろいろ聞かれたくなくて、私は田舎に引っ越した本当の理由については、編集者に対しても、友人に対しても、誰に対しても、ずっと沈黙をしてきました。ただ忘れてコツコツと仕事を続けました。そして年月が過ぎました。静かに過ぎるはずでした。
しかし今回は、その当時の大泉のこと、ずっと沈黙していた理由や、お別れした経緯などを初めてお話しようと思います。
(「前書き」より)
感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
これは、ある意味どんな漫画より萩尾望都がわかる本である。
そして、「アマデウス」をモーツァルト側から書いた本だなと思った。
竹宮さんも優れた才能の持ち主である。
しかし、萩尾望都は天才であって、その能力を誰よりもわかっていたのも竹宮さんではなかったか。
そして、増山さんという漫画のミューズのような人がいて、二人に影響を与え、そのため二人が似た題材で描くことになった。もちろんパクったとかパクられたとかいうことはない。それは竹宮さんもわかっているだろう。作家として持っているものが全く違うので同じヨーロッパの寄宿舎の少年たちを描いても、全く違う作品なのは読めば明らかなのだが、(同じ情報を得た芸術家がそれをどう自分のものにして表現するか、比較するのも興味深いと思う)パッと見似ているのは否定できない。
そして、努力の秀才である竹宮さんが、これ以上一緒にいたら、似た題材で萩尾さんが自分より明らかに優れた作品を描く可能性があることに、言いしれぬ恐怖を感じたことは想像に難くない。竹宮さんの本を読んでいないので想像だけど、それは「嫉妬」以上のものであったと思う。
凡人としてはどちらかといえば竹宮さんの心情の方が理解できるのである。
しかし、こちらはモーツァルトがいかに苦しんだかが語られている。そこが、衝撃だった。
天才でも努力しているし、作品への思い入れだってある。プライドもある。ただこのモーツァルトは、悪気は欠片もなく、とてつもなく繊細で、正直で、優しい人なのである。(そこが作品の魅力にもなっているのだが。)自分の才能を信じて人がなんと言おうと意に介せず生きていける人なら、これ程苦しまなかっただろう。
これはどちらが悪いというわけでなく、同じ分野に才能のある、ほぼ同じ年齢の人たちが、同時期に同じ場所にいたことで起こってしまった悲劇である。
もし、時代や年齢や場所がずれていたら、起こらなかっただろう。
萩尾さんは、竹宮さんと別れてから彼女の作品は全く読まず、噂さえ耳に入れることを恐れ、会う可能性を徹底的に排除し(それは貴重な体験や出会いを諦めることでもあった)生きてきた。萩尾さんほどの才能のある方がそんな苦しみを持ち続けていたことにショックを受ける。
しかし、竹宮さんは萩尾さんの作品を一つ残らず読んだんじゃないか。そんな気がする。
そして、老境にさしかかった今、自分と萩尾さんの持っているものの違いについてより冷静に判断できるようになり、萩尾さんの才能も認め、もう一度会えたらと願っているのではないかと思う。
けれども、萩尾さんの傷ついた心は癒えることはなく、おそらくこのまま会うことはないだろう。
それは、もう、仕方ない。こんなことがあったと残っただけでも、ファンとしては喜ばないと。
それにしても、深い教養と優れたインスピレーションを持ちながら、漫画家になることなく、原作者として名前を残すこともなく消えていった増山さんという人、皆を冷静に見ていた城さん、辛辣な佐藤史生、山岸凉子、木原敏江ら漫画史に名を残す作家、役者が揃いすぎていて、ドラマにしたくなるのはよくわかる。
本書には未公開の萩尾さんのスケッチも多数あり、とても貴重な本。
昔少女漫画を熱心に読んだ人なら、見ただけで作品を思い出す懐かしい名前がたくさんでてくる。
山岸凉子と大島弓子についても、是非その生い立ちから人柄、エピソード、作品などについて、近しい方が記録を残しておいて欲しいと思う。
萩尾さんの作品が素晴らしいのは、この感性があるからで、「何十年も経ってるのにこんなこと書くな」なんて言う人は作品をちゃんと読んだことのない人なので、気にしないで欲しい。これが読めて本当によかった、書いてくださってありがとうございます、という気持ち。
交流がない事を知ってはいたが
小学生の頃からお二方の作品を読み、中高生時代は肩までどっぷりでした。
2台巨頭といいますか、圧倒的な実力を持ったお二人でした。私は萩尾望都先生の方が好きでした。萩尾望都先生の昔の作品の端っこに落書きがあって、竹宮先生あてのメッセージ?だったようです。でも、後の作品や雑誌の近況などにもお二人の共通点はありません。
年齢も同じなのに。
でもこの実力派二人は、近くにいられないだろう、と思ったのです。私も趣味ながら絵を描いて、話を作っていましたから。
繊細な心を描く萩尾先生と、煌くような躍動する魂を描く竹宮先生では、根っこが異なるのです。離れるしかないでしょう。
でも、読み進めてるうちに、本当に萩尾望都先生は、《作品通り》の痛みやすい心の持ち主なんですね。それに蓋をして、漫画に没頭されてこられたのですね。
どうか、萩尾望都先生が静かな環境でこれからも作品を描き続けられますように。
Posted by ブクログ
" でも竹宮先生が一度だけ、萩尾先生がいない時に「モーサマが怖い」って言ってた覚えがあります。萩尾先生は、例えば棚とかカップとか、見たものをぱっと覚えてすぐに絵にできるんですよ。特技というか才能、ですね。見たらすぐにそれを漫画に落とし込んで描ける。" p.343
" 例えば竹宮先生は「本当は構造的にこの階段はこうは見えないんだけど、漫画としてはったりがほしいから、このように描いてほしい」とか、そんな風です。かたや萩尾先生の場合、どんぶらこっこと川を流れる桃を描くとなり、「桃の点を打って」と、まだ来たばかりのほとんど素人のようなアシスタントに指示を出した時があったんですね。アシスタントが桃に点々を打って出したら、先生が「いや、石じゃない、桃の点を打って」と。アシスタントが「え? 桃の点はどうやったら打てるんですか?」って聞いたら「桃、桃と思いながら打つ」って(笑)。ダメでしょう、そんな教え方じゃ。" p.345
竹宮惠子著『少年の名はジルベール』に対する、萩尾望都のアンサー。萩尾望都は同書を読んでいないというけれど、せざるを得なかったアンサー。
体調を崩すほどに思い悩み、「冷凍庫に閉じ込め、鍵をなくした」と自ら表現する過去をほじくり返そうとするやつばらに、よかろう、そこまでいうのなら見せてやろうと、たっぷり呪詛を込めて解き放たれたパンドラの箱。
タイトルの時点でネガティブな内容であろうと察していたが、これほどとは。菅原道真の呪い節ってこんなんだったんかね。
竹宮惠子のことは『地球へ…』でしか知らず、萩尾望都のことは『ポーの一族』を含む幾つかの作品しか知らない。前者は合わないと感じ、後者は一時期にせよのめりこんだ。両者とも著者の人となりは作品を通じてしか知らない。
縁遠い部外者が観測できたのは、いじめた側は、懐かしい過去を美化して記憶し、叶うならば旧交を温めたいと願っていること。いじめられた側は、手ひどい仕打ちを受けた忘れたい過去でしかないということ。秋の木漏れ日と絶対零度くらいの温度差がある。双方とも、意図してかせずしてか、相手を傷つけたという自覚はあるようだ。
この視点は、作品に触れた頻度ゆえの親近感という点で萩尾望都よりであることには自覚がある。
竹宮惠子とそのブレインである増山法恵はBLの祖と言われているようだ。BLではなく少年愛と呼ばれていた時代、二人はそれにものすごく熱中したという。一方、同居していた萩尾望都は当時はまったくピンと来なかったという。え? 萩尾望都だって美少年のペアを描いてるじゃん?という反論が脊髄反射的に発生したが、言われてみれば腐描写はなかったように思う。『残酷な神が支配する』は読んでいないのである。
その、ピンと来なかった萩尾望都のBL分析が、その界隈が往々にして見せる狭量さの理由として腑に落ちた。それは愛だという。愛は時として独占欲を伴う。作品のファンならば「同担拒否」などという片腹痛いことは言うまい。きらきらひかる宝物――わたしだけのカプ――を独占したい欲と考えれば、とてもよくわかる。心に秘めて思うのは自由だ。しかし、一般公開されている作品に対して公然と抱ける感覚では、到底ありえない。
竹宮惠子も萩尾望都も、ともに才能も研鑽も人並ではなかったであろうという前提の上で。竹宮惠子は努力型の才人であり、萩尾望都は天然の才人であったのだと感じられた。写真記憶とか、努力したって身につかんよね。
いずれの著書においても、著者周辺にさんざめいていた幾多の才能のまばゆい輝きが感じられる。巻末に一文を寄せた萩尾望都のマネージャー城章子は、現在漫画家としては活動しておられないというが、文章からだけでもその観察眼には表現者としての冴えが感じられる。
Posted by ブクログ
萩尾望都さんの文章、エピソードを聞くと現代で言うところのASDのグレーゾーン味を感じる。
などと書いてしまうとあるいは「無礼な(それはそうです。不躾で申し訳ない)」「これこれこうは当てはまらないので違います」などと思われてしまうかもしれない。発達障害についてここで詳しく解説はしませんが、私は発達障害をマイナスなものとは捉えていないし、何かにカテゴライズしてジャッジしようという話ではないのです。
ただ萩尾望都さんのお話する様子を動画などで拝見すると分かる異常な頭の回転の早さ、記憶力、「パッと見た物を記憶してすぐ描けてしまう」という才能。一方で、発言を額面通りに捉えてしまう(忘れてください、と言われたことを本当に忘れるべきだと思い込む)、逆に言語化されていない空気・感情・反応が読み取りづらい(一部自覚がある、各エピソードで物理的な事象意外の言及がない)、0か100かで判断してしまう極端な思考(一コマの批判を全てが否定されたと捉えてしまう)、など、「あ、この方はASD傾向の人だったのかしら?」と思ったら腑に落ちました。
漫画家や芸術家のようにずば抜けた才能を求められる職業に、極めて高い才能を待つ発達障害の人が見出されるのは珍しいことではないと思います。最近は、発達障害は「ギフテッド」とも呼ばれますね。
(萩尾さんの親の方がもっと強いASD傾向のようなので、後天的にそういう思考パターンになっている可能性もあるものの、やはりこれだけの才能。天才でしかありえないと思ってしまうのです)
という視点でこの本を読むと、この情報の少ない時代に、萩尾望都という天才に、世の中には生物学的に天才としての素養を持って生まれる人間が事実いる、ということも知らず、真っ向から接して「嫉妬した」という竹宮さんと、人一倍人間の悪意に敏感で繊細な性質を持つのに、何らかの形で悪意に当てられて心身をひどく痛めてしまった萩尾望都さんのくだりは、たいへん心が痛みました。どちらも気の毒なことです。
萩尾望都さんが、その後も、現在も、作家として素晴らしい作品を生み出し続けてくださっていること、あらためてありがたいことだと心に沁みました。
答え合わせに、竹宮さんの方のエッセイも、そのうち読んでみようと思います。