あらすじ
読売新聞連載時から大反響!生い立ち、葛藤に直面した青春時代、名作『風と木の詩』『地球へ…』創作秘話、マンガを学問として追究、学生へ指導、デジタルを駆使し描くことへの新たな挑戦…時代と共に駆け抜けた、その半生を語りおろす。未知の表現に挑み続ける漫画家、竹宮惠子の決定版自伝。
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Posted by ブクログ
竹宮惠子・萩尾望都のエッセイが立て続けに出版され、「おお、今年は当たり年だなあ」と何の予備知識もなく買い求めた。読んでみたら、ファンには衝撃の内容。本著を読んだ人は、萩尾望都『一度きりの大泉の話』にも手を伸ばさずにはいられないだろう。
2冊とも買ってしばらく積んでいたのだが、知人たちがSNSでこれらについて話題にしており、核心的なネタバレに触れる前に慌てて読んだ。どのような点が論争?になっているかはうっすら目にしていたので、どちらを先に読むか悩んだ。こちらの方がいささか薄かった&大泉時代に限らず広義の話かと思ったので、こちらから。
結果として正解だったのでは?と思う。
まず、大泉問題とは?
竹宮惠子と萩尾望都は、今から50年ほど前、お互いまだ駆け出しの頃に2年ほど東京練馬の大泉で共同生活をしていたことがある。今となっては有名漫画家である様々な人たちが友人として、アシスタントとして出入りし、「少女漫画版トキワ荘」と称する人も少なくない。
2016年に発売された竹宮惠子の自伝『少年の名はジルベール』で大泉時代および萩尾望都について言及(私は未読だが、好意的に書かれているらしい)。それを読んだ周辺および全く関係ない人が萩尾望都に、竹宮惠子との対談や大泉時代のテレビ化、竹宮惠子との再会などあれこれ言ってくるようになったとのこと。
そういった一切を受けられない理由として、今まで封印していた大泉の話をする、それが『一度きりの大泉の話』(2021.4発行)というわけ。
さて、本著は2021.3.25発行。読売新聞の連載をまとめたもの。
著者の幼少期から大泉時代、大学教授→学長就任、先日定年して・・・という、自伝である。一読した印象は、一表現者としてだけでなく、漫画という文化を背負う人として常に邁進してきたのだな、ということ。特に少女漫画の位置の低さ( 原稿料が少年漫画より低かったり、女性編集者へのいじめがあったり)と戦ってきたのだなと。
私は幼少の時に初めて読んだ長編漫画が『ファラオの墓』だったこともあり、竹宮惠子はとても好きな漫画家の一人。萩尾望都の絵よりも華があり、『地球へ…』の映画は行けなかったものの長年憧れていた。それなのに、連載当時はとても苦しんでいたなんて!週刊誌のアンケート結果はもとより、スランプ、萩尾望都へのコンプレックスなどは驚愕。
驚愕は『一度きりの大泉の話』によってさらに増幅。人はお互い思うところがあるのは当たり前だが、、、これだけでマンガや映画が何作かできそう。
以下、大泉サロンについての主旨。
『扉はひらく いくたびも』
-「萩尾さんとなら結婚してもいいと思う」→それほど彼女の才能に惚れ込んでいた
-そのことが後に自分を苦しめることに
-萩尾望都などに比べると読書量や映画量が圧倒的に少ない
-スランプ
-萩尾望都:コツコツタイプ。原稿も毎日そうやって描く。自分は逆
-同世代・同居だとニュースソースも経験も似通ってくる。ファンからも作品を混同されることが
↓
長屋の契約更新を機に同居解消
-同居解消後、半年ほどして自分から「距離を置きたい」と萩尾望都に告げる
以来、没交渉
『一度きりの大泉の話』
-幼少期〜デビュー
-増山法恵ほか、東京在住者との出会い
-竹宮惠子との出会い・同居
-竹宮惠子は美人で明るくて親切で才女
-自分はモタモタしていて言葉がとっさに出てこない
-竹宮惠子その他は少年愛にハマっていたが、自分はどうもピンとこなかった
-編集部には「連載はまだ早い」と言われていたので、ポーの一族がテーマの読み切りを何度か描いていた
-同居を解消した後、竹宮惠子と増山法恵が同居していたマンションに呼び出され、「なぜ男子寄宿舎ものを描いたのか?」など、いくつか質問される。
遠回しに盗作ではないか?と言われる。
頭は真っ白になるし、何も話せなかった
-その数日後、竹宮惠子が一人でやってきて「こないだ話したことは忘れてほしい」。「自分が帰ったら読んで」と手紙を置いていく
-手紙には「これからはマンションに来ないでほしい」「本棚を見ないでほしい」「スケッチブックを見ないでほしい」「節度を持って距離を置きたい」などなど。
-心因性視覚障害になる
-何年も経って考えると、自分が男子寄宿ものを描いたことは、『風と木の詩』を華々しく発表しようとしてた竹宮・増山にとっては迷惑だった(排他的独占領域の侵害)。
-しかし、自分の作品も自分から生まれでたものであるし、理解はできたが謝ることではない
-排他的独占領域に気付いてからは、かの方のどこに触れるかわからないので、警戒している。作品も読んでいない。
-2016年、竹宮惠子のエッセイが本人から送られてきたが、マネージャーから返送してもらった。
50年経って、水に流したい?と考えたのかもしれない竹宮惠子。
そうはならない萩尾望都。
本当に、人間関係とは、人間の真理とは、げに難しい。
Posted by ブクログ
萩尾さんの「一度きりの大泉の話」を読んだだけでは片手落ちかと思い、読んでみた。なぜ「少年の名はジルベール」のほうを選ばなかったからというとこちらのほうが最新刊だから。インタビューからおこした文章ではあるが、理路整然として聡明な竹宮さんらしい。自分で自分を分析する能力や社会の動きを感じ取る能力も高く、大学の先生をやってもちゃんと勤まる人だなあと改めて器用さに感動した。また漫画文化をどう継承してゆくのかについても真剣に考えていらっしゃる。まだ読んでいない竹宮作品もいろいろあるので読んでみたく思った。天才も悩みながら作家人生を歩んでいたことがわかった。その道の第一人者になるって血のにじむ努力が必要なんだね。お互いの印象や出来事をやそれぞれ違う解釈をしているところが自と他の違いだけなんだろうか。
よくビジネス書とかに自分の強みを知ろう!とかよく書いてあるが、プロの作家竹宮さんや萩尾さんもご自分の強みに気づいていないなと思う。
あくまで個人的な見解だが、絵は萩尾さんより竹宮さんのほうがうまい。パッとみただけで華のある絵が描ける。話づくりは萩尾さんのほうが上手いが、絵は「百億の昼と千億の夜」以前は2Dの世界で背景と人物の境界が曖昧模糊としている。絵画的な絵。それに比べて竹宮さんの絵は、3D。人物と背景がはっきり分離している。だから萩尾作品ってアニメ化が難しく、2次使用は芝居になることが多い。竹宮さんの作品はアニメ化できる。もともと少年漫画からの影響が強かったせいもあるかもしれないが、少女漫画独特の人物背景が混然一体となったふわふわ感はないのだ。萩尾さんの絵の良さは心象風景で背景がひずんだり宇宙空間にぶっとんだりと変幻自在。幻想的な画風。
果たして竹宮さんは「一度きりの大泉の話」を読むんだろうか..?
満足度★★★★