あらすじ
「野党は“反発”、政権側は“反論”」「決定打を欠いた」「笑われる野党にも責任」……。
政策論争に沿った報道ではなく、対戦ゲームのような政局報道に終始するのはなぜなのか?
統治のための報道ではない、市民のための報道に向けて、政治報道への違和感を検証。
「市民の問題意識と個々の記者の問題意識、組織の上層部の問題意識がかみ合っていく中で、より適切に報道は、権力監視の役割を果たしていくことができるだろう」(本文より)
「ご飯論法」「国会パブリックビューイング」の上西充子・法政大学教授が、不誠実な政府答弁とその報じ方への「違和感」を具体的事例をベースに徹底検証。
・権力者と報道機関の距離感はどうあるべきなのか?
・政府の「お決まり答弁」を生み出す、記者の質問方法の問題点。
・なぜ「桜を見る会」の問題を大手メディア記者は見抜けなかったのか?
・政権与党による「世論誘導」に、知ってかしらずか加担する大手新聞社
・新聞社はどのように変わろうとしているのか?
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Posted by ブクログ
昨年の2月に『呪いの言葉の解きかた』の書評を書いた。さまざまな呪いの言葉がある中で、政治にまつわる言葉は厄介である(今気が付いたが、やっかいには「厄」が付いている)。「政治の話はしたくない」「◯◯を政治利用しないで」「野党は反対ばかり」‥‥。
私はそれらの「空気」を変えたいとずっと思って来た。けれども、なかなか変わらない。何故か。「安倍政権」が世論操作してきたのか?「マスゴミ」が悪いのか?「国民」が未熟だからか?それとも私が「勘違い」しているのか?
今年3月に上梓した本書は、その根源を一生懸命に探っている。上西充子さんは2018年に「ご飯論法」という言葉を流行らせた。安倍政権の不誠実な国会答弁や記者対応を一言で言い表した言葉である。「朝ごはんを食べなかったのか」と問われて「ご飯は食べていない」と答えていながら、実は「パンを食べていた」等と、ことを巧みに隠す言い方を喩えたわけだ。問題を表面化せず、論点のすり替え、等々を使った最近特に目立つ与党の答弁である。(cf.加藤周一「白馬は馬にあらず」)記者は気がついていないのか?気がついてそれに乗っているのか?私はずっと不満だった。
本書は政治報道を丹念に追い求め、ひとつひとつを検証して、じゃどう書けば良かったのか?まで述べたものである。
本来政治報道は、問題の論点を読者に提示するのが仕事のはずだ。しかし、それを避けて「政局報道」に走る。「国会がこのように荒れた」「解散はあるのか」「時期首相は誰か」。その政局報道の陰で、1番問題にするべき時に論点を示さず問題法案が通っていっていく。最近の悪法は全てそれで通って行く。そして通った後に問題点を示す。
例えば、このように「切り込んだ批判」を上西充子さんは書いている。
⚫︎自民、学術会議問題で「逃げ切り」に自信「批判の電話も少ない」月内に集中審議(毎日新聞2020年11月10日)
・この記事に山崎雅弘氏が「政治記者なのに、なんでそんな風に「傍観」するんですか」と批判した。すると、該当記者が反論したという。「傍観していません。これはストレートニュースです。深掘り記事は他に書いている」と。
上西充子さんは、その主張を受け入れつつも、「ストレートニュースには新聞社の「視点」や「判断」は含まれないのか」と再批判している。そして、記者の該当記事を細かに分析して見せている。事実の切り取り方、表現次第で、読者の印象は大きく変わるのである。「政府が逃げ切りに自信があるなら、もうそのまま逃げ切るだろう」と思うのである。それは政府の印象操作に手を貸す事と同義だろう。
「逃げ切り」報道も、報じられているのは「政局」である。まるで対戦ゲームのように、いかに相手にダメージを与えるか、いかにポイントを稼ぐかに国会審議の狙いがあるかのように描かれている。そこに欠けているのは、何が論じられ、その論点はどうだったのか、だ。
このような「外側」からの報道の「ファクトチェック」はとても重要だと思う。残念ながら、こういう問題意識を持って報道を読んでいる市民は、上西充子さん含めて未だ少数だ。よって、報道はまだ変わらない。
おそらく、ツィッターを見ると、最近はいくらかやっているのは見えているけど、それでも大勢の市民の「ファクトチェック」を始めることが、報道や野党の姿勢を変えることになるのだろう。