あらすじ
リベラルアーツとは、「自由になるための手段」にほかならない。
自分たちを縛り付ける固定観念や常識から解き放たれ、自らの価値基準を持って行動するために。
いままでの正解が突破するヒントがここにある。
独立研究家・山口周が、哲学・歴史・美術・宗教など知の達人たちと、リベラルアーツの力を探る。
【主な内容】
「なぜチャーチルは周囲の反対を押し切ってナチスと対峙できたのか」
「日本企業の生産性の低い根本的原因とは」
「考える力の鍛え方」
「なぜ近代化はキリスト教社会から始まったのか」
「イノベーションに重要な「神」の視点」
「最新のリーダー育成のキーコンセプトと禅の共通点」
「なぜ、エリートの多い組織で不祥事が頻発するのか」
「予測不能な時代に対処する三つのPとは」
「かつてのローマ帝国にあって現代日本にないもの」
【構成】
第1章 リベラルアーツはなぜ必要か
第2章 歴史と感性 対談:中西輝政、
第3章 「論理的に考える力」が問われる時代に 対談:出口治明
第4章 グローバル社会を読み解くカギは宗教にある 対談:橋爪大三郎
第5章 人としてどう生きるか 対談:平井正修
第6章 組織の不条理を超えるために 対談:菊澤研宗
第7章 ポストコロナ社会における普遍的な価値とは 対談:矢野和男
第8章 パンデミック後に訪れるもの 対談:ヤマザキマリ
終 章 武器としてのリベラルアーツ
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Posted by ブクログ
1,
お気に入りポイントは、山口さんと様々な人が対談しているところ。そこからの学びや考え方が凝縮されている。
【学び】
姿勢と呼吸を整えることによって、禅的な心がけが可能になる。
坐禅で最終的に目指すのは、心とアクセスすること。
歴史の学びは、『心の糧』にする。歴史学者の以外の人にこそ役立つ学問。
・見送っていい常識と疑うべき常識を見極める選球眼を身につける。そのために必要なのがリベラルアーツ
【行動】
・姿勢と呼吸を整える。まずは、一息二息だけでいい。姿勢を整えた後に、呼吸を整える。
Posted by ブクログ
山口周さんの本は面白い。リベラルアーツを学ぶ上で対談者が最適の人選であり、語られている内容も一貫性があり読みやすく理解しやすい。この対談者それぞれの本も読んでみたい。
Posted by ブクログ
リベラルアーツを学ぶ必要性がわかった。
多様性をもつことや、誰が言ったかではなく、何を言ったのか理解する必要があることなど、先人たちが発したことを知ることが大事だ。
Posted by ブクログ
読んでよかった対談本。各対談のあとに著者の振り返り、解説があるのが良い。「あぁ良い話を聴いた」で終わらず、理解を深められる。
対談相手は出口治明氏やヤマザキマリ氏など専門分野もしてきた経験も様々だ。それぞれがコロナ禍をどう見つめ、何を考えているのか。この一冊で知ることができた喜びがある。内容が濃い。正解のない時代を生きるため、自分の選択を正解にしていくために今後も考え続けたい。
Posted by ブクログ
山口先生の対談を中心とした著書。他の著書と大きく内容が被ることはなく、一方で参考文献としてポイントでは上手くReferしながらテンポ良く対談が進む。文体は平易ながら非常に得るものが大きい。
お得な一冊。
匿名
この本を読んでさっそく古典や哲学類の書籍をいくつか購入しました。それくらい私の心を揺さぶる内容でした。現代のように変化が早く情報に溢れている時代、先人達の知恵、知識を拝借し、相対化というスキルを身に付けることで世界に振り回されない「知的な足腰」、リベラルアーツを養っていきたい。
Posted by ブクログ
山口周氏による対談集。
さすが山口周氏、対話のレベルが高い。
個人的には、中西輝政氏、出口治明氏との対談がよかった。
もっとリベラルアーツを学ぼうと思う一冊。
Posted by ブクログ
過去から現在を予想し、実際の現在とそのズレである兆しを受け入れ、それをたよりに行動し、望む未来を目指す。そのためにリベラルアーツを学びたいと思います。学習意欲をとても掻き立ててくれました。
Posted by ブクログ
リベラルアーツとは平たく言えば「教養」なのだろう。ただ一言では尽くせない深さを感じる。
リベラルアーツはどのように身につけ活かしていくべきかとの視点で読み進めた。
リベラルアーツとは
固定観念や時々に顔を見せる常識とされるものから自由になるための思考技術
事象を相対化して問い立てする技術を本質とするもの
普遍的な価値基準
リベラルアーツはなぜ必要か
ファイナンスやガバナンスなど一部の専門知識だけでなく歴史や文化など人間性を豊かに育むことなしに真のリーダーや変革はない
専門知識がなく、得意分野でなくとも全体を俯瞰して言うべきことは言う姿勢を促し変革の種となる
どのように取り入れ行動に反映するか
損得ではなく善を基準に考え行動する
専門知識に偏らず美意識や哲学など普遍的価値観を学ぶ
誰かが言ったことに忖度することないよう自分の頭で考え、責任持って発言する
現代はあまりに専門化、分業化が進みそれぞれの知識は共有されにくくその世界だけの知識や常識になりやすい。異分野、異文化どうしの二項対立となり極端な世界となる。
これらを中和するすべての土台となるものがリベラルアーツ。リベラルアーツなくして専門性は追求できないのではないだろうか。
盲目的に信じ行動することに歯止めをかけ問いかけする技術とも言える。
古典や美術に意識的に触れ、論理だけでなく直感も大切にし普遍的な価値観を身につけよう。
自分の頭で考え責任持って行動する。これほど自由なことはない。
Posted by ブクログ
美意識に限らず、人の感性に訴えるものが重要視されてきているというのは、近年の世界的な潮流です。
例えばアメリカでは、二〇〇八年のリーマンショック以降、マインドフルネスが一種のムーブメントになっています。シリコンバレーでは、トレーニングとして取り入れていない会社はないほど普及しています。マインドフルネスとは、「いまという瞬間に意識を向けるもの」で、言うなれば外部ではなく、自分の内部に目を向けていくための手法です。創造性の源にもつながっているのではないでしょうか。
世の中は、何かが過剰になり何かが稀少になると、なんとかバランスをとろうとする動きが常に生まれるものだと思います。例えば、一九七〇年代前後のヒッピームーブメントや『ホール・アース・カタログ』なども、五〇年代の行き過ぎた物質主義や享楽主義への一種の反動といえるでしょう。
いまのアメリカで、マインドフルネスがこれだけ浸透しているのも、リーマンショックに代表されるような、行き過ぎた金融資本主義に対する違和感から来ているのではないかと思います。
アメリカの例のように、行き過ぎたサイエンスやエコノミーといった価値基準に対し、反対のベクトルへとバランスをとろうとする動きは世界的な潮流にあると感じています。ハーバードやスタンフォードなど、アメリカの大学では、学部ではリベラルアーツ系の講義を中心に据えていることが多いのですが、二〇〇〇年代の終わり頃からは、さらにそれを増やす方向へと大きく舵を切っているそうです。実学は大学院で学ぶものなのです。
また、グローバル企業の多くが幹部候補生をMBA(経営学修士)ではなく美術系大学院へと送り込んでいること。アート系人材を次々と招聘していることなども、そんな最先端の潮流を物語っていると言えるでしょう。
私たち人間は、誰しも他人を理解したいと願う生き物です。この人はどういう人だろう? どんなことを考えていて、どういう行動をする人だろう? それは単に知識として知りたいわけじゃなくて、人間として理解したいと思うものです。しかし、それらは出身地や学歴、属性などの客観的なデータだけから得られるものではありません。一人ひとりの「人となり」がいちばんよくわかるのは、その人は何がものすごく好きなのか、何に特別なこだわりを持っているのか、何にいちばん時間をかけてきたのか、あるいは逆に何がものすごく嫌いなのか、何にいちばん腹を立てたのか。そうした喜怒哀楽、つまりその人の心・感情が強く動かされる部分だと思います。
一七世紀の哲学者スピノザは、人間の本質を最も指し示すものとして、「コナトゥス」という言葉を用いました。もともとは古代ギリシャ哲学に由来する概念ですが、自分が自分であろうとする力、モメンタム(推進力)といった意味です。
今日の私たちはビジネスでもプライベートでも多くの人たちと出会うわけですが、誰もが他人との関わり合いをお互いに心地よくコントロールできれば、と思っています。そこで最高の〝武器〟になるのが「他人のコナトゥスを適確に理解する」ということです。相手の人間の本質に関わる部分がわかれば、その人物像が立体的に感じ取れて、場面ごとに相手がどう感じ、何を考え、どんな反応を示すのかということが読めるようになるのです。
そう考えれば、今日の私たちが享受できるリベラルアーツとは、人間が何を愛好し、何に深く感銘を受けてきたかという「人類のコナトゥス」の膨大なリストなのだということに気がつきます。
人々が深く心を動かされ、長く広く共鳴を受け続けてきたものが、絵画、音楽、文学、哲学といったコンテンツとして残されてきたわけです。そうした積み重ねから成る歴史は、過去の人間たちが何を欲し、どう行動し、その結果に対してどう反応してきたかという記録にほかなりません。
リベラルアーツを学ぶということは、一見遠回りに見えますが、人間というものの普遍的な本性について皮膚感覚で知るとともに、人間理解を深める最も効率的なルートだと言えます。
今日のように変化のスピードが速まり未来が不確定になってくると、ルールが世の中の変化に対して後追いになってしまうという事態が頻発します。特にAI(人工知能)やバイオテクノロジーなどの最先端分野では、法律や制度などの社会ルールが整備されないまま、テクノロジーだけが進んでしまう状況が危惧されます。今後の展開次第では、人類にとって取り返しのつかないことだって起こりうる。
このように全く未知のテクノロジーが登場し、社会の中で本格的に実装されたとき、一体何が起こるのか、果たして倫理的に許容されるのか、そういった広いパースペクティブが強く求められる局面で、縁となるのは結局、リベラルアーツしかない。人間の行動と反応の歴史に蓄積された人類のコナトゥスをもって対していくよりほかに術がないと思います。
自らのコナトゥスに従って成功した日本人として挙げられるのが、阪急電鉄の事実上の創設者、小林一三です。私が経営者の中でいちばん尊敬する人でもあります。
彼は一八九二年に慶應義塾を卒業して三井銀行に入ります。明治時代中期でも典型的なエリートコースでしたが、仕事はそこそこに趣味や道楽に明け暮れていて、会社からは冷遇されていました。
小林一三は三四歳の頃、そんな境遇に見切りをつけ、現在の阪急電鉄の前身、当時はまだローカル線のベンチャーだった箕面鉄道(箕面有馬電気軌道)に転職します。彼はそこで私鉄のあらゆるビジネスモデルをつくり上げました。路線の先にベッドタウンを造成したり、誰もが家を買えるようにと住宅ローンの仕組みをつくったり、日曜日にも電車に乗ってもらうため駅の上にデパートをつくったり――、宝塚歌劇団を創設したのも彼です。閑散期のお盆に全国から乗客を集めるために、甲子園の高校野球大会まで企画しました。同じ人間が、仕事を変えただけで、銀行員時代からは信じられないような創意を発揮したのです。
これは小林一三が、世間一般で良いとされるような、外側から与えられた尺度ではなく、自分自身のコナトゥスに従って、自分の心が動くような仕事に取り組んでいった結果だと思うのです。
現代は、自分のコナトゥスを発揮することがそのままグローバルな競争力に直結する時代でもあります。
例えば広島のマルニ木工さんは、月産五〇個ほどの、地方の小さな家具屋だったのですが、そこでつくられた椅子がいまではなんとアップルの本社オフィスで採用され、何千脚という単位で納入されています。じつは少し前までは会社存亡の危機に直面していたのですが、社長さんが、会社がつぶれるまえに自分自身が本当に理想とする「日本発の世界定番の椅子」をつくりたいと、世界的デザイナーの深澤直人さんとタッグを組んで、その理想を実現させたのです。それがアップルのデザイナー(当時)ジョナサン・アイブの目にとまって先の納入へとつながりました。
このエピソードもまた、自分の心が動かされるものと仕事をシンクロさせることが、非常に大きな競争力を生み出すことをよく物語っています。一方で、マルニ木工にその座を奪われたアメリカ現地のオフィス家具メーカーが存在していたことも事実です。自分の心が動かされない、コナトゥスの動かない状態で働いている個人や組織が、相対的に競争力を失っているということでもあるのです。
山口 出口先生のおっしゃったことは、「役に立つ」と「意味がある」の違いとして区別できるかもしれません。製造業というのは「役に立つ」ものをつくる仕事で、日本人はそうしたものをつくるのが得意です。一方のサービス業では、必ずしも役に立つことだけでなく、個人的に「意味がある」ことや「ストーリー性」といったことが重視されます。日本人はそうしたことを考えるのが不得手なのではないかと感じます。
出口 それについては、「日本人は」というより「いまの日本人は」と訂正した方がいいかもしれません。「日本」という国号が初めて対外的に使用されたのは、七〇一年の遣唐使からだとされています。したがって「日本人」というくくりにも約一三〇〇年の以上の歴史があるわけですが、例えば室町時代の日本人はいまの日本人とは似ても似つかない、自己主張の強い人々だったといわれています。同じ「日本人」でも、その中身は時代によって違うということですね。
レヴィ・ストロース以降の文化人類学者が繰り返し証明しているように、人間は生まれ育った数十年の社会の意識を反映している存在です。そう考えると、いまの日本人は、戦後の製造業の工場モデルの下で高度成長した社会の意識を反映した存在であり、一律に日本人とはこういうものであると決めつけないほうがいいでしょう。正しくは、「いまの時代の日本人は戦後の製造業の工場モデルに過剰適応してこういう特質を持つようになった」と説明しなければいけないと思います。
山口 確かにそうですね。では、製造業モデルからサービス業モデルに適応していくためには、何が重要だと思われますか?
出口 キーワードは、「女性」「ダイバーシティ」「高学歴」です。
まず「女性」については、全世界的に見て、サービス産業のユーザーは六~七割以上が女性です。その女性の欲しいものが、日本経済を牽引していると自負する五〇代、六〇代の男性にわかるはずがありません。北欧をはじめ欧州でクォータ性が進んでいるのは、男女平等の精神だけではなく、サービス産業の時代には女性に活躍してもらわなければよいアイデアが出ないということが大きな要因となっています。要するに需給ギャップを埋めなければならない。だからこそ、クォータ制は、すでに一〇〇カ国以上で導入されているのです。
翻って日本の現状は、世界経済フォーラムのジェンダー格差に関する報告書「Global Gender Gap Report 2019」によれば、一五三カ国中一二一位でG7(先進七ヵ国)では最下位です。まずはクォータ制を大胆に取り入れて、ジェンダーギャップをなくすことが第一歩です。
「ダイバーシティ」については説明するまでもないでしょう。敬愛学者のヨーゼフ・シュンペーターが説くように、本来のイノベーションとは「既存知の新結合」です。さらに、既存知間の距離が遠ければ遠いほどおもしろいイノベーションが生まれることも経験則として実証されています。この既存知間の距離を遠くするのがダイバーシティです。多国籍の人が集まれば、それだけいいアイデアが生まれる可能性が高まるということです。ラグビーワールドカップのワンチームが示したように、「混ぜると強くなる」のです。
「高学歴」は、簡単に述べると大学院修了者の比率です。日本の労働生産性は、データが集計され始めた一九七〇年以降、一度もG7の最下位を脱したことはありません。そして、労働生産性とその社会の大学院修了者の比率は正比例しているのです。
考えてみれば当然のことで、深く勉強した人は、それだけアイデアが出せる能力があるということですよね。日本には、なまじ勉強した人間は使いにくいなどという理由から大学院卒や、博士号取得者を敬遠するような企業がたくさんあります。そんな社会が成長できるはずはありません。
要するに、成長のカギは国籍、性別、年齢フリーの社会構造に転換できるかどうかにあるのです。国を開いてさまざまな国の人に来てもらうこと、年齢や性別に関わりなく成果を出せば評価されるフェアネスを実現すること、それらが新しい産業構造に適応する土壌となるだけではなく、社会全体の活力を高めることにもつながるはずです。
日本の現状を見ていると、ジョージ・オーウェルの有名な『一九八四年』に登場する「ビッグ・ブラザー」率いる政党のスローガンが想起されます。三つのスローガンのうちの一つが「Ignorance is Strength(無知は力である)」なのですが、まさにそのような状況です。
ただ、日本人が勉強しないのは日本人が劣っているからではなく、社会システムが歪んでいるからです。まず大学進学率が低い。高等教育の制度やその意味合いは国によって異なるので一律には比較できませんが、日本の大学への進学率は二〇一八年に五三%で過去最高となったものの、OECD(経済協力開発機構)平均の約六割にはまだ届いていません。
次に大学に入ってから勉強しない。これは主として企業の側に問題があって、採用の場面で大学での成績を問わない企業が多いために、成績に対するインセンティブが働かないのです。どんどん成績基準で採用すべきです。それからさらにひどいのは、なまじっか勉強したやつは使い難いとか愚かなことをいって、大学院卒を大事にしない。これは労働生産性と大学院修了者の比率は正比例するというデータがあるわけですから、まったくおかしな話です。しかも二〇〇〇時間労働ですから社会人になってからは勉強する余裕がない。このように、日本人が勉強しないのは勉強させないようになっている社会の構造に問題があるのですね。
山口 リーダーはもちろん、私たち一人ひとりが学び続けることが社会を変えていくのだと思いますが、学ぶというのはただ知識を貯めるということだけではないですね。
出口 ええ、僕はいつも次のように説明しています。「おいしい料理とまずい料理のどちらを食べたいですか」と聞けば、皆さんはおいしい料理と答えます。では「おいしい料理」とはどんな料理でしょうか。それは因数分解、つまり要素に分解してみるとわかります。おいしい料理を構成する要素は、「いろいろな材料」と「上手な調理法」であると説明すれば、皆さん納得できますよね。
では人生はどうか。「おいしい人生」と「まずい人生」のどちらかを選ぶなら、皆さん「おいしい人生」を選びます。「おいしい人生」に必要なものは何かを料理のアナロジーで考えると、「いろいろな材料」は「さまざまな知識」に、「上手な調理法」は「自分の頭で考える力」と置き換えることができるでしょう。知識は材料ですが、材料を集めただけでは役に立ちません。どう組み合わせて調理すればおいしくなるのか、論理的に考える力があってこそ、おいしい料理、おいしい人生が完成する。おいしい人生はイノベーションと言い換えることもできますね。「さまざまな知識×論理的に考える力」がイノベーションを生み出すのです。
僕が社会人になった頃は、一つの言葉の意味を調べるにも、図書室へ行って百科事典を引かなければなりませんでした。いまはスマートフォンで瞬時にわかります。知識を得るためのコストや手間が格段に小さくなっている社会では、考える力の差が結果を分けます。
考える力を鍛えるには、料理でレシピ本を参考にするのと同じように、最初は模倣から入ります。ただし、よいレシピを真似しなければ料理が上達しないように、まずはアダム・スミス、デカルト、ヒューム、アリストテレスといった、優れた考える力を持った先人が書いた古典を丁寧に読み込むことです。思考のプロセスを追体験して、思考パターンを学ぶことから入るのです。そしてそれを自分なりにアレンジしながら、考える力を鍛えるほかはありません。
山口 考えることも一種の作法が必要ということですね。
出口 ええ。型(形)から入るのです。レシピと一緒です。
山口 「考える力」というと試験問題を説く力のように誤解されることがありますが、違いますね。
出口 まったく違います。問いを立てる力であり、常識を疑う力です。
山口 そのためには、例えば、デカルトが自らの常識を疑い、問いを立てるプロセスを書いた『方法序説』のような本を読み、追体験していくことで、ある種の型を覚えることが大事だということですね。
出口 そうです。今後AI(人工知能)のような技術がさらに社会に浸透し、IT化が進めば進むほど、リベラルアーツの力が大事になってくると思います。人間に問われているのは本質的に考える力なのですから。
日本企業の生産性が低いのはマネジメントに問題があるという話をしましたが、その根本的な原因は、分析をせず、論理的に考えないことにあります。高度成長はなぜ起きたのか。きちんと論理的に考えれば、アトキンソン氏の分析したとおり人口増加の効果が最も大きかったということは明らかなのですが、日本人は器用で協調性があるからだとか、「三方よし」の日本型経営によって成長したと思い込んでいる。ここが問題なのです。日本型経営が優れているなら、なぜ二〇〇〇時間も働いて一%しか成長できないのか。ドイツやフランスは一五〇〇時間以下で、二・五%成長しているのです。エビデンスに基づかない根拠なき精神論では、いま起きている世界の変化に対応できるはずがないでしょう。
山口 言葉や著述の否定は、西洋哲学の中にも古くからあります。代表的なのがソクラテスで、彼は「書かれた言葉は、誤解される危険がある」と、書物や文字を批判して一冊も本を書きませんでした。弟子のプラトンが、それではあまりにも惜しいということで書物にしたわけですが、ソクラテスに限らず、言語によって物事が概念化されることを批判する思想家、哲学者も多く、「まずは黙って坐りなさい」という考え方は、洋の東西問わずにつうじることかもしれません。
平井 私は西洋哲学にはあまり詳しくありませんが、宗教で言えば、イエス・キリストも自分で本を書かず、すべて福音書ですね。じつは仏教もそうなのです。お釈迦様は本を書いていませんし、亡くなったあと数百年はその教えが文字にされることはなく、暗記と口伝によって伝えられていたそうです。仏教では「結集(けつじゅう)」と言いますが、お釈迦様の入滅後、弟子たちが集まって説法の内容の統一を図る会議が何度か開かれています。その中で、お釈迦様が説いておられたことの内容を確認し、みんなで暗記し、伝承していくということが行われていました。とはいえ伝言ゲームのように、やはり口伝では内容が正確には伝わりません。そのため仕方なく文字にしたのでしょう。
山口 当初、文字にしなかったのには理由があるのですか。
平井 それについては諸説あります。ひとつには、教えというものはお釈迦様の心そのままであり、限りない広がりを持つものだから、文字にして意味が限られてしまうことに抵抗があった。
また、仏教では「対機説法」と言いますが、お釈迦様は相手の能力や資質に合わせて教えを説きました。同じ内容でも、大人に対して説く場合と、子どもに対して説く場合では、当然、言い方が違ってきます。ですから厳密に言えば、仏教の教えとは、その場所、そのとき、その人に限定されるものなのです。ところがそれが文字になってしまうと、後世の人は書かれている以外のことは禁ずるというような発想にもなりかねません。そうしたことへの危惧もあったと思います。
平井「自分のことはわかっています」と皆さん言いますが、ほとんどは「自分ってこういう性格」とか、「私ってこういう人間」という自分の思い込みです。仮に知り合い一〇人に「私はどんな人間か」と聞いてみたら、全員が違うことを言うでしょう。そのとき、どの自分が本物なのか。あの人の言う自分、自分の思う自分、どれが本当の自分なのか。「自分が思う自分が本物に決まっている」と言うかもしれませんが、「それならば、他人から評価されたり叱られたりしたときに、嬉しかったり落ち込んだりするのはなぜですか。もし自分というものが本当にわかっているなら、他人の評価に一喜一憂する必要がないはずですよね」と言うと、皆さん腑に落ちるようです。「だから坐るのです。自分は何者であるか、わかるために座るのです」というふうに言っています。
菊澤 時代背景や環境などの要因もあるものの、僕がいちばん指摘したいのは、リーダーの資質という問題です。日露戦争時と太平洋戦争当時、高度成長期と現代、それぞれを比べると、後者のリーダーには、やはり欠けているものがあると思います。
先ほどお話したように、人間は損得計算をして経済合理的に行動するものです。何かを行うとき、おそらく九割以上のケースで損得計算をして、得ならば行動するし、損ならば引くという行動をしています。特に近年は、アメリカ流の経営学、いわゆる経済合理主義的な経営の影響で、企業活動においてその傾向が強まっています。経済合理主義では、ウェーバーの言う「目的合理性」を追求することで企業経営はうまくいくと信じられていますが、それが逆に不条理を招いてしまう可能性があるのです。
そこから脱するためにリーダーに求められるものが、「主観的な価値判断」です。
山口 先生が以前からおっしゃっているように、一八世紀のドイツの哲学者、イマヌエル・カントの「理論理性」と「実践理性」の違いですね。カントの理論理性はウェーバーの「目的合理性」であり、これに従って行動するのは因果法則に従っているだけだというわけです。一方の実践理性は「価値合理性」であり、主観的な価値判断を行う理性です。ここでリーダーに必要なのは実践理性のほうというわけですね。
菊澤 そうです。多くの優秀なリーダーは理論理性の段階で止まってしまっています。例えば、ここ慶應義塾大学の学生は、間違いなく全員が即座に損得計算のできる人たちです。でも、その計算結果に従うことが善いか悪いか、もう一段上から主観的に価値判断できる人は一〇人に一人いるかどうかでしょう。
僕は、「たとえ損得計算の結果がプラスでも、それは善くないと価値判断して抑止できるかどうか」、ここにリーダーとしての真の資質があるのだと考えています。
でも、そういう判断のできるリーダーは少なくなっていると感じています。明治のリーダーは武士道を学んでいましたから、道徳的優位性や儒教の五常を備えているからこそ自分が人の上に立っているという意識が身についていました。戦後に活躍し、名経営者と呼ばれた方々の多くも、戦前の教育できちんとリベラルアーツを学んでいました。しかし現代のリーダーのほとんどは、そうした教育を受けていないため、人の上に立つにあたっての哲学がないのだと思います。だから、自分の価値判断の拠り所がなく、自信が持てないのかもしれません。
今日の企業においては、基本的に業績が優れている人が出世しますね。でも、経済合理性から判断すると、業績を上げている人ほど上にいかずに現場にいたほうがじつは効率的なわけです。
山口 出世のパラドックスですね。
菊澤 それで人事の方々も悩んでおられるようです。人事研修で、「リーダーの条件は何ですか」と聞かれたとき、僕はこう言っています。「主観的に価値判断して、それに対する責任が取れるかどうか」だと。ところが、それがなかなか難しい条件なのです。
山口 お話を伺って改めて思ったのは、明治や戦後すぐは社会システムがガラリと大きく切り替わった時代で、過去と切り離された環境だったからこそ、自分の意思、価値観を発揮できる人が活躍できたと言えるのかもしれません。太平洋戦争時や現在のリーダーは、社会や組織のシステムが固定化して安定してきた中で、それに上手に適合した人たちなのでしょう。そう考えるとやはり時代は違えども、両者は構造が似ていますよね。
菊澤 まさにご指摘のとおりだと思います。社会や組織が安定して人事制度や教育制度が固まってくると、人はそれを考慮しながら損得計算し、目的合理的に行動するようになっていきます。だから、個人も組織も損得計算だけに長けていくようになるのでしょう。まさに、ウェーバーのいう魂のない鋼鉄の檻のような人間組織が形成されるのです。
山口 ヤマザキさんは、日本人で、イタリア人のご家族がいらして、長年にわたってヨーロッパ、とくにローマ・カトリックの影響の強い国に暮らしておられますから、宗教観の違いを実感されていることでしょう。私は以前、海外の知り合いから日本の宗教は何なのかと聞かれて、「ない」と答えたら、「じゃあ倫理や同録をどうやって教えるのか」とすごく驚かれました。
ヤマザキ 日本人にとっての倫理は「世間体」によって象られていますよね。
山口 そう、コミュニティのルールや世間の目が倫理基準なのですよね。文化人類学者のルース・ベネディクトは有名な『菊と刀』の中で、欧米の「罪の文化」に対し、日本は「恥の文化」であると分析しています。欧米ではキリスト教と聖書が行動の規範になっていて、それに背くことが「罪」であると考え、罪を犯さないように自分の行動を律します。日本では神や仏よりも他人の目、世間に対する意識のほうが強いために、世間の「恥」とならないように行動するわけです。倫理や道徳というものが神との関係で決まるのか、他者との関係で決まるのかという違いですね。
ヤマザキ イタリアが都市封鎖をしたとき、夫に「こんな観光大国が観光客を入れなくしたらどうなるか、わかっているのかな」と言ったら、「金より人の命じゃないか」と彼は即座に返してきたのです。命がなければ経済もないのだから、と。それを聞いて、彼らはやはり根本的にカトリックの倫理観で生きている人間なのだと感じました。
山口 今回のような予測不可能な危機に直面したときに、おっしゃるような宗教的倫理観、最後はこれに則って判断すれば間違いないと言える絶対的な基準を持っている文化圏には、ある種の強さがあると感じます。
一方、常識や世間体というような、時代や状況によって揺らぐ基準に従っている文化圏では、危機のときも平時と同じ判断ができるのかは疑問です。今回の日本の外出自粛要請に関しては、「世間の目があるから外に出づらい」という感覚がプラスに働いたようですが。
ヤマザキ 確かに日本では、感染と犯罪は紙一重みたいな風潮がどことなくありますから、それが感染者数の抑制に無関係だったとは思えないですね。
今回、自粛要請しているのに営業を続けているパチンコ店は名前を公表するという話があったじゃないですか。それをイタリア人に言ったらみんな大ウケしていました。彼らからすると、名前を明かされるということが社会的制裁として働くということがまったく理解できない。
山口 そうですね。だから日本では恥ずかしい思いをさせることがペナルティーとして働いている。
ヤマザキ イタリアでも、外出禁止令についてもカトリックの慈愛や利他性という理念がベースにはありますが「誰かを自分が感染させて殺してしまうかもしれない」という恐れで外出を自粛する。
でもそれは世間の目が怖いからではなく、罪を犯してしまうことへの恐怖心なんです。ふだん、人の言うことを聞かない、まったく統制のできないイタリア人が外出制限を守れたのは、罰則もありましたが、やはり彼らが子どものときから培ってきたカトリックの倫理観がベースにあったからだと思います。政府のリーダーであるコンテ首相も、「国民の命を守るために」ということを第一に訴えていましたから。
リベラルアーツとは「目の前の常識を相対化するための思考技術である」という指摘は本書の随所で指摘しました。そして、そのような「相対化する視点」を持つためには「人と話す」「旅に出る」「本を読む」の三つが重要だ、というのがAPU学長の出口治明先生のお話でした。この三つのうち、じつは「人と話す」と「本を読む」のと異なり「旅に出る」という営みだけが持っている特徴があるのですが、なんだかわかりますか? それは「一次情報に触れる」ということです。一次情報というのは、人の手を経由していない、ナマの情報ということです。どんなにユニークな思考力、着眼点を持とうと思って勉強しても、インプットされる情報がすべて二次情報であれば、なかなか人と異なる着想を持つことはできません。ところが、インプットされる情報がすでに人と異なるものであれば、ユニークな着想を持つことも相対的に容易になります。
ヤマザキマリさんとお話をさせていただくと常に感じるのが、長らく海外で過ごされた人に特有の「日本の常識を相対化する視点」の豊富さです。ヤマザキさんは一〇代でイタリアに渡り、以後はイタリアに軸足を置きながら世界を股にかけて生活をしておられます。人生そのものが旅に彩られているようなもので、芭蕉の言葉ではありませんが、まさに「旅をすみかとする」ライフスタイルなのです。
以前、早稲田大学の入山章栄先生とお話をさせていただいた際、先生は「創造性は人生における累積の移動距離に相関する」とおっしゃられていました。その言葉を今回、ヤマザキマリさんとお話をさせていただいた際に改めて思い出しました。これまでにも述べた通り、「リベラルアーツ」とは自分を縛る固定観念や無意識的な規範から自由になるための思考技術を指しています。これは密接に、自分がいまいる場所、時間における常識を相対化できるかという論点と関わっています。累積の移動距離が長いということは「いま、ここ」という場所以外の場所をたくさん知っているということです。だからこそ、「いま、ここ」でしか通用しない常識や規範からの自由になれるのです。出口治明さんが学びの契機として「旅」を挙げておられるのも基本的に同じ考えによるのでしょう。
ここで「移動」と「知性」の関係について考えるにあたり、思い浮かぶのがモーツァルトです。「天才」の代名詞としてよく名の挙がる作曲家ですが、モーツァルトの創造性を単に「天才だったから」で整理してしまっては後世に生きる私たちにとっての学びはありません。実際には、モーツァルトの創造性は「生まれ持っての才能」と「生まれた後の環境」によって育まれたと考えるべきです。確率論で考えれば、モーツァルトと同様の才能を持って生まれた人物はかつて数えきれないほどいたはずですが、彼ほど恵まれた環境にあった人物は一人もいなかった。それがモーツァルトという人物を孤高の存在にしているというべきで、つまりは「環境の産物だ」と考えたほうが良いということです。ではどのような環境要因がモーツァルトの才能を伸ばしたのか。
モーツァルトの生涯を俯瞰して改めて感じられるのが、その「旅」の多さです。モーツァルトは三六歳で没していますが、旅の期間を合計してみるとその累計は一〇年強となります。つまり、人生のほぼ三分の一は旅の途上にあったということです。これはモーツァルトの創造性に決定的な影響を与えたと、私は思っています。というのも「旅」と「創造性」に極めて強い関係があるからです。
建築家の安藤忠雄氏は、まだ建築家としてデビューする前にヨーロッパの名建築を巡るツアーを敢行して、その後の建築の糧となる感性を磨いており、その後もことあるごとに「旅に出ろ」と叱咤しています。あるいは幕末の吉田松陰もまた、「旅」を学びの場として考え、書物による勉強は一定の年限で止めてしまい、その後はことごとく「人に会って人から学ぶ」ということを徹底した人物でした。
モーツァルト自身もこのことをよく理解していたのでしょう。モーツァルトは膨大な量の手紙を残していますが、この手紙を読み直してみると、彼が、ことあるごとに「旅に出たい」と訴えていたことがわかります。モーツァルトに音楽を仕込んだ教育パパのレオポルドはザルツブルグの司教のご機嫌を伺うために、できる限り長いあいだザルツブルグに留まるように、と息子のモーツァルトに諭しますが、モーツァルトはこの父に対して「自分の音楽的才能は、旅に出てさまざまな新しい音楽に触れることによってこそ花ひらくのに、ザルツブルグに閉じ込められていたら、このまましおれてしまう」と手紙で訴えています。
考えてみれば、欧州の上流階級の子弟の教育では、しばしば最終段階の仕上げとしてグランドツアーと呼ばれる大旅行が行われました。哲学者のトマス・ホッブズも家庭教師としてグランドツアーに同行していますし、あのアダム・スミスも「一生分の年金」を報酬として有名貴族の子弟が赴く一年のグランドツアーに同行しています。これは、言うなれば「人と話す」の一・五次情報と「本を読む」の二次情報で得た知識を、実地に赴いて一次情報とつなぎ合わせて考えるということをやっているわけです。だからこそ、教育の最終仕上げに「旅」というステップが置かれているわけです。
そしていま、新型コロナウイルスの影響で、世界から「旅」が失われています。厳密な統計はわかりませんが、近代が始まって以来、おそらく最も「旅」が少なかったのが二〇二〇年だったのではないでしょうか? このまま、旅が厳しく統制される世界が続けば、私たちは「自由に考えるための思考の翼」を失い、ますます狭量で、不寛容で、共感する力を持たない社会を生み出していくことになります。そのような世界にあって、どのように私たちの知性を守り、育んでくか。これは私たちに投げかけられた大きな問いです。
イノベーションというのは常に「それまでは当たり前だと思っていたことが、ある瞬間から当たり前ではなくなる」という側面を含んでいます。つまりイノベーターには「当たり前」を疑うスキルが必要なのです。ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセンは、著書『イノベーションのDNA』の中で、イノベーターに共通する特徴として、誰もが当たり前だと思っていることについて「Why?」を投げかけることができる、という点を挙げています。
確かに、数多くのイノベーションを主導したアップルの創業者・スティーブ・ジョブズは、いつもこの「Why?」という疑問を周囲のスタッフに投げかけていたことで知られています。その彼が、常々アップルを、テクノロジーとリベラルアーツの交差点に位置する会社にしたい、と語っていたのは偶然ではありません。リベラルアーツというのは相対化の技術であり、相対化することによって初めて人は、誰もが常識だと思っている世界のありようについて、なぜそうなのか? なぜ他のやり方ではないのか? という問いを持てるのです。
しかし一方で、すべての「当たり前」を疑っていたら日常生活は成り立ちません。どうして朝になると自然に目が醒めるのだろう、どうして人間は昼間に働き、夜に休むようになったのだろう……。いちいちこんなことを考えていたら哲学者にはなれるかもしれませんが、個人としては破綻してしまうでしょう。ここに、よく言われる「常識を疑え」という陳腐なメッセージのアサハカさがあります。常識を疑うのは実はとてもコストがかかるのです。一方で、イノベーションを駆動するには「常識への疑問」がどうしても必要になります。このパラドックスがなかなか解けないからこそイノベーションは難しいのです。
結論から言えば、このパラドックスを解くカギは一つしかありません。つまり、重要なのは、よく言われるような「常識を疑う」という態度を身につけることではなく、「見送っていい常識」と「疑うべき常識」を見極める選球眼を持つということなのです。そしてこの選球眼を与えてくれるのがまさにリベラルアーツなのです。リベラルアーツというレンズを通して目の前の世界を眺めることで、世界を相対化し、普遍性がより低いところを浮き上がらせる。スティーブ・ジョブズは、カリグラフィーの美しさを知っていたからこそ「なぜ、コンピュータフォントはこんなにも醜いのか?」という問いを持つことができたのですし、チェ・ゲバラがプラトンが示す理想国家を知っていたからこそ「なぜキューバの状況はこんなにも悲惨なのか」という問いを持つことができたのです。
目の前の世界を、「そういうものだ」と受け止めてあきらめるのではなく、比較相対化する。そうすることで浮かび上がってくる「普遍性のなさ」こそ疑うべき常識があり、リベラルアーツはそれを見るレンズとしてもっともシャープな解像度を持っているのです。
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リベラルアーツは常識にとらわれずに「問い」を立て、イノベーションを生むために必要な、知恵の基盤だと解釈した。
リベラルアーツを通じて普遍的な常識と疑うべき常識を区別できる。
歴史、宗教、哲学……etc.の古典と呼ばれる書籍も、今後は食わず嫌いせずに貪欲に取り込んでいく。
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現代を生き残るためにリベラルアーツを学ぶ。。。趣味で本を読み続けて来た自分にとって、ありがたい時代だ。興味の赴く間に集めた情報が活かせる!この本はそんな考えを後押ししてくれて、また「もっと学べ!」と背中を押してくれる。小手先のテクニックじゃないんだな。生き残れない、気付かされました。
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今に始まった訳ではないが、世の中を生き抜くためには、専門外の領域でも自分の意見を考え、発言できるための教養であるリベラルアーツが必要である。これは、物事の本質、生き方の本質とは何かを常日頃意識して身につける必要がある。これには「人・本・旅」が必要と出口氏が発言している。本は古典になっている名著が良い。『菊と刀』では、西洋を「罪の文化」、日本を「恥の文化」と称しているとのこと。とても納得。コロナ対策時に営業自粛を守らないパチンコ店の話をイタリア人の夫に伝えたら、なぜそれがペナルティーになるのか理解できないと言われたヤマザキマリの話も面白かった。
情報が溢れる現代において、社会の本質を見抜くレンズとなるリベラルアーツを身につけないと人生の迷子になると感じた。
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山口さんのWeb記事を読んで著作も手にとってみた。
いろんな方との対談をまとめたものがメインの本書のうち、一番刺さったのは第6章「組織の不条理を超えるために」の菊澤さんとのものでした。
自分は、この書籍で山口さんがまさに書かれているように リベラルアーツに関しては薄い理解しかなかったように思います。今思えばとても恵まれた環境にあったであろう 学部生のいわゆる一般教養科目群、もっとプロアクティブに向き合えばよかった...
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教養というものが、仕事や人生にプラスとなるものなのかについて、今までは、Yesと自信をもって言えなかったのだが、納得がいった。
良書だ。私にはちょっと難しかったけど。
自由になるための技術って、固定観念から解放されるということか。イノベーションを起こすための武器、というのもわかるけど。私は、武器ではない、と思う。
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振り返りの一環として読んだ
結構良い振り返りの機会になった
リベラルアーツの使い方として、「疑うべき常識の見分け方」がわかるようになるというのは非常にわかりみが深い
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山口さんとの対談集。テーマはリベラルアーツ。
歴史、哲学、宗教、美術の達人たちとの対談で、現代を生きる我々に必要な知的な基礎体力をいかに身につけるかを掘り下げている。
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どの方の対談も知らないことばかりで勉強になりましたし、山口さんの引き出しの多さは流石でした。対談という形式だからこそ、よりリベラルアーツの重要性を感じることができた気がします。
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リベラルアーツを題材にした、角界の著名人と著者の対談集。
変化の激しい時代。専門知識だけで物事を判断しようとしても、新しい変化には対応しづらいし、全体の流れとは別の方向に向かう判断をしてしまうリスクもある。全体を俯瞰して、総合的に判断する力が必要であり、それを支えるのがリベラルアーツである。ということだと理解していますが、リベラルアーツという言葉がややバズワードすぎて、時間とお金に余裕のある人の、単なる絵画、音楽、文学などの趣味の領域を指すものと、単純に理解されがちな嫌いもある気がします。著者の主張はよくわかるので、ビジネスだけでなく一般人が、日々の暮らしの中で総合的な判断をするために必要となる基礎的な知識であることを、かみくだいて説くような書もぜひ出していただきたいと願います。
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VUCAの時代と言われるいまでも、多くの企業がコンサルティング会社や広告代理店に巨額の費用を支払って、「何年先にどうなるのか?」という未来予測を依頼しています。はっきり言ってそんな発想が時代遅れなのです。未来を他人に聞くのではなく、「あなたは、一体どうしたいのですか?」と、そろそろ問いそのものを変えなければならない時期に来ているのだと思います。
複雑で不安定な現代社会では、「分析」「論理」「理性」といった、これまで絶対視されてきたサイエンス重視の意思決定や方法論が限界にきていることを述べ、このような時代には、経営の判断にも、自らの「真」「善」「美」の感覚、すなわち「美意識」を鍛え、拠り所としていくことこそが重要だと訴えました。同書が幸いにも多くの読者に受け入れられたのは、私と同じような問題意識を持っている人が多かったからでしょう。(p.20)
パブル経済の崩壊から三○年近くが経ったいまなお、戦後の高度経済成長があまりにも成功したために、ご指摘の製造業モデルから脱皮するのに苦労しています。一方、世界は大きく様変わりし、まったく異なる成長モデル、成功モデルが次々と生まれています。
いま、日本が行き詰まっている理由は、モノづくり信仰の一方でGDPに占める製造業の構成比が二割程度、雇用者数は約一〇○○万人で全体の一七%程度となったことからわかるように、もはや製造業では社会全体を引っ張れない状況になっていることが主因です。代わって伸びているのはサービス産業です。
また、この三〇年間、日本の正社員の労働時間はほとんど減らず、年間二〇〇〇時間前後で推移しています。にもかかわらずGDPの平均成長率は一%にとどまっている。日本と同様に少子高齢化が進行している欧州では、年間労働時間は一三〇〇~一五〇〇時間程度で平均二·五%近く成長しています。
なぜ日本でこのように成長率が低迷しているのかというと、製造業からサービス産業へと産業構造が変化しているのに、人材も働き方も製造業の工場モデルを続けているからです。サービス業で問われるのは、与えられた課題をこなす力よりも、課題を見つけ出す力、新しいサービスにつながる独創的なアイデアを生み出すカです。APUが評価されているのは、 そうした力を養うには、 とがった個性を尊重する教育に転換しなければならないということに、社会が気づき始めた証左かもしれません。(p.87,88)
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リベラルアーツとは「自由になるための技術」。
リベラルアーツの真髄は、「問う」ための技術。
社会を生き抜くための功利的な武器になりうるのは、「なぜならイノベーションには相対化が必要だから」
→当たり前を疑う
★ただし、よく言われる「常識を疑う」でなく、「見送っていい常識」と「疑うべき常識」を見極める選択眼を持つ。
→相対化するための「知的な足腰」を得る
★それは、哲学や古典・歴史などの普遍的なスキル・知識である。
リベラルアーツは「したたかに生きる」ための足腰になる。
複雑で不安定な現代に「分析」「論理」「理性」の絶対的サイエンス重視の意思決定や方法論が限界にきており、自らの「真」「善」「美」すなわち「美意識」を鍛える。
個人のコナトゥスの発揮こそ。
縛りがない。ほどける。
1.中西輝政氏 歴史と感性
2.出口治明氏 論理的に考える力
3.橋爪大三郎氏 グローバル社会と宗教
4.平井正修氏 人として
5.菊澤研宗氏 組織の不条理
6.矢野和男氏 ポストコロナと普遍的価値
7.ヤマザキマリ氏 パンデミック後に訪れるもの
7名との対談。
★共通して言えるのは、
「歴史」・「人」・「本」・「旅」・「哲学」・「禅 自己認識」
は絶対ということ。
現代社会では、
法が追いつかない故に実定法主義が危険であり、
「理論理性」だけでなく「実践理性」が大切。
これからより広がるであろう無連帯と幸福のあり方。その上で、リベラルアーツはやはりさらに不可欠なものとなるのであろう。
あくまでもこの書では各々のリベラルアーツの考え方であり、リベラルアーツの植え付けには、他の様々な書物を読む必要があると感じた。
各7人の書物や推薦する書物などもあり、今後はそれらを読み自身の蓄えにしていきたい。
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リベラルアーツとは、日本では教養と訳される事が多いが、本来意味するのは、「自由になるための手段」という事らしい。これが、捲って1ページ目。少し違和感があるが、リベラルアーツは、奴隷階級と自由人を区分した上で、自由人が身につけるべき3学4科の事であり、とりわけ3学が文法、修辞、論理として思考様式に関わる学問であり、奴隷が身につけるべき技術とは一線を画すもの。やや乱暴に言えば企画職と技術職を分け、企画職が身に付けておくべき心構えや考え方のような感じか。頭のスキルと手のスキルの違い、とも言えるだろうか。同様に、ノブレスオブリージュに通底する所もあり、即ちエリートが身につけるべき教養という意味で理解をしていた。
だから、自由になるため、とか、何かを勝ち得る手段とは少し異なるし、本著で議論される、目的合理性の話や、著者自身がみっともないコンプガチャや儲け方のビジネス本に辟易してエリートの「美意識」を別で書にした、という話と矛盾する気がした。著者も結局は、そうした商業主義にリベラルアーツを利用していないだろうか。
ただ、その一点で丸ごとツマラナイという話ではなく、中西輝政との歴史話、出口治明お得意の人、旅、本。特に私には菊澤研宗との組織論の話が面白かった。山口周の本は、著者紹介的な意味合いもあるので「出会い系」のような側面があり、広がりが嬉しくもある。
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自由になるためには、さまざまな視点で物事を見て感じて考えて思索して想像して考える教養と行動力が必要である。
難しいことではない。善い人と会い育み、古典名著や近代、現代にいたるまで読み継がれている本を読み思索する。そして、自分が知らない場所に行って五感で体験をする。
それだけだ。その数が多い程、人生は濃く深みが増して豊かになる。
まずは自分の中にある偏見というコレクションから向き合うところから、多様な視点で物事の世界の解像度が見えることだろう。
テクノロジーがいくら発展しようが、様々な思想や考えを学び、自分で考え学習を止めずに思索し、五感で感じる体験を自分の糧とすることが重要であることを教えてくれる良書である。
知らない誰かが作った常識(自由)ではなく、自分にとっての自分だけの真の自由であらんことを。
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対談録でサクッと読める。日本と海外の国の国民性の成り立ちとか、マインドセットというか、そういう根本にあるものは宗教の違いとかの話は為になる。でも教養として「リア王」や「忠臣蔵」を知らないと議論が成り立たない会議って、どうなんすかね。。それこそスノッブなんじゃないだろうか。ガンダムやエヴァンゲリオンなら日本人の教養として知ってますけどね。。
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リベラルアーツの定義がそもそもよくわからないが、縛りがなく自由で常識を相対化する教養のようなものと捉えた。
一次情報に触れることの大切さに納得した。人と会う、人と話す、旅に出る、本を読む、他人の手を介さずに得た情報から自分独自の視点が生まれるのだろうな。
今ここだけで通用することなのか、そうでないのか、その見極めツールとなりそうだ。
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リベラルア-ツをテ-マにした対談集。自分的には
組織の不条理の回が一番面白かった。組織は、愚かな人ではなく、賢い人により判断を見誤るという指摘は、組織分析するときの一つのテ-ゼなのかもしれない。