あらすじ
《わたしはFをどのように愛しているのか?》との脅えを、透明な日常風景の中に乾いた感覚的な文体で描いて、太宰治賞次席となった19歳時の初の小説「愛の生活」。幻想的な究極の愛というべき「森のメリュジーヌ」。書くことの自意識を書く「プラトン的恋愛」(泉鏡花文学賞受賞作)。今日の人間存在の不安と表現することの困難を逆転させて、細やかで多彩な空間を織り成す、金井美恵子の秀作10篇。
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Posted by ブクログ
金井美恵子が、今の私よりもずっと若いうちから私が考えていることを小説のうちにきちんと体現し、かつ、同じようなものを書くのだとしても、それでもあなたではなく私が書く意味、あるいは私ではなくあなたが書く意味があるだろう、ということについても力説してくるので、至れり尽くせりっていうかなんというかもう、スミマセン、と思ってしまう。
私が初めて金井美恵子を読んだのは「道化師の恋」だったのだけれど、この彼女にとってのデビュー作である「愛の生活」の時点から、様々な既存の映画、絵画、音楽が、惜しみなく作中に使われている。
アニエス・ヴァルダの「幸福」という映画は、アントニオーニの「赤い砂漠」よりも、それが「幸福」の名の元に描かれているが故に、ずっとゾッとするだとか、ジム・ダインの歯ブラシを使った絵には、シュルレアリスムのデペイズマンなどという小賢しい(というのは私の表現)技法を超えたものがある、「表現は象徴なんかでなく、もっと本質的な意味で、直接的、行為的なものだ」と語られる…もっともこれは「デペイズマン」があったからこそはっきりと捉え得る感覚なのだろうと私は思うのだけれど…、とにかく彼女はほんとにオリジナリティだとかいうものを信仰していない。19歳の時点でそれを見抜いているのは私からするともう感心するしかないのだけれど、それだけ彼女が真剣に絵を見、音楽を聴き、映画を見るのは、「あなたが何を言わんとしているのか」知りたくて、出来るかぎり肺の痛むのも厭わずに深く深く沈潜していくだけの度胸と好奇心と寂しさがを持っているからだろう。
「愛の生活」では、続く毎日というものを「何を食べたか」という事実(しかしそれさえも本当に確かではない)によってしか区別できない、認識できない、という不確かさへの不安が冒頭から表されながら、夫であるFについての不確かさをテーマにしている。
私はFについて何を知っていると言えるだろう、毎朝食べる朝食のメニューや、習慣をしっていることで、「知っている」と言えるのだろうか? Fを愛しているということはどういうことなのだろう、私はFを愛しているのだろうか、という疑問は、疑問の提示で終わっているようだけれど、彼女の「私はFを愛しているのだろうか」と疑問を持ちながら、Fの所在について思いめぐらし、事故にあった女の子を見て泣きながら、多分おそらくは、もしFが事故にあっていたら?ということを具体的に思い描いたが故に涙しつつ去って行く主人公は、まあ十分にFを愛しているように見えるのだけれど、金井美恵子の問題はそれだけに収まらない「愛」の問題である。
そしてこの問題は続く短編の中で次第にはっきりしてくる。「夢の時間」では不確かな「あなた」を探すアイ(三人称でありながら、あるいは一人称かもしれないこの名前)が登場し、「森のメリジューヌ」で主人公が、愛の対象を感じる為の全ての感覚を奪われ、愛の先の死を予感させ、この音楽のような「森のメリジューヌ」は、舞台が暗転したようにして唐突に終わり、そこに続く「永遠の愛」では、「愛するあなた」は「死」だと描かれる…。
「兎」の中のあるくだりもすごくて、「あとは発作がおさまるのをじっと待っている以外にはないのです。そして発作が本当におさまるのは、死ぬことなのだということを、父親もあたしもわかっていました」(p.174)
今のところの感想としては、ここまで悟っちゃってて、どうやって生きてくんだろうこの人、という感じなので、時代を追って読む楽しみができました。
この短編集は、どこを読んでも「デジャヴュ」への意識を持たされるものばかりで、それだけで通常の女性作家(すみません)をゆうに超え出ている。「オリジナリティ」を嘲笑するように、彼女は作中の言葉遣いも簡単に変える。
「愛の生活」の中で面白かったのは、「あの頃のことは、懐かしさという優しい感情で思い出すのに、一番ふさわしいじきだった、などとわたしはいわない。」というところで、いわない、と言いながら部分的に言っているところなんか、最高でした。ここだけで、この人もう一筋縄じゃいかないな、と。最高のひねくれ正直者。