【感想・ネタバレ】平熱のまま、この世界に熱狂したい 「弱さ」を受け入れる日常革命のレビュー

あらすじ

アルコール依存症、離婚を経て取り組んだ断酒。そして、手に入れた平熱の生活。
退屈な日常は、いつでも刺激的な場へと変えられるのだ。
等身大の言葉で世界を鮮やかに描く、注目の書き手、登場! !

目の前の生活を見つめなおす。自分の弱さを無視し、無理に自分以外の「何者か」になろうとするよりも、すでにあるものを感じ取るほうが人生を豊かにできると確信したからだ。
深夜のコンビニで店員に親切にし、朝顔を育てながら磨く想像力。ヤブイヌに魅了されて駆け込む動物園。蓄膿症の手術を受けて食べ物の味がわかるようになり、トルストイとフィッシュマンズに打ちのめされる日々。そこに潜む途方もない楽しさと喜び――。
私たちは、もっと幸せに気づくことができる!

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Posted by ブクログ

ネタバレ

著者が自身の経験を通して得た「弱さ」についての学びや気づきを、さまざまな角度から認めているエッセイ的な本。

印象に残っているポイントがいくつかあって、

一つは、自分が誰かに必要とされている実感がないと人間は生きていけない、そういう弱さがあるんじゃないかというところ。
人間って複雑だよなぁと思うのは、誰かにとってかけがえのない存在でありたい、自分がいないと困るくらい誰かに必要とされる存在でありたいという思いがある一方で、自分がやらねば、自分がいないと、という責任感とか義務感みたいなもので自分自身を苦しめてしまうこともあるということ。
何かしらの「役割」が必要だから結婚とかするのかな、と思ったり。自分が誰かにとってのかけがえのない存在であるということを一番感じやすいのかもしれない。

二つめは、自身の弱さが持つ役割について。著者が禁酒中、お酒に手が伸びそうになったとき、それを止めてくれるのは再び敗北するのを恐れる臆病な弱さだと語っています。
私自身「失敗したくない」という気持ちがだいぶ強くて、新しいことや苦手なことになかなか挑戦できないという意味で弱みだなと思っていました。それからかなり怠惰なんですが、実際は「ちゃんとしている」と思われることが多くてギャップを感じていました。あるときその話を人にしたら、締め切りギリギリでもやることはやるとか、なんだかんだテスト勉強するとか、その失敗したくないという気持ちが怠惰さを埋め合わせてくれているのかもしれないよねということを言われて、弱みだと思っていたことにも役割があったのかもしれないと思ったことを思い出しました。

三つめは、想像力について。


“どんなに想像を膨らませたところで、それは想像の域を出ず、意味などないのではないかと無力感を覚えることもある。一方で、それが独りよがりの想像だったとしても、その想像が父に伝わっていたならばどんなに嬉しいか、と祈りに近い思いを抱いている。ぼくは父に立派な姿を見せたかった。父も見たいと思っていると想像した。そんな気持ちが少しでも伝わっていたならば、どれだけ救われるか。”


相手の気持ちを想像したところで本当に相手を理解できるわけじゃないから無意味なんじゃないか、と私も思ったことがあります。勝手にわかった気にならないでほしいと思う人だっているだろうし、都合よく、勝手に自分を重ね合わせているだけかもしれない。だけどその想像力が相手を思いやる気持ちから湧き出たものなら、そんな姿勢が伝わってくれていたらそれは嬉しいよなと思う。

書いていて思ったのは、共感って「相手のことを思って寄り添う」的な文脈で使われることが多いけど、有名人の発言に対する共感とか、こういった本を読んでの共感とかってどちらかというと自分のためな気がするということ。いやもはや日常生活でも自分のための共感をしているかも。本当は自分のための共感なのにそれに無自覚で、わかってますよ感を出されると違和感があるのかもしれない。

四つめは、ここが最も刺さったポイントなのでそのまま引用しますが、

“正義を標榜することはたやすい。しかし、正義を貫きとおすのには胆力がいる。信念を掲げても、言葉が、体が瞬間的にはそう反応しない人間の「弱さ」。観念的な信念は、生活の利害関係と衝突すると脆く崩れ去る。”


これ。
本当にその通りだなと思って、ぐさっときたところです。信念があったとしてもやっぱり目の前の生活のほうが大事で、それを犠牲にしてまで信念を貫き通そうとするのにはかなりの精神性が必要な気がします。
さまざまな社会課題が山積する昨今、こういうことって起こりがちなんじゃないかなと思います。〜な社会を目指しましょうとビジョンを掲げつつ、実際の生活の中ではそれに反した行動もとってしまうとか。どのようにしたらそのビジョンと日常生活が対立しないのか、日々の生活を自然に過ごしているうちに理想の社会に向かっていけるのか、意志の力だけではなく、人間の「弱さ」も組み込んだ仕組みを考えていく必要がある。



著者は自身のことを「弱い」と言っていますが、人間全般的にそうなんだろうと思います。人間ってこんなもん。だけど、「理性は少しずつだが、確実に勝利している」という言葉に、少し希望をもらえた気がします。

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2024年06月03日

Posted by ブクログ

ネタバレ

穏やかに読む。

**凪の生き方。**

「凪」という考え方。

できるだけ詰め込んで、コスパとタイパを上げるように迫る社会的風潮の中で、空白を恐れない余裕を確保するためにも、ひとつ、ためになる考え方です。

__無風状態のなかで世界を見つめ直すことにより、すでにそこにあったものの豊かさに気がつく。凪は、なにかが溢れ出し、なにかが変わる前兆でもある。

変化の激しい世の中で、凪の状態に身を置くこと。それは退屈な人生を意味したり、日常に埋没して思考停止したりすることではないのだ。日常にくまなく目を凝らし、解像度を高める。そして切り替わった瞬間の風を全身で、肌で感じとる。そういう生き方である。

**欲しいのは、自由、ではない。**

福田恆存という、昭和の時代に活躍した保守系論客の方の言葉がところどころ引用されています。この、自由を問う文章は、とても共感しました。

__また、ひとはよく自由について語る。そこでもひとびとはまちがっている。私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起っているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感だ。なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはいない。ある役を演じなければならず、その役を投げれば、他に支障が生じ、時間が停滞するーーほしいのは、そういう実感だ。ー 「人間・この劇的なるもの」

**人の痛みは決して分からないけれど。**

身体をもって感じる、痛み、は、それぞれの人間の中でのみ生じる。勝手に共感することもできるけれど、それはまたその人の中で感じていることであり、決して同じ痛みを感じられる人はいない。それをわきまえたうえで、どのような姿勢で生きられるか…。共感しました。

__生きている限り、無意識に誰かを傷つけてしまうことがある。誰かの痛みをそのまま感じることもできないし、完全に寄り添うこともできない。だからこそ思うのが、相手のことを簡単に「わかった」と思ってはいけない、ということだ。相手のことは理解できないし、 自分のことも伝わらない。それでも想像しようとすることをやめたいとは、ぼくは思わない。

たとえ、想像することをやめない胆力を持ち続けることしかできなかったとしても、そういら姿勢を崩さないでいることしかできなかったとしても、その態度を「伝える」ことはできるかもしれない。最近では、そんなふうに思っている。

**身近な実感。**

自分の実感が及ばない世界について論じられない、と著者は言っています。私も、実感を持てない物事を考えることは得意ではなく、だからこそ、身近な体験を大事に、自分の存在を起点に、世界とかかわっていきたいと思います。

__一足飛びに世界を掴もうとするのではなく、身近なことへの執着を積み重ね、想像することをやめないことによって、身近ではない世界や多様な他者への実感を掴むことができるのではないか。…もしぼくが見ている世界が、ぼくにとってどこか白々しいものであるとするならば、それはそこにぼくがいないからだ。 具体的な感覚を持って、そこにぼくが存在しないからだ。

**社会の言葉と個人の言葉。**

本音と建て前、みたいな、社会に出るとそういうことをサラッとできる人もいますが私はときにつっかかってしまいます。人間として、対話したい、したらいい、と思う時がある。社会の言葉を使う時、私たちは個をいったん捨てて、責任を組織に回している、ということなのかな。はっきり分けられていない場合もあるけれど、私たちはどうバランスをとっていくべきなのか…。

__ぼくの中にコロナ以後、ずっと同じ矛盾が存在し、いまだに接合することができずにいる。しかしあのとき、女性が個人の言葉を発してくれたおかげで、ほくがどれだけ救われたことか。


ぼくと女性の人生は「社会」の中で一瞬だけ交差したに過ぎない。普段はそれぞれの人生を歩んでいる、ただの偶然的な関係性である。にもかかわらず、おそらく年配であろうあの女性は、ぼくの質問に対して、子どもが孫を出産する時のような気持ちで応えてくれた。「個人」を複雑な「社会」に晒し、言葉を発してくれた。女性のたった一言で、ぼくはあの時、確かに救われたのだった。

**言葉にする。言葉を探す。**

著者は、日常で見たものや現象を概念化し、独自の言語をつくり出す癖があるといいます。言語化能力にたけている人は素晴らしいと思いますが、言葉にすることも、大人になったらみんなできる、というわけではなく、手段として、よりよい活用方法を模索していく、永遠の過程なのだろうと思いました。

__違和感を言語化しなければ、いつのまにかそれが是とされ、自分も周囲の人間も何となく受け入れてしまう。

__情報が溢れるこの時代に違和感を覚えるなら、言葉を荒らげるでも、ロをつぐむのでもなく、新しい言葉を探していく態度が必要だと、ぼくは思っている。「今」を表現する適切な言葉がないならば、周りにじっと目を凝らして、言葉を獲得していくことからやり直してみよう。

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2024年09月07日

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