あらすじ
勉強が楽しいはずない。特に子供が勉強しないのは「勉強は楽しい」という大人の偽善を見透かしているからである。まず教育者は誤魔化さずこれを認識すべきだ。でなければ子供が教師の演技を馬鹿馬鹿しく思い両者の信頼関係が損なわれる。僕は子供の頃あまりに美化された「勉強」に人生の大事な時間を捧げる必要があるか疑った。が、現在(正確には21歳から)は人は基本的に勉強すべきだと考える。そう至ったのは何故か? 人に勝つため、社会的な成功者になるためではない。ただ一点「個人的な願望」からそう考える理由を、本書で開陳する。
...続きを読む感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
森博嗣さんの本は飄々としていて、凝り固まった私の考えに新しい視点を与えてくれるので最近はまっていて、気になったタイトルがあったら手に取るようにしている。
現在、試験勉強をしたり英語の勉強をしたりと、勉強を日常に組み込んでいることもあり本書を読むことに。
---
森さんによれば、勉強の楽しさは作りたいものへ近づくプロセスが生み出している。そのため、教える側が手を差し伸べすぎると勉強はつまらなくなってしまう。
学校教育ではかられる個人の能力さの優劣は、人間の優劣ではない(森さんは学校の集団教育に懐疑的)。学校の試験において数値で測られる経験を通じて「いかに知識を蓄積するか」が勉強であると勘違いしてしまう。
ただし、学校教育に意味がないわけではない。
子供の時にイヤイヤながらも広いジャンルを勉強したからこそ大人になって選択して学べるようになることもあるためだ。
ただ、多くの人が勘違いしているのが、「学びたい」という気持ちを「教えてもらいたい」と解釈してしまうことである。
本来、創造的な体験は、自分の頭の中から湧き出るもの、極めて個人的な経験であるため、外部からは、せいぜいヒント的なものしか得られない。「教えてもらう」姿勢では主体性がなくなってしまう。
そのため、自分を自分の先生にして学ぶのが一番いいのだが、そのためにどうすればよいか。森さんは「考えることから始めましょう」と述べている。
問いを考えたら、調べたり周囲に助けを求めるのではなく、まず自分が答える。
名前という知識があっても、それがどういうものかがわからないと教養とはいえない。そういった知識の集積はコンピュータのほうがはるかに得意だし、知識を収集しても本当の勉強ではない。答えることよりも問う方がずっと難しいのだ。
「気づく」と「思う」「考える」の違いについての森さんの考えが印象的だった。
「気づき」は、ある像について「思う」ときに、予期しないところから湧き上がる別の「思い」があり、それらを関連づけることをいう。
本当の楽しさは個人的なものであり、自分一人でも楽しくて仕方がないものではないだろうか。
---
学校教育の中でいかに高得点・好成績をとるかを意識して来た身としては、目が開くことばかりだった。
制限時間のある試験は、発想できない子どもを作るのではないか?との問いかけにドキッとしたし、「勉強する」≠「教えてもらう」については反省するしかなかった…
数学の応用問題が苦手な自分には数学の面白さが今までわからずにいたのだが、「おもしろい数学」のような本を読んだりしてわかった気になるのではなく、自分の中から湧き上がる「これがしたい」「これはなぜだろう?」という動機によって動かされないと本当の面白さは分からないんだろうなと感じた。(N=1ではあるが)研究者の考えに触れられたような気がして、やはりおもしろい読書体験だった。
試験等の目標に向かって頑張るのもいいが、それで本当に何がしたいのかを忘れないようにしたいと思ったし、心から楽しいと思える活動が見つけられれば幸せだろうなと思った。
Posted by ブクログ
暗記ものの勉強を諦めた
たしかにそうだよな。自分で暗記するよりも、調べたり、メモしたり、大人になったらカンニングし放題だもん。限りある記憶HDをそこに割いてしまうのは勿体無い
Posted by ブクログ
勉強は目的ではなく、ある目的のための過程である。よって、その過程である勉強が楽しくなるのは、勉強することで夢が叶うという目的(ゴール)が明確にある場合である。
義務教育は「学ぶという方法」方法を学ぶ場所であるため、「つまらないが我慢するしかない」
多くの日本人にとって勉強とは「知識を頭に入れること」、すなわち「インプット」であるため、応用は「教わっていない」となってしまう。だから、「アウトプット」も勉強であると認識を改める必要がある。
スポーツであれば、運動場などインプットの成果をアウトプットする場と機会が多くあるが、勉強においてはテストぐらいしか知識を発揮する機会はない。このインプット過多で、アウトプット不足が勉強嫌いにつながっている。
Posted by ブクログ
勉強は何かをなしとげるための過程として必要なもの
(釘を打つ訓練)
目的が見えない場合はつまらなくて当然
好きな目的に向けての勉強なら楽しくなる
自分に合った目的に向けての準備となるから
勉強に勝ち負けはない
Posted by ブクログ
筆者も本の中で伝えているが、
本書は子供向けの本ではないし,子供に勉強させたい親が読んでも,ほぼ意味がない。
これは確かにその通り。
本書では大人がする勉強について論じている。
子ども時代にやっていたのは本当の勉強ではないんだよ。
子供が学校で習っているのは,大人になってから本当に楽しい勉強ができるための基礎体力をつけているようなものなんだよ。
本来の勉強はもっと楽しくてワクワクするものなんだよ。
と主張している。
そういう意味では、
学校で教わる勉強への筆者の立場は明快で、キレイゴトではなく本質を突いている点はとても同意できる。以下がその抜粋です。
「その学習は全然楽しいものではない。だが,のちのちの自分の可能性を狭めることつながるので,騙されたと思ってやっておくしかない。「楽しくないけれど,我慢しなさい」と説得することが正しい。」
Posted by ブクログ
「なんで勉強しなくてはいけないのか」という問いは中高生くらいまでは多くの学生が胸に宿す疑問だと思います。また大学生以降も「こんなの意味あんの?」「んなの将来使わないでしょー」という発言に形を変え、同質の疑問を引きずることもしばしばだと思います。
そんな、子供に問われて困ってしまうような疑問について、私の人生の中では一番しっくりくる回答を本作で頂いたと感じました。
・・・
その回答は本作のまえがきで早々に出てきました。ちょっと長いですが引用です。
「さて、(子供が)明確な目的を持つためには、少なからず人生経験が必要だろう。世の中には何があるのか。自分の可能性はどの範囲なのか。そういったことは、二十年くらい生きていないと理解することができない。つまり、夢を見るためには、最低限の基礎的なことを学ぶ必要がある。
そうしたうえで、自分はこれがしたい、というものを見つける。それからが、本当の勉強の始まりである。もう、そうなれば「楽しさ」というエネルギィによって、たとえ誰かに止められても前進し続けることになるだろう。
したがって、勉強は大人のためのものである。子供が学校で習っているのは、大人になってから本当に楽しい勉強ができるための基礎体力をつけているようなものだ。
本書は、子供向けの本ではないし、子供に勉強させたい親が読んでも、ほぼ意味がない。もし子供に勉強させたかったら、まず親が勉強すること。親が勉強に熱中している姿を見せること。そうすれば、「なにか楽しいことがあるのだな」という雰囲気が子供に伝わるはずである。教育とは、本来そういうものではないか、と僕は考えている。(P.31-P.32)
つまり子供の勉強は基礎体力作り、本当の勉強は自ら興味を持って取り組むもの。自分が好きで勝手にやることこそが勉強、とまあこういうことですね。
・・・
こうして始まった氏の勉強論には、確かにしたりしたりと膝を打つ内容が随所に見られました。
曰く、勉強というのは人の能力を高めるすべての行為。人それぞれにやり方があり、机の勉強だけが勉強というわけではないこと(1章)。曰く、勉強は勝つためにするのではないし、受け取り手の意欲がない限り成立しないのが教育であるということ(2章)。曰く、勉強の価値とはその内容の獲得ではなく、その過程で自己を知ることができるということ(4章)。曰く、得意不得意は問題ではなく単なる他人との差でしかないこと、また不得意・苦手の名の下で教科を排除するとその方面の可能性を失ってしまうこと(6章)、等々です。
・・・
こうした氏の意見は、近年のハウツー本にあるような嫌な勉強をなるべく効率的に・そして嫌ではないように自己暗示的に言い聞かせる?かのごときメソッドとは対極にあるかもしれません。それらで述べられる勉強の意義とは大抵は実利的・近視眼的であろうと思います。別にそれが悪いわけではありませんし、そもそも目指すところが異なるので比較すること自体間違いかもしれませんが…。
他方、好きになってしまい自発的に学ぶ行為こそ勉強という方向であることを考えれば、本書の先には読書猿氏のごとき「どのように学ぶか」という独学の地平が開けることと思います。
・・・
ということで元名大教授の勉強論でした。
語り口が平易で分かりやすく、内容も子供から成人にまで広く関わりのあるものだったと思います。その点では、筆者自身子供向けではないと言及されているものの、勉強が嫌いなお子さんから再度勉強を始めてみたいという大人の方まで、ひろく読書に値する作品であると感じました。