あらすじ
失踪した夫の日記には、「真鶴」とあった
夫は10年以上前、日記に「真鶴」と記して失踪した。京は娘、母と3人暮らしをしながら、恋人と付き合い、真鶴と東京の間を往還する
感情タグBEST3
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この作品の1番の好きなところは終始、静かなところ。
静かだからこそ、娘を愛する気持ちや、礼を憎む?愛する?恋しがる?気持ちが熱く伝わってくる。
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いま私がもっとも関心を寄せている作家・髙村薫さんが、「川上弘美に出会えたことが大きかった」と語っているのをどこかで読み、それがきっかけで、この作品を手に取りました。この『真鶴』という小説は、独特のリズムをもつ文章で、人の心の深いところへ、静かに、まるでさまようように潜っていきます。そうして、人が生きていくということの核心に、なんとかして触れようとする。その結果、人が生きていくうえで、ある種の支えになるような言葉の連なりが生まれ、他にはない種類の小説になっているのではないかと感じました。
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夢の現実の間のような儚いふわふわとした時間がずっと続いてるような
繊細でいつも寂しくて壊れちゃいそうな主人公の気持ちが、独特のふわふわとした柔らかい表現で表れてて、でも具体的で、なんていうか、すごいものを見たって気持ちでした
主人公の気持ちの前向きな変化がわかりみがふかくて、かなりすきだったな
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たびたび訪れた真鶴。
狂おしく愛しい、憎んだ夫。
既婚者の恋人。
難しくなる思春期の娘。
ついてくる女。
自分て‥、まだ生きていていいの。
この年になるまで気づかなかったけど、
女のひとって若いときだけでない、
年代それぞれに美しさがある。
自分が思っているよりお綺麗なんですよ
とみなさんに伝えたい。
危うさもある。凛としたとこもある。
艶っぽさもある。透明でもある。
なんか好きな作品だった。
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揺れるような不思議な小説。小舟で揺られているような。
自分にとっては、仕事でしばらく忙しく、別のところに連れていかれるような感覚があり、心地よかった。心地よい・・ちょっと違うかな。。心の中に深く潜る・・というか。。自分はこのような状況に陥ったことはないし、異性だし、確かに理解しているとは感じられない。でも、どこかの自らの心象風景に近づくことがある。
最初の文に>>
歩いていると、ついてくるものがあった。
まだ、遠いので、女なのか、男なのか分からない。どちらでもいい。かまわず歩き続けた。
・・・
布団はすぐに敷きます。風呂は地下です。そっけなく説明する息子が出て行ってから薄いカーテンを引くと、すぐ際に海が見えた。波音がする。月は出ていない。波を見ようと目をこらしたが、灯の数が足りなかった。部屋はずいぶん前から準備されていたようにむっと暖かだった。窓も開け、冷えた空気を入れた
>>
最初は主人公がどこにいるのか、男性なのか女性なのかもわからなかった。
文章に好き、嫌いがあるが、すぐに好きになった。途中、ひらがなが多かったり、普通は使わない「たゆたう」などの言葉が出てきて、読みにくいと感じることもあった。でも、独特のリズムがあり、行ったり来たりする、人の気持ちの揺らぎを、自分事として感じることができたように思う。
ついてくるものは、最初、はっきりしない。途中からリアリティをもって感じられるようになってくる。主人公のメンタルも崩れる一歩手前までくる。それが離れていくことになるが、メンタルの危機は離れ、明るい前向きな気持ちに変わっていく。
まるで人生そのものではないか。単に恋愛だけでなく、いろいろなことを考えてしまった。
また、読み返したい。
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心の中の葛藤が正直過ぎて切なくなる
がんばったね
辛かったね
時間が
大切なものの存在が
現実に導いてくれたね
執着しない事が「トレンド」な昨今
それに反した執着ありきの
とてもシンプルで普遍的な「愛」のお話しでした
こんなふうに
さらけ出した文学はとても好物です
幽霊の解説もとても良かった
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読書開始日:3月22日
読書終了日:4月2日
所感
書き終えた所感が消えてフレッシュさを失ったかもしれないが、再度書く。
仕事で忙しかったこともあるがとにかく読み進めるのが難しかった。
理解できない、わからない、掴みどころがない、この感覚のまま進み始めた。
後半部になって、自分も少し感じたことがあるような感じになり、終わりを迎えた。
真鶴から東京へ、現実に戻る感じを少し味わえた。
解説を読んで、要約理解をすることができた。
自分にも、みんなにもそれぞれ幽霊がいる。そしてその距離感覚は人それぞれ。
自分と幽霊の距離を感じる時に、次第に太陽が遠くなり、陰影が大きくなり、やがてモノクロになる。
京は春夏秋冬を通じて、距離を戻した。
そして太陽が近づき、最後には世界が煌びやかになった。
京が言ってくれた。
時間が解決する。
ほのぐらいみちを歩いていても時期に馴染み、距離が次第に近づき、太陽をとりもどす。
そして、世界が煌びやかになる。
またやがて、ほのぐらくなろうと、時間が解決する。
解説の受け売りに自分の想いも少しのせて所感を書いた。
書いているうちに、感動が溢れて鳥肌がたった。
ようやくここですごい作品だと思えた。
距離がなくなったことを体験できた。
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わたしには、強烈な本でした。京は、失踪した夫、礼をずっと追い求めています。いつまで引きずっているの、気持ちはわかるけどいい加減・・と言いたくなる。
歩いていると、ついてくるものがあった。これはついてくるものとのお話。京の心の葛藤、立ち直るまでの心模様。
きっと、真鶴は女との修羅場だった場所でしょう。
空想の中では、逆上して刺したり、首を絞めたりしている。この現実かわからない、とりとめもなく入り混じった表現が好きすぎて。
「ついていかなきゃならないの?声に出して聞いてみたが、音にならなかった。それで、女との会話が、実際の声ではなく、からだの内側でおこなわれているのだと知った。」京がこたえを言っている。
そんななか、実母と娘のやりとりは現実味があって、わかる部分が多かった(この場面では現実にもどる感じ)。
わたしの頭の中では、礼は、清原翔さんで、京は川上弘美さんが浮かんだ。
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寝る前から読み始め、次の日のお昼頃には読み終えた。
真鶴、まなづる。
良い響き。
神奈川県に真鶴半島という場所がある事をGoogleに教えてもらった。
文章から真鶴の海の香りを感じ、瀬戸内海の海の香りも感じた。二つの海の香りは全く違く感じた。
ついてくるもの、とは何だったんだろう。
この物語からたくさん、"距離感"というものを感じた。
京と娘の百、礼、青茲。
皆、距離を感じた。
京と礼の、近づきたいのに近づかせてくれない押し問答は読んでて途中とても辛くなってしまった。
主人公京と1番距離が最終的に近かったのは多分、ついてくるもの、だっただろう。
友達、になったんだと思う。
京自身だったのか…私は多分違うと思った。
思春期である娘との距離感、親離れ子離れの瞬間を、共感出来る言葉で表していた。
母と娘、という密着していて一体化していたものから、人と人、になる。
寂しいのか、嬉しいのか、わからない感情。
京と京の母の関係を見ても、くっついたり離れたりするものなのかもしれない。
でも、手放さないと手に入れられないものがある。
最後、京は手放す事ができた。
真鶴に行って、心という入れ物を空っぽにする事ができた。
空っぽにしないと満たされない。
女でもあり、母であった京。
最後は光が満ちて終わるこの物語。
ずっと、長い詩を読んでいるような感覚だったが、最後まで読んで、物語だった事に気づく。
とても良かった。
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面白かった! 川上弘美は「先生の鞄」しか読んだことがなかったけど、こんな不思議な幻想的な小説を書くとは知らなかった。
1歳の娘をおいて失踪した夫の影を追って幽霊のような女と共に神奈川の真鶴をおとづれる主人公。彼女の夫への執着が切なく、時々怖かった。これほどまでに誰かに執着する人はいるんだろうか。あまりにも激しすぎて愛とはまた違う気がする。
時折挟まれる主人公と母親と娘の生活がほっこりする。母に老いの影が迫った時、子どもが自立していく時、私も主人公のような気持ちになるんだろうか。
Posted by ブクログ
夢か現か、その境界が曖昧というか...どちらも主人公にとっては本当なのだと思う。
人との距離感をぴたりと表現しておきながら、登場人物同士はぴたりと合わない寂しさ。
それでも/だからこそ、誰かを強く想うのかな。自分にそんな気持ちあったっけ?と振り返った。
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2007年の芸術選奨文部科学大臣省受賞作品。読んでいる間、主人公「京」の視点になった。読んでいる側なのに、憑依されて読まされているかのような感覚。
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最初から最後までこの空気がたもたれていることが、まずはとんでもない。それぞれの存在と、それからその不在とが、遠近とか濃淡でしかないような、あいまいさがすごい。そうした物語の世界は幻のようだけれど、実際にぼくたちのいだいている認識というものを突き詰めていくとそれはすごくあやふやなもので、そういうなかで明瞭に立ち現われる死という事実は、それが行政的なものに過ぎないからこそ、明瞭であるように思われるのかもしれない。
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夢と現実と過去と妄想を頻回に行き来しているのと、主人公の話し方が独特なので、やや読みにくいかもしれません。が、途中からは主人公と青磁の関係や、礼のゆくえ、「女」の正体に惹かれて何だかんだ最後まで読めました。好みの分かれる作品だと思いますし、中だるみするところが何ヶ所かあります。
タイトルにもあるけどなぜ「真鶴」なのか?今夏にこの作品とともに真鶴へ訪れたのですが、何となく理解できました。例えば熱海だったら賑やかで適さないだろうなーって
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真鶴という場所にはたびたび行ったことがあり、縁がある。その流れで読んだ一冊。
文体が綺麗で儚げで、特に句読点の多さや漢字で書くところを平仮名としたりなどの書き様がそのあたりを演出しているように思った。
あとがきでようやく気がついたが、主人公は少し精神を冒されているという状態だったようだ。最後まで感情移入が難しかったが、夢現の描写はとても美しく感じた。
Posted by ブクログ
あなたにとって、思い入れのある場所はどこでしょうか?
世界には数多の観光地があります。例え仕事をやめて一生そんな観光地巡りをしたとしてもその全てに行き尽くすことなどできません。もちろん、観光地といっても幅があります。例えば、それを世界遺産だけと限れば行き尽くすこともできるかもしれません。しかし、それでは単に巡ること自体が意味となってしまいます。もちろん、それも考え方ではありますが、せっかく訪れるのであれば、自身が行ってみたいと感じる場所に行きたいものです。
そう、私たちはそれぞれに嗜好が異なり、世界各地のどの場所に心囚われるかは当然に異なります。”リピーター”という言葉がある通り、新しい場所を次から次へと訪れることよりも自分が好きと思える場所に何度も訪れる、それがその人にとって心地よい時間と考えるのであれば、もしくはその場所を訪れること自体に何らかの意味があるのであれば、その行為は単に新しい場所へ行くことを目的とした旅よりも遥かに意味のあるものなのだと思います。
さて、ここに「真鶴」という場所へ何度も赴く一人の女性が主人公となる作品があります。
『また、真鶴へ?…真鶴に、いったい、なにがあるの』
そんな風に実母に訊かれ、
『なにも、ないけれど、いく』
そう答える主人公が登場するこの作品。そんな「真鶴」の地を訪れて『こうしてまた真鶴へとひきよせられて来たのか』と、自らの心の内に目を向ける女性の姿を見るこの作品。そしてそれは、そんな女性が『真鶴に置いてきたもの』を知り、その先に歩き出す瞬間を見る物語です。
『歩いていると、ついてくるものがあった。まだ遠いので、女なのか、男なのか、わからない。どちらでもいい、かまわず歩きつづけた』というのは『入り江の宿を出て、岬の突端に向かう』主人公の柳下京(やなぎもと けい)。『東京駅で人と会う用件があ』り、その後『中央線に乗ろうとしていたのに、どうしてか東海道線に足が向かい、乗った』という京は、『心ぼそくな』るのを『我慢した』挙句、『真鶴』で降りてしまいました。『母親年配と息子年配の男女の二人でやっている小さな宿に、泊まった』京は、『「朝食は」と聞く息子の声に、おぼえがあ』りますが、『それが誰なのか思いだせ』ません。その後、『地下にある』暗い『風呂』に入りながら、『青茲(せいじ)のことを思いうかべ』る京は『カーテンの隙からみえる外の色が黒から青に変わるころ』眠りにつきました。そして、九時過ぎに起きた京は、『岬までの道を聞』くと、宿を後にします。『ゆるやかなのぼりの一本道だった』という道を歩いている時、『息子の声が、誰に似ているのかを思い出し』た京。それは、『失踪した夫、十二年前に突然姿を消した夫の、寝入りばなの声に似てい』たのでした。『何のしるしも残さず、居なくなった。消息は、今もいっさい聞かない』という夫の礼(れい)。そんな時、『ついてくるものが、す、と離れていった』のを感じた京は、『夫が失踪して二年間』のことを思い出します。『母に頼んで一緒に住まわせてもらい、来る仕事をすべて引き受け』という日々。そんな日々の中で出会い、すぐに関係も持ったのが青茲でした。再び歩き始め『岬の突端が近づいて』くると、『またついてくるものがあ』ります。『こんどは女だ』と思う京は、『ついてくるもののことを、誰に話したことも』ありません。そんな京は、『夫は死にたいと思ったのだろうか。それとも、生きたいと思ったから失踪したのだろうか』と考えます。そして、駅へと引き返した京は、『各駅停車』に乗りました。場面は変わり、『ただいま』とよびかける京に『あいまいな声をたて』るだけなのは、娘の百(もも)。一方、『母は買い物に』出かけていることを知った京は、百に『今日のお弁当、なんだった』と訊きます。それに『鶏だった、少し甘いの』と答える百は『来週の水曜、保護者会があるよ』と言います。それに『出席に丸して、出しといて』と伝えた京。そんな中、『母が帰ってき』ました。『真鶴、どうだった』と訊かれ、『つよい場所だった』と返す京。そんな京、母、そして百という女性三人の日常と、京の元にあらわれる不思議感あふれる『ついてくるもの』が描かれていきます。
“12年前に夫の礼は失踪した、「真鶴」という言葉を日記に残して。京は、母親、一人娘の百と三人で暮らしを営む。不在の夫に思いをはせつつ、新しい恋人と逢瀬を重ねている京は何かに惹かれるように、東京と真鶴の間を往還する”。そんな風に淡々と舞台背景が紹介されるこの作品。2007年に”芸術選奨文部科学大臣賞”という賞も受賞しています。
それにしてもこの作品は兎にも角にも「真鶴」という地名、漢字ふた文字の書名と、表紙目一杯にこの二文字だけを配するという大胆極まりない表紙がインパクト絶大です。そんな「真鶴」という土地を、あなたは訪れたことがあるでしょうか?残念ながら私にはあまり縁のない土地で朧げながらおおよその場所を知るのみです。そんな地には半島があり、その形が”鶴”に似ているからという理由で「真鶴」と名付けられたとされています。思わずGoogleMapを開いてみましたが、三浦半島と伊豆半島の間にこんな不思議な形をした場所があるとは今の今まで知りませんでした。中学校の教科では地理が一番好きだったんですけどね(笑)。さて、そんな「真鶴」は”東京”からJR東海道線で18駅・1時間34分という距離感の場所でもあります。この作品には、小田原、国府津、そして熱海といった同じくJR東海道線の駅名も登場します。何せ書名が「真鶴」ですから、そういった位置関係をおおよそ理解してから読書に入るのが吉だと思います。
では、この作品を見ていきたいと思いますが、やはり「真鶴」なんだと思います(笑)。上記の予習ではなく、本編に記される彼の地の不思議な魅力を見ていきたいと思います。まずは、「真鶴」の海を描写した箇所をどうぞ。
『海はつまらない。波が寄せるばかりだ。中くらいの岩に座って沖を見た。風が強い。飛沫がときおりとどいて濡れる。立春はとうに過ぎたというのに、寒い日だ。船虫が岩の下に入ったり出たりする』。
もう一箇所どうぞ。
『風が強い。さきほどよりも、さらに強くなっている。港の中はいくぶんか波が低いが、堤防をけずりとる勢いでどんどん外から波がおしよせてくる』。
どうでしょうか?もちろん季節ということもあるとは思いますが、それでも「真鶴」という土地、そしてその海は太平洋に面しています。まるで日本海を思わせるようなこの海の描写に驚きます。ほんの50分、東へ車を走らせれば、湘南の海と考えてもこの表現の厳しさには驚くしかありません。そして、そんな『半島の突端』でバスを降りた主人公・京が辿る景色を見てみましょう。
『いったん崩れて、またあらわれた白いレストハウスが、今は元のかたちを残さぬほどに朽ち果てている』と、『いつか来た場所』へと降り立った京は、『岬から海へ降りる階段を』進みます。『階段がとぎれると、コンクリートでかためた斜面があらわれ、しばらくするとまた階段になる』という先に、『凪だ。潮が引いて、沖にある大岩までつづく岩礁があらわれている』という光景を目にした京。『岩から岩へ、飛ぶようにしてゆく。大岩はきりたっていて、のぼることはできなかった。引き返して、海岸から水平線をみる』という京は、『夕日がしずんでゆくまで、みつづけ』ます。
こちらも上記した日本海を思わせるような荒れた海の表現の延長線上にあるような雰囲気が漂います。これが次に挙げる事がらと雰囲気感を見事に共通とし、物語世界を作っていきます。上記した通り、私は「真鶴」という地を訪れたことがないのでなんとも言えませんが、ある意味とても絵になる土地とも言え、是非訪れてみたいと思いました。
そして、この物語世界の雰囲気感を終始支配するもの、それこそが、物語冒頭に『歩いていると、ついてくるものがあった』と、物語を読み始めた読者をいきなり不穏な空気が包む『ついてくるもの』の存在です。川上弘美さんの作品には人のようでいて、人ではない存在が登場するものがあります。例えば「龍宮」では、”おれはその昔蛸であった”と話す存在など、”不思議世界のイリュージョン”を八つの短編それぞれに魅せてくださいます。一方でこの作品に登場する『ついてくるもの』とは、さらに抽象的です。
・『ついてくるのは、海のものかとも思った』。
・『うじゃうじゃついてくることが、ときたまある… 二十人も、三十人も、いっぺんにくる』。
・『密度の高いものだった。人間ではない、毛のはえた動物のようなもの。安定期に入り、つわりがおさまったころのわたしに、似たもの』。
なんだかわかるようでわからない不思議な存在、それが『ついてくるもの』です。物語では、そんな『ついてくるもの』の中でも、
・『女はまだついてくる。言いたいことがあるのだろうか』。
・『その女が二日つづけてついてきたので、ふたたび真鶴に行こうと思った』。
という『ついてくる』『女』に集約されていきます。明確に複数回ついてくることから、『言いたいことがあるのだろうか』と思う京は、「真鶴」へと向かいます。それこそが、『礼となにか関係のある女だという気がした』という感情に基づくものです。
この作品で主人公を務める京は、『頼まれていた小説の、最初の稿ができた』という表現から小説家であることがわかります。作品中、特に後半になって、そんな小説家・京が執筆を行う場面も登場しますが、一方で、内容紹介にもある通り、そんな京は『十二年前に突然姿を消した夫』に今も心を囚われています。それを「真鶴」の海の表現の延長線上にこんな表現で描く川上さん。
『礼は、引き潮のようだった。踏みしめていても、からだをもってゆかれる』。
そんな礼が書き記した日記の中に『失踪のひと月ほど前の日付』で書かれた「真鶴」のふた文字にこだわる京。そんな京は一方で青茲という『家庭というものに属している』男とも逢瀬を重ねていきます。物語は、そんな中途半端な状態の中で心が揺れ続けている京の心の内を『ついてくるもの』の存在を絶妙に重ね合わせながら描いていきます。この表現が絶妙です。『風呂をで、青茲とちがって』、『息子が紙に鉛筆で説明した』、そして『するとき、青茲は声をたてる。笑うときには、たてないのに』と、文字を追っていくとどこか引っかかり感じる表現の数々が読書のスピードを落とさせます。そして、上記したように太平洋を描いているのに何故か薄暗い、鬱屈とした風景の描写が心をどんよりさせます。さらには、これまた上記した通り『ついてくるもの』という、どこかこの世のものでないものの存在が読む者を鬱屈とした空気の中に閉じ込めていきます。これは不思議な読書です。読むのをやめたくなるのにやめたくない、早く読み終えてしまいたいのに、読み終えたくない、なんとも摩訶不思議な感情に包まれます。そんな中に、一つの結末を見る物語、「真鶴」という地名に、心囚われる物語だと思いました。
『夫は死にたいと思ったのだろうか。それとも、生きたいと思ったから失踪したのだろうか』。
そんな思いに囚われたまま十二年の歳月を送ってきた主人公の京。この物語では、そんな京が「真鶴」という地を幾度も訪れる先の物語が描かれていました。どこか読みづらい文章の連続に、結果として一文一文にじっくりと向き合うことになるこの作品。『ついてくるもの』という謎の存在に心囚われるこの作品。
本文中に70回も登場する「真鶴」という地名に、読者まで心を持っていかれそうにもなる終始不思議な雰囲気感に包まれた味のある作品でした。
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川上弘美さんの文体が美しい。いるはずもないものを語るとき、そこにはリアリティがあった。
「ーーみなひとしく日を受けている。目をつむり、両のまぶたいっぱいに日を受けるーー」
主人公の京は全身に、目に見える世界に光を感じて、失踪した夫に想いを馳せる。ついてくる女はもういない。
Posted by ブクログ
芸術選奨文部科学大臣賞受賞作。
文学らしい文学。純文学と呼ぶに相応しい。
過去形と現在形が入り混じる独特の文体に、始めは戸惑ったが、次第に慣れてきた。短いセンテンスは詩の旋律のよう。
12年前に失踪した夫に囚われ続ける京(けい)。娘の百(もも)と母と女3世代の暮らしはどこか危うい。
夫の日記に書かれた「真鶴」に旅をする時に「ついてくるもの」が…。その正体は⁈
先が気になる、というよりは【目が離せない】小説。
現実と幻想、愛と情欲、遠くと近さ、そこには区別があるのか⁈ ひらがな表記のこだわりや、美しい日本語の動詞や形容詞もとても魅力的。
Posted by ブクログ
本当によかった
日が差し光り輝くものへの愛おしさ
自分が子供になったり大人になったり頑なになったり薄くなったり、母に対して痛みをくわえてしまっていることとか、でもそれは自分でもどうしようもないことだったり 形の定まらなさ
どうしても満たされなくて何かを求め続けていて 本当に相手を愛しているのには間違いないのだけれど 相手ではなく結局自分を見ているのだけだということとか
最初から最後まで何かドラマ展開があるわけではなくただ淡々と移りゆく日常とか心情とか関係性とか細かく掬い取られてゆく
今目の前にあるもの 感じられることが本当のことでそれを確かめながら生きていくしかない それは一見不安定で不確かだけどそこに大きな救いがあるのだ
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喪失と、「距離」の物語。「距離」とは、他人との距離でもあり、自分との距離でもあり。
百の成長と、それに伴ってなくなってくるもの。時間が経つに従って、変わってくる他人との関係(百でも、母でも、青茲でも、礼すらそうだ)、それに伴う何かの喪失。喪失がいいことなのか悪いことなのかは分からない。決めるのはその人間との距離と関係のような気もする。自分の中での喪失もまた然り、であろうか。
水のようにひたひたと様々な「距離」にふれ、最後は光が差してくる。光が差すのをハッピーエンドと判断するのは楽観的すぎると思うが、自分と他人と向き合い続けたこの物語の末には少しでも希望があって欲しいとは思った。
Posted by ブクログ
1歳児を育てている身としては、娘の百が母からどんどん離れていくこと、娘の言葉に母が疵付けられることがあることが苦しかった。
セックスエデュケーションの中でも、主人公の母ジーンが「息子に傷つけられる」と話し、それに対してのちに恋人になるヤコブが娘にたいして"hate"という言葉を使っていたので驚いた。思春期に入った子どもたちに親はここまで傷つけられるのか、と思った。
いまこんなに一緒にいて、くっついて、その柔らかさ温かさを共有してくれる娘が離れていくなんて想像がつかないし、そのとき私がどんな風に感じるかも実感が湧かない(もちろん身が捩れるほど寂しいだろう、とはぼんやりと想像できるけど)。いつか私がhateするほど、娘は私から離れてしまうのか。
そして苦しんだ後、また娘の棘がなくなって、一緒に過ごせる時間が増えていくのか。そういえば私も中学生の頃は親と折り合いが悪かったもんなー。あの頃のお母さんはやはり傷ついていたのだろうか。私はお母さんを傷つけていたのだろうか。
お父さんのことももちろん傷つけてたんだろうけど、お父さんとは元々そこまで精神的距離が近かったわけではないからな。やはり母親と子ども、というのは父親と子ども、という組み合わせに比べると、ぐっと距離が近いと思う。
母親が専業主婦だったかどうかは関係ないような気がしており、やはり妊娠出産を通したホルモンの影響が大きいのかなあ。不思議だ。
礼のことはふーんと読み流してしまい、むしろ娘と主人公の関係性が印象的だった。
Posted by ブクログ
真鶴に行く理由、ついてくる女⋯
失踪した夫に思いをはせ、女と会話をするが礼のことは、曖昧で⋯
最後は希望の光が差したかのようで終わりは良かった。
Posted by ブクログ
こういう雰囲気を大事にする本は、静かな場所でゆったりと読むべきでした。
雰囲気はよかったのです。
ひとつ。
この間集合施設のトイレで「おばあちゃま」と言っていた女子大生かそのくらいの若い女性がいました。
それに少し驚いていたところだったので、本書の百もそう呼んでいたので、また少し驚きました。
Posted by ブクログ
他者と自分の境、自分であること、他人であることとは一体なんなのだろう。
これまで読んできた川上弘美作品のなかでもかなり独特で、読み終わるのにだいぶ時間がかかった。
霧の中をゆっくり小舟で進むような物語で、時に掴めない表現のかさなりになんだか眠くなったりもした。
しかし不思議と退屈さはなく、真鶴に引かれるようにして通い続ける主人公のようにつらつらと読み続けた。
特に最後の方は波にひかれるように読み切ってしまった。
喪失に折り合いを付ける、というのはとても時間のかかることで、相手が自分の中に食い込めば食い込んでいるほど難儀で、相手がいない以上明確な回答はどこにも存在せず、存在しないゆえに輪郭をもちすぎた喪失に引き込まれてどこかに行ってしまいそうになる危うさは、なにか分かる気がした。
Posted by ブクログ
最後の解説を読んで、なるほどと思った。正直、内容は難しかった。かったけど、なぜか読みたい、続きが知りたく読み進めた。主人公の京が自由なのに不自由で…苦しくて、でもそんな彼女が羨ましい。そんな感じを受けた。
女性は、憧れてしまうのだろうか。どうだろうか。文章の一つ一つが一連の真珠のような哀しい、美しい本。
Posted by ブクログ
自分の中で深い喪失経験が来た時にまたじっくり読みたくなる本
主人公 京の頭の中は、ずっと夢遊していて何が現実なのかもよくわからないようなふわふわフワフワしているのだけれども、すごく読み応えがある文章である。
まさに純文学という感じだ。
朝っぱらに読破してしまったので、夜とか1人で寂しい時とかそういう時に読んだ方が、良さそうだ
見えないものが見えちゃう被害妄想的なところとも違う でも絶対に現実的ではない場面をフワフワとしつつ鮮明に頭の中に浮かび上がらせる それはすごい
Posted by ブクログ
失踪した夫の妻である女が主人公
「真鶴」と言葉を日記に残して消えたのはなぜか?
ついてくる女は誰なのか?
妻は真鶴へ何度も行くが・・・
妻はあいまいなことも言いながら
どれが現実、事実なのかはわからない
ちょっと消化不良な感じではありました
Posted by ブクログ
何だろう、正直あんまりわかんなかった
実態のない虚像について語られているような、ふわふわした作風だった。
けどこの作品は、わかる、わからないじゃなくて
感じる感じないの作品だったと思う。
Posted by ブクログ
ご当地ソングというのがあるが、ご当地小説も興味あるもので。
川上弘美『真鶴』
まさにそう、ご当地小説である。川上弘美氏(96年115回芥川賞)という作家も初だから興味があり、さらに地名にも反応して文庫版化なったのでさっそく読んだ。
「代表作」と帯にあるから芥川賞の『蛇を踏む』や他の作品を読んでいなくても、この方の雰囲気が解かるのか?そうだとすると、幽玄的な幻想の場面が色濃く深層心理に迫る、それでいてふんわり感がただよう作風だ。
ストーリーは失踪した夫を探して「東京」と「真鶴」往還して半島を彷徨う主人公の物語り。失踪した夫が「真鶴」と手帳に書き残したのが唯一の手がかりだったから。といっても『ゼロの焦点』のようなミステリ展開ではないけれども。
さまよう主人公には幽霊のような「ついてくるもの」がある。幻覚を見てしまう、その姿は失ったもの、去ったことを受け入れられない深い悲しみが表されている。
わたしがもっとも興にのったのはもちろん地名。わたしも「往復」もしていたし、そこが共感かも(笑)細かに述べられている風景、情景はその通りである。
それが小説の雰囲気をかもすなら、『ゼロの焦点』の能登半島と同じように観光誘致になる。しかし、江ノ島や鎌倉と同じにここも昔から東京近辺の手軽な遊興地ではある。いまさらである。
歩けるちいさな半島、突端の鬱蒼とした森、その下に集まる魚の宝庫の漁場。海の端の魚料理店数々。小説には出てこないが「小松石」の産地(といっても希少になったらしいけど)。その他源頼朝関係の史跡などいろいろ。
小説は半島をさまようことがメイン。発端、「京」という主人公がひとりで真鶴半島にて「鯵料理」を食する場面がある。
鯵たたき定食を頼んだ。
細かく叩いたものではない。親指の先ほどに切った鯵に、紫蘇とみじん切りの生姜をのせ、ぜんたいにねっとり歯ごたえがあるのは、あらかじめ醤油をからめてしばらく締めたからにちがいない。魚の粗でだしをとった味噌汁と大ぶりの茶碗に山に盛ってあるご飯と余さず食べた。
ひっそりとした海端の魚料理屋。窓には鳶やかもめが飛ぶ姿がみえる。ものさびしい。
だが、主人公が半島をさまように際して腹ごしらえするようでなんだかおかし味も感じる。しかしこの素朴な鯵料理はうまそうだよ。
そう「鯵」は安くておいしい!活きのいいものは尚、うまい!
刺身が一番だけれども、「たたき」各種類もいいし、叩いたものの磯辺揚げ、小鯵の南蛮漬け、アジフライ、干物、数え上げたらきりがない。
わたしが一番好きなのは活きのいいものを三枚におろしてさっと塩し、さっと酢で締めたもの。外側がすこし白くなって中身が生がいい。それを胡瓜の塩もみとまぜ合わせ、上にしらがねぎ載せ、すだちの絞り汁と醤油をたらす。紫蘇の大葉や生姜など刻んでをごちゃごちゃ入れないのがわたしの料理。