あらすじ
「新しい宇宙創造説」「ロビンソン物語」「誤謬としての文化」など、名作『ソラリス』の巨人が文学、SF、文化論、宇宙論を換骨奪胎。パロディやパスティーシュも満載の、知的刺激に満ちた<書評集>。
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Posted by ブクログ
ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムによる『架空の書籍』の書評集。
本の内容を個別のパーツにばらして、ひとつひとつを解説・批評することが書評のおもしろさだとすれば、架空の本の書評はそもそも「全体」がないのに「一部」だけを切り取って摂取することになってまずその経験自体が奇妙で楽しかった。
それを前提に、この本は架空の書評をするというアイデアを超えてすごい。ひとつひとつの「架空の書籍」につぎ込まれている想像・思考が尋常ではない。
『新しい宇宙創造説』『とどのつまりは何も無し』『生の不可能性について/予知の不可能性について』など、いくつの分野でどれだけの教養を蓄えたら書けるのかちょっと想像もつかない。哲学や物理学、文学すべてに精通していなくては書けないと思う。
本を書く時、まずアイデアがあって、それを小説や論説文にするための「梱包作業」がある。「梱包作業」は読者がページを繰るのを止めないような仕掛けを入れたり、起承転結をつけたり、そのアイデアが存分に発揮されるための伏線を張ったりする作業。
「完全な真空」では架空の書籍の紹介により、その梱包作業を放棄してアイデアという甘い果実のみを読者に食べさせている。
難解だがとてもスリリングな知的体験で、贅沢な読書だと思った。
Posted by ブクログ
レムの生誕100年の年だとのことなので、レム祭り再開。
とはいうものの、レムを読むには知力、気力、体力が必要でお酒を飲みながら気楽に流して読むことはできないのです。仕事で疲弊していたころは気力がなくて読めなかった作品群も今ならば!と取り組んだ次第。いや〜、さすがレム。架空の本の批評を作ってそれをまとめた体裁で序文を書くという二重三重の仕掛けがあるうえ、架空の本そのものが、AIをテーマにしていながら神への信仰にまで言及するものから、新しい宇宙創生理論にいたるまで脳味噌痺れるテーマを暑かったものですが、どれも読んでみたいものばかり。
レム氏に実際に書いてほしかった。
Posted by ブクログ
非常に新鮮な読書体験だった。周知の通り、本書は「存在しない本に対する書評集」という、一風変わった内容である。そのコンセプトに惹かれて手に取ったが、架空の書評というアイデアのみならず、一編一編の書評も読み物として大変興味深かった。物語を書くということに対して、「そういうアプローチがあったか!」と膝を打った回数は数知れず、無数の示唆に富んだ一冊だったと思う。
読んでみて思ったのは、「書評集」というよりは、存在しない本のストーリーラインの要約や根幹となるアイデアを示すという趣が強いなということ。他者の批評を引き合いに出して、問題点や要点を論じる形体を取ってはいるが、その小説の大まかな流れを説明することに、決して少なくない頁が割かれていた。
現実には存在しない事象、理論を下敷きとした執筆された書物に対する書評、という体裁をとったものが幾つかあるが、これらはつまり、書評を通じて別の世界を描き出しているとも言えよう。そういう意味では、SFっぽさもところどころ感じられた。その世界に存在するテクストを通じて、世界や物語を描写する、という展開の仕方から、読み味としては、書簡小説に似ているかも知れない。
最後の数編はやや難解で、十分に理解できたとは思えないが、面白く読めたことに間違いはない。突飛なアイデアを包含する本は数あれど、これほどバラエティ豊かなものを、ぎゅっと凝縮して読むことのできる本はそうあるまい。
Posted by ブクログ
短編集
SFらしく、学者のこころに満ちている
● 「新しい宇宙創造説」
“教養のある人ならばこの著作の題名くらいは知っているでしょうし、著者の名前も聞いたことくらいはあるでしょう。しかし、それだけのことです。
Posted by ブクログ
いやー、脳みそ疲れたー。(※鴨注:心地よい疲れヽ( ´ー`)ノ)
「架空の書籍を対象とした書評集」という、何をどうしたらそんな発想が出るのかというぐらいメッタメタにメタな作品なわけですが、ボルヘスが先鞭を付けているそうですね。文学の世界は奥深いよ・・・。
架空の書籍の構成を考え、さらにそれを評価する筋道も立てる必要があるという、面倒くさいこと極まりない構造をしていますが、虚心坦懐に読むとこれがなかなか面白い。特に、前半の小説パートは、こんな本が本当にあったら是非読んでみたい!と思わせる、エキサイティングで冒険的な作品が並んでいます。「親衛隊少将ルイ十六世」と「ビーイング株式会社」は、鴨も是非読んでみたいです。
一方、後半の論文系の作品に入ると難易度がぐっと増し、読み進めるのがかなり困難に(^_^;小説パートはとりあえず脳内にビジュアル・イメージを浮かべることができればついていけますけど、論文系は読む方もがっぷり四つに組んで自分の論理回路をフル稼働させないと、何が何だか分からなくなりますからねぇ(^_^; 正直、半分ぐらいは流し読みしました。でも、「生の不可能性について」「予知の不可能性について」の2冊組(も何も、存在しない本なのだからなーにが2冊組だって感じですがヽ( ´ー`)ノ)が面白かった!最後の最後に披露される、論理的どんでん返しの鮮やかなこと!
20代の自分、よくこれをハードカバーで読む気になったよな、としみじみ思いますヽ( ´ー`)ノ脳味噌を柔らかくするツールとして、オススメです!
Posted by ブクログ
文庫化されて飛びついた、
架空の本の書評群という体裁のメタフィクション短編集
『完全な真空』(1971年)。
順序が逆で、後から刊行されていた《実在しない未来の本の序文集》
『虚数』(1973年)を先に読んだので、
多分ついていけるだろうと思って(笑)。
収録は全16題。
■完全な真空
ワルシャワで出版された
スタニスワフ・レム著『完全な真空』の書評
(という触れ込みの文章)。
■ロビンソン物語
パリで出版された
マルセル・コスカ著『ロビンソン物語』の書評
(という触れ込みの文章)。
■ギガメシュ
ロンドンで出版された
パトリック・ハナハン著『ギガメシュ』の書評
(という触れ込みの文章)。
■性爆発
ニューヨークで出版された
サイモン・メリルの長編小説『性爆発』の書評
(という触れ込みの文章)。
■親衛隊少将ルイ十六世
フランクフルトで出版された
アルフレート・ツェラーマンのデビュー作である
長編小説『親衛隊少将ルイ十六世』の書評
(という触れ込みの文章)。
■とどのつまりは何も無し
パリで出版された
ソランジュ・マリオ『とどのつまりは何も無し』
の書評(という触れ込みの文章)。
■逆黙示録
パリで出版された
ヨアヒム・フェルセンゲルト『逆黙示録(ペリカリプシス)』
の書評(という触れ込みの文章)。
「逆黙示録」は創作活動という無駄(!)に
与しない者が助成金を受け取れる世界で、
あらゆる創造に対する控除額の一覧を提示する。
現代のある種のSNS上での投げ銭システムを予見し、
皮肉を投げかけているような気がした。
■白痴
ミラノで出版された
ジャン・カルロ・スパランツァーニ『白痴』の書評
(という触れ込みの文章)。
■あなたにも本が作れます
Universal社が著作権の消滅した古典文学を解体して
素材とし、どなたにもお好みの本が作れます、
という触れ込みで販売したDIYキットについて。
「超ミニ短篇小説を各家庭の即席文士が作って、喜んでいる」(p.161)
とは、まるで、現代のツイート文化を40年以上も前に
予見して皮肉っていたかのよう。
■イサカのオデュッセウス
アメリカ人の作家、クノ・ムラチェ著
『イサカのオデュッセウス』の書評
(という触れ込みの文章)。
■てめえ
パリで出版されたレイモン・スーラ『てめえ』の
書評(という触れ込みの文章)。
■ビーイング株式会社
ニューヨークで出版された
アリスター・ウェインライト『ビーイング株式会社』
の書評(という触れ込みの文章)。
コンピュータを使ったマッチングによって、
あらゆる事象を意図的に作用させられるようになった
――という一種のディストピア小説
「ビーイング・インコーポレイティッド」について。
■誤謬としての文化
ベルリンで出版された
ヴィルヘルム・クロッパー『誤謬としての文化』の
書評(という触れ込みの文章)。
■生の不可能性について/予知の不可能性について
プラハで出版されたツェザル・コウスカもしくは
ベネジクト・コウスカ教授が物した全2巻の
『生の不可能性について/予知の不可能性について』
の書評(という触れ込みの文章)。
■我は僕(しもべ)ならずや
アーサー・ドブ『我は僕ならずや』の
書評(という触れ込みの文章)。
ペルソナ(人間)とゲネティカ(創造)を合わせた
「パーソネティクス」という名で呼ばれるプログラムの住人、
人間に似た「パーソノイド」
――恐らく今日AIと称されるもの――について。
■新しい宇宙創造説
アルフレッド・テスタ教授による
ノーベル賞受賞時の講演のテキスト
(という触れ込みの文章)。
特に面白かったのは「親衛隊少将ルイ十六世」と
「てめえ」(笑)。
前者はナチスの元親衛隊将校ジークフリート・タウドリツが
第二次世界大戦後、アルゼンチンへ逃れ、
パリシアと名付けた奥地に王朝を築く――という、
コンラッド『闇の奥』を想起させる筋立ての小説評。
実在するなら是非読んでみたいと思ってしまった。
後者曰く、作品の原題はフランス語「toi」。
著者レイモン・スーラは作中で読者に語りかけるのではなく
“読者について”語ろうとしたのだと述べる。
野心的なアイディアではあったが、その試みは失敗に終わった、
何故なら著者が成し得たのは
アクロバティックな言語上の曲芸に過ぎなかったから。
書き手の読者に対する反乱の形式は
沈黙以外にあり得ないのだと、評者は語る。
いずれにしても、訳者の一人、
沼野充義先生の解説にあるとおり、
レムは架空の書物を書くことで、
作家と批評家という二つの相反する精神を結合させたのだろう。
作中に《書評家》の意識が織り込まれることで成立する
メタフィクションの魔術を堪能した。