あらすじ
西欧キリスト教国を「魔女狩り」が荒れ狂ったのは、ルネサンスの華ひらく十五―十七世紀のことであった。密告、拷問、強いられた自白、まことしやかな証拠、残酷な処刑。しかもこれを煽り立てたのが法皇・国王・貴族および大学者・文化人であった。狂信と政治が結びついたときに現出する世にも恐ろしい光景をここに見る。
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魔女狩りとは、異端を排除するためのものだったのだ。
最初は教会も自分達の教えにそぐわないものに対してもおおよそ慣用であった。
しかし、自分達の地位を脅かすと判断したとたん、強硬的な姿勢を露にした。
疑わしいものは罰する。そのような姿勢のもと、残虐な魔女狩りが中世の時代には行われていたのである。
恐ろしいものだ。人は自らの地位を脅かすものや思いどおりにならないものに対して、時と場合によってはこんなにも残虐になれるのだ。
中世ヨーロッパと比較すると認識が弱いかもしれないが、今でもあらゆる領域において魔女狩りは行われているのだろう。これからもずっと。
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15~17世紀の中世ヨーロッパで、「魔女狩り」の嵐が吹き荒れた。
それは、異端審問(inquisitio pravitatis hereticae)ともっともらしく呼ばれながらも、実のところ「狩り」というのがふさわしい、野蛮で残酷な狂気の沙汰であった。
「魔女」と見なされたのは、女性ばかりではない。男性も「魔女」として裁かれることがあった。年齢も問わず、幼児から老人まで、まさに老若男女、さまざまな人々が「魔女」の疑いをかけられた。身分階層も関係なく、昨日は学識ある紳士・純潔な乙女と呼ばれても、今日「魔女」にされることもあった。彼らの多くは、いやすべてと言ってよいのだろうが、もちろん「魔女」ではなかった。得てして「神」に背く気などさらさらない善良な人々が「魔女」として捉えられ、猛火に焼かれた。
記録も不十分なことから、いったいどれほどの人がその犠牲になったかは定かではないが、数十万から数百万の無実の人々が処刑されたと見られている。
なぜそのようなことが起こりえたのか。
1つの背景として、当時、「魔女はいる」ことは大前提であった。教会の大きな権威の元、神に背く「魔女」が必ずどこかに潜んでいるとなれば、人々はそれを探そうと躍起になるだろう。少しでも怪しいことがあれば、「あれは魔女だ」と告発される。よしんばそれに疑いを抱く者があっても「お前は神を疑うのか、魔女をかばうのか、お前も魔女なのか」と言われかねないのなら口をつぐんでしまうだろう。
「魔女」と目されたものは連行され、尋問される。尋問と言っても、裸にして鞭打ったり、指を木ねじで締めつけたり(時には骨も砕ける)、体を横たえて四肢を四方に引っ張ったり、と身体的苦痛を与えるものである。これはすでに拷問だろうと思うわけだが、「公式」にはこれは「予備尋問」であって拷問とは呼ばれなかった。この段階で「自白」が得られれば、「拷問なしに自白した」ことになる。
これでも自白しない場合には(魔女ではないのだから、普通に考えれば「自白」などできないわけなのだが)、本格的な拷問が待っている。体を吊り上げ、吊り落とし、水責めにし、ありとあらゆる残酷な方法が取られる。
「魔女」ではなく、「自白」しようもない事柄を、無実の人々はどうやって自白したのだろうか。
当時は明確な「魔女像」があった。秘密の集会に行く。悪魔との淫行にふける。体のどこかに魔女のあざを持つ。黒犬にまたがって夜空を飛ぶ。
拷問を受けながら、「お前は魔女だろう、これをやっただろう」と言われれば、苦痛のあまりに、身に覚えのないことであっても「自白」してしまうだろう。
魔女狩りに遭った人々は、いずれにしろ「魔女」だと決めつけられているので、どのみち逃げ道はない。「自白」するまで拷問されるか、拷問の果てに死んでしまうかということになる。自白をしない場合には、唆す悪魔の力が強いということになるのだ。酷い例では、手足を縛って池に投げ込むという「判別法」がある。浮かべば魔女の証明となり処刑される。沈めば魔女ではないが結局のところは溺れ死んでしまう。酷い話である。
尋問では、「共犯者」についてもしつこく聴かれる。拷問の厳しさから、心ならずも友人・知人の名前を挙げてしまう。後悔して取り消そうとしても一度口から出たものは取り返しがつかない。それらの人々も連行されて処刑される。
処刑される前に自白を取り消す例もなくはなかったが、多くはなかった。
大抵の処刑は火刑である。だが自白した場合には、火刑の前に絞殺されるのが常であった。生きながら焼かれるよりはましと絞殺を選ぶ者が多かったのである。
審問の際にかかった費用(拷問の費用や、裁判官・処刑人の日当、火刑の薪代等も含む)は、魔女本人が支払うべきものとされた。処刑の後、財産が没収されてその費用に充てられた。「魔女」が裕福であれば、得られる財産も多い。
宗教の名のもとに行われた魔女裁判だが、「金になる」側面が隆盛を助長した面も否定はできないだろう。
いやはや、怖ろしいことである。
パスカルは
人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行なうことはない(「パンセ」)
と言ったという。
自らが「正しい」と信じたとき、それが「権威」と結びついたとき、どれほどのことが起こるのか、心に留めておくべきだろう。
魔女狩りの歴史をコンパクトにまとめた啓蒙の書、一読の価値ありである。
宗教は結局、専制体制の道具。
結局、時の為政者が愚なる民を家畜と設えるツールとしてしか機能しない。
民も民で、流れが構築されればそれに疑問、主体的思考など持たずに身を委ねる。
その流れに異を唱える者は、駆除の対象にされる。異を唱えたものを徒党を組み排除を敢行する。それら愚民は、自身は正義と酔いしれる。
戦時の日本も、畜群たるほぼ全ての国民は軍のすげ替えに踊らされている事に疑念すら持たず、この書物にある様な魔女裁判よろしく「非国民」という「魔女」という名を変えただけの烙印を押し、特高なる破廉恥集団に自身は正義と酔いたいが為に差し出し、命を殺めることに加担する事にすら平然と手を染めた。
そして己が加担した体制が崩れたら、自分は被害者ですと平然と言い退ける。
世界共通であり、時代が変わっても、人種とか国など変わっても、根幹は同じである事が学べる。
今現在にしても、民主主義と唱えながらも結局は法律は選挙屋が自身の都合を通す為にあり、決して民が主として機能するものではない。
宗教も法律も、先制体制の道具だ。
何処までも何時までも愚かであり、愚かなのが人間であることを認識させて貰える。
Posted by ブクログ
魔女狩りが経済的または政治的な事情をはらんでいることについて、非常に腑に落ちる印象を受けた。
富の争奪と政治権力の獲得におけるひとつのツールが異端審問であり、本来の異端審問とは無縁であった魔女であることがわかる。
ツールは為政者の都合の良いように組み合わさり、絶対に否定できない価値のもとに人を拘束する。
現存のかちのもとにレッテルの貼りあいをし続けるという点では、現代の異端審問とは科学的な正しさや自由や平等といったところだろうか。
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
西欧キリスト教国を「魔女狩り」が荒れ狂ったのは、ルネサンスの華ひらく十五‐十七世紀のことであった。
密告、拷問、強いられた自白、まことしやかな証拠、残酷な処刑。
しかもこれを煽り立てたのが法皇・国王・貴族および大学者・文化人であった。
狂信と政治が結びついたときに現出する世にも恐ろしい光景をここに見る。
[ 目次 ]
1 平穏だった「古い魔女」の時代(魔女の歴史 寛容な魔女対策)
2 険悪な「新しい魔女」の時代(ローマ・カトリック教会と異端運動 異端審問制の成立とその発展 ほか)
3 魔女裁判(魔女は何をしたのか 救いなき暗黒裁判 ほか)
4 裁判のあとで(魔女の「真実の自白」 「新しい錬金術」―財産没収 ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
Posted by ブクログ
中学時代なぜこの本を夢中になって読んだのだろうか?
今思うと、宗教への妄信と人間の残酷性が結びついて
起こる倫理の崩壊に惹かれたのかもしれない…
Posted by ブクログ
中世キリスト教国の異端審問の歴史における「魔女裁判」について記述されている。「世界国家」統轄のために作った異端審問制度により、いつしか魔女は異端者であるものとされ、「魔女裁判」にて残虐な拷問・処刑を執行されるまでになった。衝撃的だったのは、「ヒューマニズムと実証主義のルネッサンス時代は、一方では残虐と迷信の時代であった」との記述である。ルネッサンス時代は近代科学の始まりであり、多くの著名な科学者がいるが、彼らまでもが「魔女裁判」肯定派であったとは信じがたいことであった。また、1)知識はその所有者次第で最高の悪徳となる、2)狂信と政治が結びついたときの恐ろしさを認識すべし、3)科学の敵は宗教でなく神学的ドグマである を歴史的教訓として理解できたことはよかったと思う。
Posted by ブクログ
魔女裁判の最盛期がルネサンスの時代である事が、人間の保守性、宗教への依存性が如何に行動を縛っているのか。また、新しい魔女裁判が行われてもおかしくない人間社会の怖さを感じた。
Posted by ブクログ
中性からルネッサンスにかけて、ヨーロッパで荒れ狂った魔女狩りの実態を解説している本です。
ローマ・カトリック教会は、南フランスで展開された異端運動に対してアルビジョワ十字軍を送り込み、鎮圧します。そしてこの事件を機に、教会は異端審問にまつわる制度を整えますが、その制度のもとで残虐な魔女狩りがおこなわれ、無実の人びとが魔女の烙印を押されて、拷問を受け、処刑され、財産をうばわれることになりました。本書は、そうした魔女狩りの実態を明らかにするとともに、それがもっとも激しくおこなわれたのが、近代の曙とされるルネッサンス時代であったことに目を向け、光に満ちた近代へ向けての進歩という、一般に広く受け入れられているヨーロッパの歴史の見かたの背後に存在していた事実をえがき出しています。
著者は、「人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行うことはない」というパスカルのことばを引用していますが、本書に記されているような非道なおこないが、信仰の名のもとにおこなわれたことを知ると、人間性そのものに対する絶望感にとらわれてしまいます。
Posted by ブクログ
参照:
(『ヨーロッパとはなにか』増田四郎, 岩波新書)
「ルネサンスは、文字通り復興であり、再生である。何の復興または再生かといえば、教会中心の神学的世界観に対する人間中心の文化の復興にほかならない。 」
「ヨーロッパ人が……キリスト教圏だと自任するようになるのは、歴史的にはよほど後世のことで、イベリア半島のイスラム支配をはねかえしてゆく過程、とりわけ十字軍の永い遠征の時期からではなかったろうか……。もしそうだとするならば、8、9世紀でなく、12、13世紀という時代が、意識の面でのヨーロッパの成立期だともいえぬことはない。」
引用:
(『魔女狩り』岩波新書 p.178)
「魔女裁判は、中世前期の暗黒時代にではなく、中世末期、ルネサンスの動きとともに始まり、1600年を中心とする一世紀間は、魔女狩りのピークであるとともにまた、ルネサンス運動のピークでもあった。」
要約:
宗教裁判で金蔓からあらかた金を巻き上げてしまい、搾りかすだけでは教会の経済が成り立たなくなると、今度は異端者ではなく魔女に焦点を向けるようになり、そこに更にルネサンスによる宗教改革でプロテスタントが誕生すると、その運動と並行して魔女狩りは大いに盛り上がりをみせる。
Posted by ブクログ
中世の、それもルネサンス期のヨーロッパを中心にして起こった
「魔女狩り」について、その内容や背景について書いた本です。
まず、魔女狩りの前段階として、
キリスト教異端者の撲滅のための審問というのがあったそうだけれど、
それが1人の異端者を滅ぼすためならば、
1000人の無実を犠牲にすることをいとわない、という姿勢だったんだそうです。
当時の異端っていったって、
邪悪な感じの悪魔崇拝とかではなくて(もちろん、そういうのもあったかもしれないが)、
カトリックの堕落を嘆いて聖書原理主義になっていった人たちだったりする。
原理主義といえばテロを思い浮かべる人もいるけれど、
もともと原理主義といっても暴力的だと決定しているものではないですよね。
当時のカトリックは免罪符など、お金の力で清浄が買えるとし、
聖職の地位までお金次第というような体たらくなくせにプライドはやたら高くて、
聖職者の下位のものですら一国の王よりも地位は上だなんてやっていたようです。
そういう腐敗した土壌から魔女狩りが生まれていく。
王も聖職者も文化人も科学者も、
社会的に発言力のある人々のみんなといっていいほどの多くが魔女狩りに賛同して、
たくさんの残酷な火刑などによる死をもたらしたわけで。
魔女狩りの前段階に異端審問の制度がととのい、
さらにその前段階にはカトリックの異端を根絶やしにするためのアルビ十字軍が殺戮を行った。
ヨーロッパのこういった血なまぐさい歴史が
現代のヨーロッパ人の奥深さに繋がっているのかもしれない。
また、なにか、この魔女狩りへの過程から社会学的に教訓としうるものって多くあると思う。
権威ある教会や貴族たちがみな魔女狩りに同意するということ、
負の側にオーソリティがついて、それが正しいとされてしまうこと、
これは怖いことだ。
民主主義じゃなかったから魔女狩りだとか異端審問はおこったのだ、
という考えもありそう。
民主的な自由な気風の南フランスから、
自由な思想としてのアルビ派などの異端が出てきたように、
民主的な雰囲気自体がマイノリティだったから、
力で弾圧されたとも見れるかも。
しかし、そうやって民主主義がマジョリティになると、
魔女狩りなどは起こりにくくなるかというと、
アメリカではセイラムで大きな魔女狩りがあったりして。
じゃ、IT革命後の現代ではどうかというと、
炎上だの誰誰叩きだのがあって、
これは一種の軽い魔女狩りの様相を持っているように見える。
カトリック協会は、自分自身が腐っていってだめになっていったせいで、
異端を生んだりなどし、立場が危うくなったのに、
自分のせいには決してしないから、魔女狩りという悲劇を生んだと考えられもする。
自分は絶対に悪くないという立場。
魔女狩りの時代はそういう種類の輩がのさばるんだから、
社会の不公平っていうのは原理的にそういうものなのかな、なんて悲しく思えたりもする。
当時のカトリックをひとつの人格ととらえてると、
自省せよ、内省せよと言いたくなる。
自分の言動や行いを省みることのない人は、
かなり迷惑な人になると日ごろから考えています。
魔女狩りを例にとっても、それは言える。
けして自らの過失や間違いを認めない者は迷惑な者である。
以上から、きっと、ネットの炎上も誰誰叩きも、
それをやる人の多くは、なにか間違いやいたらない点があっても、
自分のせいにしないタイプの人なんじゃないかなあなんて考えたりもしました。
博識で良心的で慈悲深い人という評価をされた人が、
異端審問で1000人だとか焼き殺しているという、
この根本からねじくれてる感じ。
前提がおかしいからこうなるんじゃないのかな。
本書に二度も引用されている言葉ですが、
「人は宗教的信念によって行うときほど喜び勇んで、徹底的に悪を行うことはない」
(パスカル『パンセ』)
というのがありました。
中世ヨーロッパでの魔女狩りでなされる、
拷問の内容の残酷無比さやでっちあげられた罪状の内容の低度の低い汚さを、
本書で知るにつけ、怒りと怖さを同時に感じた。
この一時だけだろうけど、欧米人が嫌いになりましたよ。
まあ残酷だったり汚かったりっていうのは、中世の欧米人に限りはしないだろうけど。
著者ですら、こんなひどい拷問が本当にあったかどうか疑うといっているほどの、
苛烈な内容なんですよね。
よく言われるけれど、よくもまあ人を苦しめる想像力だけは人間って長け過ぎている。
魔女狩りが行われた約300年間で、
その犠牲者は30万人とも900万人とも言われているそうです。
すべて、でっちあげの罪状を自白として言わせられた無実の人たちです。
もう、この時代のキリスト教は、もっとも強い権力を握ってしまった、
カルト団体だとも言えるんじゃないか。
それにしても、拷問の内容の残虐さの説明は苛烈で、
そういうものがすごく苦手な人だと読み進めることができないでしょう。
また、どうして魔女裁判が終わったかについては、
自然消滅とあるだけで、まあ実際に教会の力が落ちて無くなったようなので、
人々が「これは間違っているからなんとかしよう!」と決意して
勝ちとったものではないようです。
そのあたりにもやもやは残ります。
なにせ、さきほども書きましたが、
軽めの魔女狩りみたいなことって今でもありますからね。
原発事故後の放射能にたいする反応のいろいろについてもそうです。
ぼくら人類は、こういう歴史の上に今あって、
立っているものなんだということを知ると、
きっと、自分や他人に対する捉え方、価値観って、
ちょっと変わってくると思います。
今回の読書は、人類の黒歴史をみてしまったな、という感覚でした。
Posted by ブクログ
17世紀に最盛期を迎えた魔女狩りはどういった経緯で起きたのだろうか。キリスト教の魔女に対する捉え方の変化と異端審問から説明している。
また、魔女狩りが起きた社会的背景ついてキリスト教国での比較を通じて述べられている。
Posted by ブクログ
中世ヨーロッパの異端審問から派生した魔女狩りについてまとめられた本。
今の価値観で言うところの「善良な人」なんてひとりもいそうにない中世ヨーロッパは魅力的だ。
爪をはがすのは「予備拷問」で、記録としては「拷問なし」に区分されることにいささかショックを受ける。「ひぐらし」なんて拷問にもなってないじゃないか。
興味のツボにピンポイントで、得るところのおおい読書だった。魔女狩りに興味のある人が概要を知るための本として、絶対的におすすめ。
Posted by ブクログ
中世のキリスト教の不寛容さが、いかに魔女狩りの狂気に走らせたのかをすごく明快に解説されています。
有罪ありきの裁判、死の方がマシと思わせるひどい拷問の数々、財産没収目当ての告発、、、人間が人間にこんな酷いことが出来るのかと、読んでいて胸が痛い。。
本書からの引用。
『人間は宗教的信念(Conscience)をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行うことはない。』
Posted by ブクログ
他国からすれば信じられないような文化である魔女狩りを深い知識を伴って解説している本である。
あまりにもかけ離れた考えであるため、しっくり理解できたとは言えないが、なんとなーく理解出来た気になる本だ。
Posted by ブクログ
深い知識に裏付けられた、理解しやすい文体です。それと同時に、人間の負の部分が正の形式を持って実行されるやるせなさが十分に表現されています。「正しさ」という衣を着ることで、冷徹に無残なことをする人間。単に形式的な「正しさ」で満足する人間。このような人間は中世において絶滅したと考えるのは、少し楽観的にすぎるでしょう。人間というものを知る上で、非常に参考になった一冊だと、私は考えています。
Posted by ブクログ
興味深く読んだが、70年代以降の研究でこの本における「教会・施政者主導で数十〜数百万人を虐殺」といった主張は否定されてきているようだ。
新しめの本も読まなければならないとは思うが、最近この手の本を読み過ぎた。人間不信が加速する。
Posted by ブクログ
中世ヨーロッパの黒歴史である魔女狩り。教会の権力体制を磐石とする為に始まった[異端審問]は妄信と財産目当ての堕落によって[魔女裁判]そして[拷問と大虐殺]へとエスカレートしていく。その中心者は聖職者であり知識階層であった。人間の残虐さ、権力と宗教、組織の堕落。その怖さを忘れない為にも読み続けてほしい一冊。
Posted by ブクログ
中世キリスト教徒が犯した、残酷な歴史の史実を知るための一冊。マルティン・ルターが提唱した宗教改革自体は、彼なりの信条から発せられたものであり、初期は伝統を重んじるカトリック派が「異端思想」として抗争を繰り広げていたものの、やがてそれは人としての行動とは思えない虐殺劇に発展してゆく。禁欲生活の反動から、金儲けのために罪無き村人の大量虐殺が正当化され、悪魔的としか言えない地獄の時代が訪れる。この一冊でキリスト教がこういうものだと誤解して欲しくは無いが、ここに描かれていることは史実であり事実である。残酷描写が苦手な人は読まなくていい。これを読んで、キリスト教を学び始めた人の多くは絶望すると思う。ただ、それを踏まえて真実とは何か、をそれでも探したい人だけは、一度読んでみると良い。衝撃と絶望をいつか、乗り超える勇気があるのならば。