あらすじ
アフリカはサハラ砂漠南縁を境に、北のアラブ主義と南のネグロ主義に分けられる。現在この両者にまたがる唯一の国がナイジェリアである。サハラ交易による繁栄、イスラームの流入、奴隷貿易、イギリスの統治などを経て、ナイジェリアは人口・経済ともにアフリカ最大の国となった。20世紀には150万人以上の犠牲者を出したビアフラ戦争を経験し、イスラーム過激派組織ボコ・ハラムを抱える「アフリカの巨人」の歴史を辿る。
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日本にとって、知られざるアフリカの大国、それがナイジェリアです。
アフリカ最大の石油・ガス産油国、人口は2億、国土は、日本の2.5倍というナイジェリアは急速に発展しているアフリカの中で第一の経済大国なのです
新しい発見がたくさんありました。
気になった言葉、キーワードは次の通りです。
・ナイジェリアの語源は、ニジェール川の国です。古今東西に及ばず、大河が大国をささえています。
・北をサハラ交易(イスラム圏)、南を大西洋貿易(西洋圏)、ナイジェリアだけが、東西両圏に接するアフリカ唯一の国です。
・サハラを行き交う交易品は、きわめて高価な品でなければならなかった。胡椒、象牙、皮革、ダチョウの羽、金、奴隷⇔ 銅、ガラス、高級織物、ビーズ、岩塩、子安貝、武器、馬
・南部で交易された奴隷は、1100万人と推定、奴隷貿易のせいで、その間、アフリカの人口は増えることはなかった。
・1807年奴隷貿易禁止法 イギリスがナイジェリアへ介入を始めるきっかけとなる。
・1884年アフリカ分割会議⇒1890年東西ナイジェリアのイギリスによる植民地化⇒1914年東西ナイジェリア両保護区の合併
北部:イスラム系の王国 ベニン王国、オヨ王国、イバダン王国、イロリン王国 欧州化を図るもイスラム色のために失敗
南部:イボ族ら、細かい部族に分かれている⇒西欧化の実施 教育の有無が以後の南北問題を引き起こしていく
・1960年 独立⇒イボ族の地:イボランド:ニジェール・デルタで石油発見⇒頻発するクーデター・クーデター未遂⇒ビアフラ内戦⇒汚職・クーデター頻発・財政危機
2007年民政化⇒ボコ・ハラム(少女の誘拐事件)⇒地域紛争
※外務省メモから
・首都アブジャを設計したのは、丹下健三
・ナイジェリアはサッカー大国
・女性の社会進出は、世界第3位、①ニュージーランド、②オーストラリア、③ナイジェリア
目次は、以下です。
はじめに
第1章 ナイジェリア誕生以前:サハラ交易
第2章 大西洋貿易
第3章 奴隷貿易の禁止
第4章 探検と宣教
第5章 アフリカ分割から特許会社支配まで
第6章 イギリスによるナイジェリア植民地支配
第7章 反植民地運動のはじまり
第8章 独立からビアフラ内戦へ
第9章 軍事政権と第二次共和制時代
第10章 民政移管とボコ・ハラム問題
おわりに
参考文献
年表
主要項目索引
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島田周平「物語 ナイジェリアの歴史」(中公新書)
ナイジェリアは日本人にはなじみが薄いが、人口2億人近いアフリカの大国で産油国でもある。その歴史を学ぶこともサハラ以南のアフリカ諸国の歴史を学ぶことに通じる。
1. 今のナイジェリア北部は古くから北アフリカとはサハラ砂漠を越える交易がおこなわれてきた。その過程でイスラム国家も成立していた。一方でその南部は密林に覆われた村落社会であった。
2. 15世紀以降、ヨーロッパで大航海時代がはじまり西アフリカ沿岸と欧州の交易が始まった。16世紀には南米で銀鉱山が見つかり、その採掘の労働力としてアフリカから奴隷の輸出が始まった。17世紀には奴隷の用途は西インド諸島のサトウプランテーションに変わった。18世紀になるとヨーロッパからアフリカに工業製品を輸出、アフリカからアメリカに奴隷を輸出、アメリカからヨーロッパに砂糖、綿花、タバコを輸出する三角貿易のシステムが整備された。アフリカ側では、もともと奴隷はあったが、ヨーロッパ人の需要に応じ、またヨーロッパからの火器の流入もあり奴隷獲得を目指す武装勢力間の戦争が激しくなった。奴隷貿易でアフリカから輸出された奴隷は1千万人をこえるとのこと。そして現在のナイジェリア沿海部にあった諸王国が奴隷の主産地となった。
3. 19世紀に入るとイギリスで反奴隷運動が盛んになり、1807年に奴隷貿易禁止令、1833年に奴隷制廃止令が出され、これにフランスが同調したため奴隷貿易は激減した。奴隷船取り締まりのためイギリス艦船がナイジェリアはじめ西アフリカで取り締まりを行い、一部の反抗する王国(例えばラゴス)をイギリスが占領するなどして西アフリカ沿岸部の植民地化が始まった。また奴隷貿易の終了とともに油ヤシを絞ったパーム油の貿易が盛んになった。ただし内陸の生産地にヨーロッパ勢力はなかなか入り込めないでいた。
4. サハラ砂漠の南に大河、ニジェール川が流れていることはヨーロッパにも知られていたが、その全容は不明であった。1795年、スコットランド人のマンゴ・パークが初めてニジェール川を探検、その後ニジュール川を下ってナイジェリアに入ったところで遭難した。その後も多くの探検隊がニジュール川下流域の探検で命を落とした。1830年にランダー兄弟がニジェール川の河口がナイジェリアにあるのを発見した。探検と並行してイギリス政府が公認した会社が地域の首長と協定を結び始め、また宣教師も南部ナイジェリアの各地に入りだした。
5. 19世紀初めまではイギリスの影響力は沿岸部にしか及んでいなかったが、反抗的な首長を追放して、代わりにその親族を任命する、協定の中にイギリスの宗主権を盛り込むなどでイギリスの影響力がナイジェリア内部にも及ぶようになる。1884年のベルリン会議でアフリカの分割が話し合われ、その後、イギリスはフランスとの間でナイジェリアの西部と北部の国境を、ドイツとの間で東部の国境を策定した。
6. 当時の北部ナイジェリアはイスラムのエミール(藩王)をスルタンが統括するスルタン・エミール体制だった。イギリスは武力でスルタンをイギリス国王の家臣とすることで北部ナイジェリアの宗主権を確立した。一方南部は東側は村単位以上の組織がない社会、西側はいくつかの王国が競合していた。東側では村長の中から代表者を選んで首長に任命する、西側では王国間の戦争に干渉する中でそれぞれの王国に宗主権を確保していった。
7. 貿易会社がイギリスを代表する形が無理になり1900年にイギリス政府が公式にナイジェリアを統治することになり北部ナイジェリア保護領、南部ナイジェリア保護領およびラゴス植民地が設立された。北部はイスラム藩王国体制の上に乗っかった形だが税収も限られた。南部は統治機構は整わないが港があるので関税を財源に植民地政府は豊かであった。
8. 南部ナイジェリアは宣教師によりキリスト教化され、英語で教育する学校も多く設立された。北部ではイスラム教が既に受容されており宣教は困難であった。それにより北部は伝統教育に止まり南部で植民地官僚や軍人が多く養成されることになり、従来は未開とされた南部が裕福となる逆転現象が起きた。1914年に南北の保護領が統一された。その後、ナイジェリアに設立された大学等の卒業生を中心に自治運動や政党の設立が始まった。またパーム油以外にカカオ、落花生などの栽培も盛んになった。
9. そんな中で第二次世界大戦以降アフリカの独立運動がナイジェリアにも及んだ。イギリスは現地人による政府を準備して独立に備えた。政党も設立されたが次第に東部のイボ人の政党、西部のヨルバ人の政党、北部のハウサ人の政党に分立していった。軍の現地化も始まったが、兵は人口の多い北部出身者が多く、将校は教育制度の整った南部出身者が多かった。
10. 1960年にナイジェリアは連邦共和国として公式に独立。北部に基盤を置く政党と東部に基盤を置く政党の連立政権が成立。東部出身のアジキウェが大統領、北部のバレワが首相となった。66年に西部での混乱をきっかけにクーデターが怒りバレワ等が殺害された。北部出身のゴウォン参謀長が軍政を始め連邦体制の廃止を宣言したことで東部が反発、オジュクが東部の独立を宣言し、ビアフラ戦争が始まった。東部でも主流のイボ人に対して少数民族が中央政府側についたこと、地域紛争を恐れるアフリカ連合が分裂を支持しなかったことで70年に東部・ビアフラ共和国は敗北した。その過程で起きた飢餓が国際的な注目を集めた。そのころ二ジュール川河口域で油田が発見された。財政は豊かになったが汚職も半端なかった。76年にオバサンジョが国家元首となり79年には民政復帰、シャガリ政権が成立した。80年代には一転して石油価格が下落し、緊縮財政を余儀なくされたことで民政は崩壊した。83年にブハリ政権、85年にババンギタ政権のあと93年に強権的なアバチャ政権が成立した。99年にアバチャが心臓病で急死したあとにオバサンジョが民政を復活した。
11. 21世紀に入ると急速な経済成長・世俗化への反発が北部で起こり、北部のなかでも周縁的な北東部でイスラム原理主義の運動が活発になった。東部でも油田地帯で武装勢力との紛争が起きた。2010年に東部出身のジョナサンが大統領になり油田地帯の武装解除と社会復帰計画が進められた。一方で北部ではポコ・ハラムが13年には日本人も犠牲になったアルジェリアの人質事件、14年には女子学生誘拐を引き起した。15年に選出されたブハリ大統領の治世も予断を許さない状況にある。
Posted by ブクログ
アフリカの大国ナイジェリアについて、通史的に地域の歴史や社会の変遷をまとめた労作。
ナイジェリアを概観するには最適の書物だが、読めば読むほど性格の異なる3地域であることが浮き彫りになってくる。
植民地から独立した国の苦労が偲ばれるところであり、ある程度強権的に抑えないことには国としてまとまらないのかなと思った。
Posted by ブクログ
前半では近世以前の西アフリカ一般の歴史の中でのナイジェリアの位置付けを
後半では近代以降のイギリス統治下の保護領としての歴史と独立後の歴史を述べている。
図やグラフも適宜挟まれていて読みやすく、歴史の概観を掴むにはちょうどいいと思う。
しかし前書きや後書きに見られる「要の国」という概念に対する説明が不足しているように感じた。
アフリカは北部のアラブ主義地域と南部のネグロ主義地域に分けられる。そしてナイジェリアはこれら2つの地域をまたぐ唯一の国である。これをもって著者はナイジェリアを「要の国」とし、南北アフリカを繋ぐ役目を期待しているようである。
しかしそのような全く異なるイデオロギーを持つ両地域を1つの統一国家に押し込めることに必要性があるのかは疑問である。
本書の主題でもあるように、ナイジェリアは多くの異なる歴史的背景を持つ地方、民族の寄せ集めである。
もしナイジェリアに「要の国」であることを期待するのであれば、この国が1つの国として存続することの必然性について述べるべきであろう。
そしてそもそも"「要の国」としての役割"とはどういうものなのか、についても具体的な説明が欲しかった。
とはいえ歴史読み物としてはこの辺りの議論は本筋ではないため、大きく紙幅を割かずに簡潔にまとめることを著者は選択したのかもしれない。
Posted by ブクログ
人口一億越えのアフリカの大国、ナイジェリア、土地はまあまあ肥沃で人々のエネルギーとポテンシャルは凄いのに治安に社会システムに生活環境がカオスな印象...。
ナイジェリアについてはほとんど何も知る機会もなく、偶々本屋で本書を見つけて通勤時間に読んでみました。
ナイジェリアという国が南北アフリカの境界上にあって各エリアで文化も価値観も生活スタイルも宗教も気候もすべてが全然違うことを今更ながら知りました。
また奴隷、植民地、石油、無益な内戦...、色々大変なことに巻き込まれているんだなと感じました。