あらすじ
無垢な少女グレートヒェンを悲運のどん底に落とし心身ともに疲れきったファウストは、しかし「最高の生き方をめざして絶えず努力をつづけよう」と決意する。第一部の執筆後、二十年以上の休止を挟み、死の前年に完成に至った壮大な戯曲の第二部。(全二巻)
〈巻末エッセイ〉中村光夫
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Posted by ブクログ
厨二病に罹患した自覚のあるものはただちに読むがいい。圧巻のセンス・オブ・ワンダー! 物語の筋の悪さには目をつぶり、裏読みを要するような難解さは専門家に任せ、この大いなる幻想を楽しむがいい。
筋の悪さ。
悪魔の力を手に入れたファウストは欲望の赴くままにそれを楽しみ、時には非道な行いをする。それに悔いることもなく次なる欲望につきすすむさまは、芸術家ならわかる心情というものか。文豪がまれによく持つゲスい感性のなせるわざか、苦い経験などなかったかのごとく生きていく。
第二部は、行間を大いに読めば、奔放に生き、時には幸せを得、儚く失い、時には非道をふるまったファウストの人生模様である。いつとは知れぬ人生の場面をただ見せられる。なぜそういうことになったのか説明されないので、たいそう座りが悪い。壮大な幻想風景に感嘆させられながらも、物語性の欠如を強く感じさせられる。
そもそも神とメフィストフェレスが、ファウストが堕落するか否かを賭けて物語がはじまる。ファウストの血を混ぜたインクで契約書を書かせたにも関わらず、そんな事情を知らぬ天使たちにファウストの魂を天へ連れて行かれてしまう。天使たちの光はイノセントに見守るしかないメフィストフェレスを焼いている。
欲や罪にまみれた人生であっても神は救う。そういうことでいいの?
裏読みとは押井守氏の言葉を借りたものだが、氏曰く、映画は必ず裏読みできるようにあるべきだという。氏の作った映画は全てそのように作っているという。そういうふうに作ってあるからといって面白い訳ではないということだね。
氏の主張ではないが、文学もまた、そうあるべきという風潮があるように思う。あるいは、ない裏もあるとして論ぜねばならないように思う。だが、それはできる人に任せておけばよい。本書について言えば、注釈やあとがきによって、背景や感じ方というものに触れることはできる。無論、訳者の解釈に過ぎない。正解はおそらく著者も持っていない。
マーガレット・ワイスは、マジェーレ兄弟やソス卿の創造にあたってファウストを意識しただろうか。
永野護のFSSは、ファウストに依るところが大きいのかもしれない。
とか思いながら。
どうやら、現代に与えた影響を知ることを、古典を読む楽しみとしてるようだ。