あらすじ
権謀術数を駆使する老獪な政治家として畏怖された男、野中広務。だが、政敵を容赦なく叩き潰す冷酷さの反面、彼には弱者への限りなく優しいまなざしがあった。出自による不当な差別と闘いつづけ、頂点を目前に挫折した軌跡をたどる講談社ノンフィクション賞受賞作。佐藤優氏との対談を付す。
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Posted by ブクログ
10年前に買ったのを、今になって読む気になりました。野中さん、すごい人だった。
大物政治家がバンバン出てきて政治史を知る上でも面白いし、被差別部落史としても興味深いし、野中さんかっけー。田中角栄なんて「悪の権化」みたいな印象持たされてたけど、地元の人や民衆にとってはありがたい政策をやってきた人なんだね。金のある時代だからできた政治手腕だろうとは思うけど。
あとがきに「彼の引退は(中略)平和と繁栄を志向してきた戦後の終焉を象徴する出来事だった。新たな時代には平等と平和の四文字はない。」とあり、文庫が出て10年後の今、確かにそんな世の中になっていてゾッとする。
Posted by ブクログ
この本はいくつかに分けることが出来る。
「野中広務とはなんなのか」「政治(パワーゲーム)」の
2つに分かれ、実際のボリュームは後者となる。
ただ、終盤となり権力を失っていく時、野中広務という
人物が非常に色濃く映ってくる。
もともと野中広務のことは殆ど知らなかった。
自民党の、まさに裏で糸を引く人物、という存在だ。
だが実際のところは「調停役」にすぎない。
調停するために様々な情報を握る中で結果的に権力を
握っていくことになる。だが、この著者で何度かでる
メッセージとして「彼にイデオロギー、政策信念はない」
「そのためには平気に180度違うことを発言する」
である。野中広務は与えられた責任、役割を全力でこなし
ていくにすぎない。そして、自分でそれを理解している。
No2として支えていくことに強みを発揮するのだと。
野中広務という人物は、その手段に関しては好きには
なれないが、闘い続けた、その姿にどこか共感せざるを
得ない
Posted by ブクログ
野中広務 差別と権力
著者:魚住昭
発行:2006年5月15日
講談社文庫
初出:月刊現代2003-2004年
単行本:2004年6月、講談社
2001年、KSD事件や「えひめ丸」沈没を聞きながらゴルフを続けたことなどから、森喜朗総理が退陣表明。後継首相に野中を推す声が高まり、総裁選に出れば圧倒的有利と見られていたが、「たとえ推薦されても、受けることは200%ない」と出馬を固辞。これに対し、総裁選に立候補した元経企庁長官の麻生太郎は、党大会の前日に開かれた大勇会(河野グループ)の会合で野中の名前を挙げながら、「あんな部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」と言い放った。
2003年9月、政界引退を表明し、最後の自民党総務会において、総裁の小泉はもちろん、政調会長の麻生を前に、野中は上記の発言を指摘し、「君のような人間がわか党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」と野中。激しい言葉に空気は凍りつき、麻生は顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。
こんな差別主義者が、今も自民党ナンバー2として君臨し、時期大統領に返り咲くかも知れないトランプに総理大臣の名代として会いに行く。
それでも、まだ自民党に入れますか?
僕は、野中広務が出身者だと知ったのは、比較的最近でここ20年になるかならないかのことだと思われる。周囲の多くの人も知らなかったと思う。この本を読んで分かったが、それを広く知らしめたのは、著者が2003年の月刊現代に書いた、本書の元になった原稿だったそうだ。著者が野中から涙目で抗議を受けた一幕が書かれている。しかし、その報道は筋が通っているためか、それ以降はなにも言われていないようだ。文庫版の特典として、最後に佐藤優と著者の対談があるが、佐藤優もそう評価している。
ただし、本人が隠していたことを著者がアウティングしたわけではない。著者が調べた限りにおいて、公開の場で一度だけ自分の出自について野中は語っていた。それをもとにリポートしているといってもいいのかもしれない。1973年3月7日、京都府議会本会議場で府会議員として大鉄局を辞めた経緯を語った時のことだった。抜群に仕事のできた野中は、大卒でも9年以上かかる給与ランクに、旧制中学卒7年で到達していた。その妬みもあってつらい差別体験があり、それを語ったのだった。
ただ、それを知った僕は、どうもしっくりこなかった。野中のイメージは強権的ではあったし、裏では威張っている風な印象もあったが、俗に囁かれる〝同和利権〟的なものでのし上がった人物のようには思えなかったからである。本書を読むと、実際、そうだったようだ。むしろ〝同和利権〟的なものに反対し、解消していく動きをした政治家だったようである。とはいえ、自らが差別された体験から、弱者には優しかった。
政敵たちを震え上がらせる恐ろしさと、弱者への限りなく優しい眼差し。これがどこから来るのか、著者はジャーナリストとしてそれを探ってく。
野中の世代だと、部落青年の生き方は三つに分かれた。
1.解放運動にのめり込んでいく者
2.ほどほどに生きていければそれでいいと消極的になる者
3.誰の力も借りずに自力で差別を乗り越えようとする者
野中は三番目のタイプだという。
京都府の園部町(現在は南丹市)の「大村」という被差別部落に生まれた。
そんな話から始まり、この本は僕らが目撃してきたこの30数年ぐらいの政界の激動、その裏にあった事情を次々とバラしてくれている。何気なく古本で買った本だったが、ものすごい一冊だった。
・NHKの島桂次会長が辞任に追い込まれたのは、小沢一郎が強引に磯村尚徳を都知事選に引っ張りだし、大敗した責任をなすりつけた格好になったため
・公明代表の藤井富雄が指定暴力団後藤組の組長と密談しているビデオを入手した野中は、亀井静香などと一緒に住専問題で妥協しろと迫ったが、小沢一郎は譲らなかった。この問題は本書のスクープ。公明党と指定暴力団との密着ぶり
・公明党を解散して新進党に合流した後、「静穏規制法」という法律を盾に脅しをかけた野中は、神崎代表に公明再建を決断させる。
・細川護熙が総理を辞任した「もう一つの問題」とは、個人資産をヤミ金融に高利で貸していた過去が自民党側にバレたから。時効だったが道議責任を口実に辞任
・「自自連立」を実現したのは野中。以後、犬猿の仲だった小沢一郎ともうまくやる。そして、今日までつづく「自公」を作ったのも野中だった。
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(以下、読書メモ。上記の詳細)
「大村」はかわた集団のひとつ。但馬国(兵庫県)出石藩主だった小出吉親(よしちか)は元和5(1619)年の国替えで園部に入り、初代園部藩主に。その時に国元から連れて来た「かわた」たちを城の南側に住まわせた。よろいや兜、膠の原材料をつくる彼らに特権を与え、皮革の納入などを義務づけた。
小出氏は和泉国の岸和田城(大阪府岸和田市)を本拠にする一族だった。始祖で城主の秀政は豊臣秀吉の側近で、長男の吉政は文禄4(1595)年に出石藩6万石の領主に抜擢された。岸和田と出石は本藩・支藩の関係で、後に岸和田3万石、出石6万石、合わせて9万石と称するようになった。豊臣が滅び、徳川により吉政二男の吉親が園部に移封された。
「大村」の祖先も岸和田が故郷となる。大村の年寄りたちの言葉は、丹波地方の方言とは少し異なる泉州なまりがあるという。「○○ですか?」ではなく「○○け?」。
野中が公開の場で自らの被差別体験を語ったのは、著者が調べた範囲では1973年3月7日、京都府議会本会議場で府会議員として大鉄局を辞めた経緯を語った時のみ。下記がその概要。
1943年春、京都府立園部中学(旧制中学)を卒業し、大阪鉄道局の職員に。仕事が非常に出来た。局長は佐藤栄作だった。戦後、1950年に審査部審査課主査の時、ずば抜けた能力で給与ランクもトップに。主査や係長といった身分とは別に、一職から十職までの職階制(十職の上は課長補佐以上の指定職があり、野中は十職だった。20年勤続の先輩が九職なのに。十職は、旧制中学卒なら18年以上、大卒でも9年以上が内規。野中は7年足らず。上司が内規を無視して昇級させていた。
ある日、更衣室で着替えていると、棚を隔てた向こう側から聞き覚えのある声。「野中さんは、大阪におれば飛ぶ鳥を落とす勢いでやっているけれども、園部は帰れば部落の人だ」。野中が被差別部落出身であることはあっという間に局内に広がった。なんであいつをあんな高いポストにつけたのか、という抗議の声も。野中は退職を申し出た。1951年4月、野中は園部町議に当選。
野中は権力者になればなるほど、権力維持に役立つこと以外を排除するようになった。(80-81P)
1959年8月と60年8月、2年連続で水害。園部町長の野中は復旧工事の査定に来た建設省の役人をそのたびに助役や議長と一緒に町一番の料亭「三亀楼」で接待した。賭け麻雀をして役人たちに20万円ぐらい負けてやった。すると役人たちは翌日に現地をろくに身もしないで、こちらの目論み通りの査定をして次に行った。
野中園部町長は蜷川京都府知事を支持してやってきたが(うまく取り込んで園部の道路や施設を整備、周辺の町村の恨みを買っていた)、1966年、蜷川が5選を目指すときから変化。共産党の影響力が強くなった1962年ごろから町村長に対して「踏み絵」をさせるようになり、それに反発した。
京都新聞政経部デスクの笹井は社長の指示で京都ホテルへ行く。そこにいたのは田中角栄自民幹事長。選挙情勢を聞かれ、厳しいと答え、蜷川支持を決めている町村会の動向がポイントだとも。「明日、キミところのオヤジ(社長)を訪ねるが、土産はなにがいいか?」と問われ、テレビです、と答えた。
京都新聞を訪れた角栄は、テレビの開局許可を臭わせた。そこから京都新聞は蜷川の一騎打ち相手である自民・民社推薦の浜田正を当選させるべく、反蜷川キャンペーンを張った。しかし、蜷川の勝利に。
野中は被差別部落の人たちからは人気があったが、部落外の人への人気取りもうまかった。適度に解放同盟批判をして人気を得ていた。部落の人たちの前では決して批判をしないのに。
野中は、戦時中、園部町周辺の鉱山で酷使される朝鮮人たちの姿を見ながら育ってきた。朝鮮総連京都支部元幹部の李明哲は、日朝交渉の舞台裏に長年関わってきたが、彼は言う。「京都の在日同胞は養豚をやってきたが、周囲の生活レベルが上がるにつれて異臭などのトラブルが頻発するようになり、社会問題化。その解決のため、府と交渉した時の相手が副知事をしていた野中だった。自身が差別を受けてきたから我々の痛みもよく分かってくれて問題解決に尽力、今の養豚団地ができた」
1994年4月、東京都知事選が行われ、鈴木都知事が4選を果たした。前年の12月、自民党の小沢一郎はNHK会長の島桂次を呼び出し、磯村尚徳を出馬させると了承を求めた。島は消極的な返事をした。小沢は強引に磯村を口説いて出馬させたが、85万票の差で負けた。竹下派を中心に、「小沢に磯村を推薦した島がそのままいるのはなにごとだ」という声が上がり、島桂次は首を取られた。島はBS用の放送衛星打ち上げ失敗2回と、その時にロサンゼルスのホテルに女といたという疑いで追及されていた。
野中は橋本政権時代に決まった郵政の公社化に関して「それを決められたとおりに実践する」と言っただけだが、小泉政権時代に「抵抗勢力」と決めつけられて敵視された。野中は無茶を言わず、流れをみて判断するタイプ。それがうまい人だった。世の中がそういう雰囲気になったときにバンと言うのがうまかった。
細川(護熙)事務所は、1981年から数年間、細川の個人資金を1千万円単位で「ヤミ金融」に出資して高利回りで運用していた。時効とはいえ、出資法や貸金業法違反の疑いがあり、国会で明らかになれば進退はきわまる。数日後の4月8日、細川は「(佐川からの借金とNTT株購入)とは違う新たな問題があると分かった。事務所に任せていた個人資金の運用で法的に問題があった。道義に関することなので辞職する」
羽田政権に社会党が加わらなかったのは、新たな統一会派「改新」が届けられたため。細川辞任の際、7党1派の連立ではだめだ、統一会派をつくらないと改革はできない、と言ったのが始まり。問題は社会党が了解するかどうか。民社党の大内委員長が村山の了解を取ったと小沢一郎に報告した。小沢は非常に真面目で他人の言葉をその通りに信じて疑わない。しかし、届を出した後で村山が「了解した覚えがない」と怒りだした。
強行採決の乱闘騒ぎは、常に野党を含めて事前に打ち合わせ済みの「話し合い強行採決」。国鉄の値上げ法案で、社会党の中島英夫が8時と18時を間違えてこなかった。自民党の坪川信三が委員長で採決。1人事情の分からん者がどーっと来た。乱闘スタイルがあり、坪川はネクタイを緩め、バンドは危ないので外していた。ズボンが落ちて褌ひとつになって医務室に担ぎ込まれた。
1997年4月11日の衆議院許雄会議。加藤紘一の説得で沖縄特措法の委員長を受諾した野中は採決前の委員長報告で「ひとこと発言を許してください」と前置きした上で、35年前の出来事を語りだした。初めて沖縄を訪問したときに運転手が宜野湾に入ったところで急にブレーキをかけ。「あの田んぼの畦道で私の妹は殺された。アメリカ軍にじゃないんです」と泣き叫んだ・・・その光景が忘れられない。どうぞこの法律が、沖縄県民を軍靴で踏みにじるような結果にならないよう、そして今回の審議が再び大政翼賛会のような形にならないよう若い皆さんにお願いしたい。
小沢と手を結んで改正案を成立させた梶山静六に対する強烈な当てつけでもあった。
1996年3月、公明代表の藤井富雄が指定暴力団後藤組の組長と会ったところをビデオに撮られたらしい。テープを自民党側に届けた者がいるということだ・・・野中はその情報を握っていて、村上正邦、亀井静香も一緒になって、問題を表に出したくなければ住専で妥協しろと言ってきた。しかし、小沢党首は譲らない。
藤井が後藤組と接触するようになったのは、学会本部が右翼・暴力団の街宣車に悩み、藤井が元警視総監らの仲介で組長にあってパイプを作ってから。
創価学会は野中を恐れていた。例えば、学会発行の「聖教ブラフ」には、池田大作と外国要人などとの会見場面の写真がたびたび掲載されたが、バックには学会施設にあるルノワールやマチスなど有名画家の高価な絵が写っており、野中はそれを創刊号から全部調べ上げて、学会が届け出ている資産リストと付き合わせていた。園結果、届け出のない絵がいろいろと分かった。野中は直接それを言ってくるわけではないが、耳に入るようにして恐がらせる。
1988年に「静穏保持法」が成立した。外国公館および政党事務所周辺での拡声器使用を規制する法律。それまで悩まされてきた学会本部や池田の私邸周辺での右翼の街宣活動はピタリとやんだ。どちらも「政党事務所」である公明党本部の周辺規制区域内にあるため。
旧公明党がなくなり、衆議院が「新進党」になった。参議院もその方が票の稼げる公明党は同じ道を決めようとしていたが、切り崩しにかかったのは野中だった。公明党がなくなれば、公明党本部は政党事務所ではなくなるため、規制から外れ、再び右翼の街宣車の餌食になる。票か静穏か、どちらを取るのか?選択を迫る野中。小沢に反発を徐々に感じていた神崎が決断をしたのは後者だった。
1998年、野中が「自自連立」に動いたのは、学会・旧公明党側から「いきなり自民党と組むのは学会婦人部などの反発が強すぎて無理だ。ワンクッション置いて欲しい」と強い要望があったため。11月19日に小渕・小沢会談で合意、99年1月に正式発足。
1993年10月、野党として野中は本格的な解放同盟批判を繰り広げる。国税当局と解放同盟の間で交わされた「秘密覚書」を衆議院予算委員会で取り上げた。「秘密覚書」は1968年に大阪国税局長と解放同盟の間で交わされたもので、同盟とその関連団体である企業連合会に加盟している会社の税務申告は一切の検査をせず、自主申告ですべて認めるという内容だった。70年にはこの確認事項が国税長官名で全国の税務署に通達され、「同和控除」といわれる特別扱いが全国に広がった。
1997年3月に延長されてきた同和対策事業特別措置法がいよいよ期限切れになることに。社会党の小森はもう一度延長を野中に頼んだ。1996年10月、園部町で解放同盟京都府連が野中の激励集会を開いた。約1000人の同盟員が集まり、野中代議士を再度国会へ」と訴えた。社民党の野坂浩賢も出席予定だったが、新幹線が台風でストップしたため、電話でのメッセージがスピーカーで流れた。解放同盟が自民党代議士の選挙を公然と支援した全国で初めてのケースとなった。
2001年、KSD事件や「えひめ丸」沈没を聞きながらゴルフを続けたことなどから、森喜朗総理が退陣表明。後継首相に野中を推す声が高まり、総裁選に出れば圧倒的有利と見られていたが、「たとえ推薦されても、受けることは200%ない」と出馬を固辞した。これに対し、総裁選に立候補した元経企庁長官の麻生太郎は党大会の前日に開かれた大勇会(河野グループ)の会合で野中の名前を挙げながら、「あんな部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」と言い放った。