あらすじ
毎朝、何者かに家の前の「カド」にお供えを置かれ、身に覚えのないまま神様に祀り上げられていく平凡な未亡人。山菜摘みで迷い込んだ死者たちの宴から帰れない女。平穏な日常生活が、ある一線を境にこの世ならぬ異界と交錯し、社会の規範も自我の輪郭さえも溶融した、人間存在の奥底に潜む極限の姿が浮かび上がる七作品。川端康成文学賞受賞。
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Posted by ブクログ
本書に収録されている『お供え』は、一見すると穏やかな中年女性の日常の中に、不可解で幻想的な事象が入り込む作品である。毎朝、主人公の家の前に花や菓子が供えられるという奇妙な出来事から物語は始まり、やがて彼女自身が「神様」なる存在に輿入れさせられる──つまり自らが“供え物”であったという構図が暗示される。これは単なるホラー的仕掛けでなく、日常と非日常の連続性を保ったまま読者を不可視の恐怖へと導いていく、極めて純文学的な手法だといえるだろう。
では、作中で「神様」と呼ばれる存在は何を指しているのだろうか。具体的な姿も語りも持たないがゆえに多様な解釈が許されるが、もっとも明快な読みの一つは「神=家制度(イエ)」という象徴的解釈である。本作の主人公は夫と死別している妙齢の女性として描かれる。つまり彼女はすでに家制度の中に取り込まれた存在であり、それでもなお供えられ、捧げられ、神に嫁がされるのである。この構図は、家制度が女性に求める従属性をあたかも宗教的儀式のように描き出しており、制度的暴力の不可視性と反復性を文学的に可視化しているように感じられる。
また終盤で主人公が感じる「もう何もしなくて良い」という虚無感には、悲哀と安堵がないまぜになっているようだ。これは家庭内での役割や期待を終え、もはや主体的な選択を取る必要がなくなった女性(あるいは妻)の末路のようにも読めるのではないか。供えられる側でありながら主体性のない幸福へと導かれていく彼女の姿は、家制度における女性の最終的な帰結点──自己消失の安寧を暗示しているのだと解釈した。
特に印象的なのは、主人公が子どもに石を投げられる場面である。これは単なる狂気や疎外の描写ではなく、殉教者としての主人公像を強く暗示しているようだ。キリスト教における「罪なき者に石を投げるな」という逸話と重ねることで、彼女が社会における異物として糾弾される構図が浮かび上がる。その意味で『お供え』は、家父長制的構造と宗教的受難譚を重ね合わせた構造を持つといえる。
本作で描かれる新興宗教的・呪術的イメージは普遍的な宗教的感覚、すなわち“捧げる者”と“捧げられる者”という構造に根ざしているように思える。『お供え』における神は人格を持たず、祝福も語らず、ただ供物を受け取り、女性を吸収していく。これは制度・慣習・共同体……すなわち“空虚な神”としての社会そのものに他ならない。
以上をまとめると、『お供え』は幻想と現実、宗教と制度、日常と異常の境界に立つ作品である。主人公は自らの意思ではなく社会や家族の力学によって神に差し出され、やがてはその神と一体化する。「お供え」されるのは身体だけではない。女性の人格、主体性、そして人生そのものが供物とされ、個人では抗えぬ諸々の社会制度──見えざる神に取り込まれてしまうのだ。