【感想・ネタバレ】帝国議会―西洋の衝撃から誕生までの格闘のレビュー

あらすじ

1890年11月、貴族院と衆議院からなる帝国議会が誕生した。ペリー来航後、強く主張される「公議」「公論」による政治の一つの到達点である。
体制の安定を第一とした伊藤博文ら政府と、早期設置を求める板垣退助ら自由民権運動の角逐のなか、政府は1881年に9年後の議会開設を約束した。今も昔も政治の世界で9年後の約束が守られることはほとんどない。だが明治政府の面々は、自らの権力を失ってもなお、公議実現のため議会開設を志向し、実現する。
本書は、西洋で200年かかった議会が、どのようにして明治維新から約20年で創られたのか、帝国議会に関わった人々の構想と試行錯誤の軌跡を追う。憲法制定と並ぶ近代日本の一大事業の全貌を明らかにする。

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Posted by ブクログ

書いた人の苦労が偲ばれる一冊である。
内容は近年の中公の維新ものと同様、幕末動向から明治のある一点までを追う記述で構成されるが、その他のものよりも議会・公議というテーマで貫徹して描けているという印象。そのため、筋が追いやすく、事実が把握しやすいため、率直に勉強になる。
加えて、ところどころに、現代議会への警鐘を促す記述も行きすぎておらず、自省を嫌でも促される。

最近、特に中公の維新ものを短期間のうちに複数読んでいる中で思っている(どうも同じ編集者の方のようだ)のが、やはり、この時期を明治という国家を作り出した人々の成長過程として見たときにそれらが魅力的であることだ。そして、その過程は、国家自身の成長過程であるともいえよう。

筆者にとっては、この一冊がひどく悩みながら書かれたことが記されているが、これはまさに明治の先達と同じ悩みではないだろうか。
多くの記述を割いている伊藤博文にも同じ悩みがあったのではないだろうか。
そう思うと、この一冊が筆者にとって代え難い経験であったことは疑い得ない。

先に述べた内容に加え、筆者の成長過程に触れられた一冊で読後の満足度は高い。

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2021年09月27日

Posted by ブクログ

 帝国議会そのものは日本史の中においてマイナーな部類に入ると思う。どうしても伊藤博文といった人物や事件に目を奪われる。しかし、その伊藤博文をはじめとした幕末・明治期の人々の求め続けたものこそが「公儀」であり、その結晶こそが「帝国議会」。
 幕府老中・阿部正弘が広く諸大名に意見を求めた事が源流の一つだが、遂に幕府では実現できなかった。帝国議会を設立できるか否かが、幕府と明治政府の明暗を分けたのだろう。そして曲がりなりにも西洋以外で議会を運営できた事によって、列強の一角に上り詰めたと言える。

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2018年11月23日

Posted by ブクログ

幕末維新期を席巻した「公議」という理念の延長線上にあるものとして帝国議会の開設史を描く。従来、在野の自由民権運動の側からの議会開設史が多かったが、本書の視点は、どちらかというと、明治政府の側である。公議所、集議院、左院、元老院といった「公議」を実現するための政府の模索を丁寧に振り返っている。
ないものねだりではあるが、帝国議会が開設されてからの、帝国議会の有様ももっと知りたかった。

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2019年01月11日

Posted by ブクログ

「公儀公論」は、明治維新の理念の大きな柱の一つであり、また維新後の新政府においても五箇条の御誓文の第一条に「広く会議を興し、万機公論に決すべし」とある通り、議会開設は明治政府における一貫して推進すべき課題であった。
しかし、実際に第一回帝国議会が召集されるには明治23年(1890年)まで待たねばならず、その間総論では議会開設が支持されながらも、様々な路線対立があり、また議会政治という未体験の制度設計を行うにあたり膨大な情報収集と研究・検討が行われた。
本書は、新書一冊を費やして、その間の歴史を振り返るものである。

路線対立とは、主に、急進的に民選議院設立をす主張する民権派と、まだ機が熟していないとそれを抑えようとする政府の間のものであり、民権派に対する弾圧的な政策も採られたことが記される。
制度設計においては、伊藤博文自身が渡欧してドイツなど立憲君主国の制度を学びに行った件り、師事しようとしたグナイストに冷たくあしらわれた伊藤が不満を表明した記録が残っているあたりなどがなかなか興味深い。

それにしても、国会開設の勅諭が発布されたのが明治14年で、9年後に議会開設することが謳われているという点、現代ではとても考えられないスピード感。
時代が違うといえばそれまでだが、それだけ壮大な制度設計・機関設計・利害調整を伴う大事業であった(何といっても憲法を作るのとセットであったのだから)ことが改めて偲ばれる。
今の日本であれば、立憲君主制をやめて大統領制に変えるくらいの大改革か。
いや、基礎がなかった分それ以上だろう。
これだけのことを成し遂げるには、ある程度強力なトップダウンが必要で、民権派に配慮していては実現できなかったというのもわからなくはない。

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2019年05月03日

Posted by ブクログ

明治維新から20数年を経て、明治憲法発布、帝国議会誕生となるが、それまでの歴史は意外と知られていないように思う。ドイツ憲法を範にしたというが、伊藤博文たちがドイツに留学し、大家グナイストから講義を受けようとしたが、その無名の若手弟子モッセの講義を受け、伊藤はそれが不満だったという。そしてシュタインの講義。それらの成果と別途、山形有朋がモッセを日本に招いたことから、憲法の枠組みが出来ていった!その中での伊藤の果たした役割の大きさを今更ながら感じるし、それが明治天皇から大きく評価された様子。日本には天照大神以来独裁はなく、会議を決定してきた歴史があるとの説明は面白い。実は日本は議会がなじむ風土だったのだ!民間にあった福沢諭吉が実際には政治に現実に影響を及ぼしていたことも初めて実感した。加藤弘之が国民に自由への自覚が足りず議会制は時期尚早と主張し、福沢が場を提供することで人民が洗練されていくと主張する論争が行われたらしい。これは現代の日本を考えると何とも皮肉な話である。

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2018年07月27日

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