あらすじ
アジア太平洋戦争において死没した日本兵の大半は、いわゆる「名誉の戦死」ではなく、餓死や栄養失調に起因する病死であった──。戦死者よりも戦病死者のほうが多いこと、しかもそれが戦場全体にわたって発生していたことが日本軍の特質だと著者は指摘する。インパール作戦、ガダルカナル島の戦い、ポートモレスビー攻略戦、大陸打通作戦……、戦地に赴いた日本兵の多くは、無計画・無謀きわまりない作戦や兵站的な視点の根本的欠落によって食糧難にあえぎ、次々と斃れていった。緻密な考証に基づき、「英霊」たちのあまりにも悲惨な最期を明らかにするとともに、彼らを死へと追いやった責任を鋭く問う、告発の書。
...続きを読む感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
日中戦争からアジア太平洋戦争における日本人の死者は、約320万人で、そのうち軍人は230万人と推定されています。但し、玉砕地域などは記録もなく、終戦間際に戦犯訴追を恐れて組織ぐるみの書類の大量破棄が行われた為、そもそも正確な数字を弾き出す方が困難な状況です。
そんな中にあって、研究者たちの地道な調査の結果、上記の数字が暫定的ではあるが公式に用いられています。
軍人の死者230万人のうち、戦闘中ではなく、餓死をはじめ栄養失調や医薬品不足からくる広義の餓死者がどの程度の割合を占めるのか。著者は60%強と推定しています。
この背景にあるのが「精神主義」です。これは合理主義の対義語として位置すると思います。
思うに、戦争とは一番合理的思想に基づいて実施すべきものです。何故なら、合理的な判断、例えば兵隊の数や、兵器の能力の差など、冷静に理解しなければ生死に直結します。合理的に判断して勝つ見込みがあるから戦闘に入ることができる訳です。これは医療でも同じです。
合理主義が排除され、精神主義が台頭していたのでまともな判断ができなかったのだと思います。
餓死に至ったプロセスはシンプルだと思います。戦闘に入って、勝つ見込みが無ければ、降伏か逃亡です。日本軍の場合、他国とは違い「降伏(捕虜)」は戦陣訓にある「生きて虜囚の辱めを受けるな」であり、禁止事項でした。また陸軍刑法の罰則規定でもありました(P254)。結果、投降はできない、逃げるしかないとなったのです(もちろん玉砕もありましたが、これは戦闘中の死となるのでしょう)。
加えて兵站の考え方が希薄で、現地調達を推奨していました。故に、逃亡は食糧もないまま山岳地帯に逃げ込むことになるので餓死と背中合わせになるのでした。
戦闘の勝敗は、しっかり戦略を練って準備してもやってみないとわからない訳ですが、作戦の形として勝つプランしか考えていないと思いました。いわゆる「プランA」しかないように感じてしまいました。結果、負けた時は「玉砕」か「逃亡≒餓死」、すなわち死しかない訳です。日本軍の作戦の枠組みが、勝ちか死かの二者択一しかなかった訳です。
戦争でお国ために死んでこいと言う思想教育がなされていましたが、上記の作戦の枠組みで捉え直すと、至って「合理的」です。
背景には先にあげた精神主義があり、人権感覚が希薄な点も挙げられます。これは戦後になっても生活の様々な場面で引き継がれました。過労死やサービス残業、クラブ活動での勝利至上主義等、戦後76年経っても解決途上の問題です。
Posted by ブクログ
日本陸軍の作戦重視で兵站軽視によって多くの前線で悲劇を生んでしまったことを、落ち着いた筆致で迫る。実証的な本。ガダルカナル島に始まり、おおくの無謀な作戦により失われた命が分かる。おおむね、辻政信に厳しい。あと、インパール(ひよどりごえ)の牟田口。田中新一。
・日本軍が最大の戦死者を出したのはフィリピン。その理由にはフィリピンの現地民がゲリラとして反抗したこと。(これはインドネシアなどと違う)がある。アメリカだからか。
・ラバウルは、意外と自活できたらしい。ほおっておかれたあと。
・しちゅう兵科が差別されていた。
・無数の馬が犠牲になる。日本軍は馬頼み。
・服部卓四郎『大東亜戦争全史』
・6% 兵士の記録
・『戦史叢書』
・15% 大本営の無知
・22%地形を知らない大本営
39%メレヨン等の悲劇
・中国戦線にいた藤原