あらすじ
空前の円高、「世界の工場」中国の台頭、エレクトロニクス系産業の競争力低下──。30年ものあいだ、過酷なグローバル競争下にあった日本のものづくり。しかし、逆風のなかで必死にもがき、たゆまぬ鍛練の結果、いま、現場は圧倒的な強さを獲得した。「インダストリー4.0」「IoT」「AI」に代表されるドイツ型ものづくり論を批判的に検証し、さらなる拡大が予想される日本の製造業の潜在力を徹底的に考える。現場で思考を重ねてきた経済学者が、日本経済の夜明けを大いに語りあう。
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Posted by ブクログ
日本の製造業を考える。日本の製造業の現場力における国際的な比較、特に、東日本大震災からの復興における製造業の役割について。将来的に、日本の製造業が直面する課題や解決策の議論。3名の有識者による共著であり、色んな視点に触れられる。
- 「産業政策と社会(福祉)政策は違う」という名言です。産業政策というのは、強いところをより強くするためにお金を使うことであり、かたや弱い人を助けるためにお金を使うのが社会(福祉)政策で、このふたつは分けて考え、産業政策が社会(福祉)政策になってはいけない。福祉政策的なことが、企業にも必要だということは、わかるのだけれど、それが産業政策のメインになってしまってはいけません
― 「どの国で何を生産するのが有利か」という生産立地論のみならず、「どの国で何を設計するのが有利か」という設計立地論にも踏み込む必要がある。私がここ十数年考えてきたのは、「設計の比較優位論」とりわけ「アーキテクチャの比較優位論」です。そこでは、各国の現場の組織能力と製品のアーキテクチャの間の相性に注目します。組織能力もアーキテクチャも時とともに進化するので、この相性はダイナミズムを孕みます。加えて、組織能力は簡単には国境を越えないと仮定します。
ところで、リカードの組織論は古典派経済学の組織論ですが、現代の主流派経済学である新古典派は、仮定の置き方を変えた上で、「労働集約的な製品(貿易財)は労働力が多い国が得意とし、資本集約的な製品(貿易財)は資本が多い国が得意とする」という形で新たな比較優位説を示しました。この表現を借りるなら、アーキテクチャ(設計)の比較優位説は、「調整集約的な製品は調整能力の高い現場が多い国が得意とする」と要約できます。なぜ「調整」というコンセプトに注目するのか。それは、組織現象の基本は調整活動であり、設計も本質的には機能と構造の調整活動であり、つまり調こそが組織能力とアーキテクチャ(設計思想)を結ぶ糸であるからです。そして、設計に関して「開整集約的な製品」とは、擦り合わせ型(インテグラル型)のことに他なりません。
― 国際経済学には、雁行形態論とかプロダクト・サイクル説というのがあります。その合意のひとつは、賃金の高い先進国は、生産設備が似たり寄ったりの標準品では生産性で新興国に追いつかれ、コスト優位を失うので、標準化して優位性を失った製品は新興国に明け渡す一方、自らはイノベーションをつねに行い、それによって成立する新産業へ逃げ続けるしかないというものです。これは大筋では説明力の高い仮説で、われわれ経営学者も多用しますが、それが成立した20世紀半ばの時代的な制約もあり、条件しだいではこれに反する現象も出てきます。
雁行形態論とか、ルイスの転換点は久々に聞いた。それと合わせて本著ではリカードの比較生産費説について改めて考えさせられた。
Posted by ブクログ
先生方のおっしゃっているのはそれぞれの著書の焼き直しばかりだが、対談形式に繋げられると説得力を増す。
製造業を預かるものとして「良い現場」と「良い設計の良い流れ」を後輩に残す事が自分の使命と改めて肝に命じた。
Posted by ブクログ
大学教授3名による対談形式ですすむ。目立たないだけで、日本の中小企業は黒字の会社も多い。クローズアップされる赤字の会社のため、全体的に中小企業は苦労していると思われているらしい。大企業でも大変な会社はたくさんある。
Posted by ブクログ
こう言う価値観や思想が全く一致している人たちの鼎談って意味があるのかな?別に一人が話しているのと全然変わらない。
著者らの主張は単純明快で、失われた20年はバブル崩壊が原因ではなくて、たまたま冷戦終結と同時に中国の市場デビューとエレクトロニクス革命によるモジュール化が同時に進行した特殊事情であって、中国とのコスト差は中国の必然的な賃金上昇と日本の生産性改善でキャッチアップしてきたので悲観することはない、というもの。その主張は一理あると思うが、でもこの人たちはごく一部の強い現場しか見ていない気がする。何の特徴もない工場にこう言う偉い先生方は行かないものね。
インダストリ4.0の本質について言えば、SiemensやSAPの言を借りれば、『汎用技術が専用技術を置き換えること』、『異次元の見える化』と定義していて、ちょっと著者らの感覚と違うな、と感じる。必要以上に脅威に感じる必要はないが、表面だけ見て解った気になって見くびるのは最悪だと思う。