あらすじ
歴代首相を輩出し、王子や王女も在籍したイートンやハロウなどの名門寄宿学校。階級が根強く残るイギリス社会のなかで、一握りの上流階級の子女のための教育機関でありながら、文化や伝統の重要な一部として広く共有されてきたのはなぜか。ラテン語・スポーツ・同性愛など、独特な文化とイメージの変遷をたどる。
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新井 潤美
(あらい めぐみ、1961年10月7日 [1]- )は、日本の英文学者・比較文学者。東京大学教授。東京生まれ。香港、日本、オランダおよび英国で教育を受けた[2]。父親の仕事のこともあって、彼女はオランダのアムステルダムの学校に移ったあと、14歳くらいのときに、英国のチェルテナム・レイディーズ・コレッジという「女子パブリック・スクール」に移る[3]。後に新井はパブリック・スクールに通った体験を活かして、自著内でパブリック・スクールのイメージが、イギリス文化においていかに大きな位置を占めているかを、小説、演劇、映画などを通して見るとともに、その実態と歴史的背景をも併せて紹介している[4]。その次には、ロンドンで学校生活を送ることになる[3]。子供時代の多くを英国で過ごし、高校を卒業後[5]、帰国。1984年国際基督教大学教養学部人文科学科卒業後、東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化専攻修士課程に進学、1990年同大学院同専攻博士課程単位取得退学、東邦大学薬学部専任講師、1992年中央大学法学部専任講師、1993年助教授、1998年教授。2014年上智大学文学部教授をへて、2019年東京大学大学院人文社会系研究科英文科教授となる。2016年「英国文化における「ロウワー・ミドル・クラス」イメージの成立と表象-ダニエル・デフォーからカズオ・イシグロまで」で東大学術博士(超域文化科学)。
新井潤美《パブリック・スクール》(岩波新書)を読み始めた。池田潔《自由と規律》に勝るとも劣らぬ面白さである。イギリスという民主主義を代表する国家が、このように階級制度の国でもあるというのは、日本人にはなかなか理解できない。その故に一層面白いのだろう。
「学校の性質がこのように変わったことのもう一つの理由として、アッパー・クラスやアッパー・ミドル・クラスにおいて、教育に対する考え方が変わってきたことが挙げられる。医学の進歩とともに、子供の死亡率が減少し、一つの家族の子供の数が増えるにつれて、子供を全員家で教育することが困難になってきていた。またかつては、アッパー・クラスや裕福なアッパー・ミドル・クラスの家では、息子に家庭教師や従僕をつけ、フランスやイタリアなどのヨーロッパの国に旅に出し、そこで本場の美術、音楽、文学などに触れて教養をつけさせる、「グランド・ツアー」と呼ばれる教育の習慣があったが、十九世紀になると、フランスとの戦争やヨーロッパにおける政治状況などによって、それも難しくなっていった。 その結果アッパー・クラスでも、特に手がかかり、おとなしく家庭で教育を受けようとしないような息子を、学校に入れるという習慣が広まっていったのである。そのため、十八世紀の終わりから十九世紀にかけては、同じ家の息子でも、その気質や体力によって、教育の仕方が違っていた。厳しい規律、共同生活、体罰などに耐えられそうもないような繊細な子供はそれまでどおり家庭教師をつけて教育したり、あるいは私塾のようなところに住み込みで教育を受けさせたが、強 な精神や身体を持ち合わせている子供、あるいはより厳しい規律を必要とするようないわば「不良息子」はグラマー・スクールに入れられたのである。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「この引用からは、オースティン自身はパブリック・スクールをあまり良く思っていないようにも見受けられる。彼女の父親は牧師だったが、プラット氏と同様に一種の私塾をも開いていたことが影響しているのかもしれない。一時は住み込みの学生がいたようである。 また、パブリック・スクールの中でも特に「ウェストミンスター・スクール」という設定にしているのは、オースティンの愛読した詩人のウィリアム・クーパー(一七三一 ~一八〇〇)が、「学校についての見解」(一七八四年)という詩の中で、自らがウェストミンスター出身でありながら、パブリック・スクールの教育を強く非難していることにも関係があるかもしれない。この詩についてクーパーは、友人の牧師ウィリアム・アンウィン宛ての手紙で、次のように書き送っている。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「教育関係 ワックフォード・スクィアズ氏の経営する学校、ドゥーザボーイズ・ホール。ヨークシャーのグレタ・ブリッジの近く、風光明媚なドゥーザボーイズ村にある。若者はここで寝泊まりし、制服、教科書、小遣いその他、すべて必要なものは与えられる。教育は古典と現代のすべての言語、数学、正字法、幾何学、天文学、三角法、地球儀の使い方、代数、フェンシング(希望者のみ)、作文、算数、防備、そして古典文学の他のあらゆる分野。学費は年間二十ギニー〔一ギニーは一ポンド一シリング〕。追加料金なし、休暇なし、食事は並ぶものなし。スクィアズは現在ロンドンに滞在していて、スノウ・ヒルのサラセンズ・ヘッド亭で一時から四時の間に面会可。注目! 優秀な助手を求む。報酬は年間五ポンド。修士号をもっていることが望ましい。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「さらに、生徒のモチヴェーションを高めるために、試験の成績によって賞金や奨学金を設け、自ら試験の作成に関わった。また、授業科目も、従来のギリシャ・ラテン古典の他に、現代史、現代言語(フランス語とドイツ語)、そして数学を導入して、話題を呼んだ。宗教の教育には特に力を入れていたのは言うまでもない。また、生徒たちの交友関係などにも目を配り、教員たちにも、誰と友達になるかが人格形成に大きく関わるのだから注意しなければならない、と語っていた。 アーノルドに心酔していたスタンリーが描いたこうしたアーノルド像は、かなり理想化されていたかもしれないが、「パブリック・スクールの理想の校長」像として定着していった。リットン・ストレイチー(一八八〇~一九三二)が一九一八年に書いた偶像破壊的な『ヴィクトリア朝偉人伝』で、アーノルドを視野の狭い、反動的でナイーブな人間として皮肉たっぷりに書き上げるまで、アーノルドは、イギリスの良き伝統を体現するパブリック・スクールの父として、崇められたのである。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「トムは事情があって、学期の途中にやってくるのだが、その日はたまたま、寮対抗のフットボール(この場合はラグビーのこと)の試合の日だった。寮対抗の試合は、全員が参加しなければならず、こっそりと逃げ出す下級生がいないかどうか、監督生が目を光らせている。こうして自分の寮に対する忠誠心を培い、さらに、スポーツを健全な競争心の表現として奨励したのもパブリック・スクールの特徴だった。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「ヴィクトリア朝における「学校物語」の中でも、『トム・ブラウンの学校生活』と並んで特に有名だったのはフレデリック・ W・ファラー(一八三一 ~一九〇三)という牧師が書いた『エリック、あるいは一歩ずつの前進』(一八五八年)という小説である。主人公のエリック・ウィリアムズは父親の仕事の関係でインドに生まれたが(ファラー自身もインド生まれだった)、幼い時にイギリスに戻され、おばに育てられ、十二の年にパブリック・スクールに入学する。トム・ブラウンと同様、エリックは長所もあるが欠点もあるという「普通」の人物である。少し気をゆるすと怠惰になったり、宿題をするのに禁止されている参考書を使ったりするばかりか、さらに飲酒や喫煙、借金といった、より深刻な誘惑に身を任せていく。エリックは何度か反省して心を入れ替えるが、自分の弱さに打ち勝つことができず、学校から逃げだし、船に乗り込むが、そこからも逃げだし、なんとかしておばの家にたどり着く。しかし学校を逃げ出してからの過酷な生活のせいで身体をこわし、おばの家に戻ってまもなく、病死してしまう。 陰鬱な物語であるが、これはヴィクトリア朝における子供のための書物の例にもれず、「教訓もの」なのである。目的は『トム・ブラウンの学校生活』と同様、パブリック・スクールの気風を賛美するものだったが、『トム・ブラウン』とは逆に、「パブリック・スクールの良さを取り入れることのできない生徒は惨めな人生を送るだろう」という警告を発している作品である。今ではほとんど読まれることがなく、そのメロドラマ性によって 笑の的にもなっているが、出版当時はこの作品の説教的なところは子供よりも大人に気に入られ、当時「エリック」という名を子供につけるのが流行ったらしい。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「作家ジョージ・オーウェル(一九〇三 ~五〇)はイギリスにおける学校物語について、次のように書いている。不思議なことに、「学校物語」はイギリス特有のものだ。私が知っている限り、外国にはほとんど「学校物語」は存在しない。理由は明らかだ。イギリスでは教育は主に階級と関連があるからだ。プチブルとワーキング・クラスを分ける最もはっきりした線は、前者が教育に金をかけるということであり、ブルジョワジーの中でも、「パブリック・スクール」と「プライベート・スクール」にもまた、越えることのない溝がある。「かっこいい」パブリック・スクールの生活の細々したところまでをきわめてスリリングでロマンティックに感じる人々が何十人もいることは明らかだ。彼らは中庭〔パブリック・スクールには必ずといっていいほどある〕や寮からなる神秘的な世界の外にいるのだが、その世界に憧れ、夢見、想像の中で何時間もそこで過ごすのである。問題は、彼らはどういった人間なのか? 『ジェム』や『マグネット』を読むのは誰なのか?(ジョージ・オーウェル「少年雑誌」一九三九年) ここで彼のいう「プライベート・スクール」とは、第一章で言及したパブリック・スクールを模倣した学校で、金銭的利益のために一人の校長が運営するような小さな学校が該当する。他に、二十世紀初頭には、これもまた主流のパブリック・スクールを真似た「マイナー・パブリック・スクール」と呼ばれる学校も増えていった。ゲイソーン =ハーディはこれらの学校を「少人数制の安っぽいイミテーション」と評しながらも、この種の学校が実は「誇張されたパブリック・スクール精神を広い範囲の社会的階層に広めていった」と分析している。「マイナー・パブリック・スクール」と言っても、その定義がはっきりしているわけではなく、その規模も質も様々である。 オーウェル自身は、裕福な家ではないが、アッパー・ミドル・クラスの出身で、両親が学費を払えなかったため、奨学生としてイートン・コレッジに行った。彼はプライベート・スクールについて辛辣なことを書いている。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「私が観察したところによるとこうだ。自分たちもパブリック・スクールに行くような少年も一般的には『ジェム』や『マグネット』を読むが、彼らは十二歳頃になると、たいていはもう読むのを止める。あと一年くらいは習慣で読むかもしれないが、その頃にはもうその手の雑誌を真面目には読まなくなる。一方、ひじょうに学費の安いプライベート・スクール、つまりパブリック・スクールに行くお金はないが、公立の学校を「下品」と思うような人々のために作られた学校の生徒は、そのあと何年かは『ジェム』と『マグネット』を読み続ける。数年前、私自身がそのような二つの学校で教えていた。そこではほとんどの生徒が『ジェム』と『マグネット』を読んでいただけでなく、十五歳や十六歳になってもかなり真面目に読んでいたのである。これらの生徒は小さな店の店主や、事務員や、小規模な企業や専門職に就いている人たちの息子であり、『ジェム』と『マグネット』が想定している読者がこの階級なのは明らかだ。 オーウェルが教えていた二つの学校の一つは、ロンドン西部の小さな男子校で、生徒は二十人足らず、教師はオーウェルの他に一人しかいない「プライベート・スクール」だった。生徒は主に地元の小売店や商人の息子だった。もう一つは、やはりロンドン西部のアックスブリッジにあるフレイズ・コレッジという学校で、こちらは生徒は二百人あまりいる、より大きな規模の学校で、「マイナー・パブリック・スクール」と言えるだろう。一八七〇年の教育法によって、公立の小学校教育(年齢とは関係なく、読み書きと算術を教えるもの)がイングランドとウェールズでじょじょに広まっていった(スコットランドでは一八七二年)。第五章で取り上げるように、公立の中等教育制度が整備されるのは一九四四年の教育法においてだが、公立の中等教育施設はそれ以前から作られており、そこに通うワーキング・クラスの子供たちの数も増えていた。オーウェルのここでの標的は、そうした「公立の学校」に通うワーキング・クラスを「下品」と見下す、ロウワー・ミドル・クラスの子供たちなのである。上昇志向の強いこの階級が、パブリック・スクールの物語を、いい年になっても夢中で読みふけるのは不思議なことではない、とオーウェルは書いているのである。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「第一次世界大戦の前にもすでに、ワーキング・クラスの多くの子供がフランク・リチャーズの学校物語に熱中していた。グレイフライアーズ校のハリー・ウォートンと友人たちの行動の基準に、学校の生徒や十代の若者の何人かは、断続的にではあるが、従おうとしていた。喧嘩はグレイフライアーズ校のルールに則って行われるのが理想だった。相手が倒れたら手を出さない、蹴りは禁止、つまり男らしい握りこぶし以外の武器は使ってはいけなかった。グレイフライアーズを通してわれわれは根性、誠実さ、伝統を良いものと思い、食いしん坊、アメリカ人、そしてフランス人をバカにすることを覚えた。つげ口をする奴らと泥棒をさげすんだ。〔中略〕自分たちの学校には愛校心や忠誠を感じることができなかったので、グレイフライアーズがわれわれの本当の母校となった。〔中略〕そして、この母校を敬愛する人間にとって、自分こそがグレイフライアーズの生徒たちからあんなにも軽 された「品のない男」の典型だと気づくと、奇妙なショックを覚えたものだ。(ロバート・ロバーツ『古典的なスラム街 二十世紀第一四半世紀のサルフォードの生活』一九七一年)」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「このようにチャーチルには特にパブリック・スクール時代を懐かしんだ様子はなく、むしろ批判的だったように読めるが、多くのアッパー・クラスやアッパー・ミドル・クラスの紳士たちは、それを大切な思い出、あるいは「人生最良の時」として肯定的に語っているのは興味深い。十九世紀のアーノルドらによる改革の後でも、パブリック・スクールでの生活は規律が厳しく、体罰はあったし、上級生へは絶対服従で、使い走りや掃除までさせられることに変わりなかった。使用人が何でもやってくれるような居心地の良い家から来た紳士たちが、時間というフィルターをとおしてであっても、パブリック・スクールでの生活を懐かしく思い起こすというのはいささか不思議でもあるが、文学作品や回顧録にはそのようなパブリック・スクールへの思いが書かれていることが多い。 例えば、男爵の娘で、人気小説家のナンシー・ミットフォード(一九〇四 ~七三)に、『神の賜物』(一九五一年)という作品がある。主人公はアッパー・クラスの令嬢で、気立ては良いがナイーブで単純なグレイスという若い娘で、同じくアッパー・クラスのフランス人、シャルル =エドゥアールと結婚する。夫は人生経験豊富で知性と教養に れ、洗練された人物だが、田舎育ちの素朴なグレイスは、夫の女性関係に対して、フランスの女性のように冷静に対応することができず、幼い息子ジギモンを連れてイギリスの実家に帰ってしまう。実家に戻ったグレイスは、以前つき合っていた典型的なイギリスの紳士ヒューイーと、再び懇意になる。自分にはやはりイギリス人がよいのではないかとヒューイーとの再婚を考え始め、ヒューイーも乗り気になる。そして彼は、ジギモンをイートンに入れなければいけないと言い出すのだ。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「 「この子はイートンに行かなければだめだよ。絶対にクリケットが上手になるから。勉強ばかりしているフランスの学校に入れているなんてもったいないよ」とヒューイーはグレイスに言った。(ナンシー・ミットフォード『神の賜物』一九五一年) イートンに子供を入れる理由が、勉強ではなくてスポーツであることがいかにもイギリス的だが、ヒューイーはさらにイギリス紳士らしく、きわめて理想化されたパブリック・スクールの記憶を抱いている。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「 しかし繊細な神経の持ち主や、身体が弱かったりスポーツが嫌いな生徒、社交嫌いや人見知りには、寄宿生活がきわめて辛いものであることは簡単に想像できるし、パブリック・スクールのネガティヴな部分を描いた作品も存在したのはもちろんである。 先に挙げた『神の賜物』もその一つと言えるが、パブリック・スクールが決して理想の場所ではないことを率直に描いた作品として最も有名なものの一つは、一八九九年に出版されたラドヤード・キプリング(一八六五 ~一九三六)の学校小説『ストーキーと仲間たち』だろう。キプリングは、オオカミに育てられた少年を書いた一連の物語『ジャングル・ブック』(一八九四年)によって知られているが、他にも多くの小説、物語そして詩を書いている。彼はインドに生まれ、イギリスで教育を受けた。一八七八年にデヴォン州のユナイテッド・サーヴィス・コレッジに入学したが、この学校は、軍人の子供のために一八七四年に創立された、新しいパブリック・スクールだった。『ストーキーと仲間たち』は、キプリングのここでの学校生活をもとに書かれた短編集である。 この作品は注目を集めたが、その評価は決して好意的なものではなかった。ジョージ・サンプソンという評者は「不愉快な学校に在籍する不愉快な少年達についての不愉快な本」と書き(『コンサイス・ケンブリッジ英文学史』一九四二年)、サマセット・モーム(一八七四 ~一九六五)は「これほどおぞましい学校生活の描写はかつてなかった」と嫌悪感を示した。また、小説家で詩人のロバート・ビュキャナン(一八四一 ~一九〇一)は文芸誌『コンテンポラリー・レヴュー』で憎悪とも思えるような感情をむき出しにして評した。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「物語は主人公のピーター・オニールがハロウに入学したときに始まり、彼の卒業までの学校生活をたどるという、典型的な学校物語のスタイルに則っている。しかし従来の学校物語のヒーローとは違って、ピーターはスポーツが苦手であり、学校の人気者とはならない。代わりに勉強ができることで、彼は他の者よりも早く上級に上がり、上級生の権限を与えられる。ピーターは何か口実を見つけては下級生を使い走りにやり、ささいなことで下級生を 打つ。ピーターは自分の本来の地位を認めようとはしなかった。彼はしょせん取るに足らない人間であり、ずるがしこさによって、本来ならば筋骨たくましい野蛮人が得るべき権限を手にしただけであった。彼は哀れな下級生がすぐさま返事をするのを聞く喜びを得るためだけに、「ボーイ!」と下級生を呼んだ。そして必要以上に 打ちを行なった。(アーノルド・ラン『ハロウ・スクールの生徒たち パブリック・スクール・ライフの物語』一九一三年) だが、ピーターはこの作品で英雄視されてはいないものの、軽 に値する悪漢として描かれているわけでもない。パブリック・スクールの生活をうまくきりぬけていく、普通の少年の姿として示されているのである。ピーターやその同級生たちは、禁じられている参考書を当たり前のように参照し、教師の特徴や弱点を押さえて、それをうまく利用する。この作品の各章の冒頭に他の作品からの引用があるが、そのうちの三つがマキアヴェリからの引用であるのも偶然ではない。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「自分は不正をしないと思っていたゴードンだが、学校に慣れるにつれ、自分も不正を始める。彼はスポーツが得意なので、学校の人気者になるが、ちょっとしたスランプでスポーツが不調なときは、人気を得、注目を集めるために、授業中にふざけたり、いたずらをしたり、規則を破ったりする。ゴードンとその友達は、上級生になればなるほど、手抜きをして好きなことができる、と宣言する。パブリック・スクールの生徒を信頼しちゃいけないよな。信用なんかしたら、つけこまれるだけだ。それなのにパブリック・スクールの制度がいいものだと言っている奴らがいるんだ!」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「 『ハロウ・スクールの生徒たち』もそうだが、この作品では、生徒たち自らが、パブリック・スクールの理想像を否定し、従来の学校物語を 笑する場面が何度も出てくる。運動至上主義や、運動ができる人間が学校の有力者になる制度も批判されるし、前章で紹介したベイデン =パウエルがボーイ・スカウト運動のかたちで広めようとしたパブリック・スクールの美徳については、「理想化された記憶の中のもの」と一蹴されるか、あるいは「学校での成功が人生のピークで社会に出てからはぱっとしない人間がよりどころとする幻想」としてあしらわれる。主人公のゴードン自身も、パブリック・スクールの学校生活を楽しみながらも、「個性を消そうとして、自分たちをみんな同じ人間にしようとして、自分で考えることを妨げようとする」パブリック・スクールの欠点を認める。上級生になると彼らは「スポーツを必修にすべきか?」というテーマでディベートを開催し、「必修にすべきでない」側に立って、圧勝する。学校の人気者であり、学生生活を満喫しているはずの生徒たち自身が、パブリック・スクールの伝統と理想を覆そうとしている様を描いたこの小説が、パブリック・スクールを理想化する卒業生や支持者に非難されたのも不思議はない。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「しかしこの作品で最も危険視されたのは、生徒どうしの愛情の描写であろう。この小説を読んだ親たちを危惧させた誘惑というのも、まさにそのことであった。それまでの学校物語にも生徒どうしの友情は描かれていた。『トム・ブラウンの学校生活』でも、トムが自分とは正反対のタイプのアーサーという少年と親密になって、良い影響を受けたのはすでに書いたとおりである。 また、 H・ A・ヴァチェル(一八六一 ~一九五五)の一九〇五年の小説『ザ・ヒル』はハロウ・スクールでの生徒どうしの深い友情を描き、「友情のロマンス」という副題さえついているが、ヴァチェルは少年どうしの親密な関係を完全に無邪気なものとして書き上げている。作家ロバート・グレイヴズ(一八九五 ~一九八五)はその自伝の中で、次のような逸話を紹介している。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「グレイヴズはここでレンダルのナイーブさを揶揄しているのだが、実際、そう無邪気ではない関係も頻繁にあったことはもちろんで、上級生が下級生に目をつけて部屋に誘う、あるいは「愛」もなくて、完全に性欲を満足させるための関係を少年どうしが築くといった事柄も行なわれていた。 こういう関係を恐れた教師がとった解決法の一つはスポーツだった。例えばイートンでは、一八六八年から八四年まで校長を務めたジェイムズ・ホーンビー(一八二六 ~一九〇九)は、同性愛行為の増加に対する措置として、スポーツの時間を増やしたということである。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「しかしスポーツが逆に性的な刺激となることも同時に心配された。一八八七年にラグビー・スクールの校長として着任したジョン・パーシヴァル(一八三四 ~一九一八)はラグビーのユニフォームの短パンの長さを膝の下まで伸ばし、ゴム紐でとめるようにさせた。少しでも脚の露出量を少なくしようとしたこの試みのおかげで、この校長には「膝のパーシヴァル」というニックネームがつけられたという。また、ウェリントン・コレッジという、一八五九年に創立された学校では、初代校長で後のカンタベリー大主教エドワード・ベンソン(一八二九 ~九六)は生徒の寝室のベッドを仕切るために設置された壁(シャワー・ブースのような仕組みになっていたと思われる)の上部に、鉄条網を敷かせた。ちなみに彼の息子はイギリスではひじょうに人気のある大衆小説家で、恐らく同性愛者だったとして知られている E・ F・ベンソン(一八六七 ~一九四〇)である。鉄条網までいかないにせよ、他の学校でも、生徒たちが寝室を抜け出したり、他の寮の学生に会いにいったりすることは禁止されていた。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「アレック・ウォーの小説は、こうしたタブーに触れているのである。例えば第一巻の第五章では、ゴードンの友人のジェフリーズが突然退学になる。理由を尋ねるゴードンたちに、ジェフリーズは次のように答える。 「校長が僕とフィッツロイの関係を知っちゃったんだ。それでおいだされるのさ」 「君たちはそういう関係だとはわからなかった」とゴードンは言った。「ただの 」 「いや、そういう関係だったんだよ」マンセルは「不公平だ!」と声を上げる。上級生はみんなやっていることなのに、と憤慨すると、ジェフリーズも答える。 「たしかに不公平だよ。僕をこうしたのはこの学校じゃないか? 二年前に来たときには、僕だってここにいるカラザーズと同じくらい無邪気だったよ。何にも知らなかった」 そしてこの「無邪気な」ゴードンも上級生になると、モーコムという名の下級生に興味をもち、親しくなる。二人が熱く詩を語る様子などが描かれているが、それ以上のことについては、かなり婉曲な言及があるのみである。この友情によってゴードンは暗い十二月の日々を耐えることができた。〔中略〕歴史を勉強している筈の午前中の長い朝の時間に、快楽の熱い水に身を任せたいという衝動を何度も覚えることがあった。〔中略〕そのような生活に陥ってしまうことは実にたやすいことだと気づいた。誰も気にとめないだろう。自分の地位は変わらない。誰も自分を悪く思うことはないのだ。もちろん、見つからなければ、だが。もし見つかったらみんなに非難されることだろう。それが許されざる罪なのだ。見つかるということが。でも見つかることはひじょうにめずらしかった。そしてそこに陥ることはあまりにもたやすいのだ。自分も少し我を忘れてもよいだろう。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「きわめて曖昧な表現が使われているが、これが性愛を指していることは明らかだろう。ウォーは一九五五年版の序文で、当時衝撃的だと思われていた箇所も、現在の、より直接的な表現に慣れてしまっている読者にとっては、それがどこだか分からないほど、どうということがなくなったと書いている。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「しかし表現はどうであれ、「パブリック・スクールにおいてはひそかな同性愛的行為はめずらしいものではなく、見つかることが罪なのだ」という感覚が変わっていないのは、ウィンチェスター・コレッジ出身の劇作家ジュリアン・ミッチェル(一九三五 ~ )が書いた一九八一年初演の戯曲『アナザー・カントリー』を見ても分かる。初演時はルパート・エヴェレットが主役を演じたが、その後ケネス・ブラナーやダニエル・デイ・ルイス、コリン・ファースなどが主要な役を演じており、一九八四年の映画版にはルパート・エヴェレットとコリン・ファースが出演している。今でも人気のあるイギリスの俳優たちが登場するこの映画は、日本でもちょっとしたブームを巻き起こした。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「 「女子の教育について最も重要で基本的な事実の一つは、それが十九世紀の半ばまではほとんど存在しなかったことだ」と、ジョナサン・ゲイソーン =ハーディはその著書『パブリック・スクールという現象』の中で書いている。十二世紀までは、娘を修道院に入れてラテン語の教育を受けさせる貴族が、かなり少数ではあっても存在したことをゲイソーン =ハーディは指摘している。ヘンリー一世の王妃だったマティルダの母親が読書家であり、マティルダは当時の女性には珍しくラテン語を読むことができたため、その影響で自分の娘にラテン語を教える貴族がいた。しかし、マティルダが一一一八年に死去してからはその「流行」も廃れ、教育を受ける女子の数は減少したとのことである。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「その後、十八世紀までは、アッパー・クラスおよびアッパー・ミドル・クラスの女性は「たしなみ accomplishments」と呼ばれる、結婚相手を見つけるために必要とされた様々な技能を家で教えられるのみだった。この「たしなみ」の内容もまた曖昧なものであった。例えばジェイン・オースティンの『高慢と偏見』では、「たしなみ」に関して議論が繰り広げられる。 「たしなみがあると女性が言われるためには音楽、歌、絵、踊り、そしてフランス語とドイツ語の完璧な知識を得ている必要があります。そしてさらに身のこなしと歩き方、声や話し方、そして表現に、言葉では表わせない何かがなければ、たしなみがあるとは言えません」(ジェイン・オースティン『高慢と偏見』一八一三年)」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「しかし踊りや歌が上手で、フランス語が少しばかり話せて、歴史や地理などについて表面的な知識を得ていても、「知性がある」と言えるような女性が少なかったことは、オースティンの書簡集からも読み取れる。姉のキャサンドラに宛てた手紙で、オースティンは舞踏会やその他の社交の様子を細々と書き送っているが、その場の会話がいかにつまらなかったかという不満が多い。水曜日 昨夜もまた退屈な集まりでした。もっと大勢の人がいたならもう少し我慢ができるものだったかもしれませんが、カードゲームの組を一つ作って〔この場合のカードゲームは四人一組となる〕、あとの六人は見物して互いにくだらないことを言い合うという状況でした。(一八〇一年五月十二 ~十三日付書簡) もっとも、オースティンの周りでくだらない話しかできないのは女性に限ったことではなく、彼女と同等の鋭い洞察力と機知を持ち合わせる人物はそう多くはなかったと思われるが、書簡を読む限りでは、社交の場で知性的な会話を楽しむという経験はそう多くはなかったようだ。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「オースティン自身は、主に自宅で父親の蔵書を読んで知識と教養を身につけたのであるが、学校に行っていたこともあった。九歳の時に、二つ年上の姉のキャサンドラと共に、レディングにあるアビー・スクールという寄宿学校に入学したのである。ジェインは寄宿学校に入るにはまだ早いと思われていたが、仲の良い姉と離ればなれになることを嫌がったので、両親が折れたと言われている(なお、現在レディングにアビー・スクールという女子寄宿学校が存在するが、これは同じ場所に一八八七年に建てられた、別の学校である)。しかしオースティン姉妹は翌年には退学して家に戻っており、その後は学校に行くことはなかった。その理由は明らかではないが、どちらかというと経済的なものだったのではないかと考えられている。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「経済力のあるアッパー・クラス、アッパー・ミドル・クラスの家庭では、息子たちをパブリック・スクールにやったのとは異なり、娘たちについては、「淑女教育」の学校がいかに増えようと家におき続けた。そして住み込みの家庭教師(ガヴァネス governess)をつけたのである。『マンスフィールド・パーク』のバートラム姉妹は、准男爵の令嬢としてまさにそのような教育を受ける(一方、『高慢と偏見』のベネット姉妹は、ジェントルマンの娘達でありながら、経済的な理由と、父親の無頓着から、家庭教師をつけられていない)。家庭教師は使用人とは違い、雇い主と同じく紳士淑女の階級の出身でなければならなかったが、経済的な理由で働いているという事情から、雇い主の家の使用人からは まれ、かと言って使用人の仲間に入ることもできず、孤独でみじめな存在であることが多かった。また、家庭教師自身もろくな教育を受けていない場合も多かった。女性の教育の改善は、そんなアッパー・ミドル・クラスの淑女を教える家庭教師によりよい教育を施す、という名目から始まるのである。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「十八世紀の終わりには、フェミニストの先駆者と言われるメアリー・ウルストンクラフト(一七五九 ~九七)のように、女性が男性と同等の教育を受ける権利を主張する人物もいたが、実際の教育の現場には影響を及ぼすことはできなかった。前章で説明したように、パブリック・スクールを出た男子はその多くがケンブリッジ、オックスフォードの両大学へ進んだが、女子は受け入れられなかった。イギリスには長く大学はその二つしか存在しなかったが、一八二〇年代や三〇年代には、新しく大学が設立された。そこでは家庭教師教育の必要が主張され、二六年に創立されたロンドン大学のユニヴァーシティ・コレッジでは二八年から女性が講義を聴講することが許された。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「これらの学校は、多くの面において、伝統的な男子パブリック・スクールをモデルにしていることが多かった。「中等教育の改善」を目的として、一八六四年から六七年まで設置されたトーントン が率いる調査委員会(第二章で触れた、トーントン・コミッション)において、次々と新しく設立された女子パブリック・スクールが、その教育水準においてはまだまだ男子校に及ばないことが報告された。そのため、女子校は学問の面で男子校に追いつこうとし、寄宿生活の様々なルールや、用語などにおいても、男子校を模倣する傾向にあった。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「その結果、これらの女子パブリック・スクールでは特に「女性的」な教育や指導はなされないことが多く、男子校と同様にスポーツや運動が重要視された。チェルテナム・レイディーズ・コレッジのドロシア・ビールはスポーツで競争心をあおることを嫌い、他の学校との対抗試合を禁じたが、ローレンス三姉妹のロウディーン・スクールでは創立時に「毎日二時間から三時間が運動とスポーツに費やされる」と宣言されていた。実際はそこまで運動が重視されたわけではなかったようだが、女子パブリック・スクールの中でもロウディーンは特に運動に力を入れ、肉体的に強 な女性を作り出すというイメージは強い。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「例えばイギリスできわめて人気のあるユーモア作家 P・ G・ウッドハウス(一八八一 ~一九七五)の『ジーヴズと恋の季節』(一九四九年)では「がっしりとして、屈強で、テニスを五セットしてもびくともしない」、ヒルダという女性が登場する。彼女は、男子パブリック・スクール生がするように男性のことを名字で呼び捨てにして、言葉も仕草もきわめて男性的なのだが、それでも恋人がいる。しかしその恋人とテニスのことで喧嘩になり、沈みこんでいるところに、恋人から謝罪の手紙が届き、有頂天になる。彼女は「こんなに嬉しいのは、ロウディーンでテニスのシングルスの試合に優勝して以来だ」と喜ぶのである。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「女子パブリック・スクールの数が増え、そのイメージが定着するにつれて、男子パブリック・スクールの場合と同様、女子パブリック・スクールを舞台とする「学校物語」が多く書かれるようになった。そしてこれらの小説を読むと、当時の女子パブリック・スクールがいかに男子パブリック・スクールを模倣していたかがよくわかる。運動やスポーツ、学校に対する忠誠心、競争心、名誉、規律が重視される。上級生には権限が与えられ、下級生は上級生の使い走りをし、その学校の生徒にしかわからないような隠語やニックネームが使われる。男子校と違って、生徒どうしは名字でなくて名前で呼び合うが(男子校のように名字で呼び合う学校も存在した)、「シャーロット」を「チャーリー」、「ロバータ」を「ボビー」など、あえて名前を「男性風」に呼んだりする。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「とは言え、女子校が完全に男子校を模倣しているだけでないのも明らかである。『四年生の友情』では、校長が学校の敷地に小さな家を建てて、そこで順番に生徒たちに家事と料理をさせ、客を昼食とお茶に招いてホステスとしてもてなすという訓練をさせるエピソードがある。また、児童文学作家イーニッド・ブライトン(一八九七 ~一九六八)の作品は、現在でもペーパーバックで書店に並び、広く読まれているが、そのなかでは、生徒たちが特に「女性的な」教育や訓練を受ける描写はないものの、校長が生徒たちに向かって「あなた方はいつか妻になり、母になるのですから」と言う場面が何度か描かれる。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「こうして、イギリスの女子パブリック・スクールの「男性的でありながら女性的」というイメージが形成されるのである。女子の学校物語は男性版と同じく、パブリック・スクールとは無縁の階層の読者にも広く読まれ、現実逃避の娯楽となる。さらには十一歳から十八歳のアッパー・ミドル・クラスの娘たちが、男性性と女性性の両方を兼ね備えた独特の存在として、女性ばかりでなく男性の読者の想像力をも刺激したのは不思議なことではない。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「パブリック・スクールを舞台にした物語と同様、少女たちの熱い友情は一見無邪気にも思えるが、それが夜、消灯後のベッドの中での抱擁やキスという形をとると、別の解釈も与えられるだろう。そして、ラーキンのこの作品には、こうした従来の女子校物語に描かれている範囲を超えた描写がみられる。例えば、明らかに同性愛的な嗜好をもち、自分の部屋に来て眠ってしまった下級生の寝巻きを脱がせてキスしようとしたことが発覚して退学になる生徒や、消灯時にベッドに入っていない下級生の尻を革のベルトで叩いて歩くサディスティックな上級生なども登場するのである。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「一方、『例の奨学生』では、同じくボード・スクールの生徒だったホレスが、奨学金を得て地元のトリントンという学校に入学する。トリントンは、そこの生徒によると「紳士のために設立された学校」で、生徒たちもパブリック・スクールの学校物語の生徒たちのように振る舞う。例えば、父親を「ペイター」と呼んだり(ラテン語 paterの英語読み。ただし面と向かっては「ファーザー」と呼ぶ)、「ファイブズ」という、パブリック・スクールで人気のある球技を楽しむ。勉強に一生懸命にならないことを美徳とするのも、パブリック・スクール(の物語)の模倣なのである。しかしこの学校は通学制であり、授業科目を見ても科学系の科目が充実しており、グラマー・スクールであることは明らかである。 ホレスは「自分で学費を払えない奴が来たら学校の格が下がる」と言い張る生徒たちにいじめられる。ホレスを目のかたきにする、テイラーといういじめのリーダーは、自分が紳士であることを常に強調する。しかし、父親がどうやって財産を成したかを、他の生徒から指摘されそうになると怒り狂うのである。そして物語の終盤では、ホレスは実はミドル・クラスの医師の息子であり、わけがあって父親が家を出たために貧しい生活をせざるを得なかった、ということが判明する。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「この作品はつまり、「奨学金を得てグラマー・スクールに進学したものの、ミドル・クラスの生活になじめないボード・スクール出身の生徒」、という類のものではない。ホレスが実は医師の息子であり、もともと階級的にミドル・クラスだったということもあるが、いじめっ子のテイラーやその取り巻きが紳士として描かれておらず、グラマー・スクールの生徒たちとボード・スクールの生徒との差は、単に経済的なものであるかのように書かれているのである。作者のレズリーは作品の中で、このようなグラマー・スクールの生徒たちが、パブリック・スクールの言動を模倣しているさまを批判し、そんなことよりも、教育を与えられている機会を最大限に生かすべきだという教訓をこめている(この作品は、第二章で紹介した『ボーイズ・オウン・ペイパー』を刊行した、宗教冊子協会(一七九九年創立)から出版された)。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「また、監督生制度については、グラマー・スクールの「民主性」と相容れないものだとみなす校長が多いことを述べ、グラマー・スクールの上級生の中には監督生になりたがらないものさえいることを指摘する。にもかかわらず、大多数のグラマー・スクールは実際は監督生制度を取り入れている。それは察するに、この制度が上級生に権力を行使し、責任をとることを教える最適な方法だと思われているからだろう。リーダーシップという概念そのものを冷笑するのを好む人々もいるが、どのような種類の組織においても、責任を負う人間が必要なのは当然ではないだろうか。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「ローマに行ったことのある奴はいるか? いないか? 君たちの競争相手の少年少女はローマに行ったことのある奴らだ。ローマやベニス、フィレンツェやペルージャに行っていて、そこで見たものについてお勉強している。だから奴らは宗教改革の直前のキリスト教会について答案を書くときに、キリストの包皮〔ヨーロッパにはキリストの包皮なるものが保存されているところが多い〕についてのくだらない知識が役に立つことを知っているんだ。そういう知識を使った奴らの答案は、君たちの答案と違って退屈じゃないんだよ。 ベネット自身は英国の北部の都市リーズの、ワーキング・クラスの出身だった。この作品は自分の勉強の経験をもとにして描かれている。初演と同時に台本が出版されたが、その際に書いた序文の中で、ベネットは自分の経験を次のように語っている。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「 六年生に女子生徒を入れたことの一つの結果として、男子生徒の間で同性愛に関する言及がほとんどなくなったということを、デイヴィッド・ターナーはその著書『オールド・ボーイズ パブリック・スクールの衰退と復活』に書いている。こうしてまた一つ、パブリック・スクールの「伝統」がなくなっていくのである。ちなみにイギリスでは一九六七年に男性どうしの同性愛行為が違法でなくなった。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「とは言え、翌年ハロルド・ウィルソン率いる労働党が政権を得てからも、労働党は思い通りにパブリック・スクールをつぶすことはできなかった。その最も大きな理由はおそらく、今まで見てきたように、パブリック・スクールという存在が、それに無縁なイギリス人にとっても、大切なイギリスの伝統の一つとして見なされていたことだろう。学校物語がこのイメージづくりに大きな役割を果たしていたのはすでに書いたとおりだが、それに加えて、第一次世界大戦において、パブリック・スクール出身の士官たちの勇気と自己犠牲がマスコミ等に讃えられ、第一次世界大戦と言えばパブリック・スクールという連想までもが一般的になったのである。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「話をパブリック・スクールに戻そう。一九八〇年代は、デイヴィッド・ターナーによると、再びパブリック・スクールの「黄金時代」となった。コンプリヘンシヴ・スクールの状態は、サッチャーが公立校への援助金を削減したことによってますます悪化した。さらに一九八一年に、政府は私立学校に対して特別奨学枠というものを設けることを奨励した。これは、政府が学費を部分的あるいは全額負担して、経済的に余裕のない家庭の子供がパブリック・スクールに入学することを可能にするという制度である。こうして公立校からはまた優秀な子供が抜け、水準が下がる一方で、パブリック・スクールは優秀な生徒を集めることができ、業績を上げることができたのである。だがこの制度も一九九七年に労働党が政権を得た時に廃止になった。 パブリック・スクールのこの「黄金時代」はつかの間で、一九九〇年代にはパブリック・スクールは生徒数の減少で悩むことになる。ターナーはその理由の一つとして、これまで海外在住のイギリス人たちが子供を本国の寄宿学校に入れていたが、インターナショナル・スクールが増えたことによってその必要がなくなったからだと説明している。確かに私が在学していた寄宿学校にも、親が仕事で海外に勤務しているという生徒が少なくなかったし、そういう生徒を、休みの際に学校から空港まで車で送り迎えする制度も充実していた。しかし一方で、彼らは親が海外に赴任しなければ家から通える学校に行っていたかというと、疑問が残る。そもそも彼らの親は寄宿制のパブリック・スクールに入れることが良い教育であると考えて子供を預けているのであり、決して便宜上入れているわけではないのは、同級生たちの話からも想像ができた。なかには、寄宿学校に入れる年齢に達するまでは、通学制の学校には行かず家で教育を受けていたと言っていた同級生もいた。 おそらく、パブリック・スクールの生徒数が減少したもっと大きな理由は、子供をあえて寄宿舎に入れて、厳しく育ててもらうという考えを抱く親の数が減っていったということだろう。家庭中心主義の風潮が強まり、なるべく子供と多くの時間を過ごしたいという考えが主流になっていった。さらに、パブリック・スクールでは、質素で厳しい生活が強いられる。イートンなどの、アッパー・クラスの家庭の子供が多く学ぶ学校でもそれは同様である。一九九〇年代になるとますます快適になる家庭環境とのコントラストが大きくなっていったことも、寄宿生活の人気が下がっていったことの原因の一つだった。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「この「スーパーヘッド」が、その後私立校にも現われるようになった。「ビッグ・ヘッズ」によるとこれらの校長は、写真写りがよい人々で、話題を集めるような新しい方針を打ち出して、マスコミの注目を集めている。例えば共学のパブリック・スクールであるブライトン・コレッジの校長リチャード・ケアンズは、二〇一二年に『タトラー』誌の「パブリック・スクール校長賞」を受賞し、翌年には学校が「英国学校賞」を受賞しているスーパーヘッドだが、一六年の二月には、制服について新しい方針を発表して話題となった。今後ブライトン・コレッジでは、男子生徒と女子生徒はどちらも、ズボンかスカートを選ぶことができるという方針であり、「トランスジェンダー」の生徒への配慮だった。『スペクテイター』の記事の筆者イセンダ・マックトン・グレアムは、ケアンズがこうしてまた学校のイメージを良くしたことを「賢い!」と揶揄的に賞賛している。ブライトンの町が、イギリスの中でも同性愛者が多いことで有名なのも、この方針がまわりに好意的に受けとめられたことの要因だった。ブライトン・コレッジは二〇一〇年にアブ・ダビ校を開校している。 また、第三章でもとり上げたパブリック・スクール、ウェリントン・コレッジ(二〇〇五年から共学になった)では、二〇〇六年から一五年まで校長を務めたアントニー・セルドンが、「ヨガ」や「ハピネス」の授業を導入したことで知られている。グレアムは、このような「自由な」方針は、現代の新しい金持ちを喜ばせるものであり、彼らにとって子供が在学しているパブリック・スクールは、ブランド品のバッグと同様、人に誇示する装身具のようなものであると、いかにも保守的な『スペクテイター』らしいことを書いている。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「第四章でも触れた、イギリスの階級をユーモアたっぷりに描いた著書『クラース イギリス人の階級』で知られているジャーナリストで小説家のジリー・クーパーの小説『ウィキッド!』(二〇〇六年)は、コンプリヘンシヴ・スクールとパブリック・スクールのスーパーヘッドを扱っている。舞台はラークミンスターという架空の町である。そこにはバグリー・ホールという男女共学のパブリック・スクールが一つと、公立の学校が三つある。三つのうちの二つは質の良いコンプリヘンシヴ・スクールだが、町の中でも貧しい人々が暮らし、犯罪も頻発する地域にあるラークミンスター・コンプリヘンシヴ・スクールは、「身の毛もよだつような劣悪な学校」なのである。 物語のヒロイン、ジャナ・カーティスはこの学校の校長の職に応募し、採用される。ジャナは年は若いが、別の地域のコンプリヘンシヴ・スクールの立て直しに貢献した経験があり、自信に満ちている。しかしラークミンスター・コンプリヘンシヴの用務員のウォリーは、ジャナにこう語る。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「階級意識が依然として強く残っているイギリスにおいて、一つ大きく変わったことは、アッパー・クラスやアッパー・ミドル・クラスの人々やその価値観、文化、話し方に、ほとんど自動的に敬意を抱くということがなくなったということだろう。むしろ、アッパー・クラスの話し方と発音は反感を抱かれるということで、サービス業等に従事するアッパー・クラスやアッパー・ミドル・クラスは、あえて話し方やアクセントを変えようとするとさえ言われている。 こうした中、パブリック・スクール出身であることが必要以上に批判の対象になったりもする。例えば二〇一二年三月に、財務大臣で、セント・ポールズ・スクール出身のジョージ・オズボーンが「コーニッシュ・パスティ」と呼ばれる、ひき肉を使った小さなパイに、二十パーセントの税金を課すことを決めた。オズボーンのこの決断は理にかなったものだった。イギリスでは、家に持ち帰って食べる食品については税金は課せられないが、その場で食べるために調理されている食品には二十パーセントの税金がかかることになっていた。それまでコーニッシュ・パスティやソーセージ・ロールといった軽食は税金がかからなかったのだが、オズボーンはこれらを持ち帰り用ではなく外食であるとして課税対象だと判断したのだった。」
—『パブリック・スクール-イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)』新井 潤美著
「私はブライトンの学校ものを読破して、いつしか「イギリスの寄宿学校」に行きたいと思うようになっていた。その願いが実現したのは香港勤務の後、父がオランダのアムステルダムに赴任して、家族でそこに住むようになってからである。アムステルダムのインターナショナル・スクールには十年生までしか学年がないこともあり、私は七年生だった十四歳くらいの時に、本書でも触れたチェルテナム・レイディーズ・コレッジ
Posted by ブクログ
非常に勉強になった。与党が変わるたびに教育のあり方(パワーバランス)が変わるっていうのは日本ではあまり考えられないこと。
文中で引用されていた本にもおもしろそうなのがいっぱい。ただ、日本では訳されていないものもあり残念。検索の問題かもしれないので、巻末リストに原書だけでなく日本発行の題名も付けてくれたら、なおうれしかった…というのは単なるわがままですが。とにかく日本語で読めるものは読んでみたい。
また、自分が行っていた私立校はどの階級に属していたのか知りたいと思った。
本書を読んだ後に「美しき英国パブリック・スクール」を読むとイメージが湧きやすく理解が深まる。
Posted by ブクログ
みんなの憧れパブリック・スクール。
イギリスの学校といえばパブリック・スクール。数々の作品で描かれる寮生活、寮対抗試合、監督生、上級生との関係など。しかしイギリスでパブリック・スクールに通った人は本当にわずかなのだ。しかしイギリスの学校=パブリック・スクールのイメージを持っている。この本はパブリック・スクールの歴史から、どのようにしてパブリック・スクールのイメージが作られたのかを紐解く。誰のための学校として生まれたのか。なぜ好意的なイメージになったのか。特にフィクションに描かれた学校や生徒の様子に注目する。また追随する学校の誕生についても述べている。
後書きで著者が子どもの頃に読んだセント・クレアズに触れていたが、自分もまったく同じようにこの作品から女子だけの寄宿学校に憧れを持ったのを思い出した。ハリポタにはほぼ触れられていないが、あれは全寮制、監督生などを持ちつつ、パブリック・スクールのイメージは反映されていないたいうことだろうか。
Posted by ブクログ
ハリーポッターを代表するイギリスの青少年を主人公とする物語には必ずと言っていいほど登場する全寮制の中等教育学校ーいわゆるパブリック・スクールについての解説書。
日本でも最近になって海陽学園などパブリック・スクールをモデルにした学校がフォーカスされたりしたものの、依然として数は少なく、そしておそらくこれからも増えることはないだろう。だからこそ新しい世界を見た感じがあり面白い。
本書ではそんなパブリック・スクールが形成された経緯や「紳士的な教育」がどのような変遷を遂げたか、また女子のパブリック・スクールにおける特徴など様々な視点から解説を行なっている。パブリック・スクールを扱った小説がパブリック・スクールの普及に貢献したと言うのは日本における学校青春漫画と通ずるものがあるのではないだろうか。
中高生らしい悪ノリやその中に垣間見える不文律の規律もある程度は日本と共通するところがあり、反面階級間対立については日本以上に深刻であるとも感じた。
Posted by ブクログ
日本人だがパブリック・スクールの滞在歴がある著者が、その歴史と変遷を明らかにする。
パブリック・スクールとは言ってみればイギリスのエリート校。成り立ちの歴史は古く、設立は17世紀に遡る。イギリスの政治家やら法曹界やらパブリックスクール閥のようなものがあるようだ。個人的解釈では優れた素質がある若者を選抜して養成することな根底にあるように感じる。
翻って現代。周囲の話を聞くと入学時点でその人の人生が決まってしまうようなシステム(パブリックスクールも含む)を出来るだけ変えたいと国は考えているようだ。とはいうものの、より良い学校に入れようと早くから子供のお稽古事や勉学に投資する親もまた多い。
学閥主義がイギリスからなくなることはまだまだ時間がかかるのではと肌感覚で思う。