あらすじ
「三省堂国語辞典」略して「三国(サンコク)」。
そして 「新明解国語辞典」略して「新明解」(赤瀬川原平著『新解さんの謎』でブームとなった辞書である)。
二冊ともに戦後、三省堂から刊行された辞書で、あわせて累計4000万部の知られざる国民的ベストセラーだ。
しかし、この辞書を作った(書いた)二人の人物のことは、ほとんど知られていない。
「三国」を書いたのが、ケンボー先生こと見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)。
「新明解」を書いたのは、山田先生こと山田忠雄(やまだ・ただお)。
二人とも国語学者だが、「三国」と「新明解」の性格はまったく異なる。
「三国」が簡潔にして、「現代的」であるとすれば、「新明解」は独断とも思える語釈に満ち、
「規範的」。そこには二人の言語観・辞書が反映されている。
本書は、二人の国語学者がいかにして日本辞書史に屹立する二つの辞書を作り上げたかを
二人の生涯をたどりながら、追いかけたノンフィクション。
著者は同じテーマで「ケンボー先生と山田先生」(NHKBS)という番組を制作したディレクター。
同番組はATP賞最優秀賞、放送文化基金賞最優秀賞を受賞。番組には盛り込めなかった新事実や
こぼれおちた興味深いエピソード、取材秘話なども含めて一冊の本にまとめた。
本書で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。
感情タグBEST3
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従来の体質を変えないといけないという山田先生の強い思いと強引な実行力に感謝します。この本や映画テレビ等を通して辞書を創りたいという人が沢山出てきて特徴のある辞書が沢山出てくればいいなと思いました。
Posted by ブクログ
項羽と劉邦、最澄と空海、信玄と謙信、エジソンとテスラ…そんな歴史上の大人物達で無くとも、同時代に並び立つ二人の天才のライバル関係を描いたストーリーというのは大抵の場合、すごく面白い。
しかもそれをNHKの番組制作ディレクターという圧倒的に取材力に長けた人がノンフィクション・エッセイとして書いたら。その時点で面白くなることは自明だ。筆者はこの本が初の著作らしいが信じられないくらい文章の構成が巧みに感じた。圧倒的な取材量に基づく事実の裏どり、肉付けがあることが文章から透けてくる。
『舟を編む』という辞書編纂者にスポットを当てた三浦しをん著の名作小説があるが、あんなドラマは小説の中だけだと思っていた。最近『三省堂国語辞典のひみつ(「三国」の現主幹編纂者である飯間氏が書いた国語辞典の面白さを描いた本)』を読んで自分の中で「三国」がホットになっていたけど、まさかその出自にこんなドラマがあったなんて。
本書に出てくる表現を借りれば正に“字引は小説より奇なり”だった。『博士と狂人』じゃないけど、映画化されてもいいのでは?
大部分、徹底した取材に裏打ちされた事実と推定によって成り立っているけど、終盤の一部分に関してはちょっと妄想や願望が入り混じった「創造的誤読」で筆が進んだように感じなくもなかった。(具体的にはケンボー先生と山田先生の内心を慮る箇所)
終章および「おわりに」の締め方が見事。
改めて新明解国語辞典と三省堂国語辞典が欲しくなった。
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東大の同期だったケンボー先生と山田先生。
当初は共に「明解国語辞典」を作っていましたが、ある時を境にケンボー先生は「三省堂国語辞典(三国)」を、山田先生は「新明解国語辞典」を別々に編むようになります。
二人の間に何があったのか、それぞれどんな思いで特色ある辞書を編んだのか。
関係者の証言や、辞書の語釈などから、徹底的に調べあげていくノンフィクション作品です。
地味で地道な辞書の編纂という仕事に、全人生をかけた二人の男の熱い信念に、感動しました。
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一気に読んだ。実に面白い。「明解国語辞典」から「三省堂国語辞典」と「新明解国語辞典」が生み出された経緯、赤瀬川源平「新解さんの謎」で話題となったユニークな記述、昭和47年1月9日の謎など、全てのエピソードが面白く、言葉というものの深さを改めて認識することとなった。お勧めの一冊。
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著者、佐々木健一氏は本書で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞されたそうです。
平成25年4月29日、NHK-BSプレミアムの特番。
「ケンボー先生と山田先生~辞書に人生を捧げた二人の男」という番組の取材内容に新たな証言や検証を加えて構成したものだそうです。
ケンボー先生というのは『三省堂国語辞典』を編纂した見坊豪紀(けんぼうひでとし)氏のことで、山田先生というのは、『新明解国語辞典』を編纂した山田忠雄氏のことです。
二人は東大の同級生で二人とも三省堂の社員でした。
最初はケンボー先生の助手として山田先生と二人で、『明解国語辞典』を作っていたそうです。それが途中から、簡単に言うと山田先生の反乱で袂を分かち、ケンボー先生は『三国』を、山田先生は『新明解』を別々に作るようになったそうです。
二人の辞書にはそれぞれ独自のカラーがあり、『三国』は用例採集を1日に15時間もしていたケンボー先生の「現代語事典として説明が平易でそれがよくこなれている」と、国語学者の大野晋氏にいわしめた、オーソドックスな辞典。
『新明解』は山田先生のカラーが強く出た辞書のことばの”堂々めぐり”を打ち破る辞書界への挑戦状。「ことば」の”表”と”裏”の意味を明らかにした画期的な辞書で悪く言えば、個人的すぎる内容の語釈があること。逆にその語釈が面白いということで日本で最も発行部数の多い辞書だそうです。
辞書と言えば『広辞苑』と多くの人が思っているのは誤りだそうです。
今持っている辞書の他に、どちらかを買うなら、一体どちらにしたらいいのか読みながらさんざん悩みました。
どちらも、欲しい気もしますし、私は辞書を読むほどのマニア(勉強家)ではないので今持っているもので十分な気もしました。
ただ、辞書を読むなら語釈が個性的な『新明解』が面白そうで、学生さんなら『三国』が基本かと思いました。
ケンボー先生と山田先生は、友情と引き換えに強烈な個性を辞書に輝かせました。
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数年前にNHKで放送していた番組は見ていたけど、番組放送後に判明した事実なども補完されていて面白かった。
見坊先生の言葉に対する姿勢が、辞書は言葉を正すものではないというOEDの姿勢とまったく同じというのが面白い。
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国語辞書はどれも同じ、一冊あれば十分。と思っていたが、そうではなかった。どの国語辞典にも「個性」があり、その個性とは書き手の「人格」に他ならい、極めて人間味の溢れるものである事を知る事が出来たのは、大きな収穫。さらに、ケンボー先生と山田先生という、二人の辞書編纂者の生き様も大変面白かった。
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ちょっと変わった辞書として有名な、新明解辞典(以下新明解)、そして学生向けに作られた三省堂国語辞典(以下三国)、それぞれの辞書を作ったのは2人の男だった。
山田先生は新明解を作り、ケンボー先生は三国を作った。
けれども、最初は、明解国語辞典を2人で作っていた。
辞書といえば言葉の定義がはっきりとしていて、誰が作っても同じというかわかる内容となっているイメージだが、新明解は割と恣意的な説明が多い。それに比べ三国は簡潔に平易に説明をされている。
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辞書編纂者の偉人「見坊豪紀」その人物像がよくわかる。それだけではない。この偉人は、もう一人の偉人「山田忠雄」がいてこの人がいなければまた、ケンボー先生も偉人足りえなかったことがよくわかる。なかなかの快作です。
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サンキュータツオ経由で本書の存在を知り、長く気になっていた。
思い切ってもとになったテレビ番組を見てみたら、これが一大ミステリースペクタクル!
大興奮して本書を読んだ次第。
「明解国語辞典」
金田一京助の名義のもとに、ケンボー先生がほぼ単独で作り、山田先生が「助手」を務めた。
ふたりの理想は食い違い、改訂のタイミングを巡って三省堂編集者の作為も悪く作用して、仲たがい。
「三省堂国語辞典」
独特な性格も相俟って言葉の海に飲まれてしまったともいえるケンボー先生。
辞書は鑑となる前にまずは鏡であるべきだと考え、凄まじい量の用例を収集した。
「新明解国語辞典」
「学生のひねたような」山田先生が、文明批評であるべきとしてビアス「悪魔の辞典」のベクトルで推し進めた。
「見坊に事故あり」という序文が離別の引き金になってしまったという歴史。
いわば編集主幹の「乗っ取り」。
これが関係者の証言だけでなく、各々の辞書の例文の中に手がかりが求められるのが、大変面白い。
「新解さんの謎」で知ったただの笑える例文かと思いきや、人生がかかっていたのだ。
ふたりの性格や超人的な体力に、読んでいて魅了される。
本の後半に「柔の見坊」「剛の山田」という一見の印象を覆す記述(ケンボー先生のほうが強情、山田先生は卓球好きで面倒見がいい、など)もあり、
辞書のスタイルも別ベクトルだが見方によっては表裏一体な部分もある、という着地が、もうできすぎたミステリーのように面白かった。
共同作業ができなかったからこそよかった、と人生の終盤に零していたという記述もあったが、
これこそ世界の豊かさというものだ。
Posted by ブクログ
一冊、面白く読んだ。
山田忠雄と、見坊豪紀(ひでとし)という、不世出の二人の辞書編纂者の生涯を追った本。
一時は共に学び、ともに仕事をした二人が、個性の違いや、大人の諸事情により、やがて袂を分かっていく。
少し切ない部分もある。
さて、赤瀬川さんの『新解さんの謎』もあって、新明解にはなじんできた。
山田先生の、タラの語釈に、「美味、うまい」とすればよい、と主張し、編纂仲間の金田一春彦さんに笑われて激高したエピソードが強烈な印象を放っている。
あの独特な語釈は、実際、奇を衒ったものではなく、純粋にそれがいいと思ってなされたものだった、ということに、やはり衝撃を受けた。
そして、山田先生は、ビアスの『悪魔の辞典』をイメージしていたとは。
先ごろ話題の『暮しの手帖』商品テストで国語辞典が取り上げられ、問題化した辞書の盗用体質に、新明解は決別する辞書たらんとしたことも。
古語辞典を引いていて思うのは、この言葉ってどういう場面で、どんなニュアンスで使われていたんだろうということ。
だって、形容詞の訳語は下手をすると大方「趣がある」か、「はなはだしい」か、「不快だ」になってしまう。
どう違うのか、とじりじりしてしまう。
新明解はそういった色合いを記述しようとし(てああなって)いったのだという。
本当に、表面的にしかこの辞書のことを知らなかった。
一方、『三省堂国語辞典』のケンボー先生。
実は今まで一度も三国を手にしたことがない、と思う。
きっとこれと先に出合っていたら、自分の中の基準になっていた気がする。
今は飯間浩明さんが仕事を引き継いでいるそうだ。
十四万語の用例に裏付けられた、簡明な辞書。
たっぷりの野菜や肉類を煮込んで濾して作った、その割に驚くほどあっさりした味わいのコンソメスープのような辞書?
やはり一度手に取ってみたい。
山田先生こと忠雄が山田孝雄の子だったことも、初めて知った(が、それほど驚かなかった)。
むしろ驚いたのは、今を時めく日本語学者の今野真二さんが山田先生の甥御さんだったということ。
金田一一家といい、山田家といい、日本語学者もお家芸なのかな?
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私は三国育ち(見坊先生)。
仕事と真摯に向き合う先生たちを尊敬せずにはいられない。言葉とは、辞書とは。日常では深く考えない点に思索を巡らせることができるすごく面白いノンフィクションでした。
でも、この本では触れられていないけど、この人間模様の根底にはこれほど知的を極めたひとたちに対する労働対価(報酬)の問題があったように思えてならない。法や経済を学ぶことと、言語を学ぶこと。両者が知的であることに全く変わりはないのに。。
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三省堂国辞典と新明解国語辞典、2つのベストセラー辞書をそれぞれ生みだした2人の辞書編纂者の人生と描く。大学の同級生であり共同して辞書づくりをしてきた2人が、何ときっかけに袂を分かち別々に歩むこととなったのか。2人の足跡をたどりながら、謎を解いていく。多くの証言をつなぎあわせ、あるいは2つの辞書の語釈や用例からヒントを見い出しながら核心に迫っていくさまは推理小説のようで一気に読んでしまう。
しかし、2人の人生を見るに、何かを成し遂げようとするならばその代償が必要となるんだということを痛いほど感じる。そして、その代償を代償とも思わない、あるいは代償があろうとなさずにはいられない、という、強迫観念じみたものを抱えて初めて何かが成し遂げられる。それが果たして、本人や周りの人間にとって幸せなことなのかはわからない。
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昭和に誕生した2冊の国民的国語辞典「三省堂国語辞典」「新明解国語辞典」。この2冊の源流というか母胎は
昭和18年に出版された「明解国語辞典」。
この2冊「客観」と「主観」、「短文」と「長文」、
「現代的」と「規範的」、とにかく編集方針から
記述方式、辞書作りの哲学、それらすべてが性格が
異なり、似ても似つかぬ姉妹辞書が同じ親から誕生。
「辞書なんてどれも一緒である」は、この二冊限っては
小説同様「文は人なり」の言説が辞書にも通じること
なんだと教えてくれる。そこには編纂者の思いや性格が
ありありと滲み出ているからに他ならない。
本書は「明解国語辞典」を共に編纂してきた東大の
同級生であり、理想の国語辞典を目指し手を携えてきた
良き友であった見坊豪紀と山田忠雄がなぜ袂を分かち、
見坊(ケンボー)先生は「三省堂国語辞典」を、
山田先生は「新明解国語辞典」を作ったのか。
著者はわずかな手がかりを頼りに丹念に取材を進めるも
難航。ある日、思いもよらない証拠にぶち当たる。
それは、辞書に記載したある言葉の用例が昭和辞書史の
謎を解く鍵だった…
辞書界を揺るがせた最大の謎を上質なミステリーを
読んでいるかのような知的興奮を覚える一冊。
秋の夜長にどうぞ。
Posted by ブクログ
辞書編纂の人間臭い裏話。
ほぼ学者のような二人の編纂者にサラリーマンの出版社員が絡んで、二人の関係は修復することがなかった。
ただ、いずれにしても二人の関係は、遅かれ早かれ破綻することになったのだろう。
完成した作品である辞書を楽しんでみよう。
Posted by ブクログ
三省堂国語辞典と新明解国語辞典のそれぞれの編者について書かれた本。
面白かったけど、筆者の推測の部分は、そういう説も成り立つけど、根拠が弱いかなとは思った。
最近、ノンフィクション系の本について同じような感想を持つことが多いが、もしかしたら読み手側(つまり私側)の問題なのではないかとも思う。