あらすじ
運命の恋人フェルゼンと出逢い、ついに本物の愛を知ったアントワネット。しかしフランス王妃としての運命は、女としての幸せを彼女に与えなかった。煌びやかな宮殿から死の断頭台へ――悲劇と感動のクライマックス。
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とにかく読みやすい。
説明とかではなく、物語や普通の小説のように読めた。
とにかく深堀してくれる。
人々の意識、言動行動、当時の考え方生活の仕方、彼女の考え方など、分かりやすく教えてくれる。とにかく面白い!
マリーアントワネットがただただ普通の女の子だったということが分かる。
何回でも読みたい。面白かった。
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初版1932年、オーストリア
ツヴァイク,シュテファン
1881‐1942。オーストリア、ウィーン生まれ。ユダヤ系作家。20歳で発表した詩集『銀の弦』でリルケやデーメルから絶賛される。哲学、独・仏文学を修め、ウィーン大学卒業後はヨーロッパ、インド、アメリカなどを遍歴。国際的教養人としてロマン・ロランやヴェルハーレンら各国の文化人と親交を結んだ。30代半ばでザルツブルクに邸宅を構え、そこで短編小説集『アモク』、戯曲『ヴォルポーネ』、評伝『三人の巨匠』『デーモンとの闘争』、そして卓抜な手腕を発揮した伝記『ジョゼフ・フーシェ』『マリー・アントワネット』『メアリ・スチュアート』など、数々の傑作を生み出した。1934年、ナチス支配を逃れてイギリスに亡命。さらにNYを経てブラジルへ。国賓待遇を受け、評伝『バルザック』、自伝的エッセー『昨日の世界』を発表したが、1942年にリオ近郊ペトロポリスにて死去
ただ最後にひとつ不確かなのは、この愛の形だ。それは──十九世紀に好まれた文学的表現を借りるなら──「清らか」な愛だったのだろうか? だがこの清らかな愛という言葉には、情熱的に愛し愛されている女性が情熱的に愛し愛されている男性に身を 捧げるのを上品ぶって拒む、という下劣な意味あいが含まれる。それともこの愛は、当時の人々の言う「罪深い」愛だったのか? つまり今日の我々が考える、自由な、思いきって大胆に身をまかせる、完全な愛だったのか? ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンはマリー・アントワネットの、単なる「貴婦人につくす騎士」だったのか、それとも肉体的にもほんとうの恋人だったのか──彼はそうだったか、そうではなかった。
ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンはロマンティックな心を持っていたが、規律正しい男でもある。ペダンティックな詳細さで日記をつけ、毎朝きちんと天候や気圧を記し、そういう気象上のできごとと並行して、政治的及び個人的な事件を書きとめた。さらには──実に 几帳面 な男だ──郵便記録も残しており、受け取った手紙と出した手紙をそれぞれの日付とともに記しておいたし、自分の書いたメモの忘備録も作成し、通信書類を系統だてて保管した──要するに歴史家にとって理想的な人間なのだ。一八一〇年に亡くなったとき彼は、非の打ちどころなく整理された人生の記録、まさにドキュメントの宝庫と言うべきものを後に残している。
なのにフェルゼンはどうしたか? 痛ましいことに、彼は黙り込む。ペンをとり、エーデルスハイムとボナパルトとのやりとりを、王妃と「寝た」という告発の言葉もふくめて全部、克明に日記へ書きつける。彼の伝記作者たちの意見によれば、「下劣で皮肉な」告発に対し、フェルゼンはもっとも心を打ち明けてしかるべき日記の中でさえ、一言も 論駁 していない。彼は頭を垂れ、そうすることで肯定しているのだ。
こういう信じがたいことを信じたがる人には、何も言えない。だがマリー・アントワネット像を 歪曲 するのは、彼女がたった一度の情熱的な恋愛において大胆さと無思慮を発揮したと主張する人々ではなく、この恐れを知らぬ女性を、平凡で意気地なしで心配だの配慮だのをする臆病な魂と見なし、最後の一線を超えることもできず、自然な欲求を抑えてしまったと決めつける人々の方ではないか。ひとりの人間をその全体として把握できる者にとって、疑う余地なく確かなことは、失意の魂と、長くもてあそばれ幻滅した肉体を持つマリー・アントワネットが、ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンの恋人だったという事実である。
つまり 明晰 にものを見たがる者には、状況が明晰に見えてくる。マリー・アントワネットは国策によって、少しも愛していない上に何の魅力もない男と結婚させられ、その婚姻の義務のため、魂が欲する愛を多年にわたって抑圧されてきた。だがふたりの息子を産み、疑いもなくブルボンの血を引く王位継承者をこの王朝に与えてからは、国家、法律、家庭に対する道義的義務は果たし終え、とうとう自由になったと感じた。政治に捧げた二十年の後、最後に残された悲劇的な激動期に、この多くの試練を受けてきた女性は自分らしい自然な権利を取りもどし、長い間愛し続けていた男性をこれ以上拒まないことにした。彼こそ全てを備えた男性、友人であり恋人、腹心でありパートナー、彼女と同じく勇敢で、犠牲的精神によって彼女に報いてくれるだろう。
王妃は朝食後、子どもたちを自分の部屋へ連れてゆき、それからミサへ出かけ、あとは全員での昼食のときまでひとりでいる。昼食後は夫とビリヤードを一勝負するが、王にとってはしぶしぶあきらめた狩猟に代わる、これは物足りないスポーツである。その後マリー・アントワネットは、夫が読書や昼寝をする間また自室へもどり、フェルゼンやランバール夫人など親しい友人たちと相談ごとをする。夕食後は大きいサロンに一族で集まる。リュクサンブール宮殿に住む王弟プロヴァンス伯爵夫妻、老いた 叔母 たち、あと少数の信頼できる者たち。十一時に火が消えると、王と王妃はそれぞれの寝室へ行く。
教育係の選定は市参事会にまかされ、参事会は明らかに彼の警戒心に対する感謝の念から、靴屋シモンを係に選んだ。金品によっても、感傷や感情によっても動かされない、もっとも信頼できる証明済みの男である。ところでシモンは平民出の単純素朴な粗野な男で、正真正銘のプロレタリアートではあったが、王党派が 捏造 したような、無頼の飲んだくれや殺人的なサディストだったわけでは決してない。とはいっても教育係とは、何と悪意ある選任だろう! なぜならこの男は、生涯おそらくたった一冊の本も読んだことはないし、彼のものとされる唯一の手紙が証明しているように、正字法の基本すら全くわかっていなかった。まじめなサンキュロット党員というだけで、それは一七九三年には、どんな官職にもつける資格だったのだ。
まだわずか八歳の少年の、かくもおぞましい供述に対して、ノーマルな時代の理性ある人間なら、とんでもない 捏造 だとして、取りあげることさえしないだろう。ところがマリー・アントワネットは飽くことを知らない好色な女だという確信が、無数の中傷パンフレットのおかげで革命の血の底まで沁みこんでいたため、実の母親が八歳六ヵ月の息子を性的にもてあそんだという、ナンセンスきわまる告発さえ、エベールやシモンには何の疑惑も起こさない。それどころか狂信的で目の曇ったふたりのサンキュロットには、この一件が完全に理にかなった明らかなものと思われる。バビロンの大売春婦にして 冒瀆 的 な同性愛者、マリー・アントワネットは、トリアノン時代から毎日何人もの男性、何人もの女性を消費するのに慣れていた。ということは当然ながらそのような雌オオカミは、タンプル塔に閉じ込められて誰も相手がいなくなったとき、地獄のような男狂いの末に、無防備で無邪気な我が子に襲いかかるのではないだろう。
同性愛関係のパンフレットを、自らの手で流布させたということになる。こうした罪状をもとにマリー・アントワネットは、単に監督下に置かれていたという状態から被告の身分へ移される。
この数ヵ月、パリではあまりに多くの事件が起こったので、たかがひとつの死など長く覚えてはいられない。時の流れが速ければ速いほど、人間の記憶は短くなる。数日、数週たつうち、マリー・アントワネットという王妃が首をはねられ埋葬された、ということなどパリでは完全に忘れ去られる。
数年後、あるドイツ人がパリを訪れ、町じゅう捜し歩いたというのに、かつての王妃がどこへ埋められたか、知る者はひとりもいなかった。 国境の向こう側にもマリー・アントワネットの処刑は──予想されていたことだったから──、さほどの興奮を引き起こされる。
ところがいざブリュッセルで新聞を開いてみると、心を打ち砕かれる気がする。「わたしにとって命そのものを意味する女性であり」と、彼は妹に書く、「また決して愛することをやめたことのない、そう、ただの一度たりと一瞬たりと愛することをやめたことのない女性、彼女のためなら全てを犠牲にして悔いないと思っていた女性、千の命を捧げたいとさえ思った女性、その人はもういない。おお、神よ、なぜわたしを罰するのか、わたしはあなたのどんな怒りを買ったというのか? 彼女はもう生きていない。苦しみは頂点に達し、何のために自分がまだ生きているのかわからない。どうやってこの苦しみに耐えられるのかわからない、あまりに果てしない苦しみであり、決して終わることのない苦しみなのに。わたしは記憶の中で彼女をありありと思い描き、そうすることで彼女を悼むだろう。大切な友である妹よ、ああ、なぜわたしは彼女のそばで死ななかったのだろう、あの六月二十日、彼女のために死んでいたら、今こうして永遠の呵責を覚えながら、生が終わるまで苦しみを引きずってゆくよりずっと幸せだったろう。恋慕する彼女の姿は、決してわたしの記憶を去らないだろう。
マリー・アントワネットの死後、フェルゼンは人嫌いの、無情な男になる。彼には世界が不正で冷たいものに思われ、人生は無意味になり、政治的外交的野心は完全に消え去る。戦争中の数年、彼は大使としてヨーロッパ中をわたり歩いた、ウィーン、カールスルーエ、ラシュタット、イタリア、そしてスウェーデン。複数の女性たちと関係を結んだが、どれも彼の心を奪うことはなく、心の慰めともならない。この恋する男がいかに晩年、恋した女性の影のみを求めて生きていたかは、日記にいくらでも証拠が見つかる。
フェルゼンが亡くなることで、マリー・アントワネットの想い出と愛によって結ばれていた最後の男が、この世からいなくなる。しかし人間であれ影であれ、この世の誰かに真実愛された長さよりも長く生きられる者はいないのだ。フェルゼンの 挽歌 が献身の最後の言葉であり、そのあとはもう完全な沈黙が下りた。忠実だった他の人々もまもなく彼女のあとを追って死に絶え、トリアノンは朽ち、愛らしいその庭も荒れ果て、彼女が自分の優雅さに調和するよう配置した絵画や家具は競売にかけられ、投げ売りされた。
また、多くの手紙が出てこないことにも気づかれたかもしれない、とりわけ「大切なあなた」ランバール妃殿下への感動的な手紙を取り上げなかった理由はごく簡単で、それらはフェイエ・ド・コンシェ男爵が書いたもので、マリー・アントワネットが書いたのではないからだ。同様に、口答で言ったとされる情緒たっぷりで機知に富む一連の会話も、採用しなかった理由はただひとつ、あまりに機知に富み、あまりに情緒的すぎて、マリー・アントワネットの平凡な性格とは一致しないからである。
ないからだ。同様に、口答で言ったとされる情緒たっぷりで機知に富む一連の会話も、採用しなかった理由はただひとつ、あまりに機知に富み、あまりに情緒的すぎて、マリー・アントワネットの平凡な性格とは一致しないからである。
Posted by ブクログ
まるで演説を聞いているかのような文章で、登場人物の息遣いまで感じられる。
上巻の最後にフェルゼンが漫画の王子様のように颯爽と現れ下巻への期待を高めている。
下巻は更に歴史が動き、息つく暇もない程に緊張状態が続く。
そして、アントワネット処刑までの重く長い日々。
登場人物全員とお近づきになれる天下一品の本である。
Posted by ブクログ
世界史を勉強しなかった自分への反省も踏まえ、子供が生まれたら読ませたい。
上巻の王妃の思慮の無さには閉口するが、
下巻に入り、運命の歯車が回り出してからの王妃の成熟ぶりには感嘆するしかない。
最期まで毅然として、誇りを失わない美しさ。
それだけでもうお腹いっぱい。
Posted by ブクログ
今年読んだ中で一番良かったかも。翻訳もすばらしい。
ツヴァイクの文章は、まるでこちらの心を読んでいるかのように、知りたいと思ったことを絶妙のタイミングで提示し、不審に感じた瞬間に種を明かす。インタラクティブな読書体験ってこういうことを言うんだろうなぁ、と思った。
マリー・アントワネットを襲った恐ろしい悲劇ばかりではなく、命をなげうって協力する友、恋人、家臣などの胸をうつ愛と忠誠の物語でもあり、一人の女性の成長物語でもある。
Posted by ブクログ
伝記文学の最高峰。平凡な贅沢好き、色恋好きな人間が過酷な歴史の荒波に洗われて、本当に王妃らしい威厳を身につけるまでを格調高く描く。
文体はリズミカルだが、この翻訳はやや古めかしい感じで、中野京子訳の角川文庫版とも機会があったら読み比べてみたい。
Posted by ブクログ
この巻は、フランス革命以降マリー・アントワネットの処刑までを描いていました。
副題が「凡人の肖像」とあるように華美に聖人扱いしたり、極度に貶めたりしていない分、リアルさがありました。
本を読んだり旅行をしたり、自分の世界を広げて己を広いフィールドのなかで客観視することの大切さを感じました。
それでも、非人道的な暴力で不満の多い時代が「革命」や「維新」されることもあるのが「歴史」の定番なのでしょうが…。
Posted by ブクログ
あまり伝記のようなものは読まない私だが、これはとても面白かった。何故なら、私はベルサイユのばらが大好きなのだ。だから読んだ。高校時代に学んだ、マリー・アントワネット。ベルばらに出てきたマリー・アントワネット。彼女のことが知りたくなったのだ。
当然、オスカルもアンドレも、ロザリーも出ては来ないが……。
上巻は割とベルばらに出てくるマリーに近い様な感じがした。無邪気で可愛らしく、気に入った人へは恩寵を、みたいな。
下巻は、自分の立場を漸く理解し、フランス王妃として毅然たる姿を見せてくれた。
結末は、誰もが知っているとは思う。
最期までマリーの身を案じたオーストリアの女傑、マリア・テレジアの教えをしっかりと受け止め、周囲の声に耳を傾けていれば……と思わずにはいられない。
ツヴァイクの文と中野京子の訳。
面白おかしくではなく、冷静に史実に則って書いてあり、章ごとにまとまっていて、とても読みやすかった。
Posted by ブクログ
不幸になってはじめて、ひとは自分が何者かを知るのです。
マリー・アントワネットはようやく自分が何者なのかを知る。しかしそれは遅すぎた。
運命の歯車はもう止まらない。
時間は戻せない。
華やかで幸福だったマリー・アントワネットは、大切なものを次々と失っていく。
友達も子供も夫も、自分の地位も名誉も、最後には自分の命までも。
歴史において何かを成し遂げたわけでもない平凡な女性であったマリー・アントワネット。
それでも歴史上の女性の中で最も有名なひとり。
ルイ16世とマリー・アントワネットが断頭台で命を落としても、一度起きたフランスの動乱は収まらない。
国民から王室が否定されたことを表すこと以外には、歴史においては特に意味もなく消された命とも言える。
フェルゼンが最後まで愛し、まさに命懸けで救おうとした女性がマリー・アントワネット。
おそらく、そこまで深く愛されたことそれだけで、アントワネットが生きてきたことに意味はあっただろう。
最近になってマリー・アントワネットの二人目の王子、未来のルイ17世になるはずだったルイ・シャルルが、母親と引き離されたのち不幸なまま小さな生命の灯を消したことがわかってきたようだ。
それこそ小さな未来のフランス王は、自分が何者であったのかも知ることもなく命を落とした。余りにも切なく哀しい。
フランスに行ってみたいなと思う読書だった。
Posted by ブクログ
読み応えのある伝記?物語?でした。
ツヴァイクの熱く、それでいて冷静な語り口は読んでいてとても味わい深く、ハラハラドキドキしながら読書を楽しめました。
歴史に“もしも”はないとは知りつつも、色々と空想してしまいます。
その空想してしまう、という奥行もまたツヴァイクのマジックなのかもですが。
Posted by ブクログ
下巻のマリー・アントワネット、つまり人生後半の彼女は、とても上巻と同一人物とは思えない程一変している。まさに苦悩の人。
本書はアントワネットに同情的…というか、少なくとも革命派の野蛮さへは非難めいた論調が感じられるのだけど、結局のところ後世のフランスにおいてこの一連の出来事はどう評価されてるんだろう。革命自体は否定されないだろうけど、シマゴーグが過ぎたというか、やり過ぎだった、という風潮があるのかな。
あとがきで、回想録ブームが巻き起こったとか、ルイ18世治下ではみんな手のひらを返した、とかあって、さらにはそこにサンソンの名前も挙げられていて、狼狽した。サンソンもそいつらのうちの一人かい、みたいな。もう何を信じたらいいのかわからない。いや、振り回されすぎだ。所詮私なんぞが目にできるのは誰かのフィルターが何重にもかかった幻影みたいなものなんだから、信じたいものを信じることにしよう。
Posted by ブクログ
良かったです。シュテファン・ツヴァイクも訳者の方もほんとうにすごいなあ。海外の、しかも歴史上の人物についての本なのに、比喩がわからなくなったり、つまらなくなったりするところが一切ない。注釈も少なくて的確なので感情移入を妨げるわけじゃないし。
容赦ないエピソードはどこまでほんとうなんだろうなー、描き方が絶妙でした。死に近づくほど、扱いがひどくなるほど王妃らしくなっていく様子が痛々しく、切なく、けれどとても魅力的。
Posted by ブクログ
下巻はヴァレンヌ逃亡のあたりからアントワネットの最期まで。
つまり、暗く辛い。
1年間かけて、他の本を読む合間に読み、ようやく読破。
愚鈍なルイ十六世、平凡すぎた王妃、そして愛に生きたフェルゼン。
ルイ十六世の愚かさを詳細に記しており、アントワネットが最期に見せた聡明さと対比があざやか。
ツヴァイクの描写を読んでいると、アントワネットがフェルゼンに惹かれたのもとてもよく分かる気がした。
自業自得とは言い切れない、アントワネットの悲劇。
どこまでも平凡な女性が、非凡な運命をたどった皮肉をツヴァイクはたびたび指摘する。
ただ、それだけが原因ではなく、革命というまさに非凡なエネルギーが、ちっぽけな人間たちを飲み込んでいったのだと思った。
アントワネットの子どもたちの末路は、読むに耐えない。
何かが変わることは何かが滅びること。
滅びの内実を考えさせられた。
Posted by ブクログ
透徹した冷静な目で、それまでのマリー・アントワネット像に左右されず、膨大な資料を元に描かれた評伝の古典として最高峰。ファルゼンとの恋や、靴職人や革命家などへ「凡庸」だとか「教養がない」だとかいう差別的で上から目線の表現があるとはいえ、面白い。俯瞰とロールプレーイングのバランスが絶妙で、おそらく訳も素晴らしいので、「今更マリー・アントワネットかよ」とはいわず目を通してもらいたい作品。