あらすじ
「アロエが、切らないで、って言ってるの。」
ひとり暮らしだった祖母は死の直前、そう言った。植物の生命と交感しあう優しさの持ち主だった祖母から「私」が受け継いだ力を描く「みどりのゆび」など。日常に慣れることで忘れていた、ささやかだけれど、とても大切な感情――。心と体、風景までもがひとつになって癒される13篇を収録。
感情タグBEST3
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Posted by ブクログ
短編集だと本のタイトルは短編のうちの一つ、ということが多いけれども、体は全部知っている、というお話はありません。どれか一つの短編が表紙を代表してしまうのではなく、全体を代表するようなタイトルに私は大満足しました。
日常にときとして入り込む非日常、意識の世界にふと訪れる無意識の世界、現実に紛れ込む夢、、、それが、普段忘れている自分の本心とか、内側に触れる瞬間を生み出す不思議。
ばななさんが、30代半ばで挑まれた作品とのことです。体がストライキに入って、体に立ち返ったことをあとがきで共有されています。
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第1話目の「みどりのゆび」で、おばあちゃんのお話で、いきなりぴったりくる。
_祖母が死んで初めての冬だったが、もう何年も前のことのように遠く思えた。
私が1人旅の途中の山道でふと思い出した、去年の冬のアロエについての家族でのやり取りと、そこから思い出す祖母との最後の会話。
_「それでね、おばあちゃんはあんたにはわかると思うの、そういう感性がね。植物ってそういうものなの。ひとりのアロエを助けたら、これから、いろんなね、場所でね、見るどんなアロエもみんなあんたのことを好きになるのよ。植物は仲間同士でつながっているの。」
そういうものなの、っていうところがなんだかとてもリアルだ。母も祖母もなにかそういうものだって教えてくれてた気がする。
_そうか、こうやってつながりができていくのか、もうアロエは私にとってどこで見ても見る度にあたたかいものや優しいものにつながっていく。
一人旅、ってこういうことのために会ったりするのかもしれない、遠くに1人で行って、自分に戻る、自分の原点に戻る、自分の内側に戻る、そうやって、また次に進む先がどちらなのかに気づく。
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「黒いあげは」や「明るい夕日」なども、今が夢か現実かよくわからなくなる時の錯覚が書かれていてとても共感しました。
友人とドライブ行って温泉行って、ふとした記憶がよみがえる。父母のもめごとと、2週間の父の家出… 黒いあげは蝶が飛んできた記憶とともに、現実にも現れる… 胡蝶の夢!?!?
_止めることのできない時間は惜しむためだけでなく、美しい瞬間を次々に手に入れるために流れていく。
_…私はなんとなく気が狂いそうだと思った。自分の歳も住んでいるところもわからないような感じがした。夢に出てくる風景の中を歩いているようだった。それはいい夢でもわるい夢でもなかったが、現実からは遠くに離れていた。今歩いているこのミニチュアの世界で、自分だけがぐぐっと巨人になって、高い高いところから私たちのちっぽけな人生のあれこれ全て、昔から今までの全部を見つけているような錯覚にとらわれたのだ。
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「おやじの味」では、職場で失恋して、出勤できなくなり、今は山小屋に1人暮らす父のところで過ごすことにした私。
_「ねえ、お父さん、みんあんでここで暮らせたらいいのにね。お母さんも、畑とか耕して、虫とかつかんで、みんなでいっぱい働いて、夜ごはんたくさん食べて、ぐうぐう寝るの。みんな並んで。真っ暗な中で。」
私は言った。それは泣けてくるくらいあり得ない、遠くの光景だった。なんでだろう?なんでありえないのだろう。なにがどこで間違ってしまったのだろう?きっと、私が毛虫の感触を失ったのと同じ道のりで、家族から少しずつなにかが失われてしまったのだ。
この部分を読んだときに感じた強い恐怖心?深い悲しみ?みたいなものはなんなんだろう。たくさんあった可能性は既に遮断されているという現実を突きつけられる、からなのか、
あったものがなくなったことに気づいたときの喪失感?ずっと前からなくなっていたけれど、ただ気づいていなかっただけ、確認せずにおいておいた、「ある」かもしれない可能性。今はもう、絶対ない、でも過去には未来としてありえたたくさんのこと。なんでこうなったのか、なんでこの現実が選ばれたのか、の分かり得なさ。それでもこの現実からは路線変更はできない、有限性。…
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「サウンド・オブ・サイレンス」では、養子であることをはっきりとは言われていなかったけれども、15歳年上の「姉」が肉親であったことはうすうす気づいている私。
_…とにかく、 人の体や心というものが自分たちの思っているよりもずっとたんの情報を受け取ったり発したりしているということだけは確かなように思える。
現実にある神秘性。体が神秘だ。…
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「いいがけん」は、もっと世俗的で面倒で、私は、この人生ってなんだかなあ、と思う。きっとなにかがどうしようもなく偏っているのだろう、という。
神社にお参りに行く。
_「子供もじじいももういいです。ちょうどいい年頃の伴侶に恵まれますように、道のりは遠くても。」
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