【感想・ネタバレ】零の発見 数学の生い立ちのレビュー

あらすじ

インドにおける零の発見は、人類文化史上に巨大な一歩をしるしたものといえる。その事実および背景から説き起こし、エジプト、ギリシャ、ローマなどにおける数を書き表わすためのさまざまな工夫、ソロバンや計算尺の意義にもふれながら、数学と計算法の発達の跡をきわめて平明に語った、数の世界への楽しい道案内書。

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Posted by ブクログ

初版は1939年、私が手にしたのは2024年1月の第119刷でした。
零の発見
直線を切る
という2つのお話です。
零と連続という数学の根本的な概念が読み物として語られています。
最後のほうは難しくて良くわからなかったですが、数学ってほんとうに果てしないなと思いました。

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2024年09月05日

Posted by ブクログ

792

吉田洋一
1898年東京生まれ。1989年逝去。東京帝国大学理学部数学科卒業。第一高等学校教授、東京帝国大学助教授、フランス留学を経て1930年北海道帝国大学教授。1949年立教大学理学部数学科教授。著書:『零の発見』、『微分積分学序説』他多数。M&Sでも『微分積分学』、『ルベグ積分』、『数学序説』(娘婿の赤摂也と共著)を収録。


こんにちのように、自然科学が進歩し、また、産業が異常な発達を見た世の中にあっては、必然的に厖大な数を取扱う場合が多く、インド記数法は一日も欠くべからざるものとなった。あるいは、そういうよりも、インド記数法なくしてはこんにちの科学文明はもたらされえなかったと考える方が、むしろ、適切であるかも知れない。

形式的な考えかたというけれども、形式的であるところが実は数学の特徴なのであって、これがなかったならば、こんにちの数学の進歩はえられなかったろう、といっても過言ではないのである。代数学がギリシァで発達しなかったことについては、さきにものべたギリシァ数字の影響も無視することはできないが、一つにはまたギリシァ人の数に対する考えかたが、ある意味で、きわめて具体的であって、代数学のような形式的方面には向かなかったということも、その理由として考えられているのである。

ギリシァ時代に零が発見されなかったのはなぜであるか、という疑問に対しても、いまのギリシァ数学の具体性ということを理由の一つとして数えることができるであろう。ところで、それならば、とくにインドにおいて零の概念の発達を見たのはなぜであるか、ということが当然問題になるのであるが、こういう種類の問題に対しては明快な答を期待しうべくもないことは最初から明らかであろう。なかには、これを「空」というようなインドの哲学思想と結びつけて考えようとしている人もないではないが、これは、はたして、いかがなものであろうか。こういう高遠な考えかたは、ただ興味だけを中心とした見地からは、捨てがたい味があるにしても、とうてい問題の本質に多くの光を投げえないのではないか、と思われるのである。

十三世紀も終りに近づくにしたがって、イタリアの諸都市においてはインド記数法がようやく日常の用に供せられはじめたらしい。その一つの証拠をわれわれは一二九九年に発せられたフィレンツェ政府の布告において見ることができる。

地味ゆたかな流域を擁するアルノ河にまたがって「花の都」の称をえたフィレンツェは、十字軍の影響その他のためにヨーロッパの商業が活発になってくるとともに、しだいにその繁栄を加えてきた都市であって、十三世紀にはヨーロッパにおける産業および金融の一大中心となるほどの成長をとげた。この都市に銀行業をいとなむ者の数が、このころ、すでに二十二家に達していたという事実からもその繁栄の度をうかがうことができるであろう。こうした銀行業者たちのなかには、この世紀の終りごろにいたって、簿記の記入にインド記数法を採用するものが現れてきた。前記の布告は、すなわち、この新しい数字の使用を禁止しようとする趣旨のものであったのである。

西洋の数学はギリシァにおこり、ギリシァの数学はピュタゴラスにはじまる、といわれる。  もとより、ギリシァの数学とても、忽然として無から生まれでたものではなく、またピュタゴラス以前に数学に心をひそめたギリシァ人が全然いなかったわけでは決してなかった。  ナイル河の流域に幾千年の文化を築き上げたエジプト人は、ギリシァ人にさきだって、すでにかなりの程度の計算術と幾何学的知識とをもっていた。

もっとも、近ごろになって、バビロニアの数学が全然経験だけの産物であるということに対しては、疑いをもつ人が出てきた。彼らは、たとえば、二次方程式の解法その他の代数学的知識を心得ていたのであるが、こういう種類の複雑な公式類が思いつきや経験だけで得られるとは考えられない、どうしても、複雑なものを一歩一歩単純なものに還元していく方法によって得たものと見るべきで、もしそうならば、これはすなわち単純なものを出発点として複雑なものの証明をおこなったということにほかならない、というのである。また、ギリシァ数学の文献が多くは失われて、いま残っているものはそのきわめて小部分だけに過ぎないことはよく知られてはいることであるが、バビロニアの数学の文献はこれにくらべて、さらに、はるかに乏しいことを考えて見なければならない、すなわち、現在えられた材料だけでバビロニア人が「証明」を知らなかったとにわかに断定もできまい、というのである。

なお、バビロニアの数学は天文学と密接に結びついて発達したという説が一般におこなわれているが、最近の研究によればバビロニアにおいては計量的天文学が出現するに先だって、久しい以前に「純粋数学」がすでに高度の発達の段階にあったことが明らかになってきた。このことは、バビロニアの数学が実用向き一点張りの「技術」に過ぎなかったと断言するのはすこしく早計であることを示すものであろう。

ここにいう態度の相違がいかなるものであるかは、ここにこれを詳説するいとまがないが、きわめて大ざっぱないいあらわし方をすれば、ギリシァ人は、数学的事実 たとえば、ユークリッド幾何学における諸定理 は数学者がこれを発見するに先だって、すでにそれ自身存在しているものと考えていた、これに反して、現代では、数学的事実は、ポアンカレのいったように、「数学者自身が 時として数学者の気まぐれがこれを創造する」のであると考えられている、ということができるであろう。とくに幾何学についていえば、ギリシァ人にとっては、真の空間はただ一つ与えられたものであって、ユークリッド幾何学はその空間の性質を演繹的方法によって記述しようとするものであった。しかるに、現代の考えかたからすれば、ユークリッドの空間以外にいくらでもちがった構造をもつ「空間」を創造しうるのであって、そのいずれが真の空間であるかということは意味がない、ただし、考察の範囲を日常の経験にとどめておくかぎりにおいては、ユークリッドの空間をもちいることがもっとも便利である、というだけのことになるのである。こうなってくると、こんにちの幾何学は、ユークリッド幾何学がその内部において多大の進歩をとげたという程度のものと見るべきではなくして、そこに幾何学的なものにたいする態度の上に革命的な飛躍があったと考えなくてはならないであろう。

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2024年01月17日

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ゼロのおかげでN進法が使えるようになるなんて革命的な出来事です。世界はやがて、0、1の二つで表せるようになろうとは、当時のインド人も考えもしなかったとおもいます。ありがとう、インド人。

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2021年09月27日

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(2018年1月のブログ内容を2020年11月に転記したものです)

○ インドとギリシャの数のかぞえかた

零はインドで発見されたというのはよく知られていることですが、興味があり、詳しく読もうと手に取りました。

私たちが何気なく行っている数の計算にも実は長い歴史がありますが、その歴史の中で、「位取り記数法」という考えに至るのにとても長い時間が必要だったことが書かれています。わたしたちが27529と書くとき、1番初めの2は20000を表すのに対し、4番目の2は20を表しています。同じ記号で2種類の数字を表しているのです。言われてみればそうですが、あまりにも普段自然に使いすぎているので、これを読んだときなるほどと思いました。BC五世紀の古代ギリシャでは

M(β) ,ζ φ κ θ (M(β)は (Mの上にβ))

と書いたそうです。ここでは20000はM(β)、20はκと書かれています。27029であれば

M(β) ,ζ κ θ

となるでしょう。1瞬4ケタの数かなと思ってしまいますが、2729であれば、

,β ψ κ θ

となります。20000と2000と20にはそれぞれ別の文字が割り当てられているのです。これは当時の数字が計算のためのものではなく、そろばんなどの道具で行った計算結果を記録しておくための道具だったことに起因するようです。

インドでなぜ、それとは逆に、0を置くことによる位取りが行われていたかということには諸説あり、本書でも明確にはしていませんが、インドでは数を郵便番号や電話番号のように順に読んでいく流儀があったことも原因のひとつではないかといっています。27529であれば

2アユタス 7サハスラ 5シァタ 2ダシァン 9

と読んだようです。これは現代日本で

2マン 7セン 5ヒャク 2ジュウ 9

と読むのに似ていますね。

このような読み方をすると必然的に空位(0)という概念が出てくるのではないか、というのは面白い考察だと思います。


○ 数の概念の拡張

さて、0の発見だけにとどまらず、数が自然数から実数まで拡張していく歴史も述べられています。これこそ本書の中心ではないでしょうか。


本文を一部引用します。

“ギリシァ人は、数学的事実――たとえば、ユークリッド幾何学における諸定理――は数学者がこれを発見するに先立って、すでにそれ自身存在しているものと考えていた、これに反して、現代では、数学的事実は、ポアンカレのいったように、「数学者自身が――時として数学者の気まぐれがこれを創造する」のであると考えられている”

人間のこころを説明するためのワードも、そのような飛躍が必要なのかもしれません。自然数(有理数の一部)から無理数への飛躍、これは離散から連続への飛躍でもあります。特に性に関して述べるとするならば、男女という枠組みから脱して様々な分類がなされていますが、これらは全て離散的な概念であり、連続的な性という考え方を持っている人は、少ないのではないでしょうか。真実は後世にまかせるとしても、そのようなことを考察するには十分な価値があるように思えます。そのために、数学の歴史というのは一つのロールモデルになるのではないでしょうか。

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2020年11月23日

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[偉大なる発想の跳躍]現代においてはあまりにその存在が普通であり、それが発見されたことすら想像がつかない数字、0。その数字が発見される以前はどのようにして計算や表記がなされていたのかを学びながら、0が数学に与えた影響やそのすごさについて知ることのできる作品です。古代ギリシャ人たちの数学に対する挑戦を記した「直線を切る」も収録。著者は、数学へのやんわりとした興味に応えることを目的として本書を記したとしている吉田祥一。


初版から70年以上が経過しても読まれているというだけあり、数学嫌いの人に対してもわかりやすく、そして興味を喚起させるように説明が進められています。0の概念なんて言われてしまうとつい肩肘が張ってしまうのですが、歴史的な流れの中でどのような影響をもたらしたかなど、数学に関する歴史を紐解きながら話が組み立てられているので、なるほどと思いながら、また楽しみながら0の世界に浸ることができるかと思います。


本書の主な内容とは大きく関係しないのですが、ある程度昔の作品を手に取って面白いなと感じるのは、当時の最先端技術の紹介とその発展の見通しを述べるような箇所。本書ではコンピュータ(というより計算機)についての改訂がなされているのですが、その発展の見通しが(語弊があるかもしれませんが)大甘で、それが逆に発展のスピードの凄まじさを結果として際立たせているように思えました。

〜それにしても、零の発見という画期的な事業をなしとげた無名のインド人は、その発見がこんにちのように、全世界に恩択を与える日があろうことを夢にも考えたことがあるであろうか。昔といまとを問わず、みずから画期的な誇称した事業が真の意味で画期的であったためしはあまりこれを聞かないようである。〜

単なる計算が嫌いな方にはぜひ☆5つ

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2014年01月23日

Posted by ブクログ

数学が抱えていた基礎部分への挑戦の軌跡を著述。零の発見についてはほぼ何も書いてないに等しいが、歴史的、数学的興味は尽きない内容だ。

記数法の確立に零が果たした役割、数値計算上の対数の威力、無限級数の和を扱う上での注意、
幾何と代数の統一、有理数、無理数、超越数(代数的数)の自然な定義、連続性への探求。

どれも興味深いテーマであった。自然に本格数学への入り口に誘われた感じだ。

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2013年03月07日

Posted by ブクログ

昔に書かれた本とは思えないぐらい今読んでも新鮮で面白い。
前書きに、病院で執筆したので、資料がないというような事を書いていたような覚えがあるけれど、もしそうだとしたら凄い知識の量。流石。
結論に至るまでの世界史の紹介が楽しく、読みやすいです。内容は難しい(2章)

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2012年01月29日

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数学の古典だけど、現代の数学的常識がいかにして培われてきたのかを悠々と説いた逸品。本のタイトルと同じセクションとは別にもう一つ「直線を切る―連続の問題―」というセクションがあって、個人的にはこちらの方が面白かったです。論理をとるか、信条をとるか。信じられなくても論理的に正しいものを受け入れられるか、そこに学問的発展の境界があったようです。そう言えば、物理学者の益川さんも似たようなことを言ってました。

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2010年04月07日

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ネタバレ

数学についての歴史書。
数式はほぼ皆無。
数学についてではなく、数学の歴史について知りたい人向けの本。

インドで発見されたとされている、0という概念が数学という学問のの発展において果たした役割を解説している。さらに、0の存在が位取り記数法に著しく貢献したこと、その記数法や製紙技術などが近代以降の筆算の発達や数学の発展において大きな役割を果たしたことなどが述べられている。

また、微分積分学において重要な概念である連続性についても、デデキントの切断を通して解説が行われている。トピックの一つとして、古代ギリシャ数学の三大難問の一つである、「円と同じ面積をもつ正方形を作図できるか」という問題について、簡単な考察をおこなっている。

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2022年07月19日

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数と計算の歴史。後半は幾何学、連続性。社会的背景も多め。哲学的。

初版は1939年。改版によりコンピュータの2進数についても言及。
C0241

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2014年07月11日

Posted by ブクログ

ネタバレ

[ 内容 ]
インドにおけるゼロの発見は、人類文化史上に巨大な一歩をしるしたものといえる。
その事実および背景から説き起こし、エジプト、ギリシァ、ローマなどにおける数を書き表わすためのさまざまな工夫、ソロバンや計算尺の意義にもふれながら、数字と計算法の発達の跡をきわめて平明に語った、数の世界への楽しい道案内書。

[ 目次 ]
零の発見―アラビア数字の由来
直線を切る―連続の問題

[ POP ]


[ おすすめ度 ]

☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
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[ 関連図書 ]


[ 参考となる書評 ]

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2011年04月26日

Posted by ブクログ

何十年も前に書かれたとは思えない、今読んでも新鮮な文章。
取っ付きにくいかと思ったけれど分かりやすい分で読みやすい。
後ちょっとで読み終わります。
学校数学はアレルギーですが文学としての数学は好きです。

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2009年10月28日

Posted by ブクログ

 零zero0
 零は7世紀頃インドで発見されたと世界史で習うだろう。でもそれが何に繋がったのか、どう各地に伝播したのかは全く教えられない。
 これはギリシアやエジプトの頃と比べて零がどういう意味を持つか、加えて昔の数学の書物がどれだけ偉大なものかを記している。それに加えて、18世紀頃までの数学の歴史もちょくちょく書かれていたりなんかして侮れない。
 始終零にまつわる話ではないが、十分に魅力的な内容を秘めている。

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2009年10月04日

Posted by ブクログ

ずっと読みたかった岩波新書の名著で、初めて数学史というものに触れてみた。人間が数字をどう捉えてきたのかということを考えもしなかったが、小中高で習ってきた数学の伏線回収の連続でとても楽しかった。対数えらい。

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2023年06月28日

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数学史のなかから、零の発見と連続にまつわる、一般の読者にとっても興味深いと感じられる事実を紹介している本です。

「零の発見」では、零という数字の発明によって位取りが可能になったことが、数学の発展に大きく寄与したことが語られます。

「直線を切る」では、ピュタゴラスの定理やゼノンのパラドクス、デデキントの切断などの話題が紹介されています。

ヨーロッパ数学と非ヨーロッパ圏の数学の関係についても、いくつかの興味深い事実が紹介されていて、おもしろく読むことができました。

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2019年05月16日

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 ヨーロッパ(ローマ)数字はⅠ、Ⅱ、Ⅲ、、、でアラビア数字が0123…となっているのは皆さんご存知でしょう。そこにおいてⅩと10という表記の違いは位取り記数法に直結するコペルニクス的転回(笑)といえる大発見だったようです。が誰が0という大発見をしたのかが結局解けていないのが何とも不思議。
 初版はなんと昭和13年。同じ著者が昭和53年に改訂していますが、40年も色褪せぬ一般教養のロングセラー。
 もう一つ所収されている「直線を切る」は、古代ギリシャ数学における、ピタゴラスの定理から生まれる無理数の示唆とそれを認めるわけにいかないピタゴラス学派の苦悩、円積問題、さらにはゼノンのパラドックス(アキレスは永遠に亀に追いつけないなど)に断片的に触れていて、数論や幾何学に興味のある人には言及範囲は初歩的ながら面白く感じるかもしれない

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2020年12月07日

Posted by ブクログ

数の歴史を零の発見と無理数の発見に分けてたどっていく話。
特別これといった感想は無いけど、たぶんこの種の本では数式が少なくて読みやすい気がする。
やはり少し古めかしいけど

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2015年11月25日

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歴史の発展と数学の発展がからんでいること、数学の概念や使い方が国で違うこと
しらないことがたくさんあった

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2018年02月05日

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数学史・哲学史的な書。
ピュタゴラスが宗教的意味を数に抱いていたことがよく分かる。私としてはエジプト的な実用に用いればそれで良いと考える人間であるためある種ロマンチストなギリシャ人については「どうしてそこまでこだわるのか」と疑問を抱くが、それこそが数学という学問なのだろう。とにかくはっきりと規定しないと気が済まないというわけである。このような立場からみれば、実用に耐えればそれで良いとした計算を主とする商人の数学が下等なもの見なされたのも致し方なしと言ったところか。

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2014年05月25日

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ネタバレ

インドにおけるゼロの発見は、人類文化史上に巨大な一歩をしるしたものといえる。その事実および背景から説き起こし、エジプト、ギリシァ、ローマなどにおける数を書き表わすためのさまざまな工夫、ソロバンや計算尺の意義にもふれながら、数字と計算法の発達の跡をきわめて平明に語った、数の世界への楽しい道案内書。

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2013年05月02日

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ネタバレ

インドでの「0(ゼロ)」の発見(発明?)が如何に重要だったかを、他の文明の記数法(数を表わす方法)と比較しながら解き明かす。確かに、「0」はインド人による歴史的大発見というのは”常識”として知っていたが、どう大発見だったのかについてはあまり意識したことがなかったけど、なるほど、数を書き表わすための工夫が、後々の計算法の発達や、数学的思考にも影響を及ぼしたとは。「零」の功績、存在意義を明らかにすることで、数の世界へといざなう数学入門書。ただ、やはり、後半は、ある程度、高度な数学的知識と理解がないと、面白さが判らなず、ついていけなくなってしまった。

数学を「理解」するというとハードルが上がるが、”「理解」という言葉を「同情」とか「興味」とかいう言葉に近い意味に解釈するときは、そこにまたおのずから別の道も見出されるのではなかろうか。”という、発想は、大上段、高飛車でなくてよいですね(「同情」ってのは嫌いな感情だけど)。でも、やはり、それだけではとうてい”理解”できない内容も多かったところが、自己嫌悪。俳優児玉清が10代の頃にこの本を教師から薦められて、その面白さにハマったというが(「そして、今日から」児玉清著より)サスガである。
内容より、文章、言葉の使いまわしが情緒あって印象的だった。

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2012年06月14日

Posted by ブクログ

数学読み物の古典.本棚に20年以上積読だったのを読んだ.

前半が「零の発見」.位取り記数法の発展の歴史とその意義について.小数展開から極限,実数の話になる部分の流れが良くて感心した.

後半は「直線を切る」.デデキントによる実数の定義を最終地点に話は進むが,その中で無理数の発見,またゼノンの逆理やギリシャの3大問題などの有名な話が出てくる.私には,なぜギリシャ人が定規とコンパスだけの作図にこだわったのかという話(26節)が面白かった.

出てくる数学はほとんどが高校2年までの数学で,微積分の考え方を知っていると理解の助けになる部分が少しだけある.最後のデデキントの切断は大学の内容だが,例をうまく使った解説で背伸びしたい高校生にも理解できるのではないか.

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2015年09月06日

Posted by ブクログ

自明のように使われている十進法やゼロがどれだけ画期的なことか、ゼロが生まれる以前の各国の表記法などをたどることで解説している。
数学的表現が多くて少し難しいが、面白く読める。

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2011年08月08日

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