あらすじ
「小説って、こんな風に面白く読めるんだ!」。村上春樹が小説家としての視点から、自らの創作の秘訣も明かしつつ、吉行淳之介、安岡章太郎、丸谷才一といった戦後の日本を代表する作家六人の短編小説を読み解いた“私的な読書案内”。
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Posted by ブクログ
主に戦後に活躍した日本人作家により短編小説をいくつか取り上げ、その読み方或いは著者の解釈を提示してくれている一冊。著者自身の経験も踏まえながら、テキストを通じて、「著者はこういう人だったのでは/こういう意図があったのでは」等を思考を深めていく過程に本書の価値があると考える。例えば、素人の読者(自分で作品を書かない人という意味)は書かれてあることを中心に物語を理解しようとするが、これを小説家である村上春樹が読むとむしろ「書かれていないこと(或いは書けなかったこと)」こそに注目するということ。本書のどこかに記載があった「なにも喜怒哀楽をいちいち描く必要はないんです。そんなもの全部すっぽかしたっていい。ただしそれは伝わってこなくてはならない」という文章は、まさにこれを端的に表しているのではなかろうかと思う。禅問答のようにも聞こえかねないが、「明確な言葉にはできないけれど、良い」作品というのは、直接的に書かないけれど伝えることに成功しているのではないだろうか。
また、人間が文章を書く主体である限り、そこには否が応でも著者の世界の見方というか、一種の偏見が介在して然るべきと思う。本書の中でも所々で「スタイル」という言葉が出てくるが、これはまさに文章の技術/技巧とは異なるレベルで、文章をその人の文章づけるものなのだろう。その視点から著者が、各小説家の経歴/経験までをも参照し、「何故このような文章になっているのか?」を述べている点は、純粋に思考の仕方として面白い。
自分の中で残された問いとして、「上手い文章とは何か」がある。少ない文量でより多くのことを伝えられる文章なのか、或いは読み手を次の文章へと誘うリズム感に優れている文章なのか…一言では言い表せないものだとは思うが、要は「上手いけれど伝わらない文章」だけは書くようになりたくない、ということ。…と、ここまで書いていて、漸くなぜ村上春樹がそれぞれの文章を自己(セルフ)と自我(エゴ)の関係性という視点から読みとこうとしているのかが少しだけ理解できた気がする。各小説家は小説の中の登場人物のセルフとエゴを描くことによって、著者自身のセルフとエゴのバランスというか付き合い方を投影している。エゴの見えない文章(例えば、上手いだけの文章)にはその人のスタイルを見出せないが、しかしエゴばかりだけだと何を以てその人と言えるのか(セルフ)が見えなくなってしまう(つまり、伝わらない文章になる)。この微妙な葛藤こそが、文章の「上手い」と「伝わる」の差異を理解する一助となるのではないだろうか。
特に印象に残った箇所は以下
・ひとつのフラグメントの中に「何か大事なものが込められている」という感覚を、ときとして我々は持ちます。独特の重みを含んだ感覚です。そしてその「重み」があれば、そこから物語はほとんど自然に、自発的に展開していくのです(p.12)
・逆な言い方をするなら、読者がその作品を読んで、そこにどのような仮説(偏見の柱)をありありと立ち上げていけるかということに、読書の喜びや醍醐味はあるのではないかと僕は考えるのです(p.25)
・言い換えれば「文学で生計を立てる」ために、自分は何をするべきかということですね。僕らはーつまり小説家はということですがー自我というものに嫌でも向かい合わなくてはならない。それもできる限り誠実に向かい合わなくてはならない。それが文学の、あるいはブンガクの職務です。しかしその向かい合い方のスタイルはみんな一人ひとり違う。良い悪いじゃなくて。違うからこそ、それは職業として成り立つわけです。そしてここで吉行さんは、その自分の向かい合い方のスタイルに対して、自ら疑問を提出している。「こんなんでいいのか?」と自らに真剣に問いかけている。こんな技巧的なところに留まっていていいのかしら、そんなことをしていて「文学で整形は立てられるのか」と。僕にはそんな風に思えるんです(p.56)
・テキストの文体は逆向きに翻訳者の文体をも規定します。他言語のリズムなり生理なり、あるいは思考システムなりは、月の引力が地球の海の干満をもたらすように、その翻訳者の固有の文体に否応なく影響を及ぼします(p.188)
・しかし小説というのは相反した意志、行為を同質化する営みです。深く隠せば隠すほどそれがうわあっと防ぎようなく外に出てきてしまうー極端に言えばそれが小説です。それが小説家を小説家たらしめる狂気です。僕はそう思います(p.194)
Posted by ブクログ
本書は、著者が1991年〜1993年にかけてアメリカのプリンストン大学にて週に1コマ大学院の授業を受け持つことになり、小説家として、教えるのではなく“第三の新人“の作品を学生たちと読み込んでディスカッションしよう〜という形で、テキストとして取り上げた作品からいくつかを改めて読み直したものである。(その後、ボストン近郊のタフツ大学でもクラスを半年持つなど)
冒頭の『僕にとっての短編小説』にて、短編小説は長編小説の始動モーターとしての役目を果たすとし、“その女から電話がかかってきたとき、僕は台所に立ってスパゲティーをゆでているところだった“から構想が始まった「ねじまき鳥と火曜日の女たち」は「ねじまき鳥クロニクル」に、「螢」から「ノルウェイの森」に、「街と、その不確かな壁(加筆されて近年になり刊行された。この頃は150枚程度の下書きだった)」から「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に〜と、短編から長編に繋がった作品を紹介している。
著者の読書遍歴。主に海外小説を原語で読むが、海外生活を始めてから嫌でも自身が日本人であることを思い知らされ、日本に来る度に日本文学を買い漁る。自然主義的な小説や私小説は苦手で、例えば太宰治、三島由紀夫などは駄目だった。
逆に心惹かれたのは、第三の新人と呼ばれる、安岡章太郎、小島信夫、吉行淳之介、庄野潤三、遠藤周作など。他は、長谷川四郎、丸谷才一、吉田健一など。
その後、計6作品を読書案内。
言語化が上手いなという共感できるところもありながら、いまいち理解し切れない部分もあった。
それぞれの該当図書を先に読んだ方が勿論楽しめそうだが、知らなくてもなんとなく話についていける。(あらすじを説明されるものとあまりされないものがある)
私的には小島信夫「馬」が奇抜で面白かった。
馬が人の言葉を喋るとなれば、色んな解釈ができそうだ。しかし、著者(村上春樹)の解釈のように、馬は主人公の投影であるというのは最も腑に落ちる。
Posted by ブクログ
こりゃおもろい。凄いぞ村上さん、って、思いました。
村上さんが、短編小説を読んで、その感想を書いている、っていう感じの、評論というか、エッセイというか、そんなかんじの本なのですが。
村上さんの、その読んだ短編に対する愛情が、ハンパない。そして、分析も、ハンパない。そこまで分析するか!?ってくらい、分析している。そして、多分、その分析は、愛しているからこそ、できるんだろうなあ~、って思うと。好きな本を、じっくり読む、って、良いことだなあ、って、思うんですよねえ。凄いぞ村上春樹。凄いぞそこまで読み込むなんて。
ちなみにこの文章、というか、村上さんが、これらの短編をきっちりキッチリ読み込んだのは、アメリカの大学で講義を持ったから、みたいな理由も、あったみたいです。こんだけきっちり読み込んで、向こうの国の学生さんたちと、色々とディスカッションしたりした、みたいですね。それってもう、めっちゃんこオモロい授業だったんでは?受講できた学生さんたちが、羨ましすぎますね。「とある作品を読み込むことは、これほどまでに面白いのか~」ということを、痛感しまくれたんでは、ないでしょうかね?
で、この本の中での、とある短編に対する村上さんの「この短編は、こういうことだと思う気がするんですよね」って解釈は、もしかしたら、作者本人に聞いたら「全然ちゃいます。そんな思いは、全く無かったです」って、言うかもしれませんよね?
でも、「全然ちゃう」かったとしても。村上さんが、「こう思った」ことは、それはそれで、絶対的に素晴らしい事だと思うんですよね。だって村上さん、これらの短編が、好きなんだし。好きなものがある。それに対して、アレコレ考える。で、その考えたことは、見当違いかもしれない。だが。自分が「好きだ」と思ったものに対して、「何故好きなんだろう?こうだからかな?ああだからかな?不思議だなあ。こんなに好きだなんて」って、色々思うことって、最高やないですか。そんな事を、思いましたね。
あと、文庫本バージョンの序文として「僕にとっての短編小説」という文章が載っています。まあ、「村上春樹は、『短編小説』というものを、どのような存在と考えているのか?」を述べたもの。まあ、タイトルそのまんまな文章なんですが、これがまた、ベラボーに面白い。
「俺は実際の所は長編小説がいっちゃん大事なの」って言っておきながらの、それはそれとしての、短編小説への愛を、ちゃんと語ってるところとかホンマ好き。素敵。
あと、「失敗してこその短編小説。上手くいくときもあれば、イマイチな出来のときもある。でも、だからこそ失敗を怖れるな。前向きの失敗は次につながる」とか、抜群に励まされるやんか。村上さんが、こういうこと言ってくれると、嬉しくなっちゃいますよね。村上さんとイチロー氏は、やっぱ、似てると思うんだよなあ。
自分にとっては、読み終えて、「まあやっぱ、村上春樹さん、俺、すっげえ好きだなあ~」という思いを、新たにした一冊ですね。これほどに、自分以外の人の文章を、しっかりと愛して分析することができる人は、やっぱ、素敵です。
で、ちなみに自分は、この本で村上さんが紹介された作品は、一冊も読んだことがありません。すまん、、、すまん、のだが、自分が全く読んだことのない短編の感想を、村上さんが喋ってるだけ、ってくらいの本なのに、それでもこの本は面白い、というのは、やっぱでえれえ凄い事だと、逆説的に思う次第ですよね、うんうん。
Posted by ブクログ
恥ずかしならがら、この本が村上春樹氏の本で初めて読んだ本だ。短編小説が読みたいなと思っていた頃、電子書籍の検索でこれがヒットしたので、衝動的にワンクリック購入し、そのまま放置していた本だ。
特に村上春樹さんを読みたかったわけでもく、「いつもノーベル賞候補にノミネートされる村上さんが、案内してくれる短編小説ならきっと面白いに違いない」という発想で買ったものだ。
・・・が、「案内」という意味が違ってた。ブックガイドではなかった。これは、それぞれの作品をどう解釈し、どう味わうか、といった村上春樹流「文学の読み方の案内」というような本だった。ノーベル賞受賞候補・村上春樹氏の文学講演を聞いているようでもあった。
この本では、次の6編を取り上げている。これらは、いずれも「第三の新人」と呼ばれた作家だそうだ。名前だけは聞いたことがあるという人が数人含まれているが、全員他の作品も含めて一冊も読んだことなし!(汗)。
吉行淳之介 『水の畔り』
小島信夫 『馬』
安岡章太郎 『ガラスの靴』
庄野潤三 『静物』
丸谷才一 『樹影譚』
長谷川四郎 『阿久正の話』
本書の巻末には、各人の紹介文も掲載されているが、いずれも徴兵されるなど、戦争に巻き込まれた経験をお持ちの方ばかり。世代が違うというのを苦し紛れの言い訳としたい。
村上氏は、この「第三の新人」と言われる作家の作品で、こういうことをやってみたかったと言っている。
こういうことというのは、作品をじっくり読みこんで、読みこんだ人達で、その解釈や感想を述べあうことにより、その作品の理解をより深めるというようなことだ。
本書では、この6編に入る前に、「僕にとっての短編小説」とか「まずはじめに」とかの章がある。であるのに、ここをすっ飛ばして、いきなり「吉行」の章から読み始めてしまったものだから、村上氏が吉行氏の作品にあれやこれやケチをつけたり、勝手に解釈していているのを見て、早計にも「先輩の作品にケチをつけるとは、いくら優れた作家でも、マナー違反じゃないの!」なんて感想をもったわけですが、ちゃんと最初から最後まで読んでみて、誤解が尊敬に変わりました。
文学を読むということはこういうことなのか?
小説をさらりと読んでオシマイという習慣の自分には、一つの作品をその著者の背景なども絡ませながら、「その作家がどうしてこういう表現をしたのか」ってなことを推理していく過程を読むのは、推理ゲームのようで非常に面白かった。過程も面白かったし、推理の結果がまた興味深い。
村上氏は本書の中で、「その作家のはいていた靴に自分の足を入れてみる」というようなことを言っている。また別のところでも、「僕は・・・太宰治も駄目、三島由紀夫も駄目でした。・・・サイズの合わない靴に足を突っ込んでいるような気持ちになってしまう・・・」というようなことを言っている。
先輩の作品にケチをつけているのではなく(ご自身も上記の作品は最もお気に入りの作品のセレクトだと言われている)、むしろ先輩の作品を教材として研究を尽くされているのだということがよくわかった。
この本を読んで、そろそろ本当の村上春樹氏の本を読んでみたいなと思ったし、ここで紹介されている中では、丸谷才一氏を読んでみたいなと思った。