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近代アフリカ文学の原点と称されるアチェべの名作小説。
舞台はヨーロッパ人によるアフリカの植民地化がはじまりつつあった19世紀後半の西アフリカ(現ナイジェリア)。
絶え間ない努力と武勇によって若くして富を築いたイボ人の男、オコンクウォを中心に物語は進む。
オコンクウォはレスリングのチャンピオンとして名をあげ、それからも堅固な意志と絶え間ない勤労により富を築いた。何人もの妻を抱え、村人からの信頼も厚い。
オコンクウォは自分だけではなく他人にも非常に厳しい性格で、頑迷な一面も持つ。揺るぎない自分の正義を持つが、それに従わないのであれば妻も子供も殴って言うことを聞かせるというかなりの男性主義思想の持ち主でもある。
オコンクウォを含む集落の人々は伝統を守り、アニミズムを信仰することで強固な絆を築き、平穏な日々を謳歌していた。
しかし、ある日オコンクウォは事故により集落を7年間追放されることとなる。
母の故郷で7年間の贖罪を務め、やっと集落に戻ってきたオコンクウォ。しかし、そこで見たのはヨーロッパからやってきたキリスト教に侵食され、人々の絆がバラバラになってしまった姿だった。
これが本書のあらすじ。
シンプルなストーリーだが、回想が急に挟まったり反復が多かったりして読みやすい本ではない。言語・文化面のギャップも当然大きいので、序盤は読み進めるのに時間が掛かった。
しかし、読み終えると非常に示唆的な内容だったと感じる。
本作が発表されたのは1958年、アフリカ諸国が長く続いたヨーロッパの支配から脱却して自立に向かって歩を進める、不安と期待に満ちた激動の時代。
そんな中、アチェべは敢えて植民地化前に存在していた複雑で成熟したイボ人の社会を描くことで独立前夜の同志たちを奮い立たせたと言える。
また、侵略が必ずしも真正面からの戦いによって行われるものではないというメッセージを発していると感じた。
本作でも、ヨーロッパ人によるはじめの侵攻は武器ではなく宗教を使って行われた。まずキリスト教の宣教師たちを送り込み、徐々にイボ人のコミュニティを分断していった。これは実際に起こった話でもある。
これは現代においても普遍的なメッセージだと思う。正々堂々とした侵略などないし、多くの人がそれに気付いた頃にはもう手遅れなのだ。
さらに、アチェべは本作でイボ人の社会において陰となっていた人々にもスポットを当てる。
作中では「オス」と呼ばれるイボ人の村から隔離され迫害されていた人々が、キリスト教の最初の担い手となり自分たちを迫害していたコミュニティを壊す一役を担う。
初めから内部に抱えていたある種の「ひずみ」が、外部からの変化によって浮き彫りとなり内部の瓦解に繋がる。このあたりの描写もよくできている。
内部のひずみを抱えるという面では、オコンクウォその人も同じだ。
彼は物語の終盤でヨーロッパ人に良いようにされる故郷を見て、ヨーロッパ人、さらにそれを諦観する村の人々に対する怒りを抱えきれなくなる。そして、彼はヨーロッパ人を殺し、自らも命を絶つことになる。結果、オコンクウォは新しい社会にも、古い社会にも居場所はなくなり、「犬のように」埋められてしまう。
この最期は悲劇である。しかしこれはオコンクウォの中にある暴力性、頑迷さが暴走した結果でもある。彼の性質は、基本的には対話と調和を重んじるイボ人社会と大きく乖離していたのだ。
これも、彼の内部に抱えたひずみが表出化した結果だと読み取れるだろう。
このように、本作はアフリカの歴史に大きな影響を与えた歴史的な作品でありながら、現代にも通ずる普遍的なメッセージを与えてくれる名作である。
注釈、解説も充実しており、いろいろな読み方ができる。おすすめの一冊。
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アフリカ文学は当然初めて。解説も読み応えあり。
完全に未知なる世界である植民地支配前のナイジェリアでの日常自体が非常に興味深いし、ストーリーとしても面白い。登場人物名はンから始まったりするのでなかなか入ってこない。
急に地方長官目線で語られる終わりはあっけなかった。
村の運命を大きく変える白人は、スペインによる南米侵略とはまた違い、いくぶん平和的にも見えるがやはり傲慢である。主人公からするとキリスト教や改宗する人々は悪や腑抜けであるが、本書全体で見ると主人公の性格・村の風習の歪みはありありと見てとれ、単純な不正な侵略の告発といった形にはなっていない。
特に触れられてはいないが、終盤の主人公の自死は、ウムオフィア旧社会における「女々しい」行為だろうか?そうなのであればさらに悲劇的だ。
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遠い大地の文化・慣習が近くに感じられるほどの瑞々しい文章だが、それを理解するための小説ではなく想像させることが目的。
注釈が丁寧でとても読みやすい。
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19世紀のナイジェリアが舞台。
独自の神を信じ崇め、家族・ムラという単位で生活していた共同体に、キリスト教伝道師の入植により植民地化していく様を描く。中盤までは、文化や生活、信仰などについて淡々と描かれていますが、その後の畳み掛けるような展開がすごい。
時代も国も違いますが、どこか今の社会にも共通するような点があるようにも感じました。何かが変わっていく時、多くの犠牲が伴うこともあります。自分たちが守って疑わなかったことであれば尚更。四部作のようですが日本語訳がないのが残念です。最後の一文が辛い。
Posted by ブクログ
初めてアフリカ文学を読んでみた。内容としては特に難解というわけではない。始まりから2/3程度までは、主人公のコミュニティの儀礼、慣習、信仰などが細かく描かれている。若干冗長だなと思いつつ読み進めていくと、イギリス人がキリスト教という道具を持参して、植民地化の目的のもと渡来してくる。そこからはあれよあれよという間に物語が進展していき、あっけなく悲惨な結末を迎えてしまう。終盤のあまりに淡泊な描写には呆気に取られてしまった。だが、そこにはアチェベの思念が宿っているのだろう。長い年月をかけて築かれてきた現地の文化(始めから2/3)が、植民地化政策によってあっという間に瓦解していく。(残り1/3)その速度は、このページ数の配分によって具現化されていると感じた。
文化の脆さというのも感じずにはいられなかった。人間は空想する能力があるからこそ、神話や宗教を作り上げて、他の動物とは比べものにならない規模のコミュニティを形成することができる。そうして育まれた文化にも、どかしらに欠陥がある。この作品で言えば、差別対象とされていた人々が端的な例だろう。そうした人々をキリスト教が受け入れ、対立因子を徐々に拡大させていった。そうして、強固だったはずの絆は崩れてしまったのだろう。
帝国主義時代のダイナミズムを存分に感じ取れる一冊だと思う。
Posted by ブクログ
アフリカ文学というくくりが正しいのか、自信が持てないが、疑いの余地なく、優れた文学である。
未知の世界。加えて、読みにくい、非直線的な書き口。私から見ると、非情で、矛盾を感じる文化。
しかし、最後まで読み通し、その言われようのない悲劇的結末に接し、全てに予期せぬ意図を感じたのだ。人間社会、人間とはいかに信頼に値しないか。
社会分裂、変化、崩壊の触媒としてのキリスト教。
『ルーツ』で書かれた世界は一面に過ぎなかった。
語り手が、登場人物の視点が、内と外を往還し、不条理をあぶり出す。その文学性に感嘆した。
くり返すが、深い次元で声を失った作品であった。
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少し前に文庫化されぜひ読みたいと思っていた一冊。アフリカ文学の父といわれる、チヌア・アチェベの記念碑的一冊ということ。アフリカ文学には聡くないので、そういう意味での評価はできないが、歴史的背景も合わせて様々な学びを与え、人間と歴史の気づかない側面を教えてくれた。
未開のアフリカ、一部族を取り巻く現代の侵入とりわけ西洋、キリスト教の侵入を描いている。レヴィ=ストロースをはじめとする文化人類学の発展は、未開の兄弟たちに対する人権的な意味での理解を進めてくれた。キリスト教主義からの絶対史観がよろめいてしばらくたったところに新たに相対的な視点を与えてくれた。この作品はそういう視点に立っているといえば少し違うのかと思う。文化人類学はあくまでも西洋が見た未開の人間に対する学であるが、アチェベは現地イボ人の作家であるのだから。アチェベ自身はキリスト教化の後のアフリカに生まれ、熱心な信徒である両親の愛を受け育った文化人であるが、この作品から漂う土と血と鉄の臭いは、アフリカの血を受け、人と信仰と歴史の交差路に悩む生きた人間の生臭さがある。
一様にキリスト教を非難しているわけではない。土着の文化の非人道的な解釈も痛々しさは隠せない。こういう文化の中には明確に人間個人に先んじる価値が存在していて、それを守るためなら人間を殺すことにも躊躇はしない。しかしイケメフナを神託を持って殺したオコンクォには抑えることの出来ない葛藤と後悔があふれていた。
『崩れゆく絆』とはよく作品を表したタイトルである。部族の伝統と宗教が西洋の侵入によって崩れていく。しかしそこに描かれるのは、人間自体が持っている悲しさである。部族の価値にとどまるも、キリスト教に染まるも、悲しき人間の生き方、歴史である。
15/3/26
Posted by ブクログ
ヤムイモのリアリズム。アチュべはナイジェリア出身の作家。ナイジェリアはヤムイモ産出量世界1位。なによりもまず重要なのはイモであり、あらゆる食事にヤムイモなのである。
客人がやってきてに「コーラあるよ」ともてなすのだが、これはコカコーラの原料の「コーラの実」のようである。覚醒作用があるようなのでやっぱりお酒かドラッグみたいなものなのか。
ナイジェリアの生活様式が興味深い。村で生活するためのシキタリ。それを決めるのは長老かお告げ師である。長生きできることが尊敬に値する、というのは子供の生存率が低いということからも分かる。
コミュニティでは親分から種イモをもらって小作は畑を肥やしそれが生活の糧となる。一夫多妻制で、主人公の妻は3人いる。家屋は主人を中心とし放射線状に離れがあり、妻はそこで子供と暮し、毎日主人の食事を用意する。家長はとても威張っている。作ってくれた食事に文句を言うし、安易に妻へ暴力もふるう。いろいろとしょうがない。
村の余興はレスリング。もちろん強い男が評価される。村人たちはそれを見るのが娯楽。村には巫女がいて「憑かれていない」ときは普通に生活している。(←これはあとで豹変する)
近隣のコミュニティとの軋轢もある。おそらく生贄状態でやってきたよその村の子供を囲って主人公は息子同然に育てるが、村の長からお告げによりそいつは殺すべしと指示され、親代わりだった男が自ら手をくだすことになる。ひどい。それは成長した他所の男が女を孕ませることができる歳になっているという危機感による、原始的な男らしさでもある。
女性は16歳で嫁に行く。婿希望者は持参金を持って女性の父親とかけあう。男同士は椰子酒を飲んで仲良くなる。嗅ぎ煙草を入れている「山羊の革の袋」がよく出てくるが、これはおそらく山羊の胃袋で携帯するポーチのような役割として使われているのではないだろうか。
一夫多妻なので、男子を生むことが女性の地位をあげることになる。子供をたくさん産んでも成長させることが難しいのは悪霊のせいなのであったりする。あるいは大事な石をどこかに埋めてしまったからであったりする。
(登場人物がどんどん増えていく。舞台はアフリカなので「ン」ではじまる名前も多く、慣れないと覚えるのが難しい)
そして後半、突如外部から白人が宗教を布教しにやってきて、長く続いていた土着コミュニティはもろく崩れていく……。ここからですよキモは。キリスト教と白人の欺瞞が。ああ、アフリカの文学。コンラッド『闇の奥』が苦手だった人にもお勧め。今の時代、わたしたちが知るべきはこっちの世界だ。
Posted by ブクログ
植民地支配される前のアフリカの伝統的な暮らしの素晴らしさを描き、欧州の文明到来により崩壊していく嘆かわしいお話かと思っていたら、もっと深くてたくさんの要素が詰まったお話でした。
アフリカの集落の日常は物珍しく、慣習や考え方の違いは読んでいておもしろいですが、予想外に残酷で不可解だし、英雄オコンクゥアはいけすかない暴力男で正直モヤモヤしました。
キリスト教については否定も肯定もありませんが、人々を無駄に苦しめない点で、少なくとも呪術よりよっぽどいいし、植民地化されて安心して暮らせるようになってよかったのでは?と思いました。
登場人物の名前が難しすぎて、もはやおもしろい。そして、大量の注釈に尻込みしてさくさくと読めませんでしたが、物語自体は割と短めです。
物語のあとの解説はもっと難しく長くて大変でしたが、気づかなかった作品の細かな点を知れるのでお勧めです。
Posted by ブクログ
重い話でした。
伝統を守るとは?
その中で地位を築くためには?
その一方で、その伝統に潜む非科学的・非人道的な掟を守り続けるのはなぜか。
それらを打破するのが、侵略に依ってしまうのが辛い。
初めてのアフリカ文学。
田舎者の私には、舞台となった前世紀初頭のナイジェリアの話が、なんだか知らない世界の話ではなく、読んでいる間中、本当に息苦しかったです。
なんというか、父のようにはならないと決めた主人公が、その地で認められるよう努力してきたのに、一つの選択ミスが命取りになってしまう…
最後になぜ自死を選んだのか、初めはよくわからなかったのですが、戦おうとしたのは自分だけ、と気づき絶望したから…と思い至りました。
主人公の親友オビエリカは、聡明な参謀タイプ。伝統の矛盾に気づいているが、行動には起こさない。伝統に静かに従う…
100%支持はできないが、恐らく自分もそうしてしまう。
かと言って、主人公の生き方もちょっとやりすぎ感はある。集団を引っぱるためには必要な強さではあるけれど…
人名が難しく、何度も前のページに戻りながら読み進めました。
原題はエピグラフのイェイツの詩から。
物事がばらばらになる。本当に悲しい。
Things Fall Apart
最後の主人公の埋葬のくだりは、本当に悲しい。
アフリカ大陸が侵略された歴史、文明化することの暗い面、支配者側の非道をも見ました。
読めて良かった。辛かったけれども。
Posted by ブクログ
読んで良かったと思う。
アフリカについて世界史じゃない文学として初めて触れたと思うけど、なんともやるせない気持ちになった。
植民地前の文化が全て肯定出来るわけでもなく、まして支配者側の考えが受け入れられるわけもなく。
ただ後世の私はこれを読んだことがいつか何かの基準になると思った。
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「読書会という幸福」(向井和美/岩波新書)で紹介されていた本。初めてのアフリカ文学ですが、読みどころの多い小説でした。著者のアチェべはナイジェリア出身のイボ人作家。
1958年にロンドンで発表された本書は「アフリカ文学の父」と呼ばれるアチェべの最高傑作とされています。
(以下、プロットに若干触れます)
本書は3部で構成されます。第1部は架空の村ウムオフィアにおける慣習、神々、呪術の数々と主人公オコンクウォの人となりを描き、オコンクウォが犯してしまった過失で終わります。第2部はオコンクウォの流刑先での日常と拡大する白人の植民地支配を描き、第3部ではオコンクウォの悲劇が描かれます。
本書の読みどころは
1)ウムオフィアにおける慣習の詳細な記述
植民地支配以前でも、アフリカ社会は独自の発展を遂げていて、独自の司法制度、民主的統治システム、倫理観を持っていたことには驚きました。しかし、一方では呪術に支配され、常識よりも神々のお告げが優先される世界です。神託により殺されてしまう罪なき少年の描写は理解できませんでした。
2)オコンクウォの人物描写
極端な家長父制、男尊女卑の世界での誇り高く、ストイックな男が描かれます。最後の悲劇を招いてしまうまで、その性格はブレることがありません。冒頭、反面教師であったオコンクウォの父親の描写がありますが、その対比も興味深いものがありました。
3)植民地支配との葛藤
終盤、英国のキリスト教世界がウムオフィアに入ってくるあたりから物語は大きく展開します。単純にアフリカ文化=善、植民地支配=悪と描いていないところに物語を厚くしています。
本書は植民地支配以前のアフリカ、植民地支配との葛藤を垣間見るには絶好の本。物語としても面白く、読書の快感が得られました。お勧めと思います。
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アフリカ文学初読み。
イボ人の伝統と生活習慣が色鮮やかに語られていく。異文化を体感できるのは読書の醍醐味だ。
主人公が最後に選択したものが消化しきれない。また時間を置いて読み返したい。
Posted by ブクログ
・アフリカ文学史上最高と呼び名の高い小説
・アフリカの村で一代で名声を築いた男が主人公
・父親を反面教師に努力をする
・隣の村と戦争を起こす代わりに人質を捉えて自分の家で育てる
・村のならわし、神のおつげにより、自ら大事にしていた人質の子を殺めてしまう。そこから暫くは食事もせず。
・偶発的な事後で同族を殺してしまったことでオコンクウォは流刑されて、母親の親族の村で7年間過ごす
・そのかん、イギリスの植民地支配でキリスト教が蔓延。
・オコンクウォが7年後に戻ってから、イギリス白人と村の一族との対立
・オコンクウォは白人の首を跳ねて、後日に木に首を吊って自殺するという衝撃な最後。
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アフリカ文学の在り方
黒人と白人の関係っていうのは今後も一生注目され続けるもので、こういった文学はその関係における事実とか考え方を継承するひとつの大切なもの
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アフリカ文学の父と称されるアチェベの代表作。アチェベの名前、どこかで聞いたことがあると思ったら、コンラッドの「闇の奥」についての論争について読んだときに名前をみかけたようだった。
本書は19世紀のナイジェリア、イボの文化を描き出すとともに、それがイギリスによる植民地支配により崩れ行くさまを、戦士として誇り高い地位にあった主人公、オコンクウォの転落に重ねて描き出す。前半のイボの文化は興味深いが、アフリカの独自性を描き出すというよりは、その中で葛藤する個人を描こうとしていると言える。その点ではオーソドックスな小説とも言えるが、それまでアフリカ人を主人公としてこなかった小説世界が、アフリカを舞台にオーソドックスな小説を構築できるのか、そこにチャレンジがあったということだと理解した。
Posted by ブクログ
◆石川直樹さんのおすすめ
キリスト教が入ってきたときに
今現在虐げられてたり
今現在の価値観に疑問を持っている人たち
(双子を堕胎しなければならなかった母親など)
が改宗していったというところに
なるほどなぁと思う
もともといた人たちの世界観の中に
新しく場所を設けて
考えを拡げていく
どちら目線かで全く変わってくるけれど
元いた方は「順番」の重要さを思って
後発の振る舞いを理不尽に感じるのも
仕方なく思う
後から入っていく方は
自分たちの「正しさ」を広めたいし
受け入れられたいし
そのために尽力もするだろう
なんだあれ?と思われるような
新しい考えは一見カルト的にも思えるだろう
なにが後世に残るか?
残っているものの
「正しさ」なんて
ほんとうのところ
誰にもジャッジはできない
排他的にならなければ
たとえ脅威を感じていても
共存できるのだろうか?
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民族誌半分、物語半分。カメの昔話、家族の仕組み、ヤム芋の農業。歌や市場や巫女の存在意義、アフリカ文化の基礎知識がないから、珍しい。
キリスト教の西欧がアフリカの人々の信仰を無慈悲に蔑み侵入してきたのを当事者の目から書いた、アフリカの人々 可哀想、なだけで終わらない文学。
村人たち、とくに主人公オコンクォが男らしく(横暴とも言う)自分勝手で他人の心情を解さない男で。伝統を重んじ自分の力で長になろうと努力した主人公が、自分の今までの行いから、自分の精霊(チ)の運命に逆らえず結局超えられない、というところに皮肉と悲哀を感じる。
Posted by ブクログ
「アフリカ文学の父」による最高傑作と言われる。
物語の前半は、徹底した労働により一代で名声を築く主人公オコンクウォの半生が語られる。彼の考える勇気の大切さ、怠惰への嫌悪などは息をのむほど。一方で、一夫多妻制の下での(現代の感覚から見れば)信じがたいほどの男尊女卑、子どもへの抑圧、「迷信」と呼ばざるを得ないような呪術。同時に、争いを避けるために精霊たちが村人に与える平和への知恵。そして後半、ここにキリスト教の宣教師がやってくる。
初代宣教師は、村人のするどい突っ込みに受け答え、伝統的な慣習に理解を示しながら少しずつ信者を増やしていく(「神は一人といったり、神の息子がいると言ったりどっちなんだよ」といった質問から始まり、キリスト教を理解しようとするアフリカ人の合理的思考が胸を打つ。村の長老と宣教師の応酬は明らかに長老が勝っている)。
こうして、村人たちの中に「・・・(キリスト教にも)どうやら何かが、とんでもない狂気のなかにも、おぼろげながら理屈のようなものがありそうだ、という感覚が広まりつつあった」(P.266)。
厳格な父オコンクウォ(当然ながらキリスト教を激しく憎んでいる。)におびえながら生きる穏やかな息子ンウォイエが、讃美歌の響きに心揺さぶられるシーンは感動的。
しかし後任の宣教師は、(よくあることだが)ゼロからスタートでないだけにかえって「正しい教えが浸透していない。迷信が残っている」と村人と摩擦を引き起こす。村人の抵抗。それを「鎮圧」する英国の植民地官僚たち。その様子は、先住民暴動の「平定」として記録されていく。
「ライオンが自分の歴史家を持つようになるまでは、狩りの歴史はつねに猟師のものだ」
“Until the lions have their own historians, the history of the hunt will always glorify the hunter.” アチェベが好んで使った言葉だそうだ・・・。
(2015年11月のThe Economistより)
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最後は痛烈。日本の明治維新における、漱石を初めとする文豪の問題意識や西郷隆盛の西南戦争と共通するところがあり、特に日本人にとっては、古くて新しい問題である。それは、第二次世界対戦後という現況にも問題を提起している
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「アフリカ文学の父」と言われるチヌア・アチェベの作。
アチェベはナイジェリア・イボ族出身で、ロンドン大学のカレッジにあたるイバダン大学(ナイジェリア最古の大学)で学んでいる。
アチェベはコンラッドの『闇の奥』を批判したことで知られる。アフリカの人間性に目を向けず「ヨーロッパすなわち文明のアンチテーゼ」としたというものである。アフリカ人を「野蛮」としか見ていなかったというわけだ。
アフリカを描写する「異なる物語が必要」として、実際に創作したのが「アフリカ三部作」と呼ばれる作品群で、この『崩れゆく絆』が最もよく知られる(他の2編、『もう安らぎは得られない』『神の矢』に関しては、少なくとも入手しやすい邦訳は出ていないようである)。本作は別の出版社から数十年前に旧訳が出ていたようだが、この版は2013年刊行と新しい。原著は1958年初版。
物語は1900年前後のナイジェリアが舞台。
呪術や慣習に支配される地で、「男らしく」畑を耕し、勇猛に戦って名を築いていたオコンクウォ。強き男、頼りになる夫、恐い父である彼は、古くからのやり方で、精霊や祖先を崇め、一族の秩序を脅かすものと戦ってきた。役立たずだった父親からは多くのものを受け継ぐことは出来なかったが、彼は強い心で働き、自力で名声や財産を勝ち取ってきた。
妻は3人、広い屋敷も出来た。一族の最高位に登り詰める日も遠くないはずだったが、不運に見舞われ、村を追われた。
村に戻れる日を待つオコンクウォは、よからぬ噂を耳にする。得体の知れない白い男たちがやってきて、禍をもたらしているようなのだ。
時が満ち、ようやく故郷の地を踏んだオコンクウォ。凱旋さながら華々しい帰郷を祝うはずだったが、白い男たちのせいで、村はすっかり変わってしまっていた。
やがて、強い男、オコンクウォは悲劇に見舞われることになる。
前半は伝説や言い伝えに支配される呪術社会を鮮やかに描き出す。
動物たちが登場する昔話は想像力豊かで美しいが、こうしたお話は女向けとされている。
オコンクウォの息子、ンウォイェは実のところ、こうしたお話の方が、父の武勇伝より好きなのだが、男らしくあれと期待する父に背かぬようにそれを隠している。
世が世ならば、父と子の小さな齟齬は表に出ぬまま、世代が引き継がれていくはずだった。
この社会はこの社会として秩序を保ち、この社会の論理で物事を解決し、幾分の揺らぎを含みながらも大きくは平穏に過ぎていくはずだった。
そこに突如、白い人々の論理が持ち込まれた。
論理と論理がぶつかり合ったとき、そこに武力も加わったとき、社会はがらがらと轟音を立てて崩れ去る。
軋みの中で、オコンクウォは滅びへと転がり落ちていく。
残酷なまでの鮮烈さで。
物語の時代設定は、アチェベ本人が生まれるより前のことである。アチェベ自身は言うなれば欧州流の教育を受けている。
本作に関しては、「村」の描写が正確でないという批判もあったという。確かに幾分か「鮮やかすぎる」ような印象は受ける。しかし、「村」の「空気」やオコンクウォの「気質」は如実に描き出されているのではないか。それがフィクションというものだろう。
原作には一切の注がないという。訳者には注を付すことにいささかの躊躇いもあったようだが、本文に添えられた詳細な注と解説が作品のよい導き手となっていることは間違いないように思う。あとがきに記された訳者の真摯さに敬意を表したい。
読み通してみると、三部作の残りの2作品が読めないのは残念なことに思う。なかなか困難なことなのかもしれないが、もしも訳書が出るようであれば手に取ってみたいものだ。
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19世紀のアフリカを舞台とした、欧州の植民地支配によって分断されていく家族と共同体の物語。あらすじはシンプルだけど、実際にはとても重層的な意図の込められた、にもかかわらず単純に物語としても面白く読めてしまう本だった。語り口の変化は近代化のメタファーとして機能しているし、支配の過程も単純な二元論では収まらない。そもそも著者が植民地支配の教育を受けて育つことで、その支配以前の文化を書き留められたこと自体が逆説なのだろう。その上で、個人の弱さを軸とした物語は時代も文化も飛び越えて、こんなにも普遍的に届いてくる。
Posted by ブクログ
アフリカ伝統社会が西欧文明の流入により壊れてゆく様子を描いた小説。前半は伝統社会の描写で入り込むまで時間がかかるが、それでも読み進むねうちはある。映画「セデック・バレ」や、明治日本の近代化、さらには高度経済成長以後の日本の変化にも重ね合わせて読んでみたい。
Posted by ブクログ
小説の前半に描かれる、呪術と迷信が跋扈する19世紀のアフリカ社会を描く筆致、その異様な迫力に圧倒される。年代的にはアチェベはそれら時代から少し隔たっており、本書を読むことは、作者が自らの拠り所としてのアフリカ社会の伝統を手繰り寄せる行為に立ち会う作業とも云えそう。
旧社会を代表するオコンクォの破滅を描くところで小説は終わるが、その先を描かないところにアフリカの深い自問があるのか、と思う。アフリカ現代を知りたいと感じる。
新訳を出版した光文社に拍手。
Posted by ブクログ
1900年頃以前は、イギリスの植民地ではなくて、イボ社会の生死感と宗教や風習があった。それが変わっていくなか、1930年にアチュベさんは生まれる。1960年に、ナイジェリアは独立する。この本は、それより2年前の1958年にロンドンで出版される。であるから28歳である。1977年にコンラッドの『闇の奥』を批判する。この『闇の奥』は1902年、確かナイジェリアじゃなくコンゴだったと記憶している。アチュベさんは植民地支配の時代に、しっかりとした教育を受けた一方、そうなる前のアフリカの伝統みたいなものを主張しているようにも思う。そういったことを背景とした小説とのことで、少しずつ読んでいる。
Posted by ブクログ
アフリカの作家は初。昔ながらの部族のしきたりを守って暮らしている村の英雄が、ふとした事故で7年間の追放の憂き目にあう。戻ってきた頃にはイギリスの宣教師が入り込み、村の様子は一変している。ストーリーとしては、二つの面があると感じた。一つは植民地化する前、その過程の両方で、住民、特に部族内で虐げられていた女性や子供、差別されていた村民にとって、何が幸せかを考えさせられる。もう一つは主人公と村全体の運命。文明化の旗印のもと、過去の風習等は全て否定される。ただ、不潔なことや迷信に基づいた子捨て、双子の廃棄などは解消されるわけで、どこに線を引くのかは難しい。
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「アフリカ文学」なるジャンルは初めて読んだ。使用言語は英語で、「英米文学」の欄に並んでた。
西洋文明への批判でありながら、宗主国の言語で書かないと伝えることができない、というのが「弱者」の立場を象徴しているような。
「宗教は脳の副作用である」(ジャレド ダイアモンドだったか)、「神は妄想である」(リチャード ドーキンス)という言葉が好きな身としては、やっぱり一神教はろくなもんじゃねえ、と改めて思った。
アフリカの年寄りの言葉は含蓄が深いなあ。今の言葉で言うと、サステイナビリティファーストか。
Posted by ブクログ
ナイジェリア出身のイボ人作家 Chinua Achebe (1930-2013)による、アフリカ文学の金字塔と言われる作品です。
前半は、19世紀後半の植民地化前のイボ族の共同体が、複雑かつ精緻な統治、信仰、慣習システムにより運営されている様子が、主人公であるオコンクウオを中心に描かれています。後半では、それが白人の宣教師たちによるキリスト教布教を境に瓦解していく様へと進行していきます。このあたりが、題名である”崩れゆく絆”をよく体現しています。
この小説は1958年に出版されてますが、そのわずか2年後の1960年にナイジェリアが独立を果たしており、時代は違うものの過度期の不安定や焦燥といった気分が、当時の世相を反映していた、とも言われているようです。
しかし、この小説をそうした歴史的あるいは民族史的側面からよりも、私はオコンクウオという男一人の生き様からとらえるほうが、面白く読めるような気がしました。そして、守護神であるチが運命を先導しつつ、個人の努力にもある程度呼応していく、という宿命論と自力更生的考え方の対置など、自省を促すようなテーマも込められており、多面的な側面を持つストーリーで一気に読んでしまいました。