あらすじ
明治四十三年、朝日新聞に入社した漱石が職業作家として書いた第一作。我意と虚栄をつらぬくためには全てを犠牲にして悔ゆることを知らぬ女藤尾に超俗の哲学者甲野、道義の人宗近らを配してこのヒロインの自滅の悲劇を絢爛たる文体で描く。漱石は俳句を一句々々連らねていくように文章に苦心したという。 (解説・注 桶谷秀昭)
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表現が難しくて理解できないところも多いけれど、
不思議と美しい文章だと感じられる。
調べながらだと読み進められないので、
なんとなくで読み進めて3回読みました。
人間関係の構図はわかりやすく、
心情や状況の描写に集中できる。
自分のために、他人を犠牲にして生きるな。
知識だけではなく、情をもて。
そう言われているような気がした。
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エンターテイメント小説として非常に面白く、なんといっても会話文の巧さがこの若者たちの群像劇を瑞々しく魅力的なものへと引き立てている。
冒頭の甲野さんと宗近君の登山における和気藹々なやり取り、続く第2幕の小野さんと藤尾の只ならぬ男女の仲を匂わせる会話の応酬を立て続けに読んだら最後、ぐっと物語に引き寄せられてしまった。
活き活きとした会話文とは対照的な漢語下し調の地の文は、その装飾的に過ぎる難しい表現に読み進めることを戸惑いもしたが、あまり拘泥せずに読み進めてゆくと、地の文を支配するリズムに虜となってしまうから不思議だ。
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9/7
ああ、これが「文章」なんだな。
一文一文練りに練って書いた、というだけある。
朝日新聞入社後一本目の作品ということで、相当肩に力が入ってたんだろうなあ…まあ肩に力入れるだけでかける代物でもないけど。
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夏目漱石の、職業小説家としてのデビュー作。
朝日新聞に連載された作品です。
複雑な人間関係が描かれており、その人間関係の背後にはさまざまな思惑があります。
物語が進むにつれて、その糸が絡み合ってどんどんこじれていきます。
果たして最後はどうなるのか、単純にストーリーを追うだけでも面白い作品です。
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中盤こえるくらいまでやたらと難しい言い回しがくどくどと続く印象。漢籍や西洋の書籍からの引用が多いとかそういう話ではない。解説で、正宗白鳥は今作を批判したと読んだが、わからんでもない。
しかし終盤になると俄かに展開が速まり、筋に重きを置いたからなのか、格段と読みやすくなった。小野さんが突如として「真面目」になったのには少し狐に摘まれた感じがしたが、宗近一の言葉はなるほど人を動かす熱さがある。思わずじんと来た。
これまでに漱石の作品は『吾輩は猫である』『坊っちゃん草枕』『彼岸過迄』『こゝろ』『明暗』を読んだが、どれもそれぞれに特徴があっておもしろい。向田邦子の文章も好きだが、あの人のは反対にどれを読んでも変わり映えしないので、その対比からなおさら作品によって表情の違うのが面白く感じた。
解説によると、正宗白鳥は今作を説教くさいというような趣旨で批判したらしい。正宗白鳥の作品は『入江のほとり』を岩波文庫で読んだくらいだが、割と好き。しかし正宗白鳥が批判する今作も別の味があってよい。どの作家も同じ文章書き始めたら世も末。あまんきみこじゃないが、みんな違ってみんないい。
莫邪路と干将路というのが蘇州市内にあり、どっかの将軍(干将)と悪玉の親分(莫邪)の故事でも引いているのかと当時思っていたが、なるほど干将は剣匠でその妻が莫邪というのかと今作の註釈を読んではじめて知った。
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すごく面白い。地の文は漢文調で読みにくいけど、それでもぐいぐい読ませる。
虚栄と道義の対立、旧時代と新しい時代の相克、とかなんとかいろいろ読みはあるだろうけど、シンプルに「婚活小説」として読むのがいいと思う。見栄と打算と離層のせめぎ合いの中で、お互い探り合い位置どりする感じが、なんとも東京カレンダーのアレ的な下世話さでよい。
漱石ってほんとすごいよなあ。
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「こういう危うい時に、生まれつきを叩き直しておかないと、生涯不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しは付かない。此処だよ、小野さん、真面目になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。皮だけで生きている人間は、土だけでできている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのは勿体ない。(中略)僕が平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。真面目になるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が現存しているという観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。遣っ付ける意味だよ。遣っ付けなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になった気持ちになる。安心する。実を言うとぼくの妹も昨日真面目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。人一人真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。―――どうだね、小野さん、僕のいう事は分からないかね」(p367)
おそらく、漱石はこの一文に辿り着くために虞美人草を書いた。勧善懲悪小説は旧世界の古くさいイデオロギーに過ぎない。したがってつまらない小説である。つまり説教臭くて嫌だという批判もあっただろう。しかし、それでもあえて、伝えなければ世の中がヤバいことになるという切迫感が、焦燥があったことは明白である。
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前半部分の絢爛すぎる怒濤の描写についていけず,挫折しかけた.
登場人物の立ち位置も全く頭に入ってこなかった.
セリフが中性的で,さん付けで呼ばれていたことから,小野さんを
女性と判断して読み進めた.しかし,小野さんが女性だと
話のつじつまが合わなくなることに途中から気付いた.それは,そこまでに自分で描いていた『虞美人草』が誤っていたことを意味し,絶望した.
しかし,後半は会話が多くなり,ようやく話の概形がおぼろげながら浮かんできた.物語の本質である小野さんと藤尾の恋が,
多数の人物が互いに絡み合ってできた複雑な事情の上に成り立つ
ものであると知る.この仕組みを理解するためには,前半部分が
どうしても必要であることには納得がいく.約100年経った今でも
彼らの恋愛関係には新規性が感じられ,とてもおもしろい.
この作品を評価するにあたって,ストーリーという観点からは申し分ないと思われる.
絢爛な描写を理解できたとき,評価にもう一つ星を加えたい.
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小野は一旦は打算で藤雄さんと結婚しようとするが、それを翻し恩師の娘である小夜子と結婚する
はめに至る。死を選ばざるえなかった、「藤尾の死」は如何に理解するべきか。
こころにも通じる主題であるが、主人公の何気ない日常生活に含む言動の中に、
人を殺すエネルギーが内包されていることを、現代人はもう一度改まって
考えるべきではないだろうか
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まず際立っているのが文章の難解さ。地の文が凄まじいまでの美文であり、知らない単語が怒涛のように押し寄せる(私が無知なだけですね)。漢文や故事の素養を下地にした表現も多用されており、ページを捲るたびに自分の無学をひしひしと感じる・・・。
でも、そこがよいのです。読み進むうちに絢爛豪華な文体を味わうのが癖になる。彫琢された文章ってこういうことを言うのね、と思う。
それになんといっても漱石作品は会話が面白い。藤尾と小野の恋の駆け引き、甲野と宗近の気心の知れた友人同士のおしゃべりなど、気の利いたやりとりが素敵。
さて、肝心の物語だが・・・
筋書きだけ見ると、まあ、メロドラマである。あらすじを言ってしまえば一言だ。それをここまで読ませるのはさすが漱石といった所か。終盤の展開が急すぎてびっくりしたけど。
登場人物の性格もはっきりしており(悪く言えば類型的?)、娯楽小説として心置きなく楽しめる。
お気に入りは超俗の哲学者甲野さん。宗近君もラストで道義を語るところでちょっと見なおした。真面目になります。
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前置きが長くて、メインの話が何か分かるのにかなり時間がかかりました。夏目先生の作品は男同士のやり取りが多いイメージがあったので、女同士の駆け引きを見られたのは少し新鮮でした。
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地の文が文語調で現代人には少々読みにくい。それでもものすごい美文だと思うが、なぜそう思うかは説明しにくい(笑)
解説によると漱石は本作の文章を書くにあたり、何度も「文選」を読んだらしいが、たとえ私が「文選」を読んでも、私にはとてもこんな文章は書けない(当たり前か)
お話自体は今でもありそうな結婚をめぐる三角四角関係を描いており、テーマ自体は全く古びてはいない。小野みたいな男はゴロゴロいると思うし、藤野とその母みたいな親子もいそうである。私自身は藤野の腹違いの兄の甲野に惹かれる。何のなく似ているところがあるような気がする。
今でも感情移入して読めるのは、いい小説は古くならないという証左であろうか。
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夏目漱石が教職を辞して職業作家として執筆した第一作目の作品。
漱石は教職の傍らに発表した作品、「吾輩は猫である」、「坊ちゃん」、「草枕」、「野分」ですでに文名が大いに上がっており、大学の講義ノートを作ることが苦痛であることを漏らしていた時期、白仁三郎(後の坂元雪鳥)の仲介から朝日新聞社に入社しました。
当時の新聞社は今で言うベンチャー企業のようなもので、不惑を過ぎた数えで41歳の漱石には、その転職は冒険だったと思います。
また、部数も影響力も今と比較してそれほどないとはいえ、多くの人に目が留まる新聞紙上での連載であること、新聞社から異例の待遇を持って受け入れられていることから、漱石の緊張は想像するに難くなく、その真剣さが作中からも感じられました。
それまでの作品と比較すると構成がしっかりしていてラストに向けてのプロットがあるように思います。
ストーリーは、とある男女の恋愛の縺れを主軸にしたもので、巻末解説の桶谷秀昭氏の言葉を借りるならば中世から連綿と続く勧善懲悪の文学イデオロギーに即したお話になっています。
メインとなる人物が6名登場します。各々の関係を箇条書きに書くと以下の通り。
甲野欽吾:
神経衰弱により療養中の男性で、物語は彼とその友人の宗近一の京都遊行のシーンから始まります。
継母と妹の藤尾と住んでおり、財産を全て藤尾に譲ろうと考えています。
甲野藤尾:
欽吾の腹違いの妹で虚栄心が強く、美貌の女性。
藤尾の父が生前、宗近一に嫁に出すことを発言しているが、別に小野清三という親しい男性がいる。彼の心を誑かしている。
宗近一:
外交官の試験に落第し続けている。外交官となり藤尾と結婚することを望んでいる。
豪放な父と、しっかり物の妹、糸子がいる。
宗近糸子:
しっかりもので何者にも怖気ない性格。
欽吾のことが好きだが、彼を理解しているがゆえに思いを打ち明けずにいる。
小野清三:
欽吾と同窓で、博士論文を執筆している。小夜子という将来を誓った仲がいるが、藤尾に惹かれてしまう。
小夜子の父、井上孤堂は清三の恩師でもある。
井上小夜子:
京都に住んでいるが、清三との縁談をまとめるために父と共に上京する。
ストーリーが進むにつれてこの関係はどん詰まりになってゆきます。
どうにもならない状況へ向けて進み行くストーリーには無駄な場面がなく、迷いなく追い詰められてゆく。
ラストはカタストロフがあるのですが、どうにもハッピーエンドと言い切れないところがあり、面白かったかと問われると、唸らざるを得ないです。
作中の文章は一応口語ですが、文語に近い文体となっていて、少し苦労すると思います。
夏目漱石的な表現が爆発していて、例えば適当に開いた5章は以下の文章から始まります。
「山門を入ること一歩にして、古き世の緑りが、急に左右から肩を襲う。自然石の形状乱れたるを幅一間に行儀よく並べ、錯落と平らかに敷き詰めたる径に落つる足跡は、甲野さんと宗近君の足音だけである。」
要するに、甲野欽吾と宗近一が山門に入ったわけですが、それだけのことにここまで言葉を紡ぐ必要があるのかと、言うまでもなくそうすることでより細やかな情景が伝わるわけですが、万事この調子で続くので、この表現を好むか否かが本書を楽しめるか、ひいては夏目漱石を楽しめるかの分かれ目となると思います。
ただ、読み方さえ心得れば、知らない表現が出ることにより知的好奇心がくすぐられる感じや、言葉遊びに似た会話の軽快さに楽しさを感じると思います。
Posted by ブクログ
桶谷秀昭が解説に書いている勧善懲悪小説という評価。確かにそうだ。
その時代の「ちょっと調子に乗りやがって」的な反感の的とされる人物像に、あえて道義的な悪の仮面をかぶせることによって、容赦なく叩きのめす。でもこれは新聞小説という制約の下で読者の共感を得るためにとった方法というよりも、小説は頭の屁である、という彼の定義に従えば、むしろ漱石自身の鬱屈のガス抜きのためだったのではないだろうか?登場人物の誰よりも漱石に感情移入しながら読むというのは邪道な読み方ではあるが。