あらすじ
物語のむこうに社会が見える! 解剖学者のユーモアと明晰な論理のメスが、小説の読み方を一変させる“目からウロコ”の痛快エッセイ集。
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働きすぎと暇つぶしの狭間で
一部ご紹介します。
・科学技術の発展は様々なことを可能にした。可能だから、人間はそれをするので、環境を考えたらどうなるか。
やりすぎなければそれでいい。無限の知識追求という前提は、その「やりすぎ」を手伝ってしまう。
推理小説もファンタジーも、漫画もアニメも、やりすぎ防止の一環である。働かなければ生活できない時代では、暇つぶしは罪悪であった。
でも環境を考えるなら、働きすぎは罪悪である。
・車に慣れると、歩くという運動をしなくなる。親切な文章を読むと、不親切な文章は読めなくなる。
頭の訓練とは何か?自分の頭で考えることである。自分で考えた文章というのは、ひとりでに必要にして十分な分かりやすさを持っている。
・問題を丸めてしまえば(疑問に感じたことを、どうでもいいこととして忘れる事)、人生は楽だが、楽をすればその分自分に跳ね返る。
・遺伝子組み換え技術に限らず、一般に応用可能な新技術は、反対してもあまり意味はない。誰かが実行してしまうと、取り返しがつかなくなる可能性が常に残るからだ。核兵器がそうで、先にナチスドイツが作るかもしれないということが、アメリカの核開発の根拠となった。
だから、こういう技術については、「良く知る」しかないのである。
禁止したところで、それこそ使われてしまえば、もはや元に戻せないことが多いからだ。
それなら、反対原理主義になる前に、利害をしっかり見定めておく必要がある。
・「言葉で言えないことはない」という世界は、何事も言葉と交換可能だという世界である。
そこから「金で買えないものはない」まではすぐだ。そこで「落ちてしまう」ものは感覚の世界。
感覚の世界では、すべては独自で、すべては異なる。動物はその感覚世界に住むから、言葉は使えない。お金も使えない。
・同じ言葉を使っているつもりでも、「音程が違っていれば」感覚世界の住人は、「違うことを言った」と看做す。
Posted by ブクログ
意外なことにミステリーとファンタジーをよく読まれている養老先生。話はしかし読書にとどまらずやはり人間とはなにかという深遠なテーマに飛びがちであり、その逸脱具合が面白い。気楽に読めるエッセイ。