【感想・ネタバレ】故郷忘じがたく候のレビュー

あらすじ

十六世紀末、朝鮮の役で薩摩軍により日本へ拉致された数十人の朝鮮の民があった。以来四百年、やみがたい望郷の念を抱きながら異国薩摩の地に生き続けた子孫たちの痛哭の詩「故郷忘じがたく候」。他、明治初年に少数で奥州に遠征した官軍の悲惨な結末を描く「斬殺」、細川ガラシャの薄幸の生涯「胡桃に酒」を収録。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

ドキュメンタリー映画ちゃわんやのはなし-四百年の旅人- 松倉大夏監督をみて、先代14代沈寿官氏のことを司馬遼太郎が想いも熱く書いた短編が表題。
民族とはなにか、
民族なんてものはない、ただその土地土地での暮らし方や言葉がありその違いがあるだけだ、と15代いまの当主がソウルで悩んだ時に司馬遼太郎からもらった手紙。
映画を見てから読んだ。深い洞察、400年にわたる日本での暮らしその薩摩人ぶりと記憶の伝承。
先代のソウル大学での、日本へのわだかまりを捨てよと諭す講演の最後、あなた方の36年をいうなら私は370年をいわねばならない、という言葉の重み。
巻末の解説は山内昌之先生。

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2024年08月18日

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ネタバレ

久しぶりに面白く読んだ本。
今も過去とつながる陶工の話はおもしろい。
伝統工芸やArts & Craftの観点ではなく、著者との出会いから始まるというのがいい。
そしてそれは歴史であり他国で民族をまもった一族の生き方であった。


そして短編2作目は空回りして解決方法を1つしか知らず、それしか信じられない男のはなし。
3作目は細川ガラシャ夫人の話。
歴史物は著者の観点により話が違って見えたりすることもあり、
それがとても面白い。
そこが歴史で人物を見ることの面白さだとおもう。

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2013年01月02日

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ネタバレ

3編の短編集。
1. 秀吉の朝鮮出兵の際に強制連行された朝鮮人陶磁器職人の話
2. 戊辰戦争末期に、会津への攻撃を奥州各藩へ強要する官軍司令官の話。
3. 細川ガラシャの生涯

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2012年01月03日

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ネタバレ

表題は、秀吉の朝鮮侵略時代から日本に移り住んで、戸籍上は日本人であるが、朝鮮人のアイデンティティを守り続けて、自分自身に問い掛け続けた沈寿官氏の話。

ユダヤ人を連想させました。

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2011年12月19日

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ネタバレ

故郷忘じがたく候

著者:司馬遼太郎
発行:2004年10月10日
文春文庫
*1976年文庫の新装
短編小説3編『故郷忘じがたく候』『斬殺』『胡桃に酒』

有名な小説だけど、読んでいなかった。鹿児島県日置市の苗代川焼(苗代川は川の名ではなく地名)の有名陶芸家、沈寿官のお話。現在の当主は第15代だが、4年前に他界した14代はマスメディアでも見かけ、知っている人も多い。2008年放送の「鶴瓶の家族に乾杯」では、たまたま鶴瓶がトイレを借りに入った家が沈寿官氏の窯で、14代が出てきて驚いた。ただ、番組上は〝たまたま〟としているが怪しい。

14代は著者、司馬遼太郎ともこの作品をきっかけに(?)交流があったという。

その沈寿官(先祖)が、秀吉の朝鮮出兵により日本に連れてこられ、今日に至った話を、14代の人生を中心に本人からのオーラルヒストリーで展開している小説が、最初の一編。さすが、至極の逸編だった。


『故郷忘じがたく候』

1948年ごろ、京都のあるお寺で、住持(住職)から紹介された男(大工ふうで骨董商と紹介されたが著者は疑っている)が、住持の渡した陶器の欠片を見て絶賛。薩摩焼で朝鮮の匂いがする、と言う。やがて、沈寿官のことを知る著者。それから20年後のある時、鹿児島の空港で飛行機に乗るまであと4時間となり、そのことを思い出してどうしても会いたくなった。車を飛ばして会いに行く。これが2人の交流の始まりだったようだ。

秀吉による朝鮮侵略は、文禄・慶長の役(朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と言う)だが、2度目の慶長の役(1597~98)中の秀吉の死により、和議が成立して撤兵、その時に陶工たちが連れてこられたとされているが、誰がどのように連れてきたのかが分からないという。薩摩の伝説では、帰りの兵糧船が空で、浮きを押さえるために乗せられたとのことだが、それなら博多に着くはず。しかし、彼らがたどり着いたのは薩摩半島の西岸。串木野の漁村の南にある、無人の浜だった。もっとも困難な東シナ海を経由してきている。日本人船頭が操船した形跡もない。しかも、着いたのは翌年、一体、彼らはどこでなにをしていたのだろう。

(以下、ネタ割れ。個人的メモにつき注意)

この間、日本では関ヶ原の乱があり、徳川の世になった。

彼らは砂浜で死んだ人の碑(今も石碑あり)を建て、あたりを見回して見つけた丘のかげに小屋を築いて住み着いた。彼らに出来ることは陶磁を焼くことだけ。窯を作り、土を探して焼いた。今はもうその窯はないが、地名に「旧壺屋(もとつぼや)」が残る。

3年ほど生活。朝鮮風に轆轤を足で蹴りながら回す。地元の人たちは珍しがって見に来る、その内、無断で触って焼き物を壊してしまう。止めろと行っても言葉が通じない。怒ると徒党を組んで小屋を壊しに来る。

島津家役人は同情し、「留帳」に書き留める。1603年のことのようである。韓人たちはそこを離れざるを得ず、鹿児島の府城で泣訴することに。しかし、2里ほど行くと故山に似たところがあり、そこが苗代川(なえしろがわ)で、薩人は「ノシロコ」と言っていた。川がないのになぜ川がつくのかは不明。

島津の当主が聞き及び、同情して、鹿児島城下に屋敷も与え保護も加えるので住むようにいうが、長老はそれを拒否した。理由は二つ、一つは島津が攻めて来た時に裏切って道案内をした韓人が鹿児島にいるため、もう一つは、「故郷、哀シク候」だった。丘に登れば自分たちが来た東シナ海が見えるところから離れない。

島津は苗代川を藩立工場にし、白薩摩は島津家以外には焼くことを禁じ、一般には黒薩摩のみ供せられることを認めた。幕末、12代沈寿官を主任とし、コーヒー茶碗や洋食器などを白薩摩で焼かせ、長崎経由で輸出して巨利を得た。

流れ着いた韓人たちは、苗代川の村に住み着き、17の姓を変えずに朝鮮風で通した。明治以降は多少の例外があり、名家とされる朴は東郷と変え、大日本帝国最後の外務大臣である東郷茂徳(しげのり)を輩出した。

14代沈寿官は、中学に入ると呼び出され、朝鮮人だとして気絶しそうなぐらいに殴られた。言うまでもなく明治になり戸籍が出来る前から日本で暮らす日本人であり、日本国籍に違いなく、自らが朝鮮人だと思うことなど微塵もなかった。しかし、父親である13代に諭され、喧嘩に負けないように鍛えた。彼は早稲田大へと進学したが、美術を学びたいと父親に言った時、お前は生まれた時から窯を継ぐと決められた人間だから、せめて自由にできる大学時代ぐらいは別のことをやれと言われた。その父親(13代)は京都大学に学んでいる。

黒薩摩は民間に供されていたが、その中でも、ごく一部の上質なものは「御前黒」といわれ、白薩摩と同様に島津家御用となっていた。秘法は一子相伝。ただ、12代は13代に口伝を与えることなしに死亡したため、途絶えていた。14代が復活させることに。彼はその土が取れると聞いた山の地主のところに出かけたが、相手にされなかった。しかし、通いつづけるうち、ついに土を永代無償提供されることになった。条件は、お猪口でもいいから焼いたものを一つだけくれること。最初のうちはダメだしばかりだったが、ある時、やっと気に入ってもらえ、受け取ってもらえた。ここに、御前黒が復活した。


『斬殺』

戊辰(慶応4、明治元年)3月10日、奥羽二州(会津を筆頭に30余藩)を獲るため、京の新政府が大阪の天保山から船を出した。しかし、僅か4隻、薩長兵200人。4隻といっても筑前福岡藩と仙台藩の船が1隻ずつまざっている。数万から10万の兵を出すべき戦だった。

首座は、従一位・九条道孝(29)。添役(そえやく)が従三位・沢為量(ためかず)(50)、従四位・醍醐忠敬(19)。2人の参謀がつき、薩摩の大山格之助(綱良)と長州の世良修蔵。仙台藩領内に入り、九条道孝の名代に近い役割をしながら、なかなか動こうとしない仙台藩にいらだつ世良修蔵。彼が最後に仙台藩らに斬殺されるまでを描く。

京から錦旗を持ち帰った仙台藩。新政府側のはずだが、幹部連中は本音では保守的、佐幕派が多い。秀吉についたり、徳川についたり。権力者の顔色を見て立場を変えてきたのが伊達家の歴史。二十九代慶邦も同じ。九条道孝は黙ったままで、横から道孝の言葉として上からものを言う世良修蔵。修蔵は武家ではなく漁夫の家柄だということもあり、慶邦は我慢がならない。

なかなか動かない仙台藩。たった200の兵なので、仙台藩の兵力を使う以外に方法はない。苛立つ修蔵。本命の会津藩どころか、庄内藩をうちにいくも手こずる。その間に、仙台藩を含めて奥州のいく藩が世良に対する憎しみを募らせ、宴会をやってはもりあがり、彼を斬ろうと決める。


『胡桃に酒』

細川忠興のもとへ嫁いだ、明智光秀の娘、たま(細川伽羅奢)の話。細川家は丹後国を与えられていたが、長子の忠興は、京の南郊(長岡京市)にある勝竜寺城で仕えていた。丹後から嫁いだたまは、勝竜寺へ。忠興の父親である細川幽斎は忠興に家督を譲り、宮津へ。

たまは、比類無き美貌。忠興は2発被弾しても怯まず進む勇猛、優れた武将であったが、感情が高ぶると何をするか分からず、周囲から恐れられていた。悋気(やきもち)のため、たまを奥から一切出さず、誰の目にも触れさせなかった。父の幽斎が嫁を褒めるだけでも誤解したほどだった。

ある時、庭師が仕事をしていると、たまが廁から出て手を洗いながら庭師に「寒いなあ」と声をかけた。思いも寄らず高貴な人から声をかけられて戸惑った庭師が、平伏することも忘れ、焦って声を出して返事をしてしまうと、忠興が飛んできて首をはねた。しかし、たまは平然と手を洗い続けていた。

また、忠興とたまが食事中、屋根を張り替えていた職人が落ちてしまった。たまを自らの視界に入れたことで忠興が激怒し、首をはねた。その生首を膳の上にのせたが、やはりたまは平然と食事を続けた。

勝竜寺の南隣、摂津高槻城主・高山右近と親しかった忠興は、切支丹の教えをよく聞いた。それをたまに話すと、たまは非常に喜んだ。彼女は明智家でみっちり儒教を学んでいた身ではあったが。

たまは、やがて大阪にある細川の玉造屋敷に移る。秀吉の朝鮮ノ役により、博多へ下ると、銀の胡桃割と葡萄酒を送ってきた。胡桃は前田利家からもらうものが美味しく、たまは大好物だった。胡桃と葡萄酒をたしなんでいると、腹痛になった。医師は、胡桃と葡萄酒は食い合わせだと説明した(その後、胡桃と酒が食い合わせだと長く信じられた迷信)。たまは、食い合わせは、忠興と自分であると側近に言う。

秀吉が死に、今度は関ヶ原の戦いへと出る。たまは、石田三成から人質として大阪城に入れと言われるが、それを拒否して自害する。

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2024年01月08日

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ネタバレ

申すもはばかることなれど
日州どのがおんひめは
衣通姫もただならず
  ―――胡桃に酒

秀吉政権下、薩摩軍により拉致された朝鮮人。望郷の念を抱きながら暮らす陶工を描いた表題作。

明治元年、奥州遠征をした官軍の悲しい結末を描いた「斬殺」

細川ガラシャの薄幸の生涯を描いた「胡桃に酒」

3作目が読みたくて買いました。
うーん、やっぱり凄惨な一生。

そして表題作が予想以上に良かった。

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2011年10月02日

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中編が3編。 表題作の反歌が荒山徹の「故郷忘じたく候」か。 朝鮮から連れてこられた陶工の話。 新鮮な題材だろうが、読む順番を間違えたな。 相変わらず、小説なんだかノンフィクションなんだか。 他の2編も含めて大して盛り上がらず。

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2011年09月22日

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