【感想・ネタバレ】火星のタイム・スリップのレビュー

あらすじ

火星植民地の大立者アーニー・コットは、宇宙飛行の影響で生じた分裂病の少年をおのれの野心のために利用しようとした。その少年の時間に対する特殊能力を使って、過去を変えようというのだ。だがコットが試みたタイム・トリップには怖るべき陥穽が……フィリップ・K・ディックが描く悪夢と混沌の世界。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

人類の植民が進みつつある火星。圧倒的な水不足を背景に絶大な権力を持つ水利組合の長アーニイ・コットは、火星の開発計画に伴う利権争いに出遅れ、地球の資産家達に先を越されてしまう。損失を取り返さんと憤怒に燃えるアーニイが目を付けたのは、常人と異なる時間感覚を有しているらしい自閉症の少年マンフレッドだった。マンフレッドの能力を利用して過去の改変を図るアーニイ、他者とコミュニケーションを取ることが全く出来ないマンフレッド、マンフレッドと意思疎通するための機械の開発をアーニイに命じられる技師のジャック、三者の異なる思惑が、火星の運命を思いがけぬ方向へと導いていくことになるが・・・。

うひゃー、やられた。面白いです。
タイトルで損をしている作品だと思います。アーニイがマンフレッドの能力によってタイム・スリップするに至るまでの話が、確かに物語の骨格を成しています。が、だからといってこの作品を、如何にもジャンルSF的な「時間SF」と頭から決めてかかると、かなりの衝撃を受けることになるのではないかと。

傲慢で人の話を聞かず、他者を自分の道具としてしか見ることが出来ないアーニイは、マンフレッドが時間改変能力を持つと決めつけて、周囲のキャラも巻き込みつつ強引に計画を進めていきます。しかし、マンフレッドが実際に時間改変能力を持ち、そしてそれを発揮してアーニイを過去に連れて行ったのか、本当のところは明確には描かれていません。
様々な解釈が可能だと思いますが、鴨は、アーニイが連れて行かれた「過去」は、マンフレッドの精神世界における幻想の過去であり、アーニイはマンフレッドを「使いこなす」ことができなかったのだろうと考えます。そもそも、マンフレッド自身は過去には何の興味も無く、自らの暗澹たる「未来」にのみ拘泥していたわけですから。一方、マンフレッド自身は未来の改変に成功し、彼に取って心置きなくコミュニケーションを取れる唯一の存在であるブリークマンと共に、新たな未来を生きることを選択します。しかし、それが現実世界と地続きの時間線に位置する未来なのかどうかは、誰にも判りません。
こうして、ストーリーのクライマックスでタイム・スリップ(らしきもの)は確かに行われるのですが、それはアーニイの死をもたらした以外、結局何の変化ももたらしません。それまでアーニイに振り回され続けた登場人物たちは、皆事件前の生活に立ち戻り、これまでと変わらぬ生活を続けていきます。地に足の着いた現実に目を向けようと務める、強い意志を有しながら。

ラストシーンは、新たな未来に生きるマンフレッドの変わり果てた姿にパニックを起こして家を飛び出した彼の母親を根気よく探し続けるジャックとその父親、そして彼らの帰りを待ちながら夕飯の支度をするジャックの妻の姿を淡々と描写して幕を閉じます。鴨はここに、「過去を変えたり未来を覗いたりすることは本当に有益なことなのか?」「現在を大切に生きることが、最も重要ではないのか?」という、強いメッセージを感じます。たとえその現在が、取るに足りない平凡なものであったとしても。
SFの枠を拡張して普遍的なメッセージを発し続ける、傑作だと思います。

と言いつつも、いかにもSFらしい、そしていかにもディックらしい緊迫感に満ちた描写、気色悪いガジェット、常人の理解の枠を軽く飛び越えるぶっ飛んだストーリー展開はこの作品でも存分に発揮されており、王道SFとしても充分に楽しめます。マンフレッドが自分にしか見えない未来のAM・WEBをスケッチし始め、その意味に気付いたジャックが愕然とするシーン・・・学校の中で姿を消したマンフレッドを探して全力疾走するジャックに向かって、学校中のティーチング・マシンが一斉に「ガブル、ガブル」と呟き始めるシーン・・・実にサスペンスフルで「絵になる」、映画化したら面白そうなシーンが中盤以降どんどん登場します。物語全体の緩急の付け方やスピード感も申し分無いし、鴨がこれまで読んだディック作品の中でも断トツに読みやすいかと。ディック初心者にも比較的オススメです。

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2013年03月10日

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