あらすじ
「ゆとり」か「詰め込み」かなど、教育を巡る議論には様々な対立と齟齬が渦巻いています。こうした混乱を越え、どうすれば<よい>教育を作ることができるのか。<よい>教育のためにはどのような学校がいいのか? そのための教師の資質とは? 本書は、義務教育を中心に、どのような教育が本当に<よい>と言えるのか、それはどのようにすれば実現できるのかを原理的に解明し、その上で、その実現への筋道を具体的に示してゆきます。(講談社現代新書)
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Posted by ブクログ
◯序章
>教育の目的とは
★教育とは、すべての人々が自由に生きられるための教養=力能を育むもの。
(但し、自由とは互いのわがままを押し通すものでなく、自分が自由であるために、他者の自由も承認する「自由の相互承認」の上に成立する)
・教養=力能とはすなわち、学力と、自由承認の感度のことである。
>教育の正当性とは
・どのような教育政策がよいと言えるか?
…一部の層だけでなく、すべての人の自由を促進するときにのみ正当である。
・結果の平等のみを重視する絶対平等もまた誤り。
・平等か、競争・多様化か、は相反しない。多様性に対応できる平等、を提供するために教育は多様であるべき。
◯第1章 学力とは何か
・学力が、知識量、問題解決、学習意欲など、定義がバラバラ。
★現代における学力とは「学ぶ力」である。
・学ぶ力、は従来と違い測定しづらい→格差拡大に繋がるのでは(従来型学力は、評価指標等が示しやすい=一定以上の学力を確実に保障できる)
◯第2章 学びの個別化
・人間の知能は、言語的知能、論理・数学的知能、空間的知能、身体運動的知能、音楽的知能、対人的知能、内省的知能、博物的知能の8つに分けられる(ガードナー2002)
・人間は異なるのに、いつなにをどう学ぶかが固定化されているのは極めて非効率的→学びの個別化へ
…オンライン学習(カーンアカデミー等)
・個別化は長く検討されている(パーカースト1974のドルトンプラン、ウォッシュバーンのウィネトカプラン、木下竹次、サドベリーバレースクール)、愛知県東浦町の個別化・個性化教育
・しかし、個別化とともに協働化も重要→「反転授業」
★提言:個別化の基本
1)こどもが教師のサポートを得て、自ら学習計画を立案し実行すること
2)個別的なまなびに協同的なまなびを融合させること
3)教師はこどもの個別・協同のまなびを支援し導く役割を担うこと
◯第3章 まなびの協同化
・まなびあいによる学力保障の可能性
佐藤学「学びの共同体」
ポイント
1)グループの組織:男女混合の4人
2)グループ導入時期:ひとつは「個別学習の協同化」。もうひとつは「背伸びとジャンプのための協同化」。…個別学習の行き詰まりのときに。
3)いつ終えるか:学びが成立する限り進め、成立しなくなる直前で終える
4)教師の役割:参加できない生徒のケア、学び合いが起こりにくいグループのケア
西川純の「学び合い」:全員が課題を達成することを必達
3つの考え方(こどもと共有する)
1)学校は、多様な人と折り合いをつけて自己課題を達成し、有効性を実感し、多くの人が同僚だと学ぶことが場だ、という学校観
2)こどもたちは有能だ、というこども観
3)教師の役割は目標設定、評価、環境整備で、教授=学習はこどもに任せるべきだという教師観
プラス:本当の理解が重要(わかったふりはしない)
・個別化と協同化を融合させることが重要
◯第4章まなびのプロジェクト化(PBL)
・個別/協同と区別するなら「何を学ぶか」が決められていないもの。
・デューイ・スクール
・キルパトリック「プロジェクトメソッド」
・きのくに子どもの村学園
・新教育は教育の放棄を意味しない。まなびを保障するためにこそ新教育はある。
・よいまなびを考えるとき、それ以外を否定するのは無意味。目的・状況相関的方法選択の前提に基づき選択すべきわ
・オランダのイエナプラン教育(ペーター・ペーターセン) →PISAの順位は日本と同程度。それ以上に、格差が非常に小さい。
・活用力をはかるpisaと旧来型知識をはかるTIMSS(数学理科教育調査)の結果は全く異なる。
◯第5章 評価と受験
・評価は選抜と改善のためにある、
・改善にいかす視点なら学ぶ力評価は可能。→パフォーマンス評価
・伴い、受験も変わっていく
・大学は、質低下+世界標準+ジェネリックスキルを求められる。
・大学は、多様化=序列化ではなく、序列化の伴わない多様化へ変質すべき。
◯第2部
◯第6章:学校空間の再構築
・相互承認の感度、の内実は1)自分を承認できること、2)他者を承認できること、3)他者から承認を得ること。
・学級は過度な同質性要請にさらされている(群生秩序の問題)…階級社会からの解放=自由の獲得(価値観の多様化)=確固たる指標を失い、集団への過重な同質性要請へ。
・学級は、人間関係の流動性による再設計が重要
…とはいえ、低年齢では護られた同質性が必要。成長に伴い流動性を高める設計が必要。
・具体的な設計としては、異年齢学級、コミュニティスクール、学び合いなど。
・グループ学習は、流動的に・頻繁に行うことで、抵抗感をなくせるのでは。
◯第7章 教師
・プロフェッショナル=省察的実践ができること(ショーン)→学び続ける教師が求められている。
・相互承認のためには、子どもへの教師からの信頼と承認こそが何より重要。…家庭からも信頼されない子もいる。最後の砦であるべき! ノディングス「ケア」
・シュタイナー…寄り添うだけでなく、権威的=尊敬できる教師の存在が必要
・教師へも信頼、支援が必要
◯第3部 よい社会を作る
◯第8章
・相互承認の感度を育むため、異なる人の間で共通了解を見出す経験を積む必要がある。教育は共通了解を得るための考え方、議論の仕方を学ぶ機会を設ける必要があるのではないか。
→超ディベートあるいは共通了解志向型ディベートの提案(苫野2013)…あちらかこちらか、ではなく、双方が納得できる第3の解を目指す。
・超ディベートの手順
1)対立する意見の底にあるそれぞれの欲望・関心を自覚的に遡り明らかにする
2)互いに納得できる共通関心を見出す
3)共通関心を見たしうる第3のアイデアを考え合う
Posted by ブクログ
面白かった。本当に面白かった。
教育や子供に関わる仕事をしている人、したい人、幅広い方々に読んで欲しい1冊。特に教育に関わっている人は必須です。なぜ勉強するのか? から始まり、公教育のあり方について書いてある。とても良い本だった。また読みます。
Posted by ブクログ
教育改革と言いながら、なかなか現状維持からの脱却ができない現実がある。この本を読んで、学校の制度や、学級のあり方、教育に対する考え方に思っていた以上に不都合が生まれてきていることを感じた。けれども、変えていくには時間と労力が必要で、それを進める意志の力もいる。多忙な現場では負のスパイラルに陥っていることを感じることも多い。けれども、本著では、教師を信頼し、その成長を長期的に支援することの必要性が書かれており、相互承認を基盤としたあり方だなぁと、感じた。最後の長期的なヴィジョン、実現していくといいなぁ。子どもが自分の力を実感しながら、満たされて伸びていける、自由感のある学校になるといいなぁ。
Posted by ブクログ
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世の教育に携わる人は必読だと思った。これからの公教育の目指すものは学びの個別化と、自ら学ぶ力だと言ってる。
苫野一徳
1980年生まれ。熊本大学准教授。博士(教育学)。関西学院高等部、早稲田大学教育学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程単位取得満期退学。早稲田大学教育・総合科学学術院助手、日本学術振興会特別研究員などを経て現職。専攻は、哲学・教育学。
自身の著書『子どもの頃から哲学者』において、17歳から8年続いた躁鬱病(双極性障害)を哲学によって克服したことを告白している。
教育の力 (講談社現代新書)
by 苫野一徳
教育の世界に身を置いていていつも心苦しく思うのは、みんな善意や熱意から教育を論じ合うのだけれど、ある種独りよがりなそれぞれの〝思い入れ〟や〝思い込み〟がどうしても先走ってしまい、そのために、不毛な対立がいたるところで起こってしまっていることです。 それは時に、〝われわれ〟と〝あいつら〟という、単純な二項対立の様相を呈します。「ゆとり教育、是か非か」「道徳教育の強化、是か非か」「いじめに対する厳罰処置、是か非か」など、教育をめぐるあらゆる問題は、単純な二項対立図式で論じられてしまいやすいものなのです。
序章で述べたように、それは最も根本的には、一人ひとりの子どもたちが〈自由〉になる、つまりできるだけ「生きたいように生きられる」ようになるための〝力〟のことです。 ではこの〝力〟、具体的には何を表すのでしょうか。 さしあたり、大きく次の二つに焦点化することができるだろうと思います。 一つは、いわゆる「学力」、もう一つは、序章でも述べた「相互承認の感度」です。 いうまでもなく、学校は「学力」を育むための場として存在しています。しかしそれだけでなく、前章で論じた通り、学校は「相互承認の感度」をすべての子どもたちに育むためにも存在しているのです。
ところで、この「学力」という日本語独自の言葉ですが、教育学においても膨大な研究や議論の蓄積があるものの、いまだに使う人によって込める意味がバラバラで、いつも議論を混乱させる要因になっているのが現状です(石井二〇一〇参照)。
たとえば、一九九八年改訂の学習指導要領で「教育内容の三割削減」が打ち出され、その後いわゆる「ゆとり教育」批判が過熱することになりましたが、学力を「知識量」と捉える立場からすれば、当然それは「学力低下」を生むと危ぶまれることになります。しかし、学力を「問題解決能力」と捉えるもう一方の立場からすれば、知識量それ自体の減少は、それほど大した問題ではないということになります。どうせすぐに忘れてしまうような細かな知識をため込むより、必要なのは自ら思考する力なのだ、というわけです。
産業主義の時代、企業の従業員の多くに求められていたのは、少し奇妙ないい方ではありますが、企業によってある意味「訓練されやすい」力だったといえます。一部の経営者層の指示の通りに、大多数の労働者層の人びとが、商品を大量に生産し流通させる。それが産業主義社会における基本的な労働のあり方でした。それゆえ、経済社会の人びとの多くに求められていたのは、ある意味では、与えられた仕事をいわれた通りにこなす力だったといえるのです。 とすれば、決められた学習内容を決められた通りにこなし、その成果を受験で競うという教育のあり方にも、ある種の合理性があったといえるかもしれません。極端にいえば、企業は学校で「何を学んだか」よりも、むしろ忍耐強く勉強する姿勢の方を求めていたのです。
しかしポスト産業社会の今日、事情は大きく変わりました。すでにさまざまな商品が社会に行き渡っているポスト産業社会においては、企業はただ商品を大量生産するのではなく、さまざまなサービスや付加価値を見出し続けなければなりません。経済のグローバル化に伴って、さまざまな局面での国際競争も激化しています。さらには、株主、顧客、従業員、地域社会の人びとなど、多様な声を聞き入れるとともに、環境問題や慈善事業への貢献など、社会的役割も求められるようになっています。
それはつまり、 今日、企業に勤める多くの人たちは、いわれたことをいわれた通りに忠実に遂行するだけでなく、その場その場において、自ら考え、そして絶えず「学び続ける」ことを求められているということです。 しかしその一方で、今日、多くの企業は、長期にわたる人員削減におよんでおり、また比較的安定した正規雇用の割合を減少させ、パートタイム雇用者や期間雇用者の割合を増やし続けています。この問題はきわめて深刻で、特に若者の失業率の高さや不安定な雇用は、これからの社会基盤を揺るがす大きな問題です。解決に向けた、真剣な努力が必要です。
誤解のないよういっておかなければなりませんが、公教育は、企業が求める人材を育成するためにあるわけではありません。前章で述べたように、その本質は、子どもたちが〈 自由の相互承認〉 の感度を育むことを土台に、〈自由〉になるための〈教養=力能〉を育むことにあるのであって、単に優秀な企業人を輩出するためにあるわけではありません。
つまり現代社会においては、プロフェッショナルの専門知さえも、いやむしろ専門知こそが、時々刻々と変わっていかざるを得ないものになっているのです。それはつまり、プロフェッショナルさえも、いややはりプロフェッショナルこそが、自らがそれまでに得た知識や技能を絶対視し安住することなく、絶えず学び続けなければならなくなっているということです。 ちなみに今の小学生は、社会に出る頃、その六、七割が今はまだない職業に就くだろうといわれています。その意味でも、これからの子どもたちは、もはや決められたコースをただいわれるがままに進んでいけばいいというわけではなく、まさに「自ら学び続ける」力が求められるようになっているのです。
このように、今日ではだれもが多かれ少なかれ「自ら学び続ける」ことを求められているわけですが、とすれば、今、教育にその育成が求められている「学力」も、この観点からその本質を取り出す必要があるでしょう。「目的・状況相関的方法選択」の考えにのっとって、公教育の「目的」──〈自由〉および〈自由の相互承認〉の実質化──をできるだけ達成するために、現代という時代「状況」──知識基盤社会──においては、どのような「学力」が必要か、そう考える必要があるのです。
現代の公教育がその育成を保障すべき「学力」の本質、それはとどのつまり、「 学ぶ ─ 力」のことである、と。教育は、子どもたちに「学ぶ力」を育むことで、その後の長い人生において「自ら学び続ける」ことを可能にする、その土台を築く必要があるのです。先述したように、それは必要な時に必要な知識・情報を的確に〝学び取る〟…
このような「学力」観の転換は、知識基盤社会の進展に加えて、テクノロジーの進歩を背景に、もうずいぶん前からいい尽くされてきたことです。たとえば、今やわたしたちは、細かな知識を自分の中にため込んでいなくとも、インターネットで検索すれば瞬時にその知識・情報を得ることが可能です。とすれば、わたしたちに必要なのは、繰り返しますが、信頼できる知識・情報を、必要に応じて自ら見つけ出し学び取っていく〝力〟だということができるでしょう。知識の〝…
そもそも、どれだけたくさんの知識を子どもたちに外部から──つまり必要や興味・関心とは無関係に──つめ込んだところで、子どもたちの多くは、そのかなりの部分を結局は忘れてしまう傾向があります。このことについてはさまざまな研究で明らかにされていますが、だからこそ、学校では細かな知識を覚え込ませるよりも、むしろ「学ぶ力」を核にした学びを展開するべきだという考えが強まっているのです(ただしその一方で、実生活で必要な知識の大半もまた、実はわたしたちは学校で学んでいるのだということも…
その意味で、いわゆる「ゆとり教育」は、それが知識の単なる「ため込み」だけでなく、むしろ「学ぶ力」を育むことを重視しようとした教育方針だったのだとするならば、その限りにおいて、ある程度、…
「ゆとり教育」は、広義には、「ゆとり」という文言が学習指導要領にはじめて登場した一九八〇年前後からの、またごく狭義には、二〇〇二年に完全実施された、学校週五日制や教育内容の三割削減等を 謳った教育方針を指します。
たとえば、いわゆる左派の人たちの多くは、「ゆとり」を子どもの主体性を尊重した教育として、また学校週五日制なども、労働者としての教師という観点から、当初これを歓迎しました。他方、左派とはかなり対立的な、いわゆる新自由主義の立場の人たちもまた、これを教育の民営化の契機として歓迎しました。学校の役割を縮小した分、民間の役割が大きくなり教育市場が拡大するというわけです。
そうした中、一方の左派の中から、学校の役割を縮小すれば格差が広がるという観点から「ゆとり」批判が寄せられるようになり、また立場を問わず、「学力低下」を招くとの批判も寄せられることになりました。教育内容の三割削減が、教科の系統性に配慮しない機械的な削減になってしまったために、子どもたちの学びをかえって妨げてしまっているという批判もなされました。
しかし今やわたしたちは、ゆとり是か非かといった 時代遅れ の議論を続けるのではなく、教育はどのような「学力」を責任を持って育むべきなのか、そしてそれはどうすれば可能なのかと問うべき時期にあります。そしてこれまで述べてきたように、今日求められる「学力」は、いい悪いは別として、やはり「自ら学び続ける力」にあるのです。
ところが「自ら学ぶ力」は、なかなか簡単に測定できないし、どう伸ばせばいいのかもまた難しい(もっともこの点については、後述するように、わたしは一概にそうとはいえないと考えています)。そんな現代にあっては、学校の教育力よりも、各家庭における教育力の方が、その影響力をどんどん強めているのだと苅谷氏は指摘しています。
同じく教育社会学者の 本田 由 紀 氏は、こうした現代社会を「ハイパー・メリトクラシー」の社会と呼び、その問題点を指摘しています(本田二〇〇五)。それはまさに、ハイパー(超) なメリトクラシー(能力主義) の時代。そこにおいては、従来のようにある意味〝分かりやすい〟学力等の指標は通じず、意欲、創造性、柔軟な対人関係能力など、あらゆる〝能力〟が全面的に求められることになります。こうした〝能力〟を、本田氏は「ポスト近代型能力」と呼んでいます。
それはつまり、個々人がそのあらゆる側面を丸裸にされて、全面的な評価にさらされるということです。かつてのように「とりあえず勉強はよくできる」というだけではダメで、「個々人の一挙手一投足、微細な表情や気持ちの揺らぎまでが、不断に注目の対象となる。ちょっとした気遣いや、当意即妙のアドリブ的な言動が、個々人の『ポスト近代型能力』の指標とされる。その中で生き続けるためにはきわめて大きな精神的エネルギーを必要とする。ハイパー・メリトクラシーのもとでは、個々人の全存在が洗いざらい評価の対象とされる」(前掲書、二四八頁) というわけです。
ここでいう家庭環境には、経済的な豊かさや親の社会的地位だけでなく、親がどれだけ子どもの教育を意識しているかとか、その会話内容はどうかとかいった、家族間における日々の何気ない交流の仕方も含まれています。そして実際、こうした家庭間・階層間格差は、今日はっきりと、子どもたちの学力格差として表れているのです。
これは教育学者の間では周知のことですが、「学力低下」問題が吹き荒れた中、多くの人が見落としていたのは、実をいうと、日本の子ども 全体 の学力が低下したのではなく、むしろ学力 格差 が広がったということでした。学力下位グループが増えたから、全体として(つまり平均として) 学力が下がったように見えたのが実態なのです。
これはいわれてみれば当然の、しかしこれまで十分には自覚されてこなかったかもしれない重要な指摘です。たとえば、どれだけ学ぶことが好きで、また「学力」の高い子どもがいたとしても、親が学校や勉強に全く関心がないとか、付き合う仲間が勉強させてくれないとか、そうした環境に長い間置かれたら、せっかくの学びの動機や機会を失うことになってしまうかもしれないのです。
以上のように、ただでさえ、家庭の教育力が子どもたちの「学力」にかつてよりも大きな影響を及ぼすようになっている現代にあって、その影響力がかなり強いとされる「自ら学ぶ力」を現代における学力の核とすることには、たしかに大きな危惧を抱かざるを得ません。
さらにまた、好むと好まざるとにかかわらず、だれもが一生学び続けなければならない、苅谷氏のいう「学習資本主義」もまた、大きな問題を抱えているといえるでしょう。現代社会はわたしたちに「学び続ける」ことを 強要する 社会であり、そこから「降りる」ことを許容しない、ある意味ではきわめて息苦しい社会なのです。
こうした現代社会・教育批判を、わたしたちは真剣に受け止めるべきでしょう。しかしまた同時に、だからといって、学校は「自ら学ぶ力」ではなく、かつてのような「知識つめ込み」にこそ力を注ぐべきだ、などというのもまた、非現実的な話だと思います。現代社会が、ポスト産業社会、知識基盤社会に移行しているのは事実です。そうである以上、わたしたちは、そうした社会において子どもたちが〈自由〉に生きられる、つまりできるだけ「生きたいように生きられる」力を育む必要があるはずなのです。
それは、「学び続ける」ことを自らが楽しむことのできる力、などという、かなりハイレベルなものだけでなく、その強要をうまくかわしたりちょっと休んだりすることもできるような、ある種の余裕を持てるようにすることかもしれません。そしてその余裕は、学校だけでなく、社会全体の何らかの制度によって下支えされる必要があるでしょう。ひたすら学び続けスキルアップし続けることだけを強要されるのではなく、ちょっと休憩して余暇の時間を楽しめたり、今までとは別のことに目を向けたりできる、そうした余裕を下支えできるような社会制度が求められるでしょう。
前章で明らかにしたように、公教育の本質は、すべての子どもが〈自由〉に生きられるようになるための〈教養=力能〉を育むことです。そしてその〈教養=力能〉の本質は、繰り返しますが、現代社会においては自ら「学ぶ力」にあるのです。
でもだからといって、そうした学校制度の硬直性を、批判してばかりいるのも非生産的だとわたしは思います。制度というのは多かれ少なかれそういうものだし、また先述したように、頑健な制度であるからこそ保たれている教育の質というのも、見逃してはならない重要な点であるからです。 ということは、わたしたちは教育の構想を考える時、学校制度それ自体を大きく変革することを、過度には目指しすぎない方がいいということです。大きな制度変革は、学校が「相互依存的アーキテクチャ」であるがゆえに、全体の混乱もまた招いてしまうことになるからです。そしてその混乱の割を食うのは、変革のただ中にいる子どもたちです。
だから、学校を「学ぶ力」としての学力育成の場にするために、何か制度上の大変革をやるべきだ、というわけにはいきません。むしろ、ゆるやかな継続的変革こそが求められているのです。 わたし自身は、学校を「学ぶ力」育成の場にゆるやかに変革していくことは、十分可能なことだと考えています。というのも、実は教育学や先進的な教育は、これまで一〇〇年以上もの長きにわたって、まさにそのような〈教養=力能〉を育むための方法論や学校のあり方を、熱心に研究・実践し続けてきたからです。そしてそれらは、これまで着実に成果を上げてきました。そのすぐれた成果を活用すれば、わたしたちは、「学ぶ力」としての学力を、できるだけすべての子どもたちに保障することができる。わたしはそう信じていますし、そのような教育をこそ、これからしっかりつくっていく必要があると考えています。
しかしその一方で、いつ何を学ぶかがかなり決められてしまっている学びのあり方は、考えてみればひどく非効率なことです。子どもたちの興味・関心はそれぞれ異なっているし、学ぶスピードも、また自分に合った学び方も、本当は人それぞれ違っているはずだからです。にもかかわらず、いつ何をどのように学ぶのかが一律的に決められてしまうのは、少なくとも子どもたち一人ひとりの学びの観点からすれば、やはり非効率的なことといわなければなりません。一律に〝やらされる〟勉強は、子どもたちの学習意欲を 削いでしまう大きな要因にもなっているでしょう。
心理学者ハワード・ガードナーは、人間の「知能」は単一のものではなく、大きく八つくらいに分けて考えることができるといっています。詳しい説明は割愛しますが、 ① 言語的知能、 ② 論理・数学的知能、 ③ 空間的知能、 ④ 身体運動的知能、 ⑤ 音楽的知能、 ⑥ 対人的知能、 ⑦ 内省的知能、 ⑧ 博物的知能、の八つです(ガードナー二〇〇一)。 ガードナーによれば、ほとんどの人がこれら八つの能力をすべて持っていますが、そのうち優れているのは、たいてい二つか三つだということです。そして、それぞれの能力の特性に応じて、学び方にもまた向き不向きがあるといいます。
これは常識的に考えても明らかでしょう。黙々と本に向かって学ぶことが向いている人もいれば、人とコミュニケーションしながら学ぶのが向いている人もいる。数学的な論理の世界に 惹かれる人もいれば、とにかくたくさん知識をため込むのが好きな人もいる。理詰めで知識を獲得するのが得意な人もいれば、視覚や嗅覚など、体感覚を使って物を記憶するのが得意な人もいる。 またこうした向き不向きは、個人の成長や学ぶ対象に応じても変わってくるものです。博物的知能に秀でていた人が、いつしか論理・数学的知能の方に能力を発揮し始める、ということもあるし、一人で学ぶのが好きだった人が、やがてコミュニケーションを通して学ぶこともまた得意になる、というようなこともあるのです。 要するに、効果的な学びの方法は、人によっても、またその成長段階においても…
避けられない、というのは、今や多くの人が画一的な一斉授業に疑問を抱いているから、というのに加えて、オンライン学習の衝撃が、学校現場に少しずつ影響を与え始めているからです。学校とはまた少し別のところから、いつの間にか学びのイノベーションが起こっていたのです。
質の高いオンライン学習のコンテンツは、近年爆発的に増え続けています。たとえば、「質の高い教育を、無料で、世界中のすべての人に提供する」ことをミッションとした、アメリカのNPO「カーンアカデミー」には、初等・中等・高等教育のさまざまなレッスンビデオ、それもかなり質の高いビデオ教材が、何千本も無料で公開されています。日本にも、学習指導要領に沿ったNHKのテレビ番組など、オンラインで無料視聴することのできる良質のコンテンツはたくさんあります。
また、テクノロジーによって「こんなことができる」となると、本当にそれが「よい」のかどうか十分吟味されることなく、すぐ教育に導入すべきだという意見もしばしば聞かれます。たとえば、極端な話ではありますが、もはや教育はすべてインターネット上で可能になったのだから、学校なんてなくして構わない、といった意見も時折聞かれます。 しかしこういった時こそ、わたしたちは、序章で述べた教育の「原理」を思い起こす必要があります。いかなる教育のあり方も、わたしたちは、それがすべての子どもたちの〈自由〉を実質化し、そのことで社会における〈自由の相互承認〉を実質化しうるものとなっているかという観点から吟味する必要があるのです。そして、教育のICT(Information and Communication Technology) 化にせよ何にせよ、教育政策は、それが〈一般福祉〉に適う、あるいはこれを促進するものたりうるかという観点から、吟味・実行される必要があるのです。
ともあれ、わたしたちは今、子どもたちを皆同じ場所に集め、決められた進度にしたがって一斉に授業を行うという、その動機も意義も失い始めています。一人ひとりのより質の高い学びを保障するためには、その「個別化」の道がまずは不可欠なのです。
実は、「学びの個別化」は近年になってにわかに注目を浴びるようになったものではありません。コンピュータなどなかった頃から、教育学や先進的な教育実践において、すでに一〇〇年以上の歴史と蓄積があるものなのです。 代表的なものとしては、二〇世紀アメリカを代表する教育哲学者、ジョン・デューイの影響を受けて開発された、パーカーストの「ドルトン・プラン」やウォッシュバーンの「ウィネトカ・プラン」などが挙げられます。それぞれに思想上、方法上の違いは若干ありますが、いずれも、生徒たちが教師のサポートのもとに自ら学習計画を立て、それぞれのペースで学び、教師はその支援やコーディネートをするというものです。二〇世紀における、いわゆる「新教育」と呼ばれる教育実践の数々です(ただし「新教育」は、学びの「個別化」だけでなく、むしろより重要なものとして、次章以降で述べる学びの「協同化」「プロジェクト化」をその特徴としています)。
その代表的な教育学者・実践家だった 木下 竹 次 は、奈良女子高等師範学校附属小学校において、デューイやパーカーストらと同じく、教師が「教える」ことを中心とする教育から、彼の言葉でいう「自律的学習」を中心にした教育への転換を訴え実践しました。 この実践において、木下は学び方の「自由」を奨励しました。一九二三年に刊行され、当時の「学習」ブームに火をつけたといわれる『学習原論』において、彼は次のようにいっています。
教権主義の人は外部の規範に服従させるのが目的の自由人格に到達させる唯一の方法だと考えるようだが、私どもの経験にするとそれは修学修養のいずれにおいてももっとも有効な方法だと考えることはできない。方法の自由を認める方がはるかに学習者の創作性自律性を発揮し優秀な効果を挙げることができる(木下一九七二、六四頁)。 だからといって、教師は子どもたちを放任し、何もかも好き放題にさせるわけではありません。木下はいいます。 自由に学習させるのは規範を無視することではない。学習の目的を遂げるために適切な規範を自ら発見し自ら追及し自己の規範をもって自己を規正するようにしようというのである。かくして始めて熱心に学習の目的を追求し独創的に方法を探究し実行する(前掲書、六五頁)。
子どもたちが自発的に学び、また努力それ自体に意義を見出しながら学んでいける環境をつくることができれば、子どもたちはその学びをより充実させようと、むしろ自分を律することを学んでいく。そう木下はいうのです。 先述したように、勉強を〝やらされ〟、規律規範を〝押しつけられ〟た時、子どもたちは多くの場合、何とかその強制や規範から逃れたいと思うものです。だからこそ木下は、子…
もっとも、勉強を「やらされる」ことが向いているという人もいれば、そのような〝時期〟がしばしばあることも事実です。ですから、わたしは強制的な勉強一般を否定するつもりはありません。しかし、むしろだからこそ、子どもたち一人ひとりに応じた「学びの個別化」は、やはり重要な教育のあり方だといえるのです。「やらされる」ことを求める、あるいはそれが必要と思われる生徒に対しても、…
アメリカのマサチューセッツ州にある、四歳から一九歳までの子どもたちが通う、サドベリー・バレー・スクールという学校です。すべての子どもが教員と同じ一票の権利を持ち、学校をどのように運営していくかを話し合いによって決めていくという、徹底して民主的な学校として知られています。
この学校では、決められた内容を決められた通りに教えるということを、一切しないのです。たとえば読み書きでさえ、教師の方から強制的に教えることはありません。その結果、九歳になるまで読み書きができない子どもも時にいます。しかしそれでも、この学校では強制的に勉強させることはありません。なぜならどんな子も、時が来れば必ず「読みたい」と思うようになるからです。そしてそう思いさえすれば、子どもたちは自ら学び始め、そしてあっという間にほかの子どもたちに追いつくというのです。
そのようなわけで、この学校の教師たちは、たとえば学校の敷地内にある小川で一日中釣りをしている子どもがいても、そんなことやめて勉強しなさいなどとはいいません。さすがに心配になってグリーンバーグ氏に相談してきたその子の親に、彼はいいます。「ダンはわたしの知るかぎり、ほかのだれよりも魚に詳しい。すくなくとも同年齢の子どもには絶対負けないだけの知識を持っています。それに、物事を投げ出さずに探究するにはどうすればいいかということや、その時自由に思考を働かせることを知っています」と(ちなみにこのダン、その後コンピュータに夢中になり、やがて在学中に起業したそうです)。
たとえば、「子どもたちに自分の好きな活動を自由に選ばせると、必ず一番楽な道を選びたがる」といわれます。しかしグリーンバーグ氏はいいます。子どもは、むしろ自らの探求に打ち込む時にこそ、「最も困難な道をすすんで選ぼうとする」のだと。楽をしようとするのは、実は勉強を強制されているからなのだ、と。
あるいはこんな批判もなされます。「子どもたちには、調和のとれた発達のために、興味・関心に関係なくさまざまなことをバランスよく学ばせるべきだ」と。それに対してグリーンバーグ氏はいいます。そもそも「調和のとれた発達」とは何なのか、「さまざまなこと」をまんべんなく〝知っている〟ことが、本当に「調和のとれた発達」といえるのだろうか、と。そこでいわれる程度の知識・情報なら、先述したようにインターネットですぐ手に入ります。そんな時代に、「さまざまなこと」を〝知っている〟ことにこそ価値を置くのは、はたして妥当なことといえるのだろうか、そうグリーンバーグ氏はいうのです。
こうした、どこか既存の学校を否定する響きもなくはない姿勢には、あまり好意を持たない人もいるかもしれません。しかしわたしは、サドベリー・バレーの教育はかなり 合理的 なものだと考えています。これまで述べてきたように、ポスト産業社会においては、いろいろと問題はあったとしても、「学力」の本質はやはり自ら「学ぶ力」です。そしてそれは、「やらされている」感の強い環境よりは、「やりたいからやっている」環境における方が、一般的にはより力強く育まれるものでしょう。
ちなみに、このサドベリー・バレー・スクールは、私立学校ではありますが、決して裕福な家庭の子どもたちの学校であるわけではありません。授業料は一般的な公立学校と同じかそれ以下です。ごくごく一般的な子どもたちを受け入れる学校で、公立学校から〝厄介払い〟された〝問題児〟たちさえも受け入れているとのことです。
「自ら学ぶ力」をいかに育むか、という研究と、教育が格差・不平等を再生産していることを明らかにする研究とは、ある意味において教育学研究の二大伝統です。しかし両者は、長らくあまり交流することがなく、あったとしても、どうも馬が合わなかった印象があります。そしてこの一〇年あまり、両者はますます、その対立やすれ違いを深刻化させてきたようにわたしには思われます。
「自ら学ぶ力」の育成に、今日家庭間格差が一定見られるのだとするならば、むしろだからこそ、その格差をできるだけ縮小しうるよう、学校や社会がもっとこの「自ら学ぶ力」を支えていく必要がある、わたしはそう思います。別に「自ら学ぶ力」の育成それ自体を敵視する必要はないのです。むしろ、学力を「自ら学ぶ力」ではなくいわゆる旧来型の知識ため込み力と定め続けるとすると、そちらの方が、格差の問題をより深刻化させることになるのではないかと考えています。
は、個別化と協同化をセットにすることで、より十全に達成されていくものなのです。 「学び合い」を通した学力保障
経験的には男女混合の四人を基本とするのが好ましいといわれます。男女混合だと協同の思考が活性化されやすく、三人以下だと多様な意見の交流が見られず、五人以上だとだれかが「お客さん」になりがちだからです。
そのために、『学び合い』は以下の三つの考え方を基本とし、子どもたちと共有するよう努めます。 第一は、「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」であるという学校観。第二は、「子どもたちは有能である」という子ども観。そして第三は、「教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもから見れば学習) は子どもに任せるべきだ」という授業観です(前掲書、四二頁)。
一八九六年、当時シカゴ大学の教授を務めていたデューイは、シカゴ大学附属小学校を設立しました。その後シカゴ実験(室) 学校と命名され、しばしばデューイ・スクールと呼ばれるようになったこの学校では、その名の通り、伝統的な一斉授業や教え込みのカリキュラムではない、実験的な教育実践が行われました。
『学校と社会』という本の中で、デューイはこういっています。子どもたちには、本来四つの本能的欲求のようなものがある、と。一つは、物を発見したいという欲求、二つめは物をつくりたいという欲求、三つめは自らを表現したいという欲求、最後にコミュニケーションへの欲求です(デューイ一九九八、一〇七~一一一頁)。
「先生の授業を聴く」ための机と椅子! これこそまさに、伝統的な学校教育を象徴するものだ。デューイはそういいます。 彼が求めたのは、何人もの子どもたちが一緒に木工細工をしたり料理をしたりすることのできる、作業台のような机でした。しかし当時の学校用品店には、教科書を開きペンを何本か置けるだけの机しか売られていなかったのです。 子どもたちに必要なのは、受け身で授業を聴き、与えられたドリルを坦々とこなすような、そのような学びではないはずだ。デューイはそういいます。重要なのは、子どもたちが自分たち自身で学びを進めていけるように、たくさんの本を同時に開いたり、何十本ものペン、何十枚もの画用紙を散乱させたり、仲間と議論したりテーブルを取り囲んだりすることのできる、そのような学びのあり方であり空間なのだ、と。
しかしまだまだ十分ではありません。何度も述べてきたように、現代における「学力」とは、とどのつまり「学ぶ力」です。とするならば、自ら課題を設定し挑む「プロジェクト型の学び」を、今後もっと学びの中心に置いていくべきでしょう。
キルパトリックは、「目的ある活動」こそが、学びを導く根本原理であると主張しました(キルパトリック一九六七)。教師からただいわれるがままに勉強するのではない。自らの目的を持って学びを続ける過程でこそ、子どもたちはまさに「自ら学ぶ力」を育んでいくのだと。
その一つの背景には、オランダにおけるいわゆる「落ちこぼれ」問題の深刻化がありました。そしてオランダの教育界は、その主な理由を、画一的な一斉教育にあると分析したのです。 いわゆる「落ちこぼれ」は、〝システムによってつくられている〟部分がきわめて多いのです。これまで述べてきたように、子どもたちは、一人ひとり興味・関心も違えば向いている学びのあり方も違っています。にもかかわらず、すべての子どもに同じ内容を、同じ方法、そして同じ進度で勉強させれば、その方法や進め方に向いた子どもは〝成功〟しても、そうでない子どもは〝成功〟しにくくなってしまうのは当然のことです。要するに画一的な教育システムは、システムそれ自体が、それに合う子どもと合わない子どもを自動的につくり出してしまうものなのです。
日本でいうところの総合的な学習の時間に当たりますが、学校によっては時に「おまけ」のような扱いをされることもある日本の「総合」とは違って、イエナプランでは、この「ワールドオリエンテーション」が学習活動全体の中核として位置づけられています。 リヒテルズ氏は、実際に観察した事例として、年長グループ(九歳から一二歳まで) による「北極探検」をテーマにした総合学習を紹介しています。探検に当たって、準備をどうするか、北極ではどのように過ごすか、帰ってきて何を報告するかといったテーマが、二週間ほどかけて探究されたとのことです(前掲書、一〇九~一一二頁)。
ほとんどの学校では、四~五週間に一つずつ、毎年八つくらいのこうしたテーマを、学校全体のテーマとして決めているとのことです。つまり子どもたちは、八年間の小学校生活の間に、通算六四個ほどのテーマに取り組むことになるわけです。
たとえば近年、「パフォーマンス評価」と呼ばれるものが注目されています。これは、「学力」を単純にペーパーテストの数値で評価するのではなく、子どもたちの「パフォーマンス」(ふるまい) を観察し、それをさまざまな観点(ルーブリック) を通してできるだけ総合的に解釈しながら評価していく方法です。測りにくいいわゆる「見えない学力」を、できるだけ可視化するための方法とされています(松下二〇〇七参照)。 もちろん、こうした評価方法をどれだけ駆使しても、「能力」の測定・評価からあいまいさと恣意性を完全に取り除くことはできません。しかし先述したように、「子どもたちの学びと教師の授業の改善」という目的のためであれば、その手がかりとして一定の有効性を持ったものといえるでしょうし、そのための方法は、今後もより改善・開発されていくだろうと思います。
もちろん、世界標準を求められているのはいわゆる上位大学だけです。しかしそうした大学の入試制度が変われば、大学全体の入試のあり方も、今後大きく変わっていくでしょう。これまで主流だった知識ため込みゲームが、少しずつ崩れていくだろうからです。
となると、これからますます起こると考えられるのが、大学の多様化です。戦後、大学がマス化・ユニバーサル化(大衆化) していく過程において、日本の高等教育政策は、「種別化」「個性化」「機能別分化」といったキーワードによって、その多様化を提言・実施してきました。ただしそこには、「これまで『格差』として意識されてきた多様性を、客観的・具体的な数字で表面化させることを意味して」(天野二〇一三、九二頁) いるという批判、つまり、多様化という名の序列化がもたらされてきたという批判も寄せられています。
ここでいう「質」は、「学力」と同様、何をもって「質」というかかなり難しい問題です。しかし今はその中身は問わないにしても、大学がユニバーサル化すれば、何らかの「質」の低下が起こるのは避けられないことといっていいでしょう。
いうまでもないことですが、学校は時代と共に変わっていく(べき) ものです。しかしその際つねに忘れてはならないこと、それは何度もいうように、学校は、社会における〈自由の相互承認〉の原理の土台であり、また同時に、すべての子どもの〈自由〉を実質化するための機関だということです。学びのあり方を考える時も、学校のあり方を考える時も、わたしたちはつねにここに立ち戻りながら、教育を構想していく必要があるのです。
自分を承認することができなければ、人のこともなかなか認められないものです。また、他者からの一定の承認を得られなければ、やはり自分も他者を承認しようとはなかなか思えないものです。「相互承認の感度」は、自己承認、他者承認、そして他者からの承認という、三つの条件がそろってようやく十全に育まれるものなのです。
したがって、このような「群生秩序」においては、同質性を侵すこと、ノリの秩序を侵すことが最大の「悪」なのです。 「みんなから浮いて」いる者は「悪い」。「みんな」と同じ感情連鎖にまじわって表情や身振りを生きない者は、「悪い」。「みんなから浮いて」いるにもかかわらず自信を持っている者は、とても「悪い」。弱者(身分が下の者) が身の程知らずにも人並みの自尊感情を持つのは、ものすごく「悪い」(前掲書、四〇頁)。
廊下と教室の間の壁をなくしたいわゆる「オープンスクール」は、今では日本でも珍しいものではなくなりました。それはまさに、子どもたちを教室内に〝囲い込む〟のではなく、一人で学びたい時は静かなスペースで、「協同的な学び」や何らかのプロジェクトに取り組む時は作業台のある広いスペースで、といった具合に、学びの「個別化・協同化・プロジェクト化」を、より充実したものにしていくためにつくられた学校です。
それゆえわたしたちは、すべての教師に完璧を求めるのではなく、むしろ、多様な教師が互いに足りないところを補い合い、また得意なところを活かし合える、そのような学校を目指していく必要があります。第三章でも述べたように、みんながみんな、絶大な尊敬に値する先生であったり、学び合いの天才的なファシリテーターであったりする必要はありません。重要なのは、多様な教師の力の「協同」なのです。
ではこうした「省察的実践家」であるために、教師は何を心がけておくべきでしょうか? 子どもたちの学びを支え導く教師自身が、つねに「学び続ける」こと。これが「省察的実践家」としての教師に求められていることです。担当教科についてはもとより、他の教師のすぐれた実践から、また、自身の授業を公開し同僚教師たちの評価やアドバイスなどから学ぶこと。こうした「学び続ける」姿勢こそ、「省察的実践家」としての教師に求められているものといえるでしょう。
自分を信じられない、認められない子どもは、他者を信じ認めることもまた困難になってしまいやすいものです。心理学者の 山 竹 伸 二 氏が指摘しているように、原初的な信頼や承認がきわめて不十分にしか得られていない子どもたちは、残念ながら多くの場合、「自らの存在価値に自信が持てないまま大人になり、絶えず他者の視線に怯え、他者の評価に過剰反応するようになる」(山竹二〇一一、一二〇~一二一頁) 傾向があるのです。 こうした原初的な信頼を、子どもは基本的にはまず親から与えられます。心理学者のジョン・ボウルビィが明らかにしたように、子どもには「心の安全基地」が必要です(ボウルビィ一九九三)。絶大な信頼関係・承認関係が、子どもたちの自己肯定感を支え、見知らぬ世界へ飛び出る勇気を与え、そしてまた、他者を信頼し承認する文字通りベース(基地) となるのです。
しかしその一方で、親や教師の子どもたちに対する信頼は、きわめて多くの場合、裏切られるものです。やっぱり宿題をやってこない、また噓をつく、なかなか勉強が進まない……。どれだけ信頼しても、教師は子どもたちから裏切られるものです。 しかしそれは、正確にいうと子どもたちに裏切られたわけではありません。子どもたちに対する 自分の期待 が、裏切られたにすぎないのです。それはいわば、こちらが勝手に子どもたちに押しつけた〝期待〟です。
「はじめに」でも述べたように、社会的な問題を、人はしばしば教育のせいにして語ります。そして、教育をよくすれば社会もよくなるのだと考えます。 若者のモラルが低下したのは教育のせいだ、経済の停滞は覇気のない若者を生んでいる教育のせいだ、若者の凶悪犯罪が後を絶たないのは教育のせいだ、というわけです(いずれも根拠のない印象批判にすぎませんが)。
そもそもわたしは、この世は競争社会であると、過度に一般化することはできないのではないかと考えています。もちろんそのような部分も少なからずあるでしょう。しかし、わたしたちの社会のゲームはすでに十分多様です。ある競争に敗れても、また別のゲームにチャレンジすることは可能だし、そしてそれは、必ずしも〝競争〟ゲームばかりというわけでもありません。
競争や出世にはあまり関係のない、たとえばだれかを支えたり育んだりする仕事に喜びを感じる人もいるでしょう。仕事はそこそこに、趣味に生きることを楽しむ人もいるでしょう。たとえ、受験や就職、あるいは出世などの過酷な競争ゲームのただ中にあったとしても、そしてそれにある時、敗れてしまったとしても、わたしたちの人生の選択肢はそれだけではないし、〝それで終わり〟というわけでもありません。視点を変えれば、現代社会にはさまざまな生き方の世界が広がっているのです。より正確にいえば、わたしたちはそのような社会をこそ、これからさらに構想していく必要があるのです。
まず十分理解しておくべきは、わたしたちのどのような思想・考えにも、絶対に正しいものなどはないということです。たとえば繰り返し述べてきたように、絶対に正しい教育や社会のあり方などはありません。 しかしだからといって、わたしたちは、「正しいものなんて何もない」と過度の相対主義に陥る必要もありません。「絶対に正しい考えなんてない」などというのは、きわめて簡単かつ安易なことです。そんなことは、哲学的にはいわばすでに 織り込み済み のことです。 〝絶対〟なんてないということを前提にした上で、なおいかに「共通了解」を見出し合っていけるかと考えること、これが力強い思考のあり方です。絶対に正しいことではなく、 共通了解可能性 を見出そうと考えるのです。
たとえば、「いじめをした生徒は厳罰処分にすべきだ」という考えは、いうまでもなく絶対に正しいものではありません。しかしその底には、(自覚できるかどうかは別として) たとえばかつていじめにあったことがあり、それゆえいじめをしている生徒たちに復讐したいという「欲望・関心」があるのかもしれません。この「欲望・関心」から、「いじめ厳罰処分」という考えが形成されたのかもしれません。
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学びや教育のあり方について、譲れない最上位の目的から実現に向けたところまで具体的に書かれている。ここにあげたことをそれぞれの地域の現状をもとに対話的に実現していくことが必要
一般福祉の原理に沿って自由の相互承認の感度を高めること。そのために、学びの個別化協同化プロジェクト化の推進、教師の実践と成長を支えるための教育行政による支援の充実、自己組織化する学びのネットワークの、一般福祉促進のための再ネットワーク化
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教育を受けた人なら、誰でも教育について語れる。言いたい放題、自分の趣味や信念をぶつけ合うのではなく、相対主義に陥るでもない。哲学をそえて、全員が納得できる納得解を目指す。
苫野先生が哲学を分かりやすく噛み砕いたおかげで、「良い教育」の方向性が見えると思います。
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AIとの共存がこれからの時代のテーマの一つである中、今は人間にしかできない仕事の価値がどんどん高まっている。
日本は、知識詰め込み型の教育やいかに早く正確に問題を解くかという能力を問うセンター試験のような入試対策向けの授業がこれまで一般的であり、そこでは計算力や暗記力、スピードが重視されてきた。しかし、これらの能力は全てAIが人間より優れた部分である。
よって、これからの教育はAIにはできず人間にしかできない創造力や思考力、課題解決力などの能力を育んでいく教育が行われるべきだし、まさにずっと前からそれは改革中なのだろう。筆者も言うように、学びの個別化・協同化・プロジェクト化や学校空間の再設計などによって学びの効率性や多様性を高め、それにより学力格差を小さくすること、
生徒が「やらされている」のではなく「自らやっている」という意識を持って伸び伸びとやりたい勉強をやりたいときにやることができる環境作りを大人が作っていくことが大切だと思った。
また、オランダや北欧の教育先進国や日本でも先進的な取り組みをしているところの成功事例からノウハウを学ぶことができるのは幸いなことだと思う。
僕は学生時代、地理が好きだった。地理の授業中はワクワクが止まらないのだがチャイムが鳴ると教科書を机にしまい、次の授業である苦手な数学の教科書を準備しなければならない時は「え〜、もう50分経ったの〜」「まじか、これから数学かぁ、、」という物足りなさや悲しさなどの複雑な感情が溢れてきて、地理によって極限まで高まっていた集中力とモチベーションが一気に終了のチャイムによって崩れていくのだった。
しかも数学は主要3科目だから地理よりも1週間の時間数が多い。
たしかに苦手に向き合い、克服するプロセスも大事だし数学的思考を身につけることも大事だとは思う。
だけど好きな勉強よりも嫌いな勉強を多くやらなければならない制度というのは少し子どもたちにとってはかわいそうだと大人になってみて思った。
もし、1週間のうち地理が毎日それも2時間くらいあったらなぁと思うことはよくあったし、それだけやってたらもっと深みを味わうことができただろうし、もしかして全然違う道に進んでいたかもと思う。
少しでも好きなことや興味のあることがあったらその気持ちは大切にしていきたいし、そういう子どもたちの好きを思う存分突き詰められる教育や環境が増えればなぁと思った。
「なんか楽しい」「なんか面白い」といった気持ち。それは大きな花を咲かせる前の小さな小さな芽なのかもしれない。
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自分の思う教育観とかなり似ていたので読みやすかった。学習の個別化、共同化、プロジェクト化が今一番求められているのだろうと思う。
しかし、自分とは別の視点の本も読んでみたい。
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詳しくないが、外から見てずっと学校教育これでいいのかな?と思っていた。
この本を読んで、これからの学校教育が変わっていくのではないかと期待できた。
また、自分がそこに関われるという幸運もおまけでついてきた、人生が変わった1冊。
この本も、何度も読み返す本になりそう。
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教育の力、一体これが何を指すのか。
「学び続ける力」
これを全ての子どもにつけることができるかもしれないという場としての学校の在り方。
そのように解釈した。
教育について、学力について、授業について、そして未来について丁寧に書かれている。
おそらく、5年前の自分なら、「こんなの理想論すぎて、実際の学校ではできるわけない」と思っていただろう。
でも、今は違う。
というか、実現したいと思っている。
具体的なレベルまで掘り下げて行くのは、現場の人間だと思う。しかし、この本はとても心強い。視野を明るく照らすものになっていると感じた。
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「公教育をあきらめてしまってませんか?」
実際私もそうでした。
苫野一徳さんは、そんな私たちに強烈な投げかけをしてくれています。
いまわたしたちが目指すべき教育とは何か。
いまその答えに一番接近しているのが、苫野一徳さんではないかと思います。
『「学校」をつくり直す』でその考え方に衝撃を受け、苫野さんの著書を遡るかたちで手に取ったのがこちらの本です。
タイトルに込められているように、教育にはとても大きな力があると苫野さんは訴えます。
その主張はとても筋の通ったものだと感じますし、苫野さんのすごいところはその考え方が、ヘーゲルなど近代哲学に立脚しているということです。
哲学だけを語るのも野暮ですが、哲学を現場に実装しようとする姿勢からは、他分野でも学ぶことがあるはずです。
苫野さんの著作探訪はまだまだ続きます
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苫野先生のVoicyを聴いて、興味が湧き読破。
この本を買ったのは、何年か前。
その時は、パラパラと中身を見て「なんか小難しそうだな…」と思い、読んでいなかった。
読んでみると思ったよりも読みやすく、最後まで興味を持って読むことができた。
哲学的な難しい話も少し出てくるので、その部分は軽く読み流すところもあった。
子どもに学び続ける力(学力)をつけるという点は大賛成で、私が目指している教育の姿でもある。
絶えず自己更新をしていく必要があるのは、子どもだけでなく教師も同じであり、省察的実践家として在るべきというのも納得。
自由になるために学び、教育の土台には「自由の相互承認」があるという点も確かにそうだと思う。知り合いの先生は、学級開きをする際に「自由」と「勝手」の違いについて話をするとお聞きしたことがある。これにも通ずる気がする。
問い方のマジック、絶対的に正しいものはないという話題も出てきており、絶対解はないからその場に応じた適切解を創り出す、見出す力が教師には不可欠だと感じた。
10年前の本ではあるが、教育の不易の部分について論じられており、多くの学びがあった。
どう在るかというマインドの部分を、今後も大切にしていきたい。
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この本は、では今、教育をどうするかを考えるのにとても良い。誰でも語れる教育論に疑問を抱いたことのある人や、教育に絶望した人、諦めてしまった人には一度読んでいただきたい。
苫野先生の声や言葉の選び方が本当に好きで、もはやファン。
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とかく頭の良い人は白か黒かの0ー100思考で、一気呵成に仕組みを変えたがる傾向があるが、この著者はそういった極端な考え方を戒め、ゆるやかな変革を是としている点で好感が持てる。教育の目的が自由の相互承認という主張は「本当にそれだけか?」という疑問が最後まで残ったが、主張が最初から最後まで首尾一貫しており理解はしやすい。
ただやはり著者が期待するような時間軸で、著者が期待する方向に教育が変わっていくとは思えなかった。つまるところ資本家や支配層がどういう人材を必要とするかで教育の方向性が決まるのであって、一概に「よい」方向に改革が進むとは限らない。むしろ支配層のお仲間だけが競争せずして支配権力を継承する仕組みの方が好ましいと考えているはずで、今後も被支配階層(国民の99%)に対する愚民化政策が推進される可能性が高い。著者が主張する新教育で育った自己主張の強い人間が受容されるようになるのは社会全体の価値観がすっかり変わらない限り難しいと思う。
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人間がもとめる「自由」というものをぐっと深く考えた末に得られる社会の根本原理から立ちあげた教育論でした。そもそも教育はどうして必要なのか。それは各人の自由を担保するためなのだと著者は論じます。
古代、農業の勃興によって蓄財が生まれたのち、人々はそれを奪い合うようになります。そのような争い、戦争は、「生きたいように生きたい」という種類の「自由」によって起きている、と二百数十年前の哲学者たちは見抜きました。つまり「自由」への欲望が、争いを生んでいるのだ、と。そこで考えられたのが公教育でした。ヘーゲルのよると、「自由」でありたければ、お互いの「自由」を認めあわなければならない。これを「自由の相互承認」といいますが、公教育によって「自由の相互承認」をできる人々を育て上げようとしたのが、公教育のもともとのはじめなのだというところに、その目的は行き着くのでした。要するに、現代の「自由」というものは、やりたい放題わがまま放題することではなく、自分の「自由」のためには他者の「自由」を認める必要があるという自覚のはっきりある「自由」なのだと定義されていました。そういった現代的な自由、そして争いを回避する自由のために教育があるのだというのが教育の根本原理なのでした。
しかしながら、日本では明治期に公教育がスタートするなかでこの根本原理の上から「自由の相互承認」がきちんと目指されたことはありませんでした。富国強兵、つまり国家のための教育からはじまり、戦後になっても労働にかなう人物を作り上げるための教育という面が強かった。ただ、労働のための教育という考え方は、子どもが大人になって自由を得るためにはまず労働できることだとなります。社会のための教育か、子どものための教育か、という論争は尽きないそうですが、こうして考えていくと、そのどちらにも当てはまることであることがわかっていきます。教育は、個人の「自由」のためそして「自由の相互承認」の感度をあげるためであり、他方、「自由の相互承認」によって、社会を豊かかつ平和にしていくためである、と。
これらは序論のところで述べられているものです。まだ一般福祉についてや、平等と競争についての考察があるのですが、こうして序論のところだけでもしっかり押さえておくだけで教育に対する視点がかなりクリアになるのです。そのクリアになった視点のまま読み続けることで、この先展開され積み上がっていく著者の教育論の妥当性がよりわかるようになります。
現代は知識基盤社会と呼ばれ、生涯ずっと学び続けなければいけないような社会になりました。ここを踏まえて、著者は、これからの教育を「学びの個別化」「学びの協同化」「学びのプロジェクト化」の三つに分けて解説し、その融合による教育を説いていきます。「学びの個別化」は、それぞれの性格や性質にあわせて学習を進めていこう、というもの。「学びの協同化」は、わからないところを教え合うなど、学び合える学習の有り方。「学びのプロジェクト化」は、洋服を作るだとか宇宙の成り立ちを知るだとか、ひとつの目標のためにみんなで力を合わせながら、いわば学び方を学ぶような体裁で自主的かつ自律的に行う学習の有り方。このなかでは、100年以上前にアメリカでデューイが提唱した「新教育」の見直しがありました。幾度と批判を受けながら、それでもなお良いところの多い「新教育」を、ICT技術のある現代でこそ考え直す。そういった考え方で、さまざまな「新教育」由来の教育方法を紹介していました。
また、人間関係の流動化をはかるために校舎の建築様式・デザインを考える必要性も述べられています。ここのところで、短いながらも解説されていた「群生秩序」というものが、子どもの頃から嫌悪していたマインドでした。「この、くそったれ!」と言いたくなるくらいに、です。
「群生秩序」は、狭く閉じた世界での窮屈な人間関係のなかで生まれる秩序だと言えると思います。善悪の判断が恣意的で、その場のノリや空気で決まるものです。「弱いくせに賢いからあんたは悪だ」というように。ここでは「同質性」が深くかかわっている。「同質性」を予定調和できないものは悪、というようなマインドは、残念ながらどこにでもあるし、それこそ蔓延しているでしょう。現代においてミルフィーユ状に何層もの階層があって棲み分けがなされていて、そのひとつひとつの層に「同質性」が求められる。「同質性」を作り上げている基盤には、「不安」や不安を元とした「強迫観念」があると思います。「不安」を抱えるなんてことはしょうがないことなのですけれども、その不安の解消の仕方をどうするかなんです。「同質性」で「不安」解消するのは不健全。でもどうしたらいいかわからない、モデルがない、というマインドがそこにはあります。
この「同質性」をうまく回避するやり方をも、これからの教育では子どもたち自らが考えていけるようになればいいです。そして、そのあたりも視野に入れた教育の改革を、著者たち教育学者の理論をもとにしたりなどして、この先30年くらいのスパンで、少しずつじっくりと進められていくのでしょう。よりよく学べて、心の安定のケアもなされる教育が少しずつ実現の方向へと歩んでいっています。未来を生きる人たちがより豊かな生を生きられるようになるためには、現代にある障壁や苦悩というネガティブなものが問題提起となって役立つのです。そう考えていくと、社会や人生にいろいろなことが起こっても、ちょっとポジティブにいられると思いませんか。
本書は2014年発行のもので、さらに著者は僕よりも年下でしたが、ものごとを人の欲望や関心にまで遡って考えるところなど、今の僕の考え方に近いところがあり、びっくりしました。なんだか、いきなり言い当てられたみたいに。
丁寧な言葉で論理を解きほぐしながら進んでいく内容ですし、読み易いタイプの論説本でした。おもしろかったです。
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著者は自分と同世代の教育哲学者。
就学時の子供を持つ親にとって考えさせられる内容。
自分たちが当たり前のように受けてきた、画一的・一斉型の学びから、「個別化」「協同化」「プロジェクト化」を基軸とした学びへの転換を提唱する。
ドイツの哲学者ヘーゲルが考えた〈自由の相互承認〉の原理が根底にある。これは自分が〈自由〉になるためには、他者の〈自由〉も承認し合う必要があるというもの。自分の〈自由〉ばかりを主張し続けても終わりのない闘争が続くだけで。
この〈自由の相互承認〉を教育を通して子どもたちに育ませることが著者の教育の理想である。
教育現場の慣習や様々なコストをあり実現するには容易ではないのは見てとれるが、もし実現したならばどんな子供たちの未来が待ち受けているのか興味深い。小規模特認校などでテストモデルとして実行してみたら色々な発見がでてきそうな気がする。
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■ひとことで言うと?
自由に生きられる力=「学ぶ力」を養う学校教育を
■キーポイント
・教育の目的
→1.自由に生きるための力を育む
→2.自由の相互承認の土台をつくる
・これからの時代の「よい」教育
→学力=「学ぶ力」を育む教育
→自分に必要な知識・情報を自ら学ぶ能力
→「よい」教育は時代によって変わる
・「よい」教育の実践
→1.学びの個別化:各人の興味に沿った内容・スケジュールで学ぶ
→2.学びの協同化:生徒どうしが互いに教え合う
→3.学びのプロジェクト化:プロジェクト遂行の過程で学び方を学ぶ
→3つの学びを融合させ、生徒の「学ぶ力」を伸ばす
・「よい」学校
→「よい」教育を実践するための場
→開かれた学級:異学年・保護者・地域住民と交流できる学級
→相互承認の感度を醸成する
→オープンスクール:さまざまな使い方ができるスペースのある学校
→学習内容に合った学びの場を提供する
→省察的実践家としての教師:自ら学び成長できる教師
→子どもたちを継続的にサポートしガイドする
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教育哲学者である筆者が、拡散しがちな教育議論に対して、原理的な部分から掘り返し、どのような教育が良いのかという点について論じた本。序章において、教育における「自由、自由の相互承認、一般福祉」という納得のいく基盤を据え、それをもとに学びや学校、社会の望ましい姿について論じているので、話が拡散せず、多くの事象について適応可能である。このような教育、社会を望むことが実現への第一歩だと思うので、協力していきたい。
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なぜ教育は必要なのかという問いに対する筆者なりの答えに共感した。
自由に生きられるようになるためには教育が必要。誰しも自由に生きたいと思うが、みんながみんなやりたい放題してしまったら、争いが起こる。この争いを無くす、もしくは少なくするために秩序を設ける。学校内で決まりやルールを守るのはそのため。また、学校で様々な人と接する中で、他者の自由も尊重することを学ぶことで、自分の自由と他者の自由を上手に調整する術を体得していく。そうすれば、社会には、自分と他者の自由双方を大切にできる人が増えていく。
自分も大切に、他者も大切にすることは必要だし、それは家庭で学ぶことも出来るが、学校という環境の方が効率良いと思う。数学の授業では、教師が一方的に講義をしただけでは、子供たちのそういう能力は育たない。やはり、子供たち同士の対話による学びの必要性を再確認した。
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2014.07.25 胸につかえていた教育(制度)に対するもやもや、不満がかなりすっきりした感じ。著者のような若い研究者がもっともっと活躍してくれたらよいと思う、特に教育の分野は。ぜひ応援したい。
Posted by ブクログ
・教育は「自由の相互承認」のため。公教育はすべての子供が自由な存在たりうるよう、そのために必要な力(教養)をはぐくむことで、各人の自由を実質的に保障すること。相互承認の実質化。
・社会のためか、子供のためかの二元論では前に進めない。
・一般福祉の原理。平等と競争のバランス。義務教育段階の過度な競争は意味がない(と断じている)
・現代は、生涯を通じて学び続けることを余儀なくされている。学び続けなければ、市場において低い価値しか与えられない。そして、その学び続ける力は家庭の経済力や家庭環境に大きく依存している。過去のような知識詰め込み型ではない。
・学ぶ力をどうやって伸ばすか。
①学びの個別化
②学びの協同化
③学びのプロジェクト化
・イジメ対策としての教師の流動化。グループの流動化(毎日異なるメンバーとグループになる)は非常にいいアイデア。
閉じられた空間からオープンな学校にすることで、何か解決できるかもしれない。
Posted by ブクログ
≪目次≫
序章 そもそも教育は何のため?
第1部 「よい」学びをつくる
第1章 「学力」とは何か
第2章 学びの個別化
第3章 学びの協同化(協同的な学び)
第4章 学びのプロジェクト化(プロジェクト型の学
び)
第5章 学力評価と入学試験
第2部 「よい」学校をつくる
第6章 学校空間の再構築
第7章 教師の資質
第3部 「よい」社会をつくる
第8章 教育からつくる社会
終章 具体的なヴィジョンとプラン
≪内容≫
星の数を少し悩んだ。理想に過ぎるのではないか、現場を知らない声だ、と。しかし、根本的な部分では著者の声に賛成したい。しかし、大学入試や就活の改善、政治家の教育の不介入、などを条件としての賛成だ。
殊に教育の方法はイメージできたので賛成なのだ。しかし、上記の部分が解消されないと、こうした教育は実現しないか、骨抜きにされる恐れが多分にある。その結果、再び以下のような教育統制がかかり、暗黒の時代になるだろう。
Posted by ブクログ
教育方法学のテキストとしても使えるくらい論旨明確であり,必要な情報が収められている。多様さに応じた「よい教育」とは何かを考える機会を提供するだろう。
ゼミのテキストにするかなぁ。単純化した議論に陥らないようにする姿勢も学生は学べるか。
Posted by ブクログ
よい教育とは「自由の相互承認」
なるほどと思った。
そして二項対立にしがちな話し合いにはならないように気をつけなければならないと思った。
どちらかが正しいと思ってしまうような声かけや話し合いは違う。
AでもBでもないCを生み出す過程を子どもたちに考えさせたいと思う。