あらすじ
ニュートンもケプラーも錬金術師だった。客観性を謳う科学の登場は、たかだか数百年前のことである。近代産業社会が、オカルト理論に公共性を要請した時、秘術は「近代科学」として生まれ変わった。「万能の学=科学」と現代オカルトは、原理への欲望とコントロール願望に取り憑かれ、どこまで行くのだろうか。社会と科学とオカルトの三者の関係を探究し、科学の本質と限界に迫る。(講談社学術文庫)
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Posted by ブクログ
高校生のとき、現代文の参考書で読んだことをなぜかずっと覚えていた本。会社の研修で、これからは量子(目に見えないものの時代)という話をきいて思い出して読んでみた〜
身分制が崩壊することで技術についてマニュアルが求められるようになり、客観性を謳う科学が登場したこと。科学は再現性のある事物しか扱えず、繰り返さないこと(例えば『私』についてなど)は説明できないこと。そこに物足りなさや不安を覚えた人が、ニーズを満たすためにオカルトやカルト宗教を使うようになった〜みたいなストーリーはとても分かりやすかった。
第4章の前半で、科学は繰り返ししか扱えない、という記述を読みながら、そうか私の人生なんて全くもって再現性のないことだよな〜と思っていたら、まさしくそのような議論に進んで嬉しかった。たとえば、花を育てるとして「この花は無事に育つだろうか、花びらは何枚ついてるだろうか...」なんて考えないけど、私が自分の人生について思い悩むのはこれと大して変わらないことなのかもな〜なんて。
自分を自分たらしめているのは、数々の幸福な、愛しい、悲しい、悔しい、辛いなどの個人的な経験たちだけれども、それらは本文に書かれていた「きわめて特別な体験」ということなのかもなあなんて思った
第6章以降の議論は(いい意味で)発散しているように感じたというか、こんな方向にもってくのか!と驚いた。養老さんの解説もおもしろい。お二人の著書をもっと読んでみたくなった。
Posted by ブクログ
科学について公共性という観点から、科学とオカルトの関係性を述べた本。錬金術の時代は科学とは師匠から弟子へと秘密に伝えられるものだったのが、客観性と再現性を重要視する科学になり、それが高度に発展しすぎてもはや普通の人にはオカルトのように見える。
最後のオカルトについての話も面白かった。
Posted by ブクログ
『構造主義科学論の冒険』(講談社学術文庫)や『科学はどこまでいくのか』(ちくま文庫)につづく、著者の科学論が開陳されている本です。
本書では、著者の「構造主義科学論」にもとづいて、同一性を記述することが科学という営みの本質であるという考えが語られるとともに、そうした科学という営みを歴史的ないし社会的な観点から考察して、オカルトとの関係についての議論が展開されています。
科学はオカルトを起源としながらも、オカルトとは異なり客観性を担保しうることで正統な知として社会に承認されるようになったことや、そうした正統な知としての科学によってすくいとることのできない領域に心霊主義などのオカルトが流行する理由が求められること、さらに現代のカルト宗教が、科学によってあつかうことのできない「かけがえのない私」についての問いかけにこたえを求める人びとを引き寄せているけれども、その教義が正統な知である科学のグロテスクな反復になっていることなどが、比較的自由なスタイルで論じられています。
現代社会における科学のありかたについてわかりやすく解説している本ですが、ややテーマが拡散している印象もあります。
Posted by ブクログ
科学はオカルトから始まった。ニュートンもケプラーも錬金術師。
オカルトは個人主義、秘密主義で他のだれにもマネができないのが特徴、一方、科学は客観性という公共性をもつことで誰でも再現できるものとして発達していった。
ただし、科学も万能ではない。一回限りに出来事は再現性が得られないので科学にはなりえない。震災などの自然災害は科学になりえない。