あらすじ
不可能性の超出に挑んだ世界文学。深更、濃霧の中を彷徨って帰宅した三輪与志に、瀕死の兄高志が語り始める。自ら唱える《窮極の革命》理論に端を発した、密告者のリンチ事件と恋人の心中、さらに《窮極の秘密を打ち明ける夢魔》との対決。弟の与志はじっと聴きいる。外は深い、怖ろしいほどの濃闇と静寂。兄の告白は、弟の渇し求める〈虚体〉とどう関わるのか。『死霊』第一の山場5章を中心に4章6章を収録。
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第4~6章。以前読んだのは’76年刊の「定本 死霊 全五章」と云う版で、真っ黒けな装丁の本だった。従って第6章以降は今回が初読。霧の中の茫洋とした会話に終止する第4章、作者自身の共産党体験が色濃く反映される第5章、「愁いの王」のエピソードと転覆したまま川上に流されるボートに掴まりながら語られる妙な明るさのある第6章。形而上エンターテインメントは佳境に入る。 402頁
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とりあえずⅡまでの感想
登場人物たちが語る思想の内容が抽象的で高度すぎて、ほとんど理解できなかった
これは評者が異端系の宗教思想に疎いからかも
「非在の王」とかいうフレーズがかっこいい(中二)
「よくわからないけどなんかすごい」というおもしろさはあった
Ⅲまで読むかは微妙
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埴谷雄高 「 死霊 II 」形而上学的な思想小説。4章〜6章。特に 5章「夢魔の世界」が凄い。
静寂、霧、影、闇の演出、ランプシェードの明かりの対比が 幽霊世界を演出〜怨念や感情としての幽霊でなく、ただ存在を感じさせる幽霊を演出している。
神など人間を超克する概念を用いずに、生者と死者との通信、死者から分解へ(魂の存在?)など 生と存在の関係を論述している。著者の思想を もう少し知ってから 5章を再読したい
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文庫版。読破。
一か月かけて読んでも小説内では一日も経過しておらず、
著者が24歳から87歳までかけて書き上げた全九章の全文で
三日しか経過していないのだっけと思いながら本を閉じた。
(誤っていたらすみません)
愁いの王のエピソードは好きですが、
同じ落ちがついに書き上げられなかったマハーヴィーラでも起こるはずだったので延々と同じ事柄を繰り返し語っているようにも思える。
情景描写は無駄に長く感じた。
Posted by ブクログ
一巻と違って、読みにくいとか読みやすいとか、そういったものが全く気にならない(読みにくいけど)。ページをめくるのを忘れて考え込んでしまう。以下メモ。
三輪高志と夢魔との「虚体――かつて無かったもの、決してあり得ぬもの」をめぐる激論。「無」をつくるということの不可能性とそれを可能にする「存在の革命」について…とかいろいろ。「意識=存在」「俺は俺だ、と言うことの不快」「俺は俺ではない」
『あるはない、ないはある、
けれども、ないともいえず
ないともいえぬ
ほかのまったくちがった何らかの何かもさらにまた
まだまだほかならぬそこのそこに誰にも知られぬ面を伏せて隠れている。』
wikipedia面白。「ぷふい」ってそういう意味だったのかあ。
Posted by ブクログ
1巻を読んでたときは「ちょっと青いんじゃないの?」と感じていたが、埴谷雄高のスタイルに慣れてきたのか、優れた部分も見えてきた。
埴谷雄高はドストエフスキーを「思想の書」として読解しており、私はバフチン的な読み方に賛同するので、彼の理解には同意できないけれども、それでもドストエフスキー流の「ポリフォニー」構造は、『死霊』の中に生かされているように思う。
作中の個人個人がもつ抽象的な思考が、会話の中であまりにも簡単に理解し合えすぎているのでリアリティはないものの、ポリフォニー的重層性によって、それなりに奥行きができている。
この小説は難解に見えるかもしれないが、表出されている思想自体は、実はそんなに難しいものではないと思う。理路整然とした、哲学書のような書き方をしないから明快さがないだけだ。
「存在=意識」という見方は、しょせんサルトル的だなあと思うけれども、その辺は最後の3巻を読んでからもう一度考えてみよう。