あらすじ
一瞬の閃光に街は焼けくずれ、放射能の雨のなかを人々はさまよい歩く。原爆の広島――罪なき市民が負わねばならなかった未曾有の惨事を直視し、“黒い雨”にうたれただけで原爆病に蝕まれてゆく姪との忍苦と不安の日常を、無言のいたわりで包みながら、悲劇の実相を人間性の問題として鮮やかに描く。被爆という世紀の体験を、日常の暮らしの中に文学として定着させた記念碑的名作。野間文芸賞受賞。
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Posted by ブクログ
戦時中であれ存在していた「日常」を原爆は無残にも奪い去った。日記形式で語られる被爆後の広島の様子はとても惨い。
閃光は一瞬だが、戦後数年経っても日常を侵し続け、黒い雨を浴びていた主人公の姪はついに原爆症を発病してしまう。
主人公が虹に祈りを託す場面で物語は幕を閉じる。姪はその後どうなったのだろう。悲しい運命の想像ばかりが頭を過る。
市井の人の視点且つ、抑えた筆致だからこそ余計に悲惨さが伝わるし、反戦の直接的な表現が無いにも関わらず、作者の抱く怒りや悲しみが全体から浮かび上がる。原爆の恐ろしさを今に訴える不朽の戦争文学だと思う。
Posted by ブクログ
8月に入り、通勤の主に帰宅途上の車中でオーディブルで聴きました。毎日少しずつ聞いたのですが、ほぼ1か月ほど聴いていたので、紙の小説でも一定のボリュームがあるのでしょう。
主人公のシゲマツ(閑間重松)は、自らも被爆していたが、そのような自分よりも、自分たち夫婦を慕う姪であるヤスコ(矢須子)の縁談のことが最も心配ごとである。
直接の被爆は免れたものの、原爆雲(黒い雲)から降り注ぐ黒い雨を浴びたということから、原爆病に侵されているのだというウワサで、次々と縁談が破談となり、なんとか縁談を成立させたいシゲマツは、原爆日記を記して、ヤスコの身の潔白を証明しようとする。
小説は、広島原爆投下から玉音放送の日(終戦の日)までの重松夫妻の日常を中心に、その日記への記述を通しながらその凄惨さをリアルに描写していた。
この小説のすべてが、戦争、とりわけ得体のしれない新型爆弾の投下後の凄惨極まりない情景の描写で貫かれていた。一瞬の閃光で、訳が分からないまま、目の前のすべての光景が地獄図と化し、すべての建物が崩壊し、至る所に死人が転がっており、全身ケガや焼けどの人たちがうごめいており、助けを求めている。家族の行方が知れず、また家族や知人を失って泣き崩れている。筆舌に尽くしがたい光景とはこのことだろうと思える。
このリアルを伝え残しているだけでもこの小説の価値は大きいが、おそらく現実の何万分の一も伝えきれていないだろうと思う。しかし、読んで(聴いて)、その凄惨さを少しでも知ることに価値があり、意味があると感じる。
1945年の広島、長崎の原爆投下で、その年末の死者数14万人+7.4万人=21.4万人と推計されており、2024年3月末時点での被爆者手帳の保有者数が10万6千人だそうである。
すなわち、何十万人の人を人と思わず、一瞬で葬り去ってしまうような人の魔性とは対象的に、すべてが地獄のど真ん中に引き落とされても、可愛い姪っ子の幸福を願う気持ちはなくなることはないのだという人の善性というものが、強く感じ取れた。
結局、矢須子は黒い雨の影響で、原爆症を発症し、原爆症に侵されているいることがわかる。
それでも重松は、「今、もし、向うの山に虹が出たら奇蹟が起きる。白い虹でなくて、五彩の虹が出たら矢須子の病気が治るんだ」と姪っ子の治癒、幸福への望みを捨てない。
小説でのこの虹の表現が印象的だった。史記に記された不吉の兆候である「白い虹が太陽にかかる」現象が、この原爆投下の前夜に見えたという。
そういう悲惨の前兆である「白い虹」ではなくして、希望を表す「五色の虹」を願う重松の心が、この小説での著者の結論ではないだろうか。