あらすじ
文明の発達と医学の進歩がもたらした人口の高齢化は、やがて恐るべき老人国が出現することを予告している。老いて永生きすることは果して幸福か? 日本の老人福祉政策はこれでよいのか? 老齢化するにつれて幼児退行現象をおこす人間の生命の不可思議を凝視し、誰もがいずれは直面しなければならない《老い》の問題に光を投げかける。空前の大ベストセラーとなった書下ろし長編。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
昭和47年に刊行され、昭和57年に文庫化されたこの本だが、古いと感じることなく響いてくるのは、誰もが老いに直面するからだろう。
仕事帰りに買物をして帰る途中に義父を見かける昭子。
何処へ行くのか呼び止めて一緒に帰宅するのだが、離れに住んでいる義父は家が見えてくるなり一足先に中に入る。
そのあと再び、台所の硝子窓を叩き、婆さんが起きてくれずお腹が空いたと言う。
離れを見に行くと義母はすでに亡くなっていた。
それ以降、義父は痴呆が進み昭子が仕事をしながら介護していくことになる。
息子である信利は、自分もこの先こうなるのか…と思うと直視できずにいた。
ひとり息子も受験生ながら敬老会館の迎えなどを手伝っていた。
家庭崩壊にならなかったのは、昭子の強さと頑張りだろうか。
始めての介護とは思えないほど茂造老人に寄り添い
献身的に尽くす姿に感嘆する。
認知症であっても家で居られるのは幸せなのかもしれない、本人はわかっていないのかもしれないし、何度も何処かへ出て行くとしても戻ってくる家があって、家族がそばにいればいいのかもしれない。
Posted by ブクログ
認知症になってしまった義父の介護や避けては通れない身内の葬式などを描いた小説。
何もしない夫への不満とか、義父から虐められた過去の思い出とか一筋縄ではいかない感情が描かれていて良かったです。
高校生の息子がすごくよかったです。斜に構えた若者なのですが、不器用ながらに母へも祖父へも愛情のある態度がよかったです。
50年以上も前に書かれている作品らしいですが、文章も読みやすいし高齢化が進んでいる現代に読まれるべき名作だと思います。
Posted by ブクログ
この本『恍惚の人』は、1972年に刊行された作品である。実に50年余前の作品。発表当時、「恍惚」という言葉が流行し、この時代はまだ認知症という言葉が広く普及していなかった。日本では、「痴呆」と呼ばれており、2004年に厚生労働省の用語検討会により、「認知症」への言い換えが求められる報告がまとめられた。本書は、有吉佐和子が社会問題に鋭く警鐘を鳴らすために書き、多くの人々の注目を集めた作品である。彼女は、社会に影響を与える書籍の力を示した。『複合汚染』を生み出し、そして続いて本書を生み出した。実に巧みでセンセーショナルな編集能力を持っている。
本書の時代背景において、平均寿命は男性69歳、女性74歳とされていたが、現在では2025年では、男性83歳、女性89歳と大きく伸びている。老人の元気さも著しいものがあり、本書の登場人物である茂造は84歳であり、当時の感覚では死んでもおかしくない年齢であった。
物語は2世帯の暮らしを中心に描かれる。昭子は弁護士事務所に勤め、夫の信利は商社に勤務、大学受験を控えた息子の敏とともに暮らしている。一方、自宅の離れには信利の両親である茂造と妻の多恵が暮らしていた。茂造は昭子に対して口やかましく接することがあったので、彼女はあまり関わろうとしなかった。だが、茂造の妻は美容院から帰った離れで、倒れて死んでいた。やがて、茂造の認知症の症状が家族に明らかとなる。茂造は自分の息子信利や娘さえも記憶できず、昭子と敏だけは認識していた。
通夜や葬儀は昭子にとって初めての経験であったが、近所の人々の助けにより、なんとか滞りなく執り行われた。近隣の人々との密接な人間関係が作品の背景に描かれている。まだまだ昭和の東京の下町風情が色濃く出ている。
茂造はとにかく空腹になり食欲が旺盛であった。信利は呆れるとともに、自身も将来同じ状況になることを心配し、ただ見守るだけであった。家族の住んでいるのトイレになかなか慣れず、庭に夜尿をさせることもあった。これは昭子にとっても心配の種であった。茂造が夜中に起きて夜尿する姿に、昭子は、息子や夫に知らせるをためらった。2階に昭子は寝ていたが、1階の茂造の寝ている横に布団をひいて寝るようになった。
茂造は次第に記憶を失い、早い歩行で徘徊をする。理由は本人にもわからず、追いかける家族も苦労した。夜間、排尿のために起きることが増え、睡眠薬を処方する。よく眠れるようになったが、おむつの使用も必要となった。医療用として老人用の紙おむつが販売され始めたのはこの頃であるが、国内での本格的販売は1980年代とみられる。また、信利のことを暴漢だと思い込むようになり、暴漢が来た警察に知らせろという始末。信利が暴漢でないと茂造に納得させる努力をやめている。
昭子は茂造のために老人クラブを探し、利用させようとする。老人クラブに参加することで、茂造は色っぽいおばあさん(90歳超え)に世話をされるようになる。茂造はガタイが大きく格好良さもあった。しかし本人はぼんやりとした状態であり、最後にはその色っぽいおばあさんに振られてしまう。哀れさとともに、身につまされる思いを抱いた。
茂造は昭子に対して「昭子さん」と呼んでいたが、次第に「モシモシ」と呼ぶようになる。昭子さんという言葉も忘れてしまうのだった。また、離れに若い学生結婚した大学院生の女性エミさんが面倒を見るようになり、エミさんには特に懐く。顔立ちはやわらかく笑顔を見せるようになった。昭子は驚きとともに、その変化に心動かされた。以前は厳しく怒る茂造しか見ていなかった。家事をこなしつつ茂造の介護に当たる昭子の姿は、まさに神がかり的であり、老人介護の過酷さを痛感させられる。
老人介護について、さまざまな検討を重ねるうちに、適切な老人ホームや福祉制度の不足を痛感し、結局は自宅での介護を続ける決断をする。だが、茂造は目を離したすきに風呂場で溺れかける等、生命の危機に瀕する出来事もあった。この経験を通じて、昭子は自らの未来の老後や家族の在り方を見つめなおす。
人が死ぬことは避けられないものであるが、認知症という精神的疾患の怖さを強く考えさせられる。2022年の統計によると、日本の認知症患者数は約443万人、患者の割合は約12.3%、高齢者の8人に1人である。軽度認知障害も含めると、その合計は1000万人を超え、高齢者の3〜4人に1人が何らかの認知症またはその予備軍に該当する。この現実は、がんのリスクを超えるといえるだろう。自己管理が困難となる「恍惚の人」が増加することは、まさに大きな問題ともいえる。団塊の世代が、認知症にどんどんなっていく時代を迎え、街には徘徊する老人が激増するのだ。考えてみても、老人ゾンビ時代と言えそうだ。『恍惚の人』今読んでも怖いホラー小説である。
Posted by ブクログ
40年も前の本ですが、現代にも通じる介護の話。
介護をしていく主人公のエネルギッシュさには感心しました。まだ若いからできることかも。寿命が延び、介護をする人の年齢が上がると、介護の負担も一段と大きくなるなぁと思いました。
Posted by ブクログ
若い頃読んだ時も大変だなあ、と思いながら読みましたが、今読み返してみて、とてもリアルだし自分ごととして胸に迫ってきました。昭子さんはとても立派で、なかなかここまでできないよなあーと思ってしまいますが、昭和の主婦は皆こんな感じだったのかも…とも思います。
同じ本でも読む時期によって感じ方が変わってくるな、と思いました。
Posted by ブクログ
2025.2.3
茂造の老いも凄まじかったが、昭子の何十年後かの自分の老いを意識する内容が、身につまされた。
昭子の人物像、心模様を鋭く書き上げている。
名作でをあり、ファンになった。
Posted by ブクログ
姑の突然死をきっかけに、舅の認知症に気づく立花一家。舅・茂造の世話をするのはもちろん嫁の昭子で、夫は役に立たない。
本書は、1970年代初頭を舞台にしながらも、家族の役割や介護など現代に通じる問題を鋭く描き出した作品です。
携帯電話はもちろん無く、和式トイレや火鉢が当たり前の時代ではあるけれど、昭子が仕事にしがみつきながら家事を奮闘する様子は詳細に描かれていますが、当時の暮らしを興味深く読むと同時に女性の役割に対して共感する場面です。嫁が割を食うなどの家族の役割は今でも変わらない印象です。
昭子の体力は限界になり、ホームに入れる選択肢を模索するなか、老人クラブの職員やケアマネージャーの「家族に世話してもらうのが一番幸せ」という価値観に読んでいるこちらも胸が苦しくなり、高齢者福祉に対する認識の変遷に思いを馳せました。
家庭に留まらず、あくまで社会での居場所も保ちつつ、家事や介護をがんばる昭子を応援しながら読みました。茂造がお風呂で溺れたことをきっかけに、嫌いな茂造の介護にふっきれた昭子。茂造を好きなだけ生かそうとするところから少し明るい兆しが見えたのが救いでした。
茂造の状態を、家族は「壊れる」と表現する一方で、「お戻りになる」と表現した医師の言葉が印象的でした。十分に生きたら、あとは戻るのが人間なのか。人間の尊厳の捉え方を考えさせられました。
作中では茂造の入れ歯や、息子の歯の治療についてなど歯に関する描写が多いと感じました。入れ歯を自分で制作するほどこだわった茂造も、認知症になってからは手入れをすることもなくなり、人間の尊厳を象徴しているようでしたし、歯の治療を進める信利も、老いが確実に近づいていることを暗示しているようでした。
50年前に書かれたとは思えない、その問題提起が現代にも通じる普遍性のある作品だとおもいました。
Posted by ブクログ
100分de名著(2024年12月)に取り上げられた1冊。
この本を読んで今年亡くなった祖父のことを思い出した。認知症ではなかったが、最期は寝たきりになり、祖母や父、叔母が介護していた。祖父がこれ以上苦しまないように積極的な延命治療は行わなかった。最終的には老衰であったが、それでも「もっと長生きさせてあげたかった」と皆が言っていた。
最後のシーンの敏の台詞はドキッとしたし、鳥籠を抱いて涙する昭子の気持ちも痛いほど伝わってきた。
Posted by ブクログ
老いの先にある壮絶な人生を垣間見た気がした。認知症の介護というのはこれほどまでに大変なものなのかと圧倒された。主人公の昭子の「茂造を生かせるだけ生かしてやろう」という肝に据えたところは、圧巻だった。今、自分にできることに向き合うことの大切さを考えた。昭和のベストセラーで名著。読んでよかった。
Posted by ブクログ
老人問題を取り上げた小説は何冊か読んでいるのに、元祖であり大ベストセラーであるこの作品をまだ読んでいなかった。
心の片隅で、もう古いのではないかと思っていたのかもしれない。
読み終えてみれば、土下座して謝りたいほど、「現代の」老人問題が描かれていた。
時代的には、私の親世代の家庭であるが、昭子(あきこ)がフルタイムで事務員として働いているという状況は、当時では比較的新しい家庭であったのかもしれない。
優しかった姑が離れで急死した日、嫁の昭子は、舅の茂造の様子がおかしいと初めて気づいた。
症状が出始めたことを息子夫婦には隠して、姑が一人で面倒を見ていたのだろう。
姑は、狷介でわがままな茂造の看護婦か奴隷のようなものであった。
立花家において、執拗な嫁いびりは茂造の仕事で、姑が間に入って取りなしていたのである。
しかし、ボケた茂造は、意地悪も忘れ、昭子さん昭子さんと頼りにするようになる。
そこからは、認知症老人の迷惑行動見本帳のように、茂造は次々と段階を進める。
介護はもちろん地獄だが、昭子と信利(のぶとし)の夫婦は、茂造の姿に自分たちの行く末を思い描いて、むしろそちらに戦慄する。
高校生の息子・敏(さとし)は介護に協力的だが、「パパもママもこんなに長生きしないでね」と言い放つ。
「老人福祉指導主事」の、「老人を抱えたら誰かが犠牲になることはどうしようもない」という言葉も、今もそのまんまである。おまけにヤングケアラーの問題まで浮上しているから、現代ではこの小説の状況より悪くなっているのではないかと思うほど。
考えれば考えるほど、ズブズブと泥濘に沈んでいく心地がする。
自分だっていずれは老人になるのだから、という言葉は、きれい事であると同時に恐ろしい呪文でもある。
こういう場合、あまりにも定番すぎるけれど、「男は役に立たない」ということもやはり書いておかねばならない。
昭子の夫であり、茂造の長男・信利は、少しは手伝ってと言われて「二言目には、自分の親だろう親だろうと言うんじゃない、当てつけか!」などど逆ギレする。
後半、昭子が聖母のように見えてくるが、そうらやっぱり女性の方が介護に向いているんだなどと言う輩が出てきそうで、女を取り巻く状況はこの昭和47年(1972年)からほとんど変わっていないと思うのだった。
そう思うにつけ、この作品は、時代が変わっても色褪せない傑作と言わざるを得ない。
Posted by ブクログ
主人公である昭子が今の自分の立場に似ていることが共感が持てた。もちろんすべて似ているわけではないが、老いを看る側や看られる側の感情のもつれを有吉佐和子らしい文章でつづっている。「彼は終わった人間なのかもしれない。ガンも高血圧も心臓病もくぐりぬけ、長生きした果てに、精神病が待ち構えているとは。」という文が心に刺さった。
Posted by ブクログ
凄い迫力ある内容だった
現在は昭和の時代より介護制度は整えられ、介護の考え方も変わってきたけれど、長生きになって認知症になる人も増え、しみじみ老いていくのは大変だと実感している
当時とはいえ、信利のような夫には腹立たしさしか感じないし、役所の指導も正論であっても介護する人の心には全く寄り添えていない
茂造の介護をやり遂げた昭子を、ただ褒めるとか労うとかいう気持ちにはなれない
家で看取ってあげられたのは、感慨もあるし達成感もあるだろうけど、だからといって解決にはならない
介護は綺麗事ではない
死に方や老い方は選べないけれど、頭を使い、体を鍛えて、何とか認知症や寝たきりにはならないようにしなければと自分に言い聞かせるばかりです
もし長生きしてしまって、家族に負担がかかるようになったら、施設に入れるように貯金しておきます(笑)
Posted by ブクログ
親を持つ人なら誰もが直面する介護。徐々に変わっていく(戻っていく)茂造の姿が自分の親と重なり不安になっていく。茂造の義理の娘の昭子は、協力的でない夫に不満を持ちながら介護を行う。描写を読むとかなり献身的な対応をしているが、今の時代なら昭子の思う程度の不満でこなせる人がどれだけいるだろう。昔の作品だが、介護をめぐる家族の現状は今も本質的には変わっていない。
Posted by ブクログ
高齢の義父とその周りの家族のお話。
有吉佐和子先生の本、2冊目完読。
高齢者との生活の大変さを、リアルに表現されている。
ストーリーは、突然の義母の死から始まる。
それと同時に舅の認知症状に悩まされる話。
恍惚の意味は、さまざまで心奪われるや朦朧とするの他に、ボケとあり、認知症の意味なのか。
1972年の作品で、この頃はまだ認知症と高齢化社会などという言葉も表現されていない時代。
今では、支援センターや、役場に行けば相談に乗ってくれるところもあるが、この当時は、すっかり見放されてる感が切ない。
舅の世話に追われながら、家事や仕事をこなす主人公の嫁に感心した。こんな嫁は、今も昔もいないだろう。小説だから、綺麗に仕上がっているが。
しかし、このお爺さんも幸せな余生を送っただろうなぁ。こんな風に変貌するくらいなら、長生きしないでねと主人公の息子が投げる言葉が印象。
ホントにね。身体元気でも、脳がこうなるとやるせないよね。
しみじみと老化現象と家族についての過程の話でした。
Posted by ブクログ
有吉佐和子『恍惚の人』。
姑が急死。離れに住んでいる舅・茂造の老人性痴呆に。共稼ぎの嫁・昭子は義父の介護に追われることに。
しかし夫・信利は実の父にもかかわらす、介護に及び腰。『俺もこうなるのか』という始末で、息子・敏以上に役立たず。
敏も、『パパもママもこんなになるまで生きないでね』と…
そんな中、昭子はほぼ一人でその役割をこなしていく…
昭子には頭が下がる。
働きながら、義父の介護をするなんて…
信利にはもう少し、昭子を助けるつもりはないのか、自分の親なのにと、思ってしまう…
が、自分ならどうだろう⁇
仕事を抱えながら、親の介護ができるだろうか⁇
少なくとも、昭子のようにはできないだろう。
老人福祉の主事に逆らうようだが、老人ホームや病院、お金で解決できる道を選ぶだろう。
こちらの生活もあるのだから…
昭子はこの時代の人には珍しく、共働きで、周りの人にも恵まれていた、金銭的にも、環境的にも。
この時代、ここまで柔軟に対応できなかっただろう。
昭和40年代後半の話であるにもかかわらず、まったく古さを感じない。
この頃から老人介護が問題になっていたなんて。
50年経った現在でも、状況はまったく変わっていない。
高齢化がさらに進んでいるにもかかわらず。
政府は何をやっていたのだろう…
考えさせられる作品だった。
Posted by ブクログ
祖母から借りた本である。
茂造さんの死を心待ちにしている自分もいた気がする。なのに、なんでだろ。なんでこんなに泣きそうになっているんだろう。
急いでタリーズを出ます。
レビューというより感想です
まず時代性なんかが今と違うのが面白い。主人公が普通に戦争経験者で、主人公の夫も戦地帰り。息子は学生運動の世代。うちの祖父母が主人公世代って考えると、すごく不思議な気持ちだった。
でも、文体なんかは別に古くさくもない。いうて現代だもんね。
認知症ってのは今は普通に知られてて、それ用の受け入れ施設もあるけど、当時は大変だったろうな。働く主婦の主人公が、仕事と介護の間で悩むあたりは、現代でもそんなに代わらない問題だなって思ったし。今どきは嫁が義父母の介護をする・・・なんて価値観も古くなってるけど、全く無くなってるってわけでもない。その価値観転換のスタート地点を読んだんだなって思った。
通底して書かれてたのは人間の尊厳とか死生の境界みたいなものかなと思った。現代でも尊厳死とか安楽死とかが語られるけど、それのもっとプリミティブな問題提起だったんだろうな。
それに繋げて、(意識の)死と客体化っていうのを考えた。
お爺ちゃんが認知症になって、自分が誰なのか今何をしてるのかも分からなくなって、口さがない人(実の息子なども)は「こんなんなら死んだ方がマシだ」なんて言う。けど、主人公はそのお爺ちゃんの生に意味を見いだす。生きていてほしいと思って世話をするようになる。
本人に自意識がなくとも、他者から客体化されることでその人の生に意味が見いだされるっていうのは「死んだ後はどうなるの?」っていう問題にもちょっと似てる。
死の前にある死のようなものとして認知症はあるんだと思った。
本人の意識は生きてるのか死んでるのか分からないけど、周りの人たちはその人をちゃんと認識してて世話もしたりしてて、本人の意識も、何か断片のようなものはそこにあって。
それは、物語の最初に死んだおばあちゃんについての言及がほとんどないのは象徴的で、死の前にある死と生の間の何かとして認知症を書いていて、おばあちゃんは明確に生の世界とは切り離されてるんだと思った。(これは深読みしすぎかな?)
山岸夫妻が出てきたあたり、お爺ちゃんが「恍惚」状態に至ったところは作品のクライマックス。生老病死なんて言葉があるけど、そういう現世の苦難から全て解放されてる感じがして、解脱ってこういうことかなって思ったりした。
急転直下からの怒濤のエンディング、最後の敏と昭子のやりとりも良かった。
全体的には読んでてしんどい部分が多かったけど、総合的にはすごく良かったです。
Posted by ブクログ
■評価
★★★★☆
■感想
◯50年前の本なのに、書かれている内容は今でも通用する
◯前半から中盤にかけて終わりが見えない感覚は、どんなディストピア小説よりも怖かった。
◯情報が歯抜けになり、会話がうまく噛み合わなくなる状態は、痴呆では顕著。一方でいわゆる健常者の大人でもありうるんだろうなと思った。世代をまたいだ人から見ると、上の世代の人は健常者であっても要介護という見方もできる。この構造はすぐに自分も下の世代からされるものだと思う。
◯有吉佐和子の作品は内容もだが風景の表現、色の表現など、リアリティが本当にすごい。
◯最後の昭子の涙は、非常に複雑で人間的なものだったと思う。それが浄化されるカタルシスは、読者と将来の介護者に希望を与えるものだろうと感じた。
Posted by ブクログ
2025年12月の「100分de名著」で採り上げられた有吉佐和子の小説から『恍惚の人 』を読みました。まだ「介護」の大変さがあまり注目されておらず、家庭の主婦(妻や娘や嫁)に当然のようにその負担が押し付けられていた時代、声を上げず、ひたすら忍従・献身していた主婦たちの負担は如何ばかりだったか、その苦労がしのばれます。「会社で仕事をしている」ことを免罪符に、家事・育児・介護等面倒な雑務をすべてを妻に押し付け、知らん顔をしていた当時の男性の愛情・協力の欠如、愚かさは、もしその通りだとしたら最低!今の男性はそうではないと思うが・・・。
Posted by ブクログ
自身の親の介護(頭はしっかり、身体が動かない)を思いつつ、どちらが幸せなのか…と複雑な思いで読んだ。
また自分自身の老後についても深く考えさせられる。
別の視点では、昭和の主婦の忍耐強さ、負担の大きさ、生きづらさなど興味深く読んだ。
Posted by ブクログ
「老い」「介護」「主婦」の3つ問題から、色々と考えさせられる部分が多くあった。将来の自分自身の「老い」に向き合わなければいけないことを考えてしまった。また、自分の親を「介護」するときがやってくることも考えられる。「主婦」が家庭を全うするのではなく、家族同士で協力し合っていきたい。
Posted by ブクログ
読んでいて休憩挟みながらなんとか読み終わりました。なかなか苦しいですし怖いです。いつか必ず自分も通る道ですし、この本は大切に取っておいて自分も昭子のようになりたいと思いました。
Posted by ブクログ
1972年のベストセラーだそうだが、なるほど時代は古いものの、介護の教科書のような本だった。
日本の老人福祉に対する話は昔も今もさほど変わらず、自分の生まれる前のベストセラーなのに、この本の昭子のように自分の介護や老後のことを心配しながら読んだ。
ピンピンコロリできたらいいけど、こんな老人になったらどうしよう、迷惑かけたらとうしようと思うが、人それぞれに先はどうなるかわからない。
生き方の知恵とヒントをもらった気がする。
Posted by ブクログ
厳格で寡黙な舅が痴呆になり自身の娘息子の顔も忘れ、糞尿も1人では碌にすることが出来ず醜態を晒す様がなんとも惨めで情けないものか。
このような実父に対して「死んでくれ」と願う家族。
己自身もこのように老い耄碌していく未来を嫌という程突きつけられていく。
世話を妻に任せきりで、言葉では謝罪をしていても自らは何も行動しない夫に苛立ちを感じた。
「ときどき、ぺちゃッ、ぺちゃッと舌が鳴る。蟹の殻が次第に積み上げられて行く。それは生きるための凄惨な儀式のようだった。」
Posted by ブクログ
8月中旬に買ってバスの中とか寝る前とかにゆっくり読み進めた。
戦後10年経った東京を舞台に「老い」を書いた作品。主人公の義理の母が死んでしまい残った義父が認知症になってしまう。認知症の義父の世話を1人で受け持っている主人公の昭子の視点から義父が亡くなるまでの日常(介護という非日常が日常になってしまう。)が細かい描写で記されている。
印象に残ったメッセージは、「人は誰しも必ず老いるということを皆忘れているのではないか」だった。自分も祖父祖母と接する時、時偶面倒くさいと感じてしまう。しかし、自分も必ずその立場になる。そう思うと高齢者を無下にしてはいけないと思う。
そして老いが生々しく描かれているからこそ老いることに恐怖を感じた。どんどん幼児化していく義父が最終的には喋らなくなり意思を持っているのかわからないが嬉しいときに屈託のない無言の笑顔を見せる描写にゾッとした。
いい作品だった。
Posted by ブクログ
高校3年生の頃、センター試験対策の青本の国語の問題で、この小説の一節が使われていて、それで全文が読みたくなって、受験勉強そっちのけで買いに走りました。
主人公の旦那さんのお父さんが、認知症を発症、というか、症状が顕著になってから、亡くなるまでを描いた物語です。
これが発刊されたの1972年ですが、2011年現在でも全然色褪せていない、むしろ高齢化が進んでいる今の方がリアルに感じられるお話だと思います。特に、予言小説として書いたわけではないのでしょうが。
Posted by ブクログ
小説というより事実が淡々と描かれているという印象だった。
いじめられた舅の介護なんて絶対にしたくないと思うが、その心境の変化が興味深い。
楽になったと思ってもそこからまた新たな問題が湧き出してくる...
働くこと、介護すること、女性とは...
色々と考えさせられ、またなにも理解できてなかったと思い知らされた。
母に読ませてしまったけど、どんな風に感じたかな?
読ませるべきでなかったか...
Posted by ブクログ
昭和47年に刊行されたという本作
もう50年以上前に書かれているというのに現在にも続く少子高齢化、老人福祉政策の問題にびっくりする
敷地内同居をする義母が亡くなり、残された義父の老人性痴呆に気付いたところから物語が始まる
主人公の昭子は当時においては少なかったであろうフルタイム勤務
子どもは高校2年生で受験を控えている
夫は父親の老いた姿を自分と重ね合わせ、目を背ける
そんな中、ボケる前には昭子を虐められていた義父茂蔵を介護することになった
この時代、夫は何もしないものであり、労いの言葉さえもなく女が全てを背負うのが当然という雰囲気
専業主婦が多かったのでそういう風潮だったのだろう
今は共働きが多く、育児も介護も手分けして行うことが多くなってきていることは良い兆し
息子や職場の若い娘は介護の必要になった祖父らを見て
こんなになってまで生きたくないと老人に冷淡だが、それはある種他人事だから
自分も老いるということがまだ真に迫っていない
昭子や夫は自分もいつかそんな老人になるということをひしひしと感じ恐怖する
私も今、昭子の年くらいになったことでこの話を興味深く読んだけれど、若い時分にはやはり他人事だっただろうなと思う
物語の中の話としか思えなかったかもしれない
あと50年後、この話を読む人はどう感じるのだろう?
Posted by ブクログ
人ごとではない話。でも、あまり自分ごととして考えたくない話でもあった。老人介護、これからの高齢社会をみんなでどうしたらいいのか考えていろんな人が生きやすい世の中になったらいいけれど…。
Posted by ブクログ
100分de名著で取り上げると知り、初めて読んでみた。
設定は出版と同じ1972年とか執筆時と思われる前年あたりか、と思う。主人公家族は共稼ぎの夫婦と高校2年の息子。敷地内同居していた姑が脳溢血で突然死して、遺された舅がボケているのに気づく。そこから始まる”嫁”昭子のボケた舅の介護奮戦記だ。まさに昭子の体を張っての、対舅との戦争みたいだ、と感じた。だが、カラッとした読み心地と読後感。昭子は体力・気力・思考力がある人に感じ、そういういわば少し理想形なところと、なにより”戦争”には終わりがある、というところがそう感じるのか。
雪の降る日に姑が突然亡くなり、それから舅のボケは大食、徘徊、失禁とどんどん加速していく。そして自分の息子と娘の名前は分からなくなっているのに、孫は分かっており、特に嫁の昭子だけはしっかり認識している。それを息子は「飼い主だと思っているんじゃないの」、となかなかに鋭い指摘をする。
夫はすまないとは思っているものの、夜中の排尿の世話や入浴をさせるのは昭子。息子はやがて通い始めた老人クラブへの迎えをしてくれる、などけっこう協力的。夫の妹も父の陰険さを分かっており昭子に文句をいったりはしない。しかも、早くケリがつけばいい、という意味のセリフを昭子以外の人にけっこう吐かせていて、まあ、有吉さんは心の内を表に出してみました、というところだ。しかし舅は、医者に「戻りましたね」と言われ、そのボケた状態の描写がコミカルでもあり、有吉氏はあくまで尊厳を持たせている。
小説の展開の中で、近所や夫の同僚の中にも寝たきりやぼけた親を介護している人達をたくさん登場させ、介護して初めて入ってくる老人たちの実態に気づかせる。そして舞台の東京杉並にある老人集会所の様子なども書き、当時の国の老人政策の実態と、その情けなさを書く。なんといっても施設にはボケ老人は入れないのだ。こうして読んでみると、今はボケても入れる施設もあるし介護保険が始まって本当に助かったと感じる。
出版は1972年、昭和47年なので、物理的な昭和感が興味深かった。離れの舅姑は石油ストーブは使わず、炭で暖をとっている。「十能」などという言葉が出て来てきてはるか彼方の記憶を呼び起こした。方や息子夫婦宅は共働きでもあり、昭子は家事の省力化のため乾燥機や冷凍庫を奮発して買い、土曜日にまとめ買い、まとめ調理で冷凍、洗濯も土曜日にして即乾燥機を使っている、こちらは当時としてはなかなかに進歩的。
また姑の葬式では、田舎では昭和の終わりくらいまでは葬式は近所の人たちが取り仕切ったのだが、ここ杉並ではそれは無く、喪主が寺に頼み、会葬者も老人たちの兄弟は亡くなっていて、甥姪には知らせていない。舅は東北の出で分家の身で息子の就職とともに東京にやってきた、という設定。なので会葬者は同居の息子一家、娘、嫁昭子の兄夫婦と、姑が仲良くしていた近所の3、4軒位なのだ。
家族設定は舅84才、姑75才、夫はおそらく50才くらい、主人公昭子は40代前半、そして息子は高校2年の設定。出版時の1972年から逆算すると、舅は明治21年生まれ、姑は明治30年生まれ、夫50才とすると大正12年生まれ、妻昭子が41才とすると昭和6年生まれ、息子は昭和30年生まれ。姑は75才で死んで「あら、平均寿命より1年余計に生きられたのね」と言われ、・・52年前は女性は74才が平均寿命だったのかと驚く。そして夫はシベリア抑留の経験者で、妻昭子は女学校で軍事訓練で蘇生法を習い、それが舅が浴室で溺れた時一命をとりとめることになる。有吉氏は昭和6年生まれで、嫁昭子には自身の時代感覚を投影させているのではないか、とも思った。
じいちゃんには少しやさしい高校生の息子が出てくるあたり、羽田圭介の「スクラップアンドビルド」に似ていると思ったが、こちらは男親と実娘と高校生男子、という設定。こちらを読むときは介護する娘の立場で読んでいたが、この「恍惚の人」だとその72年当時になり、高校生の息子の立場で読んでいるのだった。
1972.6.10発行 1972.8.26第20刷 の当時の単行本で読む。実は実母の遺品の蔵書にあったもの。47年9月に買ったと書き込みあり。