あらすじ
街中で少女を踏みつけ、平然としている凶悪な男ハイド。彼は高潔な紳士として名高いジーキル博士の家に出入りするようになった。二人にどんな関係が? 弁護士アタスンは好奇心から調査を開始する。そんな折、ついにハイドによる殺人事件が引き起こされる! 高潔温厚な紳士と、邪悪な冷血漢――善と悪に分離する人間の二面性を追求した怪奇小説の傑作であり、「悪になることの心の解放」をも描いた画期的心理小説、待望の新訳!
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
善悪の価値観に関する物語。
人間の本性は善悪どちらなのか?
完全なる善人がほとんどいないように、完全なる悪人もほとんどいない。
そもそも善悪という観念はいつ生まれたのだろうか?
人間の原始状態では善悪という観念はなかったというのが、ルソーの主張だ。
言語、想像力、テクノロジーが生まれてくる前、
人間が家を作り家族構成を構築する前には善悪などはなかったのではないか。
はるか昔に想いを馳せる物語。
Posted by ブクログ
名作ブンガク
かかった時間120分くらいか
文学のほうが新書より時間がかかる。
名作だが童話バージョンしか読んだことがなかった本作品については、以前「フランケンシュタイン」をよんだ時から、関連作品として興味をもっていた。
あらすじは言うまでもないが、名士で知られるジーキル博士が、自身の二面性と肉体の可変性を医学的に研究し、ついに自身のもうひとつの人格を肉体として発言させることに成功したものの、最後にはそのもうひとつの人格に肉体?人生?を乗っ取られてしまい、破滅に至る物語である。
読んでいて、たしかに「フランケンシュタイン」と同じように、科学(医学)の可能性への憧憬と恐れがおこりはじめたこの時代に(1800年代)、おそらくそれよりずっと昔から人間が持っていた二面性問題が結びついたのだと思えた。そして、「フランケンシュタイン」と同じく、事件は基本的に、全体の視点人物に?語り手?によっては目撃されない。常に伝聞が先行し、その伝聞によってますます恐怖めいたものと好奇心が、視点人物にも読者にも育っていく。そして、最後には事件の全貌を記した手紙が示される。
なんというか、高校生の時に「山月記」を読んだが、非常に似通った作品であると思う。「山月記」の方は異形の身になった理由は「薬品」などというわかりやすいものではないが、いずれも変身の理由を自身の内面に帰している。(かつての)親友が異形になった主人公にアクセスして語りを聴く。そして、主人公の「人間」としての最後を見届けるのだ。
こういうふうに考えると、この作品はいろいろなつながりをもった作品だとわかる。同じく高校生で読んだ「舞姫」における、自己の二面性への悔恨を含めた言及もそうだし、カフカ「変身」では変身がより不条理な形で描かれる。そもそも「自身の中の悪い心によって、姿が変えられてしまう」というのは、ミダス王をはじめとして古今東西でみられるモチーフだ。手紙の一方通行性(しかも死者からの)は「こころ」も同じだし、恐怖や怪奇のみが示されて謎が深まるのは探偵小説さながらだ。
なんていうか、こういうことをここに書くのも恥ずかしいのだが、イギリス文学ってすごい。シェイクスピアもそうだけど、ちょっとしばらく気にしてみたい。
Posted by ブクログ
もはや有名すぎて読む人が少ないと前書きに書かれている通り、私も名前とあらすじしか知らなかったので読んでみました。
一章読んだら眠れなくなるほど、続きが気になります。
短編なのですぐ読めるため、時間がない人も是非読んでみてください。
Posted by ブクログ
ずいぶん昔に原書を読んで以来ご無沙汰だったので、和約で読んでみることに。
ハイド氏の狂気やアタスン氏の恐怖や苦悩など、あたかも読み手がハイド氏を目の当たりにしたかのような嫌悪感を抱かせるため、訳者さんが努力されたであろうと感じました。
広く知られる「ジキルとハイド」だからこそ、きちんと読んでおいてよかったと思う作品です。
Posted by ブクログ
表面では立派な性格を持ったジーキル博士が、一方ではエドワード・ハイドという残虐な殺人鬼としての顔を持つ話は有名だが、改めてこの短編を読んでいてまるで小さな推理小説のようにも思えた。
しかし、私が最もそそられた点は「ジーキル博士の事件の全容」の告白である。
彼の苦悩はまさに宗教的なものであり、自分は二重人格であることを認めてさえいた。まるで「聖闘士星矢」のサガのようである。
薬を飲んで、著名な学者であるジーキル博士の肉体を脱ぎ捨てエドワード・ハイドの肉体を身につける。そしてそれが彼にとっては愉快であった反面、自分を苛んでいたのはもはや絞首台の恐怖ではなく、ハイドであることの恐怖であった。
これはこの小説のジーキル博士だけでなく私たちにもある種言えることだろう。私たちは顔を使い分け、一部では善人を演じ、一方ではとてつもない悪人になり、かつそのことを知り、良心に苛まれている。特に匿名であればあるほどそうだ。
Posted by ブクログ
怪事件の結末に向けて頭がグチャグチャした。
ラニヨン医師の死ぬシーンなどは特に薄気味悪かった。
ただ、ジーキル博士の告白するところには、
様々な欲望に葛藤して悶えている姿が、自分も含め、どんな人にもあると思う。
Posted by ブクログ
小学生の頃に読んだ記憶があるけれど、おそらく子ども向けだったんだろうな。二重人格であることは知っていても、細かい設定などは分かっていない部分が多かった。
ミステリー小説仕立てで、短くテンポよくまとまっているので、とても読みやすかった。
それにしても「二重人格小説」というジャンルがあるって初めて知ったよ…笑
Posted by ブクログ
訳者あとがきに「ジーキル・ハイドの二重人格」という慣用句は有名だが、実は訳者自身が原典も翻訳版も読んだことがなかったと書かれていた。一方的に勝手な親しみを覚えた。私自身も「ジーキルとハイド」という慣用句だけは知っている(つもりだった)が原作は読んでいない1人だったからだ。
人間には誰にも悪の面が潜んでいて、その悪は抗し難い魔力を持っている。それにとりつかれてしまうと取り返しのつかない結果を招くこともある。そんな教訓が込められている物語なのかなと。
Posted by ブクログ
あとがきにも書かれているが、有名すぎて読まない本。有名すぎて知ってるつもりになって、読まない本。歌詞とかにもよく出てくるし。ジキルとハイド。
ジーキル博士とハイド、善と悪かと思ってたけど、実は全部と悪だった。似てるけど違う。全部と善だったらどうなってたかな。いずれにしても、善がないと悪もない。善があるから悪がある。表裏一体、一方だけだと矛盾でおかしくなる。そしてやはりおかしくなる。
Posted by ブクログ
二面性を示す常套句としてよく目にするが、実際どんな話か知らなかった。読んでみるとやはり二面性の話である。
人が死ぬミステリーの種明かし的なものが、変身薬を飲んで潜んでいた悪に身も心も侵食されていくというファンタジーだったのも意外と面白かった。博士の家の表と裏の戸口、どちらを使うかも二面性を表しており、それに気づくと物語そうそうで女児を踏みつけた男というのは博士であると気づけたはずだ。後になって気付いたため悔しくも、面白かった。
Posted by ブクログ
魂の形で体はできていて、魂が分離することで身体が変化するという表現が面白かった。完全な悪はかつて存在したことがない。分離前の自分が悪に喰われていくのが哀しい。
Posted by ブクログ
タイトルをワードとしてはよく耳にするものの、原作を読んだことがなかったので読んでみようと手に取った。物語は長くはないが、濃度の高いものだった。誰しもが自身の中に二面性(ないしは多面性)を感じることがあると思うが、それを分離しようと思うに至り、かつそれを実現する薬を見つけたジーキル博士は確かに狂気じみていたのかもしれない、一方でとても現実的にも感じられた。薬は決して魔法の薬ではなかった。二面性の分離は長くは続かない。切り離すのではなく、きちんとしたコントロールの下、どう折り合いをつけて生きていくのかということを考えさせられた。
Posted by ブクログ
【本の内容】
街中で少女を踏みつけ、平然としている凶悪な男ハイド。
彼は高潔な紳士として名高いジーキル博士の家に出入りするようになった。
二人にどんな関係が?
弁護士アタスンは好奇心から調査を開始するが、そんな折、ついにハイドによる殺人事件が引き起こされる。
[ 目次 ]
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
Posted by ブクログ
ある日弁護士アタスンは友人との散歩の道中で、薄気味悪い奇妙な建物に住む冷徹で悪魔のような男ハイドを知る。
その晩、金庫からアタスンは古くからの友人で立派な人格を持つジキル博士から預かっていた遺言状を見返した。そこにはジキルに万が一のことがあった際、全財産をハイドへ譲るよう書いてあったからだ。アタスンはハイドと会うことを決心する。例の建物の戸口でハイドに会えるが、やはりジキルには会えない。
それから1年後、街ではある凶悪な事件が起こる―。
人々の救済に尽力し、人格的にも優れたジキル博士。その対格にいる、背丈も風貌も様変わりした純粋悪のハイド。自身のなかの善を知り認めながらも、悪を抑えきれない人間のエゴが表現され、しまいには一方の人格にもう一方が侵食されうるという恐怖。人間は誰もが善悪の両面を持っていると分かっているからこそ、他人事のようには思えない。
二重人格の話という程度の知識で読むと、ストーリーは想像以上にミステリー調。そして前知識は全く当てにならなかった。ジキルが全貌を手記で語る章はぐいぐい引き込まれます。一気読み必至。
Posted by ブクログ
11月15日の夕方に、池袋東武の本屋に寄って、そうだあしたのメロディアスライブラリジキルとハイドなんだよなーと適当にありものを買った。
光文社の古典新訳ってむかしカラマーゾフの兄弟を買ってすごいひどい目に遭って、なんとなくあの表紙の装画自体避けてたんだけど、単に訳の選び方だから文庫レーベル関係ないよな……とはおもったけどやっぱ他の文庫でジキルとハイド見つけてたら光文社で買わなかったとおもう。装幀もなんか小説っていうよりビジネス本みたいにつるつるしててわくわく感無い。
内容はなんていうか、頭のとこのアタスン氏とエンフィールド氏のおさんぽのくだり、特に共通の関心事も無いし他人に会うとほっとするくらいきまずいのにふたりにとって日曜の散歩は何にも先駆けて確保されるべき楽しみなのです……のあたりでそれ付き合い始めのきまずいデートみたいだね!? てなってちょっとそのあとの話聞いてないかんじあったんですけど、粛々とハイド氏が悪漢でしめやかに物語始まってました。
ストーリー自体は全体に期待通りというか期待を外れることも超えることもなくだったんだけど、ディティールがうつくしくてびっくりした。こないだ青空でざっと流したフランケンシュタインもなんだけど(これもちゃんと紙で読みたいなー)ゴシック小説って一方的に色物だとおもってたのすごい反省した。文がきれいでした。「ある晴れた、空気の乾いた夜だった。あたりに寒気がみなぎり、路面は舞踏場のフロアのようにきれいで、どんな風にも揺るがぬ街灯が、光と影の幾何学模様を描いていた。」とかあんまりおどろおどろしくなくて、乾いてがらんとして寒い清潔な街みたいで、19世紀のロンドンって言われてわたしが安易にぱっと浮かべる景色とわりと違うんだけど、きれいな場所だなとおもった。
あと「むこうがミスター・ハイドなら」「こちらはミスター・シークだ」って、洋の東西を問わずおっさんってこういうこと言って喜ぶんだね。なごむね。
翌朝のメロディアスライブラリは録音して何度も聴いていますが、小川洋子ってこういう変な小説の回だと力はいるなっておもいました。
Posted by ブクログ
ジキルとハイドってこういうお話だったのか。
お酒を飲んで制御が効かなくなっちゃう人に似てると感じた。
人格が変わると言うよりかは、
塞ぎ込まれていた部分が露わになってしまう。
自分自身も気をつけないとね!
Posted by ブクログ
ジキル博士はハイドになることで自分の欲望を満たしていたんだけど、ハイドから戻れなくなるかもしれない恐怖もあって。人は自分だけ自分だけでは生きられないし、他者の視線があるなかで生きてる。ありたい理想的な自分でいたいだろうなぁ。HYDEになったときに悪だけの人間にみんな顔をしかめたっていうのが印象的だった。隠し事をして生きるのは後ろめたいけれど、ハイドが人殺しをしなかったら博士はハイドを殺すこともなかったのかな。ジキルが表の顔で、ハイドが裏の顔裏の顔を見せないで、みんな生きてるんだろうなぁ。私も含めて
Posted by ブクログ
『光文社古典新訳文庫』の時間です
先日読んだ『メアリ・ジキルとマッドサイエンティストの娘たち』が面白かったので原典たるこちらも再読
当然、光文社です
ジキル博士の自宅の描写が原典にかなり忠実でした
あ、でも当然ながら奥さんもましてや娘なんて出てきません
ましてやましてハイドの娘なんて影も形もありません
このあたりは戯曲化されたり、さらに後に映画化された二次創作に影響されてるのかな
なので『メアリ・ジキルとマッド・サイエンティストの娘たち』は三次創作といえるのかもね
そうそう、あらためて読んでみてなにやらすごく深そうでしたが
あまり考えずに読みましたよ
考えすぎていろいろ受け取ろうとしすぎると古典離れに通ずるといのうが『光文社古典新訳文庫』の理念ですからね
ワタクシが光文社を選ぶ理由です
よし、次は『フランケンシュタイン』だ!
Posted by ブクログ
有名な話だけに、大元を読むといろいろ改変される前の作者が伝えたかった部分のようなものが見えてとてもよかった。ハイド氏が猿のような怪物ではなくジキル博士よりもずっと歳若く小柄、というあたり、己のネガティブな部分にできるだけ力を与えないようにして生きてきたジキル博士の誠実な性格が出ている。
Posted by ブクログ
知ってるけど読んだことない本。
なんとなくその気になって読んでみたら、面白くってあっという間に読んでしまった。
それにしても有名小説の功罪だと思うけど、どういう話か知った上で読むから、驚きが少ない。
これ、当時何も知らないで読んだ人たちは「なんと!」とそのどんでん返しに驚いただろうな。
まさか、おんなじ人やなんて、想像もつかないだろう。
きっといろんな物語が、この「ジーキル墓博士とハイド氏」にインスピレーションをもらっているはず。
様々な文学作品の中に、かけらとなって、脈々と生き続けてる、そんな原典という感じです。
Posted by ブクログ
ジキルとハイドというと名前は知ってるけど、実際に何をやったんだっけ?てな感じになる。ヘンゼルとグレーテルくらいどっちがどっちか分からん。これがウサギとカメくらい役割分担が分かりやすければね。
ということでどっちが悪者だって話になって、ハイド氏だった。それを覚えただけでもちょっとは脳のしわが増えたかな。
ところで一面が隙間なく壁になっていて、裏がどこに繋がってるか分からん、みたいな街並みってちょっと楽しそうよね。今は消防法とかひっかりそうだけど、石造りならOKかな?ロンドン侮れんわ。
Posted by ブクログ
『ジキルとハイド』…善と悪、二重人格などなんとなく知ってたけど、改めて物語をちゃんと読んでみた。
印象としては、2つの人格という単純な二面性じゃなくて、ハイド(悪)はジーキル博士(善)が普段は抑えている願望のようで、ある意味ハイドの方が素の人格のようにも思えた。
だからジーキル博士が単純に善に見えなかったし、人ってみんなそういうものかもしれないなぁと。
Posted by ブクログ
ジキルとハイドとはこういうことだったのかぁ。
人間の心とは複雑なもので、決して平面的に見られるものではないってことか。
立体的だから、どこか一カ所の側面ばかりに重心を置いたら転がっちゃう。
その正反対の自分と向き合わないと、バランスがとれない。
善人と悪人は表裏一体かもね。
自分でも信じられないくらいの汚い部分があるから、それを発散させることで善人である自分を保っていられるのね。
つまり善人でいるには、自分の汚い悪人の部分もちゃんと知っておく必要がある。
…じゃあ善人代表のキリストが人間だとしたら、自分の邪悪な側面をしっかりわかってるってこと?そうじゃないとおかしいもんね。人に説法するくらいだし。。。(´ _`)
完全なる善人はオバケだな。
とってもそれが分かりやすくて、同時にミステリーとしてワクワクしながら読めた。
メッセージ性が強い。
Posted by ブクログ
聞いたことはあったが、読んだことのなかった本。
徐々にハイド氏が支配的となって、そして最後は――。
ハイド氏は、ジーキル博士の抑圧された潜在的欲望と解釈していいのだろうか?
Posted by ブクログ
まあまあ面白かった。
名前はよく聞くことがあったものの実際に読んだことがなかったので、読んだ。
先にオチを知ってしまったので、知らずに読んでればもっと楽しかったかもしれない。
Posted by ブクログ
小学生の頃に一度読んだことがある。今回は『ナボコフの文学講義』予習の意味もあって再読することにした。
「ジーキル博士とハイド氏」といえば二重人格の話だということは誰もが知っている・・・・・・のだが、これ、ある意味凄まじいネタバレではないだろうか。もし予備知識が全くない状態であれば、もっともっと面白かったと思う。ぜひ発表当時に読みたかった。
巻末の解説には「あまりにも有名すぎて、かえって読まれることの少ない名作」とあるが、全くその通り。『フランケンシュタイン』を読んだ時も全く同じ事を思ったのだけれど。B級ホラー的なイメージばかりが先行しがちだが、実際に読んでみるとギャップに驚くのではないだろうか。意外な深さを持った作品。
前掲の『文学講義』におけるナボコフの解釈がこれまた面白かったんだけど、それはまたの機会に・・・・・・。