あらすじ
カントが普通の言葉で語り始めた! 本書で繰り返し説くのは、自分の頭で考えることの困難と重要性。「永遠平和のために」は常備軍の廃止、国際連合の設立を唱え、「啓蒙とは何か」は、他人の意見をあたかも自分のもののように思いこむ弊害を指摘している。他に「世界市民という視点からみた普遍史の理念」「人類の歴史の憶測的な起源」「万物の終焉」を収録。現在でも輝きを失わないカントの現実的な問題意識に貫かれた論文集。
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Posted by ブクログ
啓蒙とは、ごくごく簡単にいえば「自分の頭で考え、行動する。」ことである。
理性の公的な使用と、理性の私的な利用の違いは、私的なことは「生きるために働いてることについては、当然のように従うべき。」であり、公的なことは「その働いてることについて、自分のことで考え、批判し、世の中に対して問うこと。」である。
以下は、訳者の中山元氏の解説を元に記述する。
そのことをカントが実行する上で重視する政体は、「共和政」である。市民は常に戦争を求めることはないだろうし、実行することが理性に叶うことはないだろう・・・とする。ただしカントは、革命が起きて新しい政体が起きたとしても、新たな秩序で以て強権的な支配が行われるのであれば、意味が無いのだ。その意味では、国民投票ばかり行って政権の座についたヒトラーやナポレオンは、およそカントの肯定しないところであろう。「共和国」の名を借りながら、戦争が起きた。
ではどうすればいいのか?彼は立法と行政が分離している状況を、理想とする。共和政の反対は専制であるとカントは云うが、古代ギリシャの国家の分類法は「君主制・貴族制・民主制」であるが、それぞれが堕落した形が「僭主政治・寡頭政治・衆愚政治」である。カントは「共和政が実行できるのは、君主制と貴族制だけだ。」という。民主制は立法しそれを行うのが一緒であるから、カントは、共和政とはその2つが分離しているのが理想であるからだ。
なんとも逆説的である。カントは伝統的な為政者の人数に依らない分類法を採用している。むしろカントは、「行政」と「立法」が分離している政体が理想であり、その意味では「大統領制」がより理想に近いのかもしれない。国民が理性で選んだ国家は(議会があることが前提)、戦争のような大博奕はしないだろう、という発想のもとである。その意味では今の日本は、とりあえず戦争は起きていない。これから、「自分の頭で考えない国民」が増えると、戦争への萌芽が起きるのかもしれないが・・・・。その意味では、司法府の機能が重要であろう。
ちなみにヒトラーが共和政体から独裁が発生したのは、当時の憲法は国政の収拾がつかなくなったときに大統領に「非常大権」が大きく認められていたことがその理由であるともされる。やはり「民意」を得るだけでは、独裁への道が開かれていることの証左でもある。
当たり前のことをつらつらと書いているようにも見えるが、その理性の使用が許される「自由」も当然の前提とされる。民主制で共和政であるわけだから、その「行政」と「立法」が分離している体制であれば、何でもいいと言えるのであろう。もちろん代議制が必要であるとするから、そもそも「民主制」が最善であると云わざるをえないのも、また当然である。
Posted by ブクログ
人間が思考するのは、他者に考えた内容を伝達するためである。そして他者に思想を伝達するためには、他者の立場から考えることが必要なのである。完全な独語には、だれも耳を傾けようがないのである。アーレントが指摘するように「我々は他者の立場から思考することができる場合にのみ、自分の考えを伝達することができる。さもなければ、他者に出会うこともなければ、他者が理解する仕方で話すこともなであろう」。
このことは、他者の存在こそが人間が思考するための条件を構成しているということである。他者との交わりのうちでしか、思考は形成されないし、刺激も荒れないのである。文化と文明の発達において、他者はその可能性の条件を構築する重要な役割を果たしているのであり、この問題は次の論文「世界市民という視点からみた普遍史の理念」でsらに掘り下げられることになる。
ケーキ好きな悪魔たちを集めて、その中のどの悪魔も、最後の一切れをうけとるという条件でケーキを切らせてみよう。不公平にケーキを切ったならば、最後にうけとる悪魔は、もっとも小さなケーキを甘受せざるをえなくなる。だからその悪魔は可能なかぎり公平にケーキを切るだろう。これは悪魔が道徳的に判断をしたからではない。理性的に考えれば、理解できることだからだ。
だから悪魔が、ほかの悪魔も自分だけは法律の適用を免れたいと願っているのを知っていながら、たがいに平和と自由を維持できる共同体を設立しようとしたら、外的な法律によって、どの悪魔も特権的な権利を行使することのできない自由で平等な共同体を設立することだろう。ほかの天使の利益のことばかり考える天使の国があったとしても、これと同じ国になるだろう。そこには道徳性はまったく関与しないのである。
ここで求められているのは、人間を道徳的に改善することではなく、自然のメカニズムを機能させることだからだ」(二〇六ページ)。欲望についての洞察と、利己心という「自然のメカニズム」を行使することで、悪魔たちが「たがいに強制的な法に服させ、法が効力を発揮できるような平和な状態をもたらす」(同)には、このような社会でなければならないはずなのである。
このようにカントのこの論文は、永遠平和を目指すための提案でありながら、平和そのものが人間の間に実現することは想定しておらず、反対に戦争こそが人間をたえず進歩させると考えているかのようである。カントは戦争を憎むが、戦争なしの完全な平和状態では、人間gな進歩する原動力が失われると考えるのである。